よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

九州オルレ武雄コース(佐賀県武雄市)

2020-06-27 10:36:16 | 九州オルレ

6/24(水)梅雨の中休みの今日、九州オルレ武雄コースを歩きました。このコース日本で最初にオルレコースとして認定されたそうです。

車を武雄温泉駅の駐車場に置き、オルレスタートします。

9:50 武雄温泉駅スタート。もう気温も30度を超えているのか暑いです。

 

最初のカンセは、白岩運動公園です。ここから緩やかな上りになります。

矢ノ浦古墳は、武雄地方で最初に確認された前方後円墳で、白岩運動公園トリムコース内、白岩山の東尾根(標高45m)上に築かれています。墳丘は全長37m、後円部径17m、前方部の幅15m、

長さ20m、高さ2.7mで、前方部が低いやや古式の形態をしています。葺石や埴輪・周溝等の外部施設は確認されていません。遺体を納める内部主体は、後円部中央に2基と後円部南西斜面に

小児用の石蓋盤棺墓1基が確認されています。墳項部の2基は、ともに床面や側壁に粘土を張りめぐらして人頭大の石で覆う粘土槨状の土壙墓です。平面形は隅丸方形で、北側の主体部は長さ4m、

幅0.9mの大きさです。南側の主体部は長さ2.6m、幅0.9mで、床面から変形獣帯鏡と呼ばれる製の青銅鏡が出土しました。
本古墳の築造年代は、5世紀初頭から前半にかけてのものと考えられ、杵島地域の古墳文化の先駆をなすものであり、県下の古墳文化を考えるうえで重要な存在です。(武雄市HPより)

  

 

白岩運動公園展望所から下りてくると貴明寺があります。この寺の開基、後藤貴明は、天文3年(1534)大村純明の二男として大村に生まれ12歳の頃、武雄後藤氏の養子となり、

のちに第19代の家督を継いだ人物。この貴明寺には、後藤貴明の木像が安置されています。

  

貴明寺前の池には、蓮の花が咲き始めていました。

 

池ノ内湖にやってきました。池ノ内湖は、1625年(寛永2年)に武雄領内の耕地3.1haの灌漑用水として築造された小池であり、また鍋島藩武雄領主の猟場でもあった。

1808年(文化5年)新田開発に伴って堤の嵩上げ工事が行われ、また、戦後も食糧増産や旱魃(かんばつ)による用水確保のために数度の嵩上げや改修が行われ、武雄地域で最大の貯水量を

持つため池で、一級河川六角川の農地156haの水田・畑の灌漑を担っている。(WIKIPEDIAより)

  

池ノ内湖の周りには、リゾートホテルやペンションなどの宿泊施設、緑の芝生の広がる公園、散策ができるプロムナード、宇宙が学べる宇宙科学館などがあり、一帯が保養村になっています。

また、ホタルの名所としても知られています。

  

ここで最初の休憩をします。

 

休憩の後、再スタートします。この池ノ内湖の周りは、散策道になっており、小川には、アジサイが咲いており、歩いていて非常に気持ちがいいです。

  

このあたりから山岳遊歩道に入ります。杖が置いてあるのでこれを借りての歩行です。

 

浮橋があります。このところコロナ太りで体重がオーバー気味ですが、渡っても沈みませんでした。川面には浮き草があります。ハート形は、8月ごろ咲く「羊草」かな?

  

二つ目の浮き橋を渡り、山の中に入っていきます。

  

先ほどの遊歩道とは違い、急こう配の階段を上っていきます。私が若かったらこんな坂など一気に上れたと思いますが、あれからもう半世紀経っています。ここは、マイペースでゆっくりゆっくり

上ります。山頂近くで「見晴らしコース」「森林浴コース」の分岐点があります。終盤合流するのですが、ここは見晴らしコースを選択しました。

   

 

やっとのことで山頂付近に到達しましたが、ここから下りです。下を見ると急勾配で岩がゴロゴロしています。幸いに横にロープが張ってありそれを伝って下ります。

  

悪戦苦闘の末、やっと下りて広い道に出ました。側道には、野ばら(野茨)が咲いています。この野ばらを見るとすぐ浮かんでくるのが、当時の市川染五郎(現松本白鳳)さんが唄った歌、

「野ばら咲いてる路」です。♬野ばら咲いてる山道を二人で歩いたね~♬ ほかに誰もいませんので大きな声で歌いました(笑)この歌1967年(昭和42)の曲だそうですね。

 

 

武雄市街地に入りました。武雄文化会館の所には、鍋島茂義公の銅像が建っています。

武雄の代28代領主鍋島茂義は、23歳の若さで佐賀藩の請役(筆頭家老)に異例の抜擢をされたほどの人物でした。
茂義は、天保年間の初め(1830年頃)、長崎警備を担当した際、オランダ船を見学、西洋の進んだ科学力に深い感銘を受け、蘭学の積極的な導入を開始したとされます。天保3年には、

当時の西洋砲術の第一人者高島秋帆に家臣を入門させ、その後、西洋砲術や戦術の習得、大砲鋳造、種痘の実施、ガラスの製作、写真術の導入、蒸気船製造など様々な分野の事業に

取り組んでいます。

茂義は佐賀藩主鍋島直正の義兄であることから、直正に大きな影響を与え、武雄領の功績は、佐賀本藩の高度な軍事技術・機械技術の先駆けとなったと言えます。(武雄市観光協会HPより)

 

武雄神社は、『武雄神社本紀』によると、神功皇后が三韓征伐の帰途、武雄に兵船を止め、それが御船山に化したとあります。これにより同行していた住吉神と武内宿禰が御船山の南嶽

(船の艫)に鎮座し創祀されました。而して天平7年(735年)初代宮司 伴行頼に『吾は武内大臣である。艫には住吉神がおられ、艫嶽に祀られていても畏れ多く落着かないので、

幸い軸嶽に自分を祀るならば、末永くこの地に幸福が訪れるであろう。』との神託がありました。行頼は太宰府を通じて朝廷に奏請し、武内宿禰を主神に、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、

武雄心命を合祀し北麓に奉遷し武雄宮が創建されたと記されています。(武雄神社HPより)

武雄神社の裏手には、「武雄の大楠」があります。

  

武雄の大楠は、全国巨木第7位にランクし、樹齢3000年以上で、市の天然記念物に指定されています。樹高30m、幹回り20m、枝張りは東西30m・南北33m。武雄市内最古の神社、

武雄神社の神木となっています。象の足を思わせる根元がごつごつした樹皮に覆われ、その中央が地表近くで口を開けています。広さおよそ12畳の内部には、天神が祀られています。

  

武雄神社を折り返し、再び武雄文化会館の方に向かいます。文化会館から少し登ったところには、「塚崎の大楠」があります。

武雄の大楠に比べ少し小さいですが、県内第3位の巨木で、樹齢は2000年とも3000年とも言われ、市の天然記念物に指定されています。樹高18m(南側の史枝)、幹回り13.6m、枝張りは東西18m、南北15m。昭和38年に落雷に遭い、残念ながら本幹の9m以上が失われましたが、根回りは38mに及び、かつては壮大な姿を誇っていたと想像されます。

 

塚崎の大楠から天神崎の信号を左折します。前方に武雄市役所が見えてきます。ここで11,3kmです。

JRの高架橋の下を通りゴールの武雄温泉楼門に向かいます。この辺りは、昔、長崎街道を歩いた時通りました。

 

14:30 ゴールしました。ゴール後はもちろん武雄温泉に直行です。

  

温泉で汗を流し、スタート時、武雄温泉駅カイロ邸で予約していた佐賀牛の駅弁を取りに行きます。この駅弁JR九州駅弁コンテストで3年連続グランプリを受賞しました。

駅の観光協会では、今年2/29に行われる予定でしたスイーツオルレ(コロナで中止)の缶バッチをいただきました。

  

今日(6/24)のGPSです。

 

 


九州オルレ八女コース(福岡県八女市)

2020-06-20 15:00:14 | 九州オルレ

6/17(水)曇り。九州オルレ八女コースに挑戦しました。

八女(やめ)という地名は、日本書紀にある「この地方に女神あり、その名を八女津媛といい常に山中にある」の一節が八女という地名の由来と伝えられています。

このコース、パンフには、「茶のくにを感じながら、八女丘陵の古代文化に触れる」がキャッチコピーです。

八女には、何回かウォーキングで来ていますが、それも皆、八女市街地周辺です。子のオルレは、大茶園や歴史で習った「筑紫君磐井の乱」の磐井の墳墓がある「岩戸山古墳」を巡るコース

ですので楽しみです。車をゴールの岩戸山古墳に置き、西鉄バス、堀川バスを乗り継ぎスタートの上山内「山の井公園」に移動します。

  

山の井公園には、「中島内蔵助満幹翁之碑」があります。彼は吉田庄の庄屋の職にあり、洪水で悩まされていた住民を救おうと1651年(慶安4)山の井堰建設にあたり尽力されたそうです。

その横には水の神様「水天宮」があります。また、この地は山の井川と星野川の中州にあり、変則中学中州校がありました。

  

 

9:40 山の井公園スタート。まず童男山(とうなさん)古墳に向かいます。

  

童男山古墳は、直径約48メートルの大型円墳です。昭和31年に県の指定を受けました。主体部は複室の横穴式石室です。玄室には凝灰岩製の巨大な石屋形があり、中にはくり抜きの石棺が

納められています。6世紀後半〜末頃のものと思われます。地元では古来から、中国から渡来した徐福の墓という伝承により旅の安全祈願の対象になっています。

また一方で、童男山(とうなさん)という名称から耳の神様として祀られてきました。(八女市HPより)

  

童男山古墳から先へ進むと茶畑が見えてきます。これが八女大茶園かな?とマップを見ると大茶園はまだ先でした。

 

犬尾城址は、河崎城、犬尾篠山城、生駒城ともいわれました。鎌倉時代初期黒木助能の嫡男河崎三郎定宗が築いたといわれています。黒木氏は大友、龍造寺と主を替えるも

天正12年(1584)大友氏により黒木氏が滅ぼされるが、河崎氏は、島津と手を結び犬尾城に居城しました。天正15年(1587)秀吉の九州征伐で城主河崎鎮則は、秀吉に抵抗したため

改易となり犬尾城は廃城となりました。

 

犬尾城址から下りてきます。

  

  

スタートしてから約1時間後「八女中央大茶園」に到着しました。70haの敷地の中に一面の茶畑が広がります。

1969年(昭和44年)~1973年(昭和48年)県営パイロット事業として103haの山林を開発して作られた茶畑です。

 

新緑の頃来ると一面グリーンで覆われることでしょう。

展望台では、「五社神」があります。

 

展望台からの眺望です。天気が良ければ長崎県島原、諫早の方が見渡せるそうです。

東海道を歩いた時、日坂峠でも一面茶畑がありました。この時も感動しましたが、八女の大茶園も感動ものです。

   

途中、オルレ逆コースを歩いている方にお会いしました。八女コースを往復するそうです。お歳を伺うと75歳と78歳でした。久留米の方です。凄いですね。

 

中央大茶園を下りていきます。RP4の所に「地滑りの為迂回願います」との看板が・・・・本来は、ここから右折するのですが、迂回の為直進します。

  

歩いているとこの八女茶が飲みたくて少しコースアウトになりますが、中央茶園の直売所に立ち寄ります。ここでは、冷茶用の八女茶を買いました。

試飲用に出してくれたお茶が美味しかったです。

  

一念寺:寺の裏山に赤穂浪士の一人「寺坂吉右衛門」の墓と伝えられる碑があるそうです。寺坂吉右衛門がどうして八女に???という疑問が浮かんできます。

寺坂吉右衛門について調べると、江戸中期,赤穂事件四十七士のひとり。名は信行,通称が吉右衛門。身分は赤穂藩の足軽(3両2分2人扶持)。加東郡奉行兼足軽頭で,大石良雄の相談相手の吉田忠左衛門に属した。実直・誠実な性格で重宝がられ,事件発生後は連絡係を務めることが多かった。元禄15年12月14日(1703.1.30)の「吉良邸討入り」に参加するが,泉岳寺の前あたりで消えた。諸所へ連絡のためといわれ,あるいは逃亡したかともいわれ,良雄,忠左衛門らの「かろき者の儀」という発言もあり,四十七士・四十六士説の分かれるところである。のち江戸に帰り,自首。御構いなしとされる。延享4年,江戸麻布曹渓寺の寺男として83歳で死去。その翌年「仮名手本忠臣蔵」が作られ,上演された。 (コトバンクより)

 

  

マップを見ると江崎食品に昔懐かしいラムネがあるそうで、立ち寄ってみました。ちょうどのどが渇いていましたのでホント清涼飲料水になりました。

 

丸山塚古墳にやってきました。

直径約33m・高さ約5.3mを測る大型の円墳で、本来は墳丘を取り巻く周濠・周堤が存在したと思われる。北側200mの所には、善蔵塚古墳と茶臼塚古墳(共に国の史跡)がある

埋葬施設は両袖型横穴式石室で、全長8mを測り南に開口する。乗場古墳と同様、前室と後室に分かれた複室構造で、腰石に大きな石材を用い、上部には扁平の石材を用い割石積みをし、ドーム状に積み上げている。また、奥壁や玄室・前室の袖石には赤・黄・緑の三色により三角文・円文・蕨手文が描かれている。石室は保存のため調査後に埋め戻され、現在入ることは出来ない

丸山塚古墳が造営された時期は、石室が複室構造であることなどから広川町の弘化谷古墳よりやや後出するものと考えられ、6世紀後半頃と推定されている。(説明文より)

  

マップには、ここから見える飛形山と八女市内の眺めが楽しめると書いてますが、飛形山ってどこだろう?

歩いていると茶畑に寒冷紗を付けているのがありました。これは、玉露を作っているのかな??

 

 

コースも終盤になりました。

 

福岡県立福島高校の少し先には「乗場古墳」があります。

岩戸山古墳から東方約300mに位置する2段築成の前方後円墳で、墳丘長約70m、後円部径約30m、高さ約5m、前方部幅約35mで前方部の方がやや低い。江戸時代の久留米藩の学者である

矢野一貞が著した「筑後将士軍談」の中に「吉田村奈良山」の名で登場し、石人残欠が存在していたこと、岩戸山古墳同様に周濠・周堤があったことが記されている。

主体部は複室構造の横穴式で、後円部南側のくびれ部寄りに開口部がある。大型石材を用いた奥壁や側壁、玄室の両袖石には赤・黄・青の三色により連続三角文・同心円文・蕨手文が

描かれている。保存のため公開はされていない。岩戸山古墳近くにあることから筑紫君磐井の子「葛子」の墓といわれています。(ウィキペディアより)

   

国道3号線に来ました。ゴールの岩戸山古墳は、もうすぐそこです。

 

  

岩戸山古墳は、八女丘陵は、東西 10数kmに及ぶ丘陵である。この丘陵上には、11基の前方後円墳を含む約300基の古墳が造られ、八女古墳群と呼ばれている。

古墳群のほぼ中心に位置する岩戸山古墳は、九州最大の前方後円墳で東西方向に墳丘長約135m、東側の後円墳径約60m、高さ18m、西側の前方部幅約92m、高さ約17mをはかり

周濠、周堤を含めると約170mになる。墳丘は二段構造で内部主体は未発掘の為不明。古墳の東北隅には、周堤に続く一辺約43mの方形の区画(別区)が存在していた。

岩戸山古墳は、日本書紀 継体天皇(527年)の記事に現れた筑紫君磐井の墳墓で、全国的に見ても古墳の造営者と年代のわかる貴重な古墳である。

古墳の墳丘・周堤・別区からは阿蘇凝灰石で作られた多量の石製品が埴輪と共に出土している。種類も人物(武装石人、裸体石人等)、動物(馬・鶏・水鳥・猪)器材(靭(ゆぎ)、盾・刀

坩(つぼ)・蓋(きぬがさ)・翳)があり、円筒埴輪などと共に古墳に立てられていた。石製品は埴輪、埴製(土)を石製に代え、更に実物大を基本とした所に特徴がある。(説明文より)

 

 

 

筑紫君磐井の乱:日本書紀によると、527年(継体21)6月3日、ヤマト王権の近江毛野は6万人の兵を率いて、新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復するため、任那へ向かって出発した

(いずれも朝鮮半島南部の諸国)。この計画を知った新羅は、筑紫(九州地方北部)の有力者であった磐井(日本書紀では筑紫国造磐井)へ贈賄し、ヤマト王権軍の妨害を要請した。

磐井は挙兵し、火の国(肥前国・肥後国)と豊の国(豊前国・豊後国)を制圧するとともに、倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖して朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み、近江毛野軍の進軍を

はばんで交戦した。このとき磐井は近江毛野に「お前とは同じ釜の飯を食った仲だ。お前などの指示には従わない。」と言ったとされている。ヤマト王権では平定軍の派遣について協議し、

継体天皇が大伴金村・物部麁鹿火・巨勢男人らに将軍の人選を諮問したところ、物部麁鹿火が推挙され、同年8月1日、麁鹿火が将軍に任命された。

528年11月11日、磐井軍と麁鹿火率いるヤマト王権軍が、筑紫三井郡(現福岡県小郡市・三井郡付近)にて交戦し、激しい戦闘の結果、磐井軍は敗北した。日本書紀によると、

このとき磐井は物部麁鹿火に斬られたとされているが、『筑後国風土記』逸文には、磐井が豊前の上膳県へ逃亡し、その山中で死んだ(ただしヤマト王権軍はその跡を見失った)と

記されている。同年12月、磐井の子、筑紫葛子は連座から逃れるため、糟屋(現福岡県糟屋郡付近)の屯倉をヤマト王権へ献上し、死罪を免ぜられた。

乱後の529年3月、ヤマト王権(倭国)は再び近江毛野を任那の安羅へ派遣し、新羅との領土交渉を行わせている。

以上のほか、『筑後国風土記』逸文には交戦の様子とともに磐井の墓に関する記事が残されている。なお『古事記』では袁本杼命(継体天皇)の没年を丁未4月9日(527年5月26日?)と

しており、筑紫君石井(いわい)が天皇の命に従わないので、天皇は物部荒甲(物部麁鹿火)と大伴金村を派遣して石井を殺害させた、と簡潔に記している。

『国造本紀』には磐井と新羅の関係を示唆する記述がある。(ウィキペディアより)

  

13:53 八女コースゴールしました。ゴール横の岩戸山歴史文化交流館が無料開放されていますので立ち寄ってきました。この交流館には、岩戸山古墳、筑紫君磐井を中心とした資料や

墳丘や別区から出土した石製品や埴輪が展示されています。下記の写真は岩戸山古墳から出土した石製品です。※クリックしたら拡大します。

           

八女コースGPS

 

 

 

 


九州オルレ福岡・新宮コース(福岡県粕屋郡新宮町)

2020-06-12 14:34:28 | 九州オルレ

6/9(火)は、九州オルレ福岡・新宮コースに行ってきました。梅雨入りが今週中という予報ですので雨が降らないうちに歩こうと思い計画しました。

九州オルレ新宮コースは、昨年(2019年)3月に認定され比較的新しいコースです。コースの終盤新宮海岸を通るのですが、現在松林の中は通行止めになっており、迂回するようになっています。

 

コミュニティバスでオルレスタート地「佐屋」バス停に行きます。このバスどこに行っても100円均一です。

佐屋バス停から高速道のガードを潜り、しばらくは九州道に沿って歩きます。

途中「六部様」という碑があります。六部というのは六十六部の略で室町時代に始まった書き写した法華経を全国六十六か所の霊場に一部ずつ納めることを目的として廻回巡礼する行脚僧の

ことを指しています。江戸時代には僧でない人も死後の冥福を祈るため鉦をたたき、鈴を振り、或いは仏像を納めた厨子を背負い行っていました。

その六部の者が佐屋地区を通りがかった時、自分の死期が近いことを悟りました。そして宿泊していた家で「自分が死んだら当地に埋葬してくれ、そうすればこの地区に流行り病が

絶対に入り込まないよう祈願する」と言い残して亡くなり、遺言通り埋葬したと語り継がれています。その後この地において流行り病で亡くなった方は一人もいないため、

地区の人々の信仰を集め春と秋には六部様のお通夜が必ず催されています。(案内文より)

  

約1kmぐらい歩いたところから山の中に入ります。

 

最初のカンセは、三本松山です。ここからは、立花山が見えます。立花山は、7つの峰からなる山群でそのうち3つの峰が「白岳」「松尾山」「井楼山」。

鎌倉時代末の1330年に豊後大友氏の大友貞戴(立花貞載)によって立花山山群に立花山城(立花城)が築かれて以来、立花山は南北朝・戦国時代を通じ、交易拠点であった博多を

見下ろす軍事的に重要な要塞であった。 勇猛な武将として知られた戸次鑑連は1569年の多々良浜野戦いで毛利軍と戦ったのち、立花道雪として立花山城城督となり、今は立花口の梅岳寺に眠る。

また道雪の家督を継いだ立花統虎(立花宗茂)は1586年に島津軍の大軍の侵攻に対して、立花山城に篭城し激戦の上これを撃退した。 1601年に福岡城が築城された際に石垣が移築され廃城と

なったため現在は一部に石垣と古井戸が残るのみである。 石垣は井楼山から松尾山へ至るルートの途中などに点在する。 (WIKIPEDIAより)

尚、立花宗茂は、後の柳川藩主になりました。

 

再び山道に入る

 

  

コースでは、日曜市に行くようになっていますが、今日は火曜日、日曜市は行われていませんので短縮コースに入ります。

  

 

コースは、立花口地区に入ります。このエリアは戦場の名残として鍵型に曲がった道や城下町の雰囲気が漂っています。

  

梅岳寺は、立花城主立花道雪とその母の墓所です。立花山登山口は、このあたりです。

 

六所神社に着きました。ここにもカンセがあります。六所神社は、以前JRウォーキングやウォーキング協会の例会で何回か来ています。

六所神社は、立花道雪が戦勝祈願をしたと伝えられている神社です。境内の裏手には、大きな「カゴノキ」があります。九州で3番目の大きさだそうです。

 

  

独鈷寺は、天台宗の祖、最澄が唐からの修業ののち805年、日本で最初に建立したといわれているお寺です。

 

コースは、再び山道へ。

 

次のカンセは、しんぐう愛の丘です。ここからは相島(通称猫の島)が見えます。

 

太閤水:天正15年(1587年)九州を平定した豊臣秀吉が、大阪への帰路ここで馬を休め自ら清水を汲んで飲んだ所です。当時九州の大部分に勢力を伸ばしていた島津義久に対抗し、

孤軍奮闘していた立花宗茂(立花道雪の養子)を助けるため、秀吉は20万の大軍を自ら率いて九州へ乗り込んできました。この秀吉を追って九州入りした堺の茶人『津田宗及(千宗易“利休”)』は

三代の里で水を求めましたが、あまり良い水ではなかったので自ら井戸を掘り湧き水を得ました。秀吉はこの水を飲んでたいそう喜び、掘った者の名を聞き即座に『宗及水』と名付けました。

その後、京都大徳寺の江月和尚(宗及の子)が立ち寄った際に『飯銅水』と改められましたが、後世に石畳の井戸場が造られ太閤秀吉にちなんで『太閤水』と呼ぶようになったそうです。

 

今日は非常に暑く、33度ぐらいあるのでしょうか、それでも日陰に入れば涼しい風が吹いてきます。

そろそろ12時近くなってきましたのでどこかでお握りを食べようかと思いますが、昼食をとる場所が見当たりません。もう少し歩いてみます。

次のカンセは、夫婦子守大明神です。

  

ここから下りになります。

 

ホームセンターの横の公園の所を曲がるとJR新宮中央駅が見えてきました。駅の中に観光案内所があるのでそこに立ち寄りスタンプを押します。

  

駅の階段を下り、西口へ。正面に新宮町役場、そしてその先に新宮高校があります。

 

本来のコースでは、新宮高校の先から松林に入るようになっていますが、松林の中は、立ち入り禁止になっています。この松林はビューポイントなんですが・・・・

仕方なくそこからゴールの西鉄新宮駅に向かいます。

13:53 西鉄新宮駅にゴールしました。

  

所要時間3時間55分。距離数10,4kmでした。

昨年このコースが設定されましたが、松林の中が歩けないし、あまり見どころの少ないコースでした。

 


能古島アイランドパークはマリーゴールドが綺麗でした(福岡市西区)

2020-06-10 09:07:05 | ウォーキング

テレビで放送していましたが、今、能古島(のこのしま)は、マリーゴールドが綺麗だそうです。また、そのマリーゴールドを持って帰っていいそうです。

今日(6/8)は、平日ですのでお客さんは少なかろうと思い、朝8:30から能古島へお握りをもって出かけました。

フェリーの時刻表は、1時間に1本、今でしたら9:15のフェリーに間に合います。

 

9:15発のフェリーに乗船。約10分で能古島に到着しました。

  

能古島は、博多湾の真ん中にあり、南北3,5km、東西2km、周囲12km、面積3,93㎢、島の高い処で195m、人口約800人の海に囲まれた緑豊かな自然と歴史に恵まれた美しい島です。

奈良時代の頃には、防人が置かれ、万葉集にも詠われました。平安時代には牛の牧場ができ、刀伊の入寇(1019年)(注1)、鎌倉時代の元寇(1274,1281)と外国からの侵略も受けました。

江戸時代には、黒田藩の鹿の猟場となり、筑前五ヶ浦廻船注2)の浦の一つとして栄えました。

能古という地名は、万葉の時代以降「能許」、「能拳」、「能巨」、「能古」、「能古」、そして江戸時代には、「残島」と呼ばれましたが、昭和16年(1941)福岡市と合併した時に

「能古」となりました。(案内文より)

近年では、歌手井上陽水さんの ♬「能古島の片思い」が作られた場所ということで人気を集めています。

注1刀伊の入寇:寛仁3年(1019年)女真族(満州民族)の一派とみられる集団を主体にした海賊が壱岐、対馬を襲い、更に筑前(福岡)に侵攻した事件。

注2筑前五ヶ浦廻船:江戸時代、福岡藩の海運事業を担った廻船業者、及び船団。博多湾の5つの浦、今津、唐泊(からとまり)、浜崎、宮浦、残島(能古島)の業者が担当したため

五ヶ浦と呼びました。五ヶ浦廻船は、筑前の米を江戸・大阪へ運んでいただけではなく、北陸、東北、北海道を西回り、東回りと日本全国を網羅する廻船集団でした。

 

能古島の対岸は、福岡タワー、福岡PayPayドームです。

 

しばらくは、平たんな道が続きますが、途中から緩やかな上り坂がアイランドパークまで続きます。今日は朝は少し寒かったのですが、気温がどんどん上昇し、暑くなってきました。

今日は、予報では30度を超えるそうです。マスクをしていますが、人もあまり通らないのでマスクを外して歩きます。

  

約40分でアイランドパークに到着しました。入場料1200円を払い園内へ。

 

園内に入るとオート三輪車が置かれています。これは、オーナーが昭和32年(1957)結婚されたときに使われたオート三輪車です。

オート三輪なんて懐かしいですね。マツダ、ダイハツとかぐろがねなどのメーカーがあったと記憶しています。これはどこのオート三輪かな?

  

能古島アイランドパークは、昭和44年(1969)4月観光農園としてオープンしました。 四季折々の花が楽しめる場所として市民に親しまれています。

園内を歩きます。園内にはさつき、アジサイ、マリーゴールドなどの花が咲いています。

  

  

  

思い出通りは、昔の博多の商家を移築しました。

 

 

ここの奥が広大なお花畑です。春は、菜の花と桜、夏はひまわり、秋はコスモスの花でいっぱいになります。今年はコロナ感染防止で4月から休業していましたので

菜の花は見れませんでしたが、5月に緊急自粛が解除され再オープンしました。

  

この時期は、マリーゴールドです。黄色とオレンジのマリーゴールドがお花畑一面に広がっています。

マリーゴールドは、摘み放題です。この綺麗なマリーゴールドを摘むのは心苦しいですが、6株ほど摘んできました。

  

写真中央には、地元のテレビ局がここからライブ発信しています。

 

 

ここで持ってきたお握りをいただきます。景色のいいところで食べるお握りはホントおいしいです。食べ終わった後、別のコーナーに行ってきました。

 

何十年かぶりにブランコに乗りました。

  

帰りも来た道と同じコースを歩きました。歩いていて誰も会いませんのでマスクは外しました。これから暑くなるので夏用のマスクの購入も考えなくてはいけませんね。

12:40 渡船場に到着。フェリーは13:00ですので少し時間がありますので能古島名物「のこバーガー(@540)」を買います。

久しぶりにいただきましたが、市販のバーガーよりおいしいです。

 

次回は、秋のコスモスです。これもきれいでしょうね。

 


小戸公園から福岡ペイペイドームまでウォーキング(福岡市西区~福岡市中央区)

2020-06-07 17:59:54 | ウォーキング

6/4は、能古島に行く予定でしたが、急に昼からの予定が入り、能古島の対岸「小戸公園」から福岡ペイペイドームまで歩きました。

小戸公園は、過去何回か歩いていますが、すべてウォーキング協会の例会などでゆっくり探索したことはありませんでした。

 

「小戸」という地名は、波食が崩落してできた狭間を指す小門(おど)が由来です。

近くには、ヨットハーバーがあり、休日には数多くのヨットが博多湾に浮かびます。

 

小戸には、「小戸大神宮」があります。

海中から引き揚げられた銅矛二本が神宝とされ、享保10年(1725)福岡藩六代藩主黒田継高が社殿を建立しました。木製の剣や戈を奉納すると瘧(おこり)(熱病)が治ると信仰されました。

この地を伊邪那岐の神が「みそぎ祓い」をして天照大神を生んだ「小戸の橘の檍原」の地とする説もあります。境内とその周辺には、神功皇后伝説にまつわる所もあります。

神功皇后が三韓征伐の折、お出立及び凱旋上陸された地としても知られています。小戸の近くの「姪浜」は、由来は神功皇后が三韓征伐の帰途最初に上陸、あこめ(女性の中服)を

洗い干したことから来てると言う。あこめの浜が転訛(てんか)し「姪浜」になった。生の松原は、神功皇后が戦勝祈願で松の枝を逆さに植え、それが生き返って栄えたという由来があります。

生の松原の中には武内宿祢の見返りになったという壱岐真根子を祀った「壱岐神社」もあります。

 

  

  

先に進むと「小戸妙見神社」があります。案内文には、この聖地にあって、今年(2003年)より十数年前、或る人の夢枕に龍神が瑞験し、霊告により導かれ、

地中に埋没していた現社殿の屋根である古石を掘り出したのが発端である。しかし、事情あって、地面に放置されたままであったのが、2002年の1月、心ある人々の手によって再建され、

更に本年(2003年)4月の改築となり、現在、妙見神社として御鎮座なさっている次第であります。

この神社は、はっきり言って知りませんでした。

 

 

妙見神社からは、能古島や今津湾が見渡せます。

  

 

妙見神社を下り海岸線を歩きます。

 

アウトレットのマリナタウンです。入ろうとしましたが、営業が11:00からですのでパスしました。

 

ゴールの福岡PayPayドームに着きました。プロ野球の開幕が6/19に決まりましたが、球場の外では、植え込みの手入れなどが行われていました。

プロ野球は、しばらくは無観客試合ですが、早く試合を見てみたいですね。

  

 

 

 

 

 

 


九州オルレ平戸コース(長崎県平戸市)

2020-06-04 20:23:49 | 九州オルレ

6/2は、2か月ぶりに他県へ移動し「九州オルレ平戸コース」に行ってきました。

7時に自宅を出発し9時10分にオルレスタート地平戸港交流広場に到着しました。昨年平戸ツーデーマーチが中止になりましたので2年ぶりの平戸です。

 

平戸港交流広場スタート →  最教寺奥之院(1.2km) →  川内峠インフォメーションセンター(4.7km) →  川内峠デイキャンプ場(6.8km) → 平戸市総合運動公園(9.2km) → 赤坂野球場(9.7km) → シーライフ平戸(10.1km) →  平戸ザビエル記念教会(11.2km) →  正宗寺【宗陽公の墓】(11.3km)  → 寺院と教会の見える風景(11.4km) →  平戸オランダ商館(12.5km) → 平戸温泉うで湯・あし湯(13km)ゴール

9:25 オルレスタート。

  

交流広場の突き当りには、「じゃがたら娘像」があります。

1639年(寛永16)幕府は、平戸のオランダ商館長に対して、長崎平戸に居住するオランダ人子女を調査し、その氏名と両親の氏名を書き出すように命じ、蘭英両国人に嫁がして子女を産んだ

日本婦人とその子女はひとり残らず、この年出帆のオランダ船でバタビア(今のジャカルタ)に送り届けるよう申し渡された。 長崎平戸の婦女子40人余がこの年追放された。

これら追放された婦女子は、帰国は許されなかったが、切支丹信仰に関係ない手紙・進物等の文通は許された。ジャガタラ文は、ジャガタラ(バタビア)に追放された婦女子から

故郷に送られてきた手紙で、貴重な資料である。(ほっこり平戸より)

昭和14年(1939)に作られた歌謡曲「長崎物語」は、じゃがたらお春をモデルにしました。♬赤い花なら曼殊沙華・・・・三番には、♬平戸はなれて幾百里 つづる文さえつくものを・・・・・♬という歌詞があります。銅像の下には、「日本恋しや、行かしや、見たや、見たや見たや」と書かれています。

  

鄭成功(てい・せいこう)は、中国,明末~清初の人。明朝復興運動の中心人物。父は鄭芝龍,母は平戸の田川七左衛門の娘。幼名,福松。7歳のとき父に招かれて明に渡り,南安県学の員生となり

南京の大学に学んだ。父とともに福州で明朝復興運動に参加,大将軍となり,隆武帝 (→唐王朱聿鍵 ) から朱姓を賜わり,国姓爺 (こくせんや) と呼ばれた。

隆武2 (1646) 年父が清朝にくだったのちもこれに従わず,父の握っていた海上権を受継ぎ,金門,アモイ両島を根拠地に広東の明政府と連絡し,連年大陸沿岸を攻略した。

永暦 15 (61) 年台湾を占領,引続き清朝に抵抗し,清朝の中国統一を悩ませ,明朝復興と大陸反攻の強化をはかったが,翌年急死した。日本では,日中の混血児であることと,

明室への忠節のゆえに「和唐内」と愛称された。近松門左衛門の浄瑠璃『国姓爺合戦』はこれを素材としたもの。 (コトバンクより)

台湾・台南の赤崁楼(せきかんろう)には、鄭成功の像が建っています。

 

コースは「最教寺」に向かいます。最教寺は、806年空海が唐より帰国した際に、この地に立ち寄ったことから開かれた寺院。赤ん坊の泣き声が災いを退けるという

「子泣き相撲」が毎年節分に行われます。最教寺の横から山道に入ります。

  

途中何か所か山道の中へ入ります。

  

  

10:50川内峠に到着。ここまで4,7km。

川内峠には、始めてきましたが、素晴らしい光景です。標高200mの緩やかな峠に広がる30haの草原で、頂上は、360度のパノラマです。天気のいい日には、九十九島や対馬まで一望

できるそうですが、今日は天気はいいのですが、遠くが霞んでいるので見えませんでした。今日はコロナ感染防止でマスクを着けて歩きましたが、ここには他には誰もいません。

マスクを外してこの空気を独り占めします。(といっても家内も一緒ですが・・・)

  

生月島との間に小さな島「中江ノ島」があります。ここは、隠れキリシタンの島ということで世界遺産に指定されています。

詩人「吉井勇」の歌碑もありました。「山さよく 海うるわしとたたえつつ旅人われや 平戸よくみむ昭和32年(1957)7月5日建立されました。

塩上げ石」は、今から650年ほど前、大渡長者という商人がいた。もとは貧しい商人であったが、川内峠を通るときに石に塩を供え「願わくばたくさんの船を持つ大商人にしてください」と

祈願しつづけた。その甲斐あって後に大商人となったという。石の上に塩もしくはお賽銭を置くと願いが叶うということでしょうか、石の上にはお賽銭が置かれていました。

  

頂上の方に行きます。ここからは、360度の光景です。お昼も近づいてきましたのでここで家から持ってきたお握りをいただきます。おかずは、この景色です。

 

 

  

昼食の後、再びスタートします。こんもりとした丘の所が折り返し場所。

 

軽いアップダウンを繰り返し歩きます。

 

歩いていると平戸ツツジの父「熊沢三郎氏」の銅像がありました。銅像のある所から下りていくと一面平戸ツツジ園が広がっています。

今は、6月、きっと4月のつつじの花が満開の時にはきれいでしょうね。

 

ライフカントリー(平戸総合運動公園)が9,2km地点。

赤坂野球場、シーライフひらどの所が10km地点

 

このあたりから平戸市街地に入ります。

平戸ザビエル記念教会:海外交易と同時に、フランシスコ・ザビエルが平戸を訪れ、カトリック教が日本に広がります。1931年に建てられ、韓国からも信者らが多く訪れます。

宗陽公の墓:第26代平戸藩主、松浦隆信(宗陽公)の墓所。オランダ、イギリスとの交易に積極的で平戸が「西の都」と言われた時代の藩主です。

  

寺院と教会の見える道へ。平戸ザビエル記念教会を下り、振り返れば寺院の門からゴシック様式の教会の先端が見える平戸を代表する景観です。

 

瑞雲寺の中を通り、浦の町「大ソテツ」へ。樹齢400年の巨大なソテツは、この場所にあった貿易商の庭に植えられていたもの。このあたりは、江戸時代初期富裕な貿易商が

多く立ち並んでいました。

  

オルレコースも終盤に差し掛かりました。

  

平戸オランダ商館:長崎出島に貿易拠点が移るまでは、平戸が海外交易の窓口でした。1639年に実在したオランダ商館倉庫を2011年復元し、当時の資料などを展示しています。

 

 

詩人「藤浦洸」さんは、平戸市出身。多くの歌の作詞も手がけました。私たちの世代では、NHK「私の秘密」での解答者としてのイメージが強いです。

ゴールの平戸温泉うで湯あし湯の前には、藤浦洸さん生誕百周年で「平戸のうた」の歌碑が建てられています。

 紅のつつじは「きりしま」「ひらど」 昔懐かしカビタン様の国へたよりの押し花が 海の向こうのジャガタラ国の土にこぼれて咲いたげな ほんと咲いたげな

 

14:26 ゴールの平戸温泉うで湯あし湯に到着しました。約5時間のウォーキングでした。

 

 

 


自粛生活にピリオド

2020-06-01 05:49:31 | ウォーキング

6月になりました。

2月26日のウォーキング協会例会から3か月余り、自粛生活を続けてきました。

朝の散歩も近くの公園を約5kmぐらい歩くだけでした。この間全国的なウォーキング大会は殆ど中止か延期。

日本市民スポーツ連盟のHPには、下記の大会の中止、延期が発表されています。

■第12回みなと町神戸ツーデーマーチ(2020.10.24-25)
■第22回港よこはまツーデーマーチ(2020.10.10-11)
■第3回大阪ウォーク2020(2020.10.10-11)
■第20回瀬戸内しまなみ海道スリーデーマーチ(2020.10.2-4)
■第22回田沢湖ツーデーマーチ(2020.10.3-4)
■第14回北九州無法松ツーデーマーチ(2020.9.26-27)
■第33回北海道ツーデーマーチ(2020.9.12-13)
■2020越後長岡ツーデーマーチ(2020.9.12-13)
■第3回秋田鳥海眺望のみちツーデーマーチ(2020.7.4-5)
■第22回国際ノルディック・ウォークin鶴岡(2020.6.28)
■第33回でっかいどうオホーツク北見ツーデーマーチ(2020.6.20-21)
■第11回にいがた湊まち歴史ウオーク(2020.6.13-14)
■第22回津軽路ロマン国際ツーデーマーチ(2020.6.6-7)
■第14回つくば国際ウオーキング大会(2020.6.6-7)
■第17回加賀百万石ツーデーウオーク(2020.6.6-7)
■テレビ金沢チャレンジ100kmウォーク(2020.5.30-31)
■第18回とって隠岐ツーデーウオーク(2020.5.30-31)
■第43回北海道を歩こう(2020.5.24)
■WFPウオーク・ザ・ワールド大阪(2020.5.23
■第18回飯能新緑ツーデーマーチ(2020.5.23-24)
■第10回伊勢志摩ツーデーウオーク(2020.5.23-24)
■WFPウオーク・ザ・ワールド(2020.5.18)
■第9回成田エアポートツーデーマーチ(2020.5.16-17)
■第29回若狭・三方五湖ツーデーマーチ(2020.5.16-17)
■第9回きのくに海南歩っとウオーク(2020.5.16-17)
■第13回いけだまち北アルプス展望ウオーク(2020.5.16-17)
■第15回野沢温泉菜の花パノラママーチ(2020.5.9-10)
■第28回びわ湖長浜ツーデーマーチ(2020.5.9-10)
■第26回九州国際スリーデーマーチ(2020.5.8-10)
■第19回出雲の國ツーデーウオーク(2020.5.3-4)
■第33回信濃川河岸段丘ウオーク(2020.4.29)
■第17回大正浪漫ウオークin手賀沼(2020.4.29)
■第20回藤岡市ふじウォーク(2020.4.29)
■第34回飯田やまびこマーチ(2020.4.25-26)
■第9回南山の桜と歴史めぐりウオーク(2020.4.25)
■第23回久留米つつじマーチ(2020.4.18-19)
■第18回大和路まほろばツーデーウォーク(2020.4.18-19)
■信州松本 梓川・桜ウオーク(2020.4.18-19)
■蔵のまち喜多方桜ウオーク2020(2020.4.18)
■第14回下総・江戸川ツーデーマーチ(2020.4.11-12)
■第16回秩父いってんべぇウオーキング2Days(2020.4.11-12)
■武田の里ウオーク~武田の里と新府桃源郷コース~(2020.4.11)
■第14回富士山一周ドリームウォーク(2020.4.4-2021.3.6)
■第31回四万十川リバーサイドフルウオーク(2020.4.4-5)
■第18回讃岐うどんつるつるツーデーウオーク(2020.4.4-5)
■第22回ふくしま吾妻荒川・花見山ツーデーマーチ(2020.4.4-5)
■ふくしま花ウオーク2020(2020.4.4)

この状態だと、今年の大会はすべて無理かもしれません。

 

さて、昨日は、自宅裏の海岸線を散歩しました。日曜日だったので海にはウィンドサーフィンをする方を見かけました。

季節は夏に向かっているのですね。

昨日の散歩で見かけた光景。

海には、ジョーズが・・・・・・よく見ると子供さんが飲み込まれています。(笑)

海に向かってブランコを漕いだら気持ちいいでしょうね。カップルの写真スポットになっています。

  

2年前(平成30年)の西日本豪雨の時に流れてきた流木です。傷も何もなく流れてきました。珍しいですね。

  

ヒペリカム・アンドロサエマム・・・・・金糸梅に似ていますが、この花赤い実を付けます。

今月からは、九州オルレのコースを何か所か歩いてみたいと思っています。