よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

東海道道草ウォーク№41「平塚宿~藤沢宿」(神奈川県平塚市~藤沢市)

2018-09-29 18:07:57 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

9/18(火) 朝8時宿泊地の藤沢市から前回ゴール地平塚駅へ移動。今日は、平塚から戸塚までの予定。

8:24 今日の東海道歩きスタート。馬入交差点の所に馬入(ばにゅう)一里塚があります。

 

その先が相模川にかかる「馬入橋」です。橋の手前には、「馬入の渡し跡」があります。

  

江戸時代、幕府は大きな河川に橋をかけることを禁止しました。そのため、相模川(馬入川)や多摩川(六郷川)は「渡し舟」、酒匂川は「徒歩渡し」などで渡っていました。

当時、船は須賀村だけで用意していたようですが、元禄五年(1692年)に対岸の柳島村が加わりました。また、渡船額などの情報を掲示する「川高札」は馬入村にありました。

渡し舟には「小舟」と「馬船」がありました。小舟は人を乗せる船で定員二十人ほど、馬船は大型で馬が荷物を積んだまま横向きに乗ることができる船です。

このほかに、将軍や大名用の「御召船(おめしぶね)」などが常時用意されていました。また、将軍の上洛などの大通行があった場合、幕府は「船橋」を架けさせました。(説明文より)

 

茅ヶ崎市に入りました。信隆寺(しんりゅうじ)は、寛永元年(1624)甲斐武田氏の流れを汲む武田信就が先祖の菩提を弔うため創建しました。

 

小出川の所に「旧相模川橋脚」があります。旧相模川橋脚は、大正12(1923)年9月1日の関東大震災と翌年1月の余震によって、水田に橋杭が出現した全国的にもまれな遺跡です。

当時の歴史学者沼田頼輔によって、鎌倉時代の建久9(1198)年に源頼朝の重臣稲毛重成が亡き妻の供養のために架けた橋の橋脚と考証され、大正15(1926)年に国の史跡に指定されました。

平成13年から実施された保存整備に伴う調査では、橋脚についての詳細が確認された他、新たに橋脚の北側から関連する大きな土留め遺構も発見され、19年2月6日に追加指定を受けています。

また、地震によって生じた液状化現象の痕跡も確認された他、橋脚の出現状況は関東大震災の地震状況を残す遺産としても評価され、24年度、史跡指定に加え国の天然記念物としての

指定を受けることになりました。液状化現象としては全国初の国指定になります。(茅ヶ崎市HPより)この橋には、源頼朝が渡り初めをしたあと、落馬したという話もあります。

街道は国道1号線を歩きます。鳥井戸橋の所には、鶴嶺八幡宮の大きな鳥居が建っています。鶴嶺八幡宮は、平安時代後期に、矢畑に源頼朝が創建、その後現在地に遷座したと言われ、

市内最古の神社です。

 

南湖の左富士です。歌川広重で「南湖の松原左不二」として描かれているように、京へ向かう場合の東海道で概ね右側に見える筈の富士山が、鳥井戸橋辺りでは、道の左側に見えるそうです。

私達も振り返って見ますが、この日は、富士山の姿が見えませんでした。

   

茅ヶ崎駅前から少し歩いた所の東海道松林の手前には、「茅ヶ崎の一里塚」があります。信号にも一里塚の標示がありました。

  

藤沢、平塚宿の間で賑わった茅ヶ崎は、四谷、菱沼、南湖の3か所の立場がありました。松林中学校の先には、牡丹餅茶屋跡の碑がありました。

  

街道は藤沢市に入りました。羽鳥交番前の信号の所には、一里塚があります。

  

四ツ谷信号には、不動明と大山道標があります。

  

街道は県道43号線を歩きます。引地川沿いには、水と緑と人との調和を図った「川べりの散歩道」があります。桜並木があり、春には川沿いにきれいな桜の花が咲くでしょうね。

藤沢宿に入りました。藤沢は、江戸時代から遊行寺の参拝や江の島詣、大山詣の足場として大いに栄えた宿場です。本陣1、脇本陣1、旅籠45軒、家数919軒、人口4089人の規模でした。

  

本町公園の所に「義経首洗い井戸」があります。文治5年(1189)奥州平泉で自害した源義経の首は、腰越の浜で首実検されたといわれています。首は、境川を遡り、この井戸で里人により、

洗い清められたと伝えられています。

 

今日は、これから昔のSNSの仲間でした「藤沢のセロリ」さんに逢うことになっています。待ち合わせ場所の「白旗神社」へ向かいます。

白旗神社は、もともとは寒川比古命を祀っていましたが、源義経の霊を弔い、祭神としました。境内には、義経公鎮霊碑がありました。

セロリさんとは、平成25年(2013)4月、下関のはなまりんさん達と会津旅行に行った以来、5年ぶりの再会です。手首を複雑骨折されて手術をされたそうです。

セロリさんと昼食を食べ、藤沢市内を案内していただきました。

 

  

  

貞永元(1232)年創建の永勝寺には、飯盛旅籠屋を営んでいた小松屋源蔵の墓を囲むように、39基の飯盛女の墓が並んでいます。

飯盛女とは、宿場の旅籠屋で給仕をする女性のことで、1軒の旅籠屋につき2人置くことが認められていましたが、遊女としての側面も持ち合わせており、全盛期の藤沢宿には100人近い飯盛女がいた

ではないかといわれています。宿内や他国の貧しい農村出身で、借金の返済などのために働いていた飯盛女は、粗末に扱われており、墓を建てて供養されたというのはとても珍しいそうです。

  

藤沢市市街地には、「昔の藤沢」の写真が飾っています。

  

藤沢橋に来ました。ここでセロリさんとお別れします。12月の東海道ゴールには、お出迎えに来ていただけるそうです。有難うございます。

 

 

これから遊行寺(ゆぎょうじ)に向かいます。遊行寺は、お正月の箱根駅伝でも馴染みの所です。

遊行寺は、正式の名を「清浄光寺」。正中二年(1325)遊行四代呑海上人が、実兄である地頭俣野五郎景平の援助によって、極楽寺という廃寺を再興して、遊行引退後の住まいとしました。

これが藤沢山清浄光院(のちに清浄光寺)となった時宗の総本山です。宗祖一遍上人は念仏を勧める賦算(「南無阿弥陀仏、決定往生六十万人」と記したお礼を配ること)と

信仰の喜びを踊りであらわす踊り念仏で、みなことごとく往生安楽の境地へ至ることができると説いて諸国を遍歴しました。それにならって歴代の上人も遊行を続けたので遊行上人と呼ばれ、

当寺も遊行寺の名で通るようになりました。

  

 

遊行寺の大イチョウは、樹高21m、幹回り710cm樹齢650~700年と言われています。

 

広重の浮世絵東海道53次「藤沢宿」には、遊行寺が描かれています。

                                 (つづく)

            

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿