よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

山陽道(西国街道)を歩く(長府~吉田宿)その2

2012-12-23 22:15:59 | 山陽道(西国街道)を歩く
(その1)からの続きです。
小月の町を抜けると県道33号線に出ます。この道と並行して木屋川が流れています。
2年前、海峡ウオークで歩いた時ここの河原で休憩したことを思い出しました。
あの時は吉田の東行庵からスタートでした。

川沿いに歩くと大きな鉄工所がありその先に新幹線の橋梁が見えます。
橋を見ていると新幹線がやってきました。すぐカメラを向けますがさすが新幹線は早いですね。
あっと言う間に過ぎ去っていきました。
それに比べ私たちは、てくてく旅。この対比がおもしろいです。
  
地図では新幹線の橋梁を渡ると左折するようになっていますが、その左折する所がわからなく
ここだろうと思って左折すると民家の庭先に入ったりします。
地図ではまた33号線に戻るようになっていますのであきらめて33号線に沿って歩きます。

吉田大橋に差し掛かります。
この橋を渡ると「吉田宿」です。
  
吉田宿は山陽道赤間関の次の宿場に当たり大名の宿泊施設たる本陣も置かれ宿場町として
栄えました。
この町は厚狭(あさ)、船木を経て山口に至る山陽道本街道の所謂かみかた道と
長府より藩都萩へ通じる萩街道の分岐点にあたるため萩本陣は吉田宰判と称する郡役所にも
比すべき役所を置いて厚狭郡一帯の政治経済の運営に当たらせました。
   
  

吉田の町を歩いてみます。
ここは「柳町通り」。この通りの両側に宿屋、飲食店が並んでいました。
    
「末富家」に来ました。
  
慶応元年(1865)吉田宿に陣を構えた奇兵隊は庄屋末富虎次郎宅を本陣に定めた。以後末富家は奇兵隊の物資調達など
その活動を物心両面から支えました。
「高札場」

高札とは江戸時代から明治3年に廃止されるまでの間、一般人に法令を徹底させるために街道の宿場や辻、名主宅前などの
目立つ場所に幕府や藩の法度、掟書、お触書、犯罪人の罪状等を書いて立てられた板札でこれを掲げる場所を
高札所といった。

「長慶寺」
幕末、奇兵隊の屯所やけがの手当てをするための診療所として使われました。

長慶寺の先を右折した所に旧国道の「道標」が立っています。
左萩道、右上方道。街道はこれから「蓮台寺峠」に向かいますが、雨もぽつぽつ降りだしてきました。
蓮台寺峠は、ぬかるみのある峠で有名ですので今日はここまでとし、高杉晋作のお墓がある「東行庵」に行きます。

宿場町を戻り再び一里塚の所にやってきました。
この先が「勘定場跡」(吉田宰判勘場御茶屋跡・御本陣)です。案内板を見ると
  
藩政時代(1600~1870)萩藩毛利の領地は18の宰判に分かれ統括されていた。吉田宰判はその一つで統治区域は
吉田、厚狭、末益、松屋、津布田、宇津井、山野井、今浦、伊衛、山中、於護、河原、大嶺に及んでいた。
宰判には1名の代官が任命され平素は萩本陣に勤務しているが春、秋、冬の三季には勘定(代官所)に出張して
租税の決定、貢米の完納、土木工事の検分など民生を統括していた。勘定方、寺社方、山方など役人の任命、
民間側からは大庄屋とその部下の恵米方、算田方など選出し建物には50人ほどの役人が詰め宰判内の業務を
つかさどっていた。
御茶屋は勘場に隣接し公儀の役人や参勤交代途中の大名の休泊所であった。幕末には奇兵隊の屯所として
使われていた。

西国街道を歩かれた先輩方の写真を見ていると土塀の奥に建物がありましたが現在では何もなく
ただ草だけが生えていました。

勘場からまた前の道に戻ると吉田小学校があります。
その先は「晋作橋」

その先に高杉晋作の墓所「東行庵」(とうぎょうあん)があります。

    
   
灯篭には木戸孝允、井上馨、伊藤博文の寄進と書いてあります。
また伊藤博文は晋作のことを「動けば雷電のごとく発すれば風雨のごとく・・・・・・」と晋作のことを評しています。

先ほどからの雨が本降りになってしまいました。
小腹もすきましたので東行庵の近くの食堂に入ります。
名物という「晋作もち」をいただきました。

食堂で休憩し雨があがるのを待っていましたが一向に止む様子ではありません。
お店の方に聞くと13時34分の小月駅バスがあるそうです。
今日はそれに乗って小月駅まで帰ってきました。

次回は「ぬかるみ」のある蓮台寺峠です。
晴天が何日か続きたあとにチャレンジしたいと思っています。

今回はGPSが作動してくれました。
今日の行程は下記の通りです。

  









山陽道(西国街道)を歩く「長府~吉田宿」(下関市)その1

2012-12-21 11:05:10 | 山陽道(西国街道)を歩く
12月15日(土)
今回は青春18きっぷで出かけました。
6時35分博多駅の快速で小倉へ。小倉から下関へ、下関から新山口行で長府で下車。
8時30分に長府駅に到着しました。天気予報では曇りですが、今でも降り出しそうな空模様です。

山陽道は長府駅前を通っており、この道をまっすぐ歩きます。
才川の踏切を渡りしばらく山陽本線沿いに歩きます。

「宇部一里塚」に来ました。(このあたり昔は宇部という地名でしたが今は王司になっています)
道標を見ると、江戸時代赤間関(下関)から大阪までの山陽道に松が植えられ一里(4km)ごとに一里塚がたてられたそうです。
  向こう側には「堂宇」が・・・
しばらく先に進むと橋が見えてきます。
これは「神田橋」古い欄干を見ると文化八年となっています。1811年頃でしょうか?
この橋を渡ると長州藩の孫藩「清末藩」になります。
 
しんくみのグラウンドを過ぎると広大な農地が見えてきます。
左側には「豊穣の大地」という石碑が立っています。

この辺りは王司の町でしょうか。
ふと、左側を見ると古い門があります。
  
入り口には「橋本家長屋門」と書いてあります。
3年前NHK「街道てくてく旅」で原田早穂さんが立ち寄られましたね。
瓦の紋を見ると毛利の家紋がつけられています。
ここは、参勤交代の時毛利の殿様が休憩に立ち寄られた所だそうです。

清末の町に入ってきました。「道祖神」が迎えてくれます。
  

清末は長州藩の孫藩にあたり石高は1万石。

清末八幡宮が見えてきました。
清末八幡宮は、建武2年(1635)大分宇佐八幡宮から歓請されました。
境内の中には天満宮や護国神社などがあります。
  
お寺の前のグラウンドでは、近くのお年寄りがゲートボールを楽しまれていましたが、
このグラウンドには、江戸時代「育英館」という藩の学校があり、学問の盛んな土地でした。
 清末小学校の校歌に「育英館の跡と聞く・・・」と歌われているように、明治になって廃校になりましたが、清末には江戸時代に育英館という藩の学校があっ て、学問の盛んな土地柄でした。「清末の本読み」といわれたものです。
 清末八幡宮前のこの高台は、以前は小さな山で寺院もありましたが、幕末も押し迫った頃から、平地にして、藩の練兵場として使われていたところです。
 明治八年(一八七五)にこの地に清末小学校が新築開校されました。尋常小学校、尋常高等小学校、国民学校などと名前は何度も変わりましたが、昭和二十九 年(一九五四)に新校地に移転するまで、八十年間清末の教育が行われたところです。
 眼下に見える農地は、江戸時代に干拓されたものです。      平成四年十一月設置
        清末ふるさとまちづくり推進委員会


清末八幡宮を下りて再び街道に出ます。
右側に「孝女政宅跡」の石碑が建っています。
その先の左側には「孝行塚」があります。明治7年に建てられたそうです。
  
碑文は漢語で書かれていましたが横に現代文に訳されていました。読んでみますと
 政は清末の角屋助三郎の娘として生まれましたが幼くして父を亡くし長く母だけと暮らしていました。
 非常に孝行で結婚してからも母にも夫にもよく仕えたので殿様から度々褒められていた。
 明治4年5月1日46歳で病死した。
 その生前の行為をたたえる者が多く募金してこの碑を建てたのである。
 これで政の孝行が忘れられなくなる。
 (今でも清末では政の命日の5月1日が敬老の日と定められています


さらに街道を進むと小月の町に入ります。
江戸時代参勤交代の時に往来していた街道で小月町の発展に貢献した要路で昭和初期2号線の
開通により「旧国道」と呼ばれるようになりました。
    
小月観音を過ぎると「見廻り通り」に入ってきます。
ここは、下市から茶屋入口までの山陽道の一部で下市は宿場町、茶屋町は歓楽街で栄えました。
このため武士が庶民の暮らしや治安を見て回りました。
     
街道はこの先を左に曲がります。
曲がってすぐ右側に道標があります。右かみかた道、左とよた道
    
この道標は小月が昔から交通の要衝であったことを示します。徳川時代小月は山陽道の半宿場町であり、
ここから右は吉田宿を経て江戸へ向かい左は萩へ通じる分岐点でした。

この辺りが本町通りです。   
北野歯科を右に折れ、浜田橋を渡ると、大きな「庚申塚」が見えてきます。
日本一ともいうべき巨大な塚で庚申の2文字のくぼみに米を入れると2斗入るそうです。
高さ2.63m、御神体のまわり3.4m、重さ7t
  
小月神社、小月小学校を過ぎしばらく歩くと大きな川に差し掛かります。
   


※少し長くなりましたのでこの後は(その2)に続きます。


















山陽道(西国街道)を歩く「下関~長府」その2

2012-12-12 21:20:47 | 山陽道(西国街道)を歩く
(その1からの続きです。)

山陽道は壇ノ浦「平家茶屋」の所から左折し、火の山方面に入ります。
ここから坂道になってきます。
最初の信号を右に入り、ヘアピンカーブを曲がっていくと火の山ロープウエー壇ノ浦駅に着きます。
火の山ロープウエーは今、休みの時期に入っています。3月から再開するそうです。
  
壇ノ浦駅を過ぎると国民宿舎「海峡ビュー下関」にさしかかります。
昨年ここに行きましたが、関門海峡の眺めが素晴らしかったです。

この辺りは、「前田」という所。急な坂に入ります。
両側には、大邸宅が並んでいます。下関の高級住宅地でしょうか?

細い道を登ったり下ったりすると「貴船神社」に着きます。

坂を下りると右側に茶臼山が見えてきました。
ここで大きな道と合流します。
  
このあたりが「野久留米」という所でしょうか?
左側には「霊鷲山(りょうしゅせん)平家塚」の看板が立っています。

しばらく道なりに歩きます。
ここでふと気づきますが、山口のガードレールは、黄色です。
昭和三十年代、山口に国体が行われたときに山口のシンボル「夏みかん」の色に
統一されたとか。


街道は長府の街に入ってきます。
「長府」という地名は、「長門国府」がおかれた所で略して「長府」と呼ばれたそうです。
古代より山陽道の中継地として栄えました。

「功山寺」

元治元年(1320)創建  鎌倉の円覚寺を模した造りです。仏殿は国宝です。
春は桜、秋は紅葉のスポットとして知られていますが、幕末高杉晋作が挙兵をした所としても
知られています。

寺には、大内義長、毛利歴代藩主、また坂本竜馬とともに活躍した三吉慎蔵のお墓があります。

隣には「長府博物館」があります。

今日は国宝の仏殿内が公開されていましたので中に入ってみました。


功山寺を出ると周辺は昔の城下町の名残を残しています。
  

「長府毛利藩邸」です。
  
以前紅葉の時に中に入りましたが、見事な庭園があります。

「忌宮神社」

昔、長府は豊浦宮と呼ばれこの忌宮神社あたりにあったといわれています。

隣には、日露戦争203高地で指揮をとられた乃木将軍を祀った「乃木神社」もあります。
  

歩いていてお寺の多いことに気が付きました。
本覚寺、大乗寺、正円寺・・・・・・・・
正円寺には、天然記念物の大銀杏があります。
   

乃木通りを過ぎると金屋町に入ります。
ここは、金屋のまちなみといって昔の町屋をイメージしたまちづくりが行われています。


13:47 今日の目的地「長府駅」に到着。


今日もGPSを持って行ったのですが、途中でおかしくなり栄福寺~亀山八幡宮までしか記録されていませんでした。













山陽道(西国街道)を歩く「下関~長府」その1

2012-12-11 10:06:57 | 山陽道(西国街道)を歩く
はじめに
山陽道(西国街道)は兵庫県西宮から山口県下関まで約500kmの街道です。
宿場は全部で50宿。
その街道を今回歩いてみようと思っています。
のんびりマイペースで歩いてみようと思っています。
さて、西宮までどのくらいかかるのでしょうか?
歩くにあたって地図とか文献を調べましたが、この街道のことを探すことができませんでした。
したがってこの街道を踏破された先輩方のブログを参考に行程を計画しました。

下関~長府
12月8日(土)天気予報では曇り時々雨か雪
一応雨合羽、傘を用意。

午前10時起点の栄福寺を出発。
山陽道は、文献では亀山八幡宮からとなっていますが、栄福寺からという方も
おられますので私の出発地は栄福寺からとしました。


栄福寺は推古天皇朝期 百済の聖明王の王子聖林太子が来朝し自身の護持仏である観世音菩薩を
本尊として建立された。
幽霊の掛け軸があることで有名です。
少し高台にありここから関門海峡を通る船がよく見えます。



栄福寺の階段を下りると旧山陽道に入ります。
さあ、ここから西宮までの長い旅が始まります。

歩いているとルネッサンス様式の建物が見えてきます。
ここは山口銀行旧本店です。
大正9年に完成したそうですので約100年前の建物です。
建築は長野宇平治氏だそうです。


そのすぐ横には「馬関越荷方役所」があります。
下関は明治22年市制施行当初「赤間関市」としてスタートしましたが、
赤間の「間」の字に「馬」の字をあてて「赤馬関」とも呼ばれました。
それが略され「馬関」となったそうです。
  
ここでは越後からの北前船の米、昆布、数の子などを扱う役所でした。
あの高杉晋作も馬関越荷役所頭人を務めていました。

  


金子みすず上山文英堂跡を過ぎると下関市役所にさしかかります。
下関市は人口276000人、山口第一の都市です。
  
市役所前の信号を過ぎると商店街に入ってきます。
このあたりが「赤間通り」と呼ばれています。

商店街から西京銀行を左折すると「亀山八幡宮」が見えてきます。
この八幡宮の入り口に「山陽道」の石碑があります。
山陽道はここが起点になっています。
  

しばし八幡宮境内を歩いてみますと「床屋発祥地」の碑があります。
  
 鎌倉中期(1264~73)亀山天皇に仕えていた京都御所の武士藤原基晴は宝刀の紛失事件の責任をとって職を辞し
 宝刀探索のため当時蒙古襲来で風雲急を告げていた長門国下関に下った。
 基晴親子は当時下関で髪結いをしていた新羅人からその技術を学び往来の武士を客とした髪結所を開いた。
 店の床の間には亀山天皇と藤原家の先祖を祭る祭壇があったので下関の人は、いつとはなしに「床の間のある店」
 転じて「床場」さらに「床屋」という屋号で呼ぶようになったことからここが「床屋発祥地」となった。


また、伊藤博文公夫妻「お亀茶屋跡」や「亀山砲台跡」、境内の横には「宮地嶽神社」「熊鷹稲荷」「恵比寿神社」が
あります。
  



亀山八幡宮の階段を下りると唐戸市場に出ます。
今日も観光バスがたくさん並んでいます。お目当てはフグでしょうか?
海沿いに歩きますが、今日は風が強く体感温度が寒く感じられます。

「本陣伊藤邸跡」に着きました。
  

伊藤邸は室町時代から続く名家でシーボルトや吉田松陰などとの交流があり、幕末には坂本竜馬と妻お龍が
邸内の一部「自然堂」を借りて生活していました。
邸内には、竜馬、お龍、当主九三の顔出しパネルもあります。
  

旧伊藤邸の横が「春汎楼」「赤間神宮」です。
春汎楼の敷地には、日清講和条約が締結された日清講和記念館があります。
また、伊藤博文がそれまで禁止されていた「フグ」を食べたことで知られています。
私も3年前、下関の友達からここで還暦のお祝いをしていただきました。
本場のフグは最高ですね。おいしかったです。ありがとうございました。
  

    
赤間神宮は、壇ノ浦の戦いで幼くして亡くなった安徳天皇をお祀りしています。
また、小泉八雲の「耳なし芳一」の舞台でも知られています。

再び歩き出します。
しばらくすると関門橋が見えてきます。関門橋の下には関門人道トンネルがあります。
これを利用すれば本州~九州間が歩いて渡れます。


関門橋の道路の反対側には、赤い鳥居が見えてきます。
これは「立石稲荷大明神」といって平家一門が都から下ってきたときに京都伏見稲荷の分霊を祀ったと
いわれています。正面の海の中にある岩(鳥帽子岩)が御神体となっています。
   

壇ノ浦に着きました。
今、大河ドラマ「平清盛」が放映中ですが、この壇ノ浦の戦いで平家が滅亡しました。
ここには、源義経、平知盛の戦いのモニュメントや御裳川橋などがあります。
幕末には英国との戦いに使った砲台などが展示されています。
  
    


この山陽道、初日だというので張り切って書きましたが、あまり長くなりましたので
このあとは(その2)に続きます。