(その1)からの続きです。
小月の町を抜けると県道33号線に出ます。この道と並行して木屋川が流れています。
2年前、海峡ウオークで歩いた時ここの河原で休憩したことを思い出しました。
あの時は吉田の東行庵からスタートでした。
川沿いに歩くと大きな鉄工所がありその先に新幹線の橋梁が見えます。
橋を見ていると新幹線がやってきました。すぐカメラを向けますがさすが新幹線は早いですね。
あっと言う間に過ぎ去っていきました。
それに比べ私たちは、てくてく旅。この対比がおもしろいです。
地図では新幹線の橋梁を渡ると左折するようになっていますが、その左折する所がわからなく
ここだろうと思って左折すると民家の庭先に入ったりします。
地図ではまた33号線に戻るようになっていますのであきらめて33号線に沿って歩きます。
吉田大橋に差し掛かります。
この橋を渡ると「吉田宿」です。
吉田宿は山陽道赤間関の次の宿場に当たり大名の宿泊施設たる本陣も置かれ宿場町として
栄えました。
この町は厚狭(あさ)、船木を経て山口に至る山陽道本街道の所謂かみかた道と
長府より藩都萩へ通じる萩街道の分岐点にあたるため萩本陣は吉田宰判と称する郡役所にも
比すべき役所を置いて厚狭郡一帯の政治経済の運営に当たらせました。
吉田の町を歩いてみます。
ここは「柳町通り」。この通りの両側に宿屋、飲食店が並んでいました。
「末富家」に来ました。
慶応元年(1865)吉田宿に陣を構えた奇兵隊は庄屋末富虎次郎宅を本陣に定めた。以後末富家は奇兵隊の物資調達など
その活動を物心両面から支えました。
「高札場」
高札とは江戸時代から明治3年に廃止されるまでの間、一般人に法令を徹底させるために街道の宿場や辻、名主宅前などの
目立つ場所に幕府や藩の法度、掟書、お触書、犯罪人の罪状等を書いて立てられた板札でこれを掲げる場所を
高札所といった。
「長慶寺」
幕末、奇兵隊の屯所やけがの手当てをするための診療所として使われました。
長慶寺の先を右折した所に旧国道の「道標」が立っています。
左萩道、右上方道。街道はこれから「蓮台寺峠」に向かいますが、雨もぽつぽつ降りだしてきました。
蓮台寺峠は、ぬかるみのある峠で有名ですので今日はここまでとし、高杉晋作のお墓がある「東行庵」に行きます。
宿場町を戻り再び一里塚の所にやってきました。
この先が「勘定場跡」(吉田宰判勘場御茶屋跡・御本陣)です。案内板を見ると
藩政時代(1600~1870)萩藩毛利の領地は18の宰判に分かれ統括されていた。吉田宰判はその一つで統治区域は
吉田、厚狭、末益、松屋、津布田、宇津井、山野井、今浦、伊衛、山中、於護、河原、大嶺に及んでいた。
宰判には1名の代官が任命され平素は萩本陣に勤務しているが春、秋、冬の三季には勘定(代官所)に出張して
租税の決定、貢米の完納、土木工事の検分など民生を統括していた。勘定方、寺社方、山方など役人の任命、
民間側からは大庄屋とその部下の恵米方、算田方など選出し建物には50人ほどの役人が詰め宰判内の業務を
つかさどっていた。
御茶屋は勘場に隣接し公儀の役人や参勤交代途中の大名の休泊所であった。幕末には奇兵隊の屯所として
使われていた。
西国街道を歩かれた先輩方の写真を見ていると土塀の奥に建物がありましたが現在では何もなく
ただ草だけが生えていました。
勘場からまた前の道に戻ると吉田小学校があります。
その先は「晋作橋」
その先に高杉晋作の墓所「東行庵」(とうぎょうあん)があります。
灯篭には木戸孝允、井上馨、伊藤博文の寄進と書いてあります。
また伊藤博文は晋作のことを「動けば雷電のごとく発すれば風雨のごとく・・・・・・」と晋作のことを評しています。
先ほどからの雨が本降りになってしまいました。
小腹もすきましたので東行庵の近くの食堂に入ります。
名物という「晋作もち」をいただきました。
食堂で休憩し雨があがるのを待っていましたが一向に止む様子ではありません。
お店の方に聞くと13時34分の小月駅バスがあるそうです。
今日はそれに乗って小月駅まで帰ってきました。
次回は「ぬかるみ」のある蓮台寺峠です。
晴天が何日か続きたあとにチャレンジしたいと思っています。
今回はGPSが作動してくれました。
今日の行程は下記の通りです。
小月の町を抜けると県道33号線に出ます。この道と並行して木屋川が流れています。
2年前、海峡ウオークで歩いた時ここの河原で休憩したことを思い出しました。
あの時は吉田の東行庵からスタートでした。
川沿いに歩くと大きな鉄工所がありその先に新幹線の橋梁が見えます。
橋を見ていると新幹線がやってきました。すぐカメラを向けますがさすが新幹線は早いですね。
あっと言う間に過ぎ去っていきました。
それに比べ私たちは、てくてく旅。この対比がおもしろいです。
地図では新幹線の橋梁を渡ると左折するようになっていますが、その左折する所がわからなく
ここだろうと思って左折すると民家の庭先に入ったりします。
地図ではまた33号線に戻るようになっていますのであきらめて33号線に沿って歩きます。
吉田大橋に差し掛かります。
この橋を渡ると「吉田宿」です。
吉田宿は山陽道赤間関の次の宿場に当たり大名の宿泊施設たる本陣も置かれ宿場町として
栄えました。
この町は厚狭(あさ)、船木を経て山口に至る山陽道本街道の所謂かみかた道と
長府より藩都萩へ通じる萩街道の分岐点にあたるため萩本陣は吉田宰判と称する郡役所にも
比すべき役所を置いて厚狭郡一帯の政治経済の運営に当たらせました。
吉田の町を歩いてみます。
ここは「柳町通り」。この通りの両側に宿屋、飲食店が並んでいました。
「末富家」に来ました。
慶応元年(1865)吉田宿に陣を構えた奇兵隊は庄屋末富虎次郎宅を本陣に定めた。以後末富家は奇兵隊の物資調達など
その活動を物心両面から支えました。
「高札場」
高札とは江戸時代から明治3年に廃止されるまでの間、一般人に法令を徹底させるために街道の宿場や辻、名主宅前などの
目立つ場所に幕府や藩の法度、掟書、お触書、犯罪人の罪状等を書いて立てられた板札でこれを掲げる場所を
高札所といった。
「長慶寺」
幕末、奇兵隊の屯所やけがの手当てをするための診療所として使われました。
長慶寺の先を右折した所に旧国道の「道標」が立っています。
左萩道、右上方道。街道はこれから「蓮台寺峠」に向かいますが、雨もぽつぽつ降りだしてきました。
蓮台寺峠は、ぬかるみのある峠で有名ですので今日はここまでとし、高杉晋作のお墓がある「東行庵」に行きます。
宿場町を戻り再び一里塚の所にやってきました。
この先が「勘定場跡」(吉田宰判勘場御茶屋跡・御本陣)です。案内板を見ると
藩政時代(1600~1870)萩藩毛利の領地は18の宰判に分かれ統括されていた。吉田宰判はその一つで統治区域は
吉田、厚狭、末益、松屋、津布田、宇津井、山野井、今浦、伊衛、山中、於護、河原、大嶺に及んでいた。
宰判には1名の代官が任命され平素は萩本陣に勤務しているが春、秋、冬の三季には勘定(代官所)に出張して
租税の決定、貢米の完納、土木工事の検分など民生を統括していた。勘定方、寺社方、山方など役人の任命、
民間側からは大庄屋とその部下の恵米方、算田方など選出し建物には50人ほどの役人が詰め宰判内の業務を
つかさどっていた。
御茶屋は勘場に隣接し公儀の役人や参勤交代途中の大名の休泊所であった。幕末には奇兵隊の屯所として
使われていた。
西国街道を歩かれた先輩方の写真を見ていると土塀の奥に建物がありましたが現在では何もなく
ただ草だけが生えていました。
勘場からまた前の道に戻ると吉田小学校があります。
その先は「晋作橋」
その先に高杉晋作の墓所「東行庵」(とうぎょうあん)があります。
灯篭には木戸孝允、井上馨、伊藤博文の寄進と書いてあります。
また伊藤博文は晋作のことを「動けば雷電のごとく発すれば風雨のごとく・・・・・・」と晋作のことを評しています。
先ほどからの雨が本降りになってしまいました。
小腹もすきましたので東行庵の近くの食堂に入ります。
名物という「晋作もち」をいただきました。
食堂で休憩し雨があがるのを待っていましたが一向に止む様子ではありません。
お店の方に聞くと13時34分の小月駅バスがあるそうです。
今日はそれに乗って小月駅まで帰ってきました。
次回は「ぬかるみ」のある蓮台寺峠です。
晴天が何日か続きたあとにチャレンジしたいと思っています。
今回はGPSが作動してくれました。
今日の行程は下記の通りです。