よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

さいたマーチ2日目「見沼田んぼ北ルート」10km(さいたま市大宮区)

2023-03-30 06:05:24 | ウォーキング

3/26(日)さいたマーチ・見沼ツーデーウォーク2日目。

昨日濡れたシューズは、ホテルの戻りドライヤーで乾かしました。

8時ごろ会場に到着。今日も雨の中のウォーキングです。一応16kmコースでスタートしました。

見沼田んぼ北ルート

8:10 スタート

 

新都心駅には、「COCOON(コクーン)」という商業施設があります。COCOONという意味は、英語で「繭(まゆ)」という意味です。商業施設ができる前は、片倉工業の大宮工場でした。

片倉工業は、創業当時「繭」を作っていましたからこのネーミングになったそうです。

因みに、埼玉県の「埼玉」は、行田市にある「前玉(さきたま)神社」に由来します。

日本全国地名由来によると、さきは、「先」、たまは、水気を含んだ土地、湿地、川や湖沼などの水域。

つまり、「さきたま」は、湿地のそば、湿地帯の端、川や湖沼のへり、水辺の意味だそうです。「さきたま」から年代を経て「さいたま」になったそうです。

 

COCCONの前の道路は、旧中山道です。新都心から日本橋まで約28kmです。COCOONから氷川神社参道へ。

 

氷川神社の参道は中山道から南北に2km伸び、両側に美しいケヤキ並木が並んでいます。緑のトンネルのような氷川参道は大宮のシンボルとなっています。
「大いなる宮居」と称えられ、大宮の地名の由来ともなった氷川神社の周辺にはいくつもの集落ができ、門前町を作っていました。江戸時代の参道沿いには、神主の邸宅、

神社に所属する境内社や寺院が建ち並び、集落は、宮町、仲町、下町、大門町の四町がありました。その四町から百姓が伝馬役を命じられておりました。その人馬が行き交った道が

「元往還」です。現在の参道や中山道と「元往還」がどのような位置関係であったかは、残念ながら明らかではありませんが、中山道が参道と重なったり、

横切ったりするのは好ましくないので、参道の西側の原野が開削され、寛永5年(1628)に新たに「新往還」が開通されました。(氷川神社HPより)

  

 

 

   

氷川神社の祭神は須佐之男命(すさのおのみこと)、稲田姫命(いなだひめのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)の3柱で、いずれも出雲の神々を祀っています。

全国で280数社ある氷川神社の総本社であり、初詣に参拝する人数は全国10位以内に入るほど。家内安全・商売繁昌・交通安全・縁結・安産・災難除・心願成就などの御利益を求めて、

連日多くの人が祈りを捧げにきます。

社伝によると孝昭天皇の時代に創建されたといわれており、2,000年以上の歴史があります。近代では明治天皇が自ら祭儀を行ったことで知られ、いつの時代も庶民と皇族にとって

身近な神社でした。

歴史ある建造物や境内に祀られている多くの神社、パワースポットとして人気の池など、見どころがたくさんあります。

 

 

氷川神社には、「戦艦武蔵の碑」と「さざれ石」があります。

戦艦武蔵

戦艦武蔵は世界最高技術を駆使し、大日本帝国海軍が建造した最後の戦艦である。
パナマ運河幅の制限から、40cm(16インチ)を超える主砲を持つ戦艦を建造できない米海軍の弱点に注目し、主砲46cm砲三連装砲塔3基を搭載した世界最強かつ最大の戦艦として

建造された。武蔵誕生に到るまでには多くの技術的困難があり、関係者の苦労は並大抵のものではなかった。また、海軍の指示により建造造船所である三菱重工業は、所員に対する

緘口令等、建造秘匿の徹底を図った。
昭和17年8月5日に広島県呉で行われた竣工式には、氷川神社より6名の神職が出向し、四季が厳しく執り行われた。艦内神社には、氷川神社が分祀され武蔵神社と命名された。
昭和19年10月17日「捷一号」作戦発令により、日米両海軍の主力が艦隊決戦を行わんとフィリピンレイテ沖を目指した。武蔵は米海軍の航空攻撃を一手に引き受け、10月24日シブヤン海に

没した。同作戦により戦艦武蔵の乗員1039名戦死、生存1329名もマニラ防衛戦等に投入され最終的に祖国の土を踏めた者は430余名と言われている。
ここに戦艦武蔵を顕彰し、碑建立に協賛、賛同するものである。

平成27年10月24日建立
 戦艦武蔵顕彰会
協賛団体
 軍艦武蔵会
 埼玉県防衛協会(創立50周年記念事業)  (説明文より)

武蔵の艦内には、氷川神社が祀られていたのですね。

また、横浜港に係留されている「氷川丸」は、この氷川神社から名付けられています。船内の神棚には、氷川神社の御祭神があります。

 

神社の境内には、和傘が並べられています。これは、埼玉中央青年会議所が企画したもの。27日まで展示されるそうです。

 

 

氷川神社本殿へ

 

雨も中々止みません。本殿入り口が26k・16kと10kの分岐点です。ここは、帰りの時間も考え10kコースを選択しました。

 

時間があるので大宮公園へ。大宮公園は、氷川神社の境内地の一部を官営化して明治18年に開設された、県内初の県営公園です。開園以来、時代の要請に応えて拡張や整備が続けられ、

現在に至るまで桜の名所やスポーツの拠点としての役割を果たしてきました。

 

天気が良ければお花見客で賑わうのに・・・・・

 

 

万葉親水公園

 

 

 

 

大宮第二公園

 

 

 

 

大宮第三公園 ここが10kコースのチェックポイント

 

 

 

合併記念見沼公園

 

 

ここからは、もうゴールに向かって進めばいいのですが、どういうわけか、矢旗を見落としたか、道を間違えてしまいました。

あとでGPSを見てみると、浄化センターから左折しなくてはいけなかったのに直進してしまいました。

地図をみればいいのに・・と思いますが、この雨の中、地図を開くにもどこかで雨宿りしなくてはいけません。(コンビニも見当たらない)

途中で地元の方に聞いてゴール会場まで行きました。2kmぐらい余計に歩きました。

11:33 ゴールしました。

 

この大会初めての参加でしたが、20kmに及ぶ「桜回廊」には、びっくりしました。どこを歩いても満開の桜を見ることができました。

できれば、天気のいい日に「桜回廊」を見てみたいです。またいつか機会があれば参加したいです。

大宮から上野東京ラインで東京へ、東京発14:12の「のぞみ」で博多へ。博多着19:09 大宮から約6時間で帰宅しました。

 


第11回さいたマーチ1日目「見沼田んぼ南ルート14km」(さいたま市大宮区)

2023-03-28 17:48:42 | ウォーキング

3/25~26まで行われた「さいたマーチ・見沼ツーデーウォーク」に参加しました。

この大会今年からJML(ジャパンマーチングリーグ)に加盟になり、初めての参加です。

 

3/25(土) 1日目【見沼田んぼ南ルート14km】(見沼代用水と芝川)

会場は、新都心駅から徒歩8分の「さいたま新都心公園」。駅前には、NTTビルやしまむらの本社ビルがあります。

今日は朝から雨、おまけに風も強く、ポンチョ、シューズカバーをつけてのウォーキングです。

8時過ぎに会場に着きましたが、受付会場は長蛇の列。足元はぬかるんでいるし最悪のコンディションです。

 

 

会場周辺の桜は、満開です。 

 

受付を終わった人から順次スタートします。私たちは8:20にスタートしました。

 

 

コースのタイトルにある「見沼の田んぼ」って何だろう?と思い、検索しました。

見沼たんぼは、東京都心から20~30km圏内に位置しており、約1260haという広大な面積を持つ、首都近郊における貴重な大規模緑地空間です。
さいたま新都心駅や大宮駅などの主要駅から2~3kmという近さにありながら、たんぼや畑、雑木林、河川や見沼代用水によってつくられる田園風景と、 生きものを育む豊かな自然が

現在も残されています。この地域の歴史はとても古く、独特の文化・伝統が継承されていることも特徴の一つです。
首都近郊において、美しい風景と古い歴史を残し、様々な見所がある見沼たんぼは、多くの人を魅了し、親しまれています。

詳しい説明は、こちらへ   見沼たんぼってなに?|見沼たんぼのホームページ (minumatanbo-saitama.jp)

また、この見沼には、総延長20kmを超える「桜回廊」があります。

見沼田んぼの桜回廊は、昭和60年代の行政による「桜並木造成事業」から始まり、さいたま市が誕生してからは、市民や団体、 企業が中心となって「見沼たんぼ桜ロードプロジェクト」に

よる植樹が行われ、現在の「目指せ日本一!サクラサク見沼田んぼプロジェクト」に引き継がれています。 平成29年、多くの方の思いが結実し、「見沼田んぼの桜回廊」は

総延長20kmを越える、桜の下を散策できる日本一の桜回廊となりました。

 

 

見事な桜回廊です。しばし見とれて写真ばかり撮っています。

 

 

見沼代用水」とは、さいたま市の東の方は、昔、あれ地や沼が広がっており、田に水を引くために、今から390年程前、芝川をせき止めるための土手(八丁)が作られ、

広いため井(見沼井)ができていました。

290年ほど前になると、幕府は米を多く作るために、八丁づつみを切り開き、見沼ため井を田に変える計画を立てました。しかし、ため井がなくなると用水にこまる村が多くなるため、

幕府の役人、井澤弥惣兵衛は、ため井の代わりの用水を引くことにしました。これが『見沼代用水』の始まりです。

見沼代用水は、今の行田市で利根川から取水し、八丁づつみまで60キロメートルも流れる長い用水です。弥惣兵衛は、この長い見沼代用水を引く工事を、多くの村人の協力で簡単な

道具だけを使い、わずか5ヶ月で完成させました。弥惣兵衛は、工事の際に次のような工夫をしました。

第1に、水量が多い利根川から水を引きました。そのため、田に水が必要な時期に安心して取水することができました。第2に、見沼代用水の水を星川に合流させて、その川を水路の

一部として使いました。このことにより、工事を早く進めることができました。第3に、他の大きな川と合流するところでは、元荒川の下をくぐる「ふせこし」や綾瀬川の上にといを

渡して流す「かけとい」をつくりました。第4に、見沼田んぼに水が入りやすくするため、見沼代用水を東縁と西縁の2つの用水に分けて、台地の縁を流しました。

そして、見沼田んぼの中央を流れる芝川を排水路として使い、田んぼの排水を流したのです。(農林水産省HPより)

こうして見沼代用水がつくられて、本県有数の水田地帯が生まれました。

 

7kコースのチェックポイント。今日はここで桜祭りが行われるそうですが、この雨ではどうかな・・・・・

 

先へ進みます。桜回廊はまだまだ続きます。

次第に道に雨が溜まってきました。

 

 

 

 

 

14kのチェックポイント。

 

雨は相変わらず降り続けています。シューズカバーを付けているのですが、ソックスが濡れてきました。

チェックポイントを過ぎ、芝川の土手沿いを歩きます。この土手も舗装はしてますが、雨水が溜まり、ホント、田んぼ状態です。また、時折強風が吹き傘が持っていかれそうです。

 

 

 

大道橋を渡り、首都高の方へ向かいます。首都高の高架の下には、「首都高ビオトープ」といって「その地域の様々な生き物たちが暮らす場所」の保全に努めています。

さいたま新都心からわずか1~2kmの場所から広がる見沼田んぼ。その見沼たんぼを横断する首都高埼玉新都心線は自然環境に配慮して整備されています。
延長約1.7km、面積は6.3haにも及びます。このあたりの首都高は高架構造で、その下の空間をうまく利用しながら、植樹や池、湿地、草原といった多様な自然空間がつくられています。
2万本以上の木が植えられています。ビオトープは普段は一般の方の立ち入りは制限されていますが周囲からは木々の生長を見ることができます。
このビオトープは周囲の見沼田んぼの自然と一体化してきておりカワセミやキツネなどの姿も見ることができます。

 

今日は、NPOの会員の方がビオトープの説明をされていました。

 

 

 

障害者交流センターを経て、大原サッカー場へ。ここは、サッカーJ1の浦和レッズがトレーニング場としているところです。

 

11:30 ゴールしました。

 

雨が降らなければ、最高のコースでしたが、雨が憎いです。

今日のGPS

1日目の参加者は、1457人でした。

 

 

 


楽しいウォーク「西鉄天神大牟田線の高架化・駅巡り」(福岡県大野城市~福岡県春日市)

2023-03-23 11:26:40 | ふくおかウォーキング協会

3/22(水)ふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、「西鉄天神大牟田線の高架化・駅巡り」でした。

集合場所は、西鉄下大利駅、参加者30名。

この日は、野球のWBCの決勝戦、日本VSアメリカが8時から行われますので私は、携帯ラジオを持参しての参加です。

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西鉄天神大牟田線の下大利~雑餉隈(ざっしょのくま)間は、1時間のうち、40分間踏切の遮断機が下りた状態のいわば、開かずの踏切で交通渋滞の原因となっていました。

このため、2003年(平成15年)から高架化の工事が始まり、昨年(2022年)8月28日高架化が完成しました。また、雑餉隈駅~春日原駅間には、新駅もできます。

今回の高架化で19の踏切がなくなりました。まだ駅舎などの工事は続行していますが、これも2023年後半には完成するそうです。

今日のウォーキングは、この高架化工事を巡ってみようということです。

9:30下大利駅スタート。

 

高架の下はまだ工事中です。

 

白木原(しらきばる)駅

 

福岡地方は、3/18に開花宣言が出されましたが、桜はまだ2分から3分咲きです。

 

大野城まどかぴあで休憩。

 

 

那珂郡と御笠郡の境界石。那珂郡は、現在の博多区、南区、東区の一部、御笠郡は、現在の筑紫野市、太宰府市の全域、大野城市の一部です。

  

雑餉隈(ざっしょのくま)恵比寿神社。雑餉隈地区は、中世以降、博多宿と二日市宿の中間に位置し、間の宿として栄えていました。

商売繁盛の恵比寿様と防火の神様であり、疫病の侵入を防ぐ塞神でもある愛宕様を勧請しました。

 

ナフコでトイレ休憩

 

 

雑餉隈(ざっしょのくま)駅から銀天町商店街に入ります。福岡の難解地名の一つである「雑餉隈(ざっしょのくま)」は、福岡市ではなく、大野城市雑餉隈町です。

ですが、駅に近い銀天町商店街は、福岡市です。

雑餉隈の地名の由来は、「雑」・・・色々な 、「餉」・・・食 、「隈」・・・川や道の曲がり角、つまり「人をもてなす食や酒がある曲がり角」という意味です。(福岡タウン情報)

 

雑餉隈駅と春日原駅の間には、新駅「桜並木駅」が建設中です。2023年後半には完成予定です。

「桜並木駅」というと、この近くの春町には、約600mの桜並木があります。福岡でも花見のスポットとして有名です。

 

 

桜並木の桜もまだ2分から3分咲きです。

 

 

筑紫通りを通りゴールの春日原駅へ向かいます。途中の「ウエスタン」は、若いころよく通っていました。まだお店があったんですね。

 

11:49 春日原駅にゴールしました。

気になっていたWBCの決勝、日本VSアメリカは、最終回を迎えています。3-2で日本リード。

春日原駅の前でラジオ中継を聞きます。大谷投手が、トラウト選手を三振に仕留め、ゲームセット。14年ぶり3回目の世界一になりました。

日本の「野球」が本場の「ベースボール」を破りました。

MVPは、投打の二刀流で活躍した「大谷選手」が選ばれました。

今夜は、ビールで祝杯をあげます。

プロ野球も来週31日から開幕します。侍ジャパン同様素晴らしいゲームを期待しています。

(個人的には、開幕戦の3試合、見に行く予定です。)

 

 

 


楽しいウォーク「金屑川上流と室見川河畔を歩く」(福岡市早良区)

2023-03-21 15:18:23 | ふくおかウォーキング協会

3/15(水)ふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、「金屑川上流と室見川河畔を歩く」でした。

昨年11月金屑川下流を歩きましたが、今回その続編で上流を歩きます。

金屑川は、油山を源流とする室見川水系の二級河川。尤も「川」になるのは、田隈地区ぐらいからです。

下記の地図を見ても川として明記されているのは「重留地区」あたりからです。

集合場所は、地下鉄賀茂駅そばの「賀茂中央公園」。参加者31名。

コースは、賀茂中央公園スタートし、田隈中公園~重留中央公園~早良体育館~室見川河畔~地下鉄次郎丸駅ゴールの厄11km。

 

9:30スタート

  

 

四箇田団地で休憩

 

休憩後再スタート

  

重留地区に入ります。

重留には、「勧農社跡」があります。勧農社は明治期に日本の農業の進展に寄与した林遠里(はやし えんり)によって1883(明治16)年に設立されました。遠里は画期的な稲作改良法を

考案し、「勧農新書」を著しました。また、農業の技術指導や普及活動で、人材育成を行い全国に派遣し、当時の農業の技術革新に貢献しました。

詳しい動画はこちら   林遠里と勧農社 - YouTube

 

 

コースは、重留中央公園へ

 

休憩後再スタート

 

金屑川から室見川に向かいます。

 

室見川河畔には、土筆が生えていました。

 

12:19 地下鉄次郎丸駅にゴール

 

今日のGPS

 

 

 

 


第36回瀬戸内倉敷ツーデーマーチ2日目「新熊野史跡コース20km」(岡山県倉敷市)

2023-03-20 15:33:53 | ウォーキング

3/12(日)瀬戸内倉敷ツーデーマーチ2日目「新熊野史跡コース20km」

8:30 倉敷市役所スタート。

 

 

新田中学校を通り吉岡川沿いに歩きます。

 

 

粒江小学校が給水所及びトイレ

 

先に進みます。途中、源平藤戸合戦沖激戦地跡の石碑があります。

平安時代末期、全国で起こった源平合戦。倉敷市藤戸は1184年に「藤戸合戦」があった地で、史跡が多く残っています。現在は干拓により陸地となっていますが、当時は海で島が点在して

いました。源氏の佐々木盛綱(ささきもりつな)が馬に乗って海を渡り、平家軍に勝利したことで知られています。

倉敷川はかつて海で、藤戸海峡があった場所。「藤戸合戦」までは海上合戦に慣れた平家軍が児島周辺を支配し、倉敷市粒江のあたりに城郭を構えていました。九州を目指し西へと

攻め進む源氏軍でしたが、舟を持っておらず、源氏と平家は藤戸海峡を挟んで対峙することに。どうしたら戦えるのか・・・頭を抱える源氏軍。
そんな時、源氏の佐々木盛綱は、地元の漁師に馬で対岸まで渡ることができる浅瀬の場所を教えてもらいます。なんと、盛綱は口封じのためにその漁師をその場で殺し、

海に沈めてしまいました。その情報のおかげで、盛綱を筆頭に源氏軍は藤戸海峡を馬で駆け渡り、平家軍の意表を突く形で勝利。
盛綱はその功績を称えられ、備前国の児島の領主となりました。(岡山観光WEBより)

 

  

藤戸寺が20kと10kの分岐点

 

20kコースは、山道を歩きます。

 

 

旧下津井電鉄線跡を通ります。先で県道21号線と合流。

 

第一農協前から歩道橋を渡り、熊野神社を目指します。

 

熊野神社では、郷内(ごうない)の少年野球チームのナインがお出迎えしてくれました。

 

熊野神社が最初のチェックポイント。ここで昨日のTV局のクルーと遭遇。またインタビューを受けました。(3/25に放送だそうです。岡山だけの放映)

西暦634年、役行者(役小角)は茅原(ちはら)の里、奈良県南葛城郡葛城村に生まれ、当時の仏教とは違い、直接、民衆を救い、自分も修行をしていくという宗教観を持っていました。
紀州、熊野大峯の山々で修行を重ね、修験道の開祖となりました。
ところが、役行者が民衆を惑わすという罪で伊豆大島に流され、高弟たちは紀州熊野の十二社権現の御神宝を奉じて瀬戸内海に逃れ、四国九州に浄域を求めた後、児島の柘榴浜に上陸し、
熊野道といわれている山道を通り、大宝元年(701)三月三日、福岡の里と呼ばれていたこの地に鎮座祭典をし、それが、現在の春のお祭り(五月十八・十九日)です。
天平12年(740)、聖武天皇は児島一円を本宮の御神領として寄進しました。現在地に社殿を建立したのが始まりです。
孝謙天皇紀(749-758)には、紀州熊野権現に対して日本第一の称が与えられ、当社もその号を称することになりました。
承久の乱(1221年)に敗れた後鳥羽上皇は、隠岐に配流され、その第四皇子で、鎌倉幕府第四将軍になる候補であった冷泉宮頼仁親王は、この地に配流されました。
また、弟の桜井宮覚仁親王は乱を恐れ、この地に赴任し尊瀧院の住職となりました。公卿山伏といわれる由縁です。
応仁の乱(1469)で開幕となった戦国時代の兵火のため、社殿をことごとく焼失してしまいました。
明応元年(1492年)、社殿は天誉長老により再建されました。国の重要文化財に指定されている第二殿が、その時建立されたものだといわれています。以後、復興を見ますが、次第に
社領は減少し、中国管領大内義興、毛利家父子の守護を受けましたが、児島一円の領地はわずか三ヵ村に減ってしまいます。
西暦1600年代半ば、池田光政公により、吉備津彦神社の大守家から神官が赴任され、祭祀を専らにさせるなど、あつい保護の下に明治に至りました。
慶応4年3月(1868)、神仏分離(神仏判然令)により、現在は、宗教法人熊野神社、宗教法人修験道五流尊瀧院と呼ばれています。
平成15年(2003)9月21日、所有の熊野神社長床拝殿を焼失しましたが、五流尊瀧院の寛大な配慮により、再度、氏子や近在の崇敬者により拝殿が再建されました。(倉敷熊野神社HPより)

 

 

 

熊野神社で休憩し再スタート。林の歩道橋を上ります。下りるとパン屋さんに行列ができています。(店名ラボ・コンパン)

 

 

 

 

2回目のチェックポイントは、天城小学校。

 

少し休憩の後、再スタート。倉敷川沿いに歩きます。ゴールまであと5,5km。

 

ゴールまで戻る所に何も見どころはないかな?と思っていましたら、倉敷川沿いの「いりふねの道」と呼ばれる場所に美しい桜道が見えてきます。
この道には、約1,000本の河津桜が植えられていて倉敷川千本桜と呼ばれています。

 

 

河津桜の下では、お花見をされている方がおられます。

こんなきれいな河津桜並木は初めて見ます。

 

私たちもここでお花見をすることにします。

 

 

 

ゴールまであと1,8km。

 

ゴールの倉敷市役所が見えてきました。

 

12:38 ゴールしました!参加者は、2日間で5167人、すべて事前登録者です。

 

 

 

 


第36回瀬戸内倉敷ツーデーマーチ1日目「連島・水島コース20km」(岡山県倉敷市)

2023-03-19 11:46:45 | ウォーキング

3/11~12まで行われた「第36回瀬戸内倉敷ツーデーマーチ」に参加しました。

この大会4年ぶりの開催で当日申し込みはなく全て事前申し込み。40k、30kのロングコースはなく最高が20kコース。

 

本来ならば、8:00~8:20の間にスタートする予定でしたが、会場に遅れてきてしまい、8:40にスタートしました。

 

 

コースは、県道274号線を連島に向かっていきます。

 

 

厄神社への急坂です。上ると見事な河津桜が迎えてくれました。

  

 

厄神社は、貞観9年(867年)に備後国鞆之津の祇園宮より勧請。須佐之男命を祀り災難防護、産業繁栄、文芸学問向上の神としてその御神徳を仰ぎ、現代にいたれば厄除祈願、

家内交通安全等、また水島地区の企業は会社繁栄、業務安全を願い広く崇敬されています。

 

連島西浦小学校が最初のチェックポイント。

 

豚汁が振舞われました。

 

ここで、KSB瀬戸内放送の方からインタビューを受けました。放映は、3/25(日)10時ぐらいからだそうです。(岡山だけの放送なので見れません)

西浦小学校から箆取(へらとり)神社に向かいます。ここも急坂です。

 

箆取神社(へらとりじんじゃ)は、当社の創建年代は不詳であるが、伝説によれば往古連島は都羅之郷と称し一孤島であり、第40代天武天皇の御代にあった壬申の乱の頃、

鎮座地前面の海上に箆の御神紋が顕れた事に因り、箆取大権現と称した。
また、江戸時代の宝暦年間におては、当地七浦の総鎮守として信仰の中心となり、霊験著しく神恩に浴する者遠近に及び殊に成羽藩主山崎主*之助並に地方権勢家の崇敬厚く、

75社の御眷族(神使)を俗謡にまで唱へられ、尊信する人は遠近に及び霊徳顕著となった。
神社は隆昌を極め、境内は広大で社殿もまた稀有な宮造りと県下一の廻廊を左右に巡らし、境内境外には桜、楓、ツツジが数百本植裁されている。四季の眺めは変化があり、

又絵馬殿からの眺めは水島灘の風光並びに水島工業地帯の展望台として信仰と観光を兼ねた県下稀に見る神社である。(岡山県神社庁より)

境内には、約350本の桜の木があり桜の名所となっています。

 

 

 

県道428号線に出ます。

 

水島臨海鉄道の高架下を左折します。

 

2回目のチェックポイントは、水島寿町公園。

 

チェック後再スタート。高架下から県道274号に出ます。

 

この道は、来るときに通った道です。

今日は、暑くこまめに水分を補給していますが、暑くてたまらずコンビニでガリガリ君を買ってきました。

 

コースは、倉敷市街地に入りました。

 

13:07 ゴールしました。

 

会場内で岐阜のT夫妻と山陰未来ウォークの美人宣伝隊と会いました。

 

 

 

 


京都・せっかくウォーク「長岡天満宮と勝龍寺城を巡るみち」(京都府長岡京市)

2023-03-18 09:25:20 | ウォーキング

3/6(月)京都ツーデーウォークのせっかくウォーク「長岡天満宮と勝龍寺城を巡るみち」10kmに参加しました。

集合場所は、JR長岡京駅。参加者は約100人。

平成7年(1995年)それまでの神足(こうたり)駅から長岡京駅に変更されました。

駅前には、電子部品メーカー「村田製作所」の社屋が建っています。

  

 

実は、私、2014年11月西国街道を歩いたときに長岡京市を歩いています。その時のブログがこちらです。西国街道を歩く(大山崎~京都・東寺)その1 - よっちゃんのおててつないで (goo.ne.jp)

コースは、長岡京駅スタート~長岡天満宮~小倉神社~阪急西山天王山駅~調子馬ノ池公園~恵解山古墳~勝龍寺~勝龍寺城跡公園~長岡京駅ゴールの10km。

10:00 長岡京駅をスタート。

 

マンションの所に「開田城跡の土塁」があります。開田城は西岡衆と呼ばれるこの地域の国衆のひとり、中小路氏の居城です。中小路氏はもともとは開田天満宮(現在の長岡天満宮)の

神官職で、現在に至るまで代々、天満宮の宮司をつとめています。過去におこなわれた発掘調査の結果、一辺約70m程度の方形居館で、周囲には堀と土塁をめぐらせた典型的な構造で

あることがわかっています。現在城址にはマンションが建てられていますが、城の西側と南東隅の土塁が「開田城土塁公園」として復元保存されています。マンションのエントランスに

復元模型が展示されており、誰でも見学可能となっています。

 

八条ヶ池は、長岡天満宮境内の東側に広がる池です。寛永15年(1638年)に当時の領主である八条宮智仁親王が造るように命じた溜め池です。
池の真ん中を分断する中堤は長岡天満宮への参道となっています。中堤中心の太鼓橋は加賀前田 候の寄進と言われています。(京都観光スポットより)

  

長岡天満宮 ご祭神は,学問の神様として有名な菅原道真公です。道真公が太宰府へ左遷される途中,かつて 在原業平らと共に詩歌管弦を楽しんだこの地に立ち寄り,都を振り返って名残を惜しんだ事から 「見返り天神」とも呼ばれています。太宰府にお供した3人が別れ際に戴いた道真公自作の木像を ご神体として祀ったのが長岡天満宮のはじまりと云われています。

 

 

長岡天満宮から小倉神社に向かいます。

長岡京市、向日市、大山崎町は、「乙訓(おとくに)」と呼ばれ、竹林が多い地区です。竹取物語の伝承地ともいわれています。(伝承地は日本で何か所かあります)

京都の長岡京市は孟宗竹伝来の地と言われおり、平安時代には貴族たちに旬のものとしてタケノコを献上していたそうです。土壌は地域特有の粘土質で弱酸性であり、気候は気温の

寒暖差が激しいということで、タケノコが柔らかく大きくなりやすい風土です。

 

小倉神社は、京都御所の裏鬼門神社で718年に創建されました。

 

 

 

西国街道と丹波街道の分岐点「調子八角」で昼食タイム。

 

 

昼食後再スタート

 

国史跡「恵解山(いげのやま)古墳」恵解山古墳は、古墳時代中期に築造された乙訓地域で最大の前方後円墳です。
桂川右岸の標高わずか16メートルの台地端につくられており、全長約128メートル、後円部の直径約78.6メートル、高さ10.4メートル、前方部の幅約 78.6メートル、高さ約7.6メートルと

推定されています。周囲に幅約30メートルの周濠があり、周濠を含めた古墳の全長は約180メートルに及びます。古墳の表面には砂岩やチャートなどの葺石がふかれ、埴輪が並べられて

いました。死者を埋葬した施設は古くから墓地があるため明らかになっていませんが、後円部に竪穴式石室があったとみられます。

鉄刀176、鉄短剣141など鉄製の武器類が多量に出土したことからも、恵解山古墳の埋葬者は5世紀前半頃に桂川以西の乙訓地域全土を治めた有力な豪族だったと推測できます。

 

 

勝龍寺(しょうりゅうじ) 勝運・ぼけ封じのお寺。大同元年(806)に帰朝した弘法大師(空海)が、唐の長安で修業した青龍寺の名をとって創建したと伝わるお寺です。

嵯峨天皇のころ、勅願によって観音堂をはじめとした九十九坊が建てられ、勝龍寺の名が広く知られました。神仏習合の名残から、境内には勝竜寺地区の氏神を祀る「春日神社」が

あります。ぼけ封じのお寺ということですのでしっかりお参りしました。

 

 

勝龍寺から少し歩いたところに「勝龍寺城跡」があります。

 

 

勝龍寺城跡は、元亀2年(1571)に織田信長の意向を受け、細川藤孝により、その後の城郭の標準となる瓦・石垣・天主を備えた、先駆的な城郭として造り替えられたものです。

天正6年(1578)藤孝の子息、忠興と明智光秀の娘、玉(細川ガラシャ)の婚礼が執り行われ、天正10年(1582)には山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れた明智光秀がここへ退却し、

北門から落ち延びたといわれています。

平成4年(1992)に公園として整備、令和元年(2019)には管理棟をリニューアルし、展示内容を一新しました。(京都府観光案内より)

キリスト教の洗礼を受けた玉は、洗礼名を「ガラシャ」としました。ガラシャとは、神の恵みという意味だそうです。

 

 

 

勝龍寺城跡公園で京都ウォーキング協会会長の挨拶がありました。

13:20 長岡京駅へゴールしました。

 

 

 

 


楽しいウォーク「春を感じて」(福岡県古賀市)

2023-03-16 12:24:37 | ふくおかウォーキング協会

3/8(水)ふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、「春を感じて・・」でした。

古賀市筵(むしろ)内ちくにある「菜の花畑」の見学です。6ヘクタールの敷地に約500万本の菜の花が植えられています。

これは、お米の収穫後、田植えまでの無耕作期間を利用して菜の花を植えているそうです。

この時期に行われる「菜の花祭り」も3/5(日)に3年ぶりに開催されました。

集合場所は、JRししぶ駅。参加者34名。

コースは、ししぶ駅スタート~青柳~グリーンパーク~町川原~筵内菜の花畑~古賀市役所~JR古賀駅ゴールの約10kmです。

9:30 ししぶ駅スタート

 

グリーンパークで休憩

 

 

県道35号線を通り、旧唐津街道「青柳宿」に入ります。

 

  

筵内の菜の花畑が見えてきました。

 

 

約500万本の菜の花 見事です。

現在行われているワールドベースボールクラッシックの案山子もあります。

 

 

筵内から古賀市役所へ。古賀市役所で休憩。

 

12:00 JR古賀駅にゴールしました。

 

 

 


京都ツーデーウォーク2023 2日目25kmコース(京都市)

2023-03-16 06:15:48 | ウォーキング

3/5(日)京都ツーデーウォーク2日目25kmコース。

昨日の受付での大渋滞の為、早めに会場に到着しました。準備できた人から順次スタートします。

私たちは、8時過ぎにスタート。

 

 

平安高校、龍谷大学を通りちょっとコースアウトして東本願寺へ。

 

東本願寺前の広場は現在工事中。市道であった車道をつぶし、石畳を敷き詰め既存の緑地広場を拡張してイベントなどに使える広場にする工事です。

広場には、巨大アート「花子」がありました。

 

東本願寺からコースに戻ります。

 

七條大橋を渡ったところで敦賀のFさん夫妻と遭遇。しばらく同行させていただきます。

渋谷街道から上り坂になります。

 

 

東山隧道を通り、大石神社へ。

 

大石神社は、1935年(昭和10)浪曲師吉田奈良丸の提唱に府市が賛同、赤穂義士大石内蔵助良雄を祀るため、大石の山科隠棲所近くに建立。本殿、神饌所、社務所のほか天野屋利兵衛を

祀る義人社もあります。(京都観光ナビ)

 

  

大石神社から川沿いの道を通り、チェックポイントの勧修寺公園へ。しばし休憩の後再スタート。

コースは、阪神高速沿いに歩きます。さてっと、この道は昨年京街道を歩いたときに通りました。あの時は、高速道沿いに何の目印もなくただひたすらに歩きました。

 

仁明天皇陵を過ぎてから伏見稲荷に向かいます。

 

商売繁昌・五穀豊穣の神様として名高い伏見稲荷大社は、全国に約3万社ある稲荷神社の総本宮。711年に秦伊呂具が稲荷山の三力峰に三柱を創祀。逸文には、伊呂具が餅を的にして

矢を射ったところ、その餅が白鳥になって山の峰に飛んでいき、そこに稲が生えたのでイナリの社名になったと伝えられています。(大会マップ説明文より)

そのご利益や歴史的な価値もさることながら、京都観光の代名詞的な撮影スポットになっている朱塗りの鳥居がズラリと連なる「千本鳥居」が有名です。

千本稲荷へ行ってみようかと思いましたが、今日は日曜日で観光客が多く時間がかかりそうなので止めました。外国の方にも人気スポットだそうです。

  

  

 

伏見稲荷から東福寺へ。東福寺にはもう20年ぐらい前でしょうか、紅葉の時期に行ったことがあります。見事な紅葉でした。

東福寺は、臨済宗東福寺派の大本山。九条道家が九条家の菩提寺の創建を願って1239年仏殿を建立。寺名は規模を東大寺に、教行を興福寺にならって、東福寺と付けられました。

 

 

 

京都タワーが見えてきました。

 

東寺が見えてきました。コースは、東寺前を通り、西寺跡でチェックを受け、東寺の中を通ってゴールに向かいます。

 

羅城門跡 794年(延暦13)に建設した平安京の正門。東西4.5キロ、南北5.3キロの京域中央部の南端に羅城門がそびえ、北端の朱雀門と相対していた。門は正面33M、奥行8M。

二重閣瓦屋根造で棟両端に金色の鴟尾を置く。鬼の腕切りなど能・小説・映画「羅生門」で有名。

一緒に歩いていた滋賀のウォーカーさんから京都駅前に羅城門の模型があるといわれ、ゴール後行ってきました。

 

 

唐橋西寺公園(西寺跡)が最後のチェックポイント。

  

チェックポイントから東寺に向かいます。

 

 

東寺といえば、2014年(平成26年)11月、私たち夫婦が山陽道・西国街道を歩いた時のゴール地点です。

あの時は、街道歩きもここでおしまいと思っていたのですが、2年後、三条大橋から日本橋に向かって東海道を歩き始めました。

 

梅小路公園に戻ってきました。

 

13:00 25kコースをゴールしました。

 

 

 

 

 


京都ツーデーウォーク2023 1日目30kmコース(京都市)

2023-03-14 08:38:22 | ウォーキング

3/4~3/5まで行われた「京都ツーデーウォーク2023」に参加しました。

受付が8時からでしたので8時前に会場に着くと既に長蛇の列です。30分待ってようやくスタートです。

 

大宮通から花屋町通を西へ進むと、島原の東入口の「島原大門」が見えてきます。島原の正式な地名は「西新屋敷」ですが、六条三筋町からの移転騒動が島原の乱を思わせたことから

「島原」と呼ばれるようになりました。歌や舞を披露する花街として発展し、和歌や俳壇などの文芸活動も盛んに行われました。幕末には西郷隆盛や新選組らも出入りしていたのだとか。

しかし明治以降になると立地条件の悪さなどが影響して衰退し、現在ではお茶屋の輪違屋さんが営業を続けるのみとなっています。

 

  

 

壬生寺(みぶでら)律宗大本山。991年(正暦2)快賢僧都が創建した。本尊は延命地蔵菩薩を祀る。京都の裏鬼門に当たる場所に位置し、厄除け開運を祈願する節分会は950年余の

歴史がある。鎌倉時代、中興の祖・円覚上人が悪疫駆除のために行った法要が、重要無形民俗文化財・壬生狂言の興り。新選組ゆかりの寺であり、壬生塚には新選組隊士11名を祀っている。

また阿弥陀堂地階では、旧塔頭の諸仏の他、壬生狂言・新選組に関する資料も展示している。
境内には、京都十二薬師霊場第四番礼所本尊「歯薬師如来」と、洛陽三十三所観音霊場第二十八番札所・中院本尊「十一面観音菩薩」も祀っている。(京都観光ナビより)

 

  

壬生寺から二条へ。ここには、立命館大学、佛教大学があります。

 

二条駅の近くには、祖母の本籍地があった所です。

  

妙心寺は、臨済宗妙心寺派の大本山の寺院。この寺院の中を通り抜けます。

 

 

コースは仁和寺(にんなじ)を通り、鳴滝橋で20kコースの分岐になります。

広沢池では、何か珍しい鳥がいるのでしょうか、カメラを持った野鳥愛好家が集まっています。

 

嵐山に入りました。 京都 嵐山 大覚寺と「女ひとり」というの歌に出てくる「大覚寺」。

 

清凉寺は、浄土宗の名刹で嵯峨車釈迦堂の名で知られています。

 

それにしても京都にはお寺が多いですね。お寺の数が日本一だと思っていたのですが、実はお寺の数が多い都道府県は、愛知県です。

京都は、13番目ぐらいです。ただ、大本山とか、総本山などと呼ばれる大きなお寺があるから京都はお寺が多いという印象を受けるのでしょうね。

 

 

嵐山の魅力といえば、この数何本の竹林の「竹林の小径」です。野宮神社から天龍寺北門を通り大河内山荘へ抜ける約400メートルの道。手入れされた竹林が道の両脇に続く、京都を代表する観光名所。平安時代には貴族の別荘地だったと言われており、晴れた日には木漏れ日が心地よく、また太陽のない日は昼でも薄暗くなります。

この日も外国の観光客の方が多く来られていました。

 

  

嵐山の観光地としては、この「渡月橋」も観光客に人気があります。承和年間(834 - 848)に僧道昌によって架橋したのが最初とされており、現在の位置には後年に角倉了以が

架けたとされる。現在使われている橋は昭和9年(1934年)6月に完成したものである。亀山上皇が、橋の上空を移動していく月を眺めて「くまなき月の渡るに似る」と感想を述べたことから

渡月橋と名付けられた。嵐山を代表する観光名所であり、春と秋を中心に多くの観光客で賑わう。(京都観光ナビ)

 

 

渡月橋を渡り、中之島公園で休憩します。持ってきたパンをいただきました。

中之島橋を渡り、阪急嵐山駅がチェックポイント。ここからゴールまであと約13km。

 

松尾大社は、お酒の神様、701年秦氏の祖先が創建しました。

 

梅宮神社は、橘諸兄の母、橘三千代が酒解神、酒解子神(大山祇、木花咲耶姫)を祭り酒造安全と子孫繁栄を祈願した神社。

 

西京極総合運動場近くの京都アクアリーナが2回目のチェックポイント。

 

14:15 スタート地点の梅小路公園に戻ってきました。

ゴールの印をもらおうとしますが、長い行列です。30分かかってやっと印をもらいました。

抽選会場も長い列ができています。長い行列を待ったせいか、家内は御菓子の「八つ橋」が当たりました。私は、残念賞でした。