よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

楽しいウォーク「福間海岸散策」(福岡県福津市)

2022-06-23 18:44:03 | ふくおかウォーキング協会

6/22(水)ふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、「福間海岸散策」でした。

集合場所は、JRししぶ駅。この「ししぶ」は、漢字で書くと「鹿部」ですが、駅名は、ひらがなの「ししぶ」になっています。

参加者は、37人。ストレッチの後、9:30スタート。

コースは、ししぶ駅スタート~花鶴ケ浜公園~福間海浜公園~JR福間駅ゴールの10km。

   

 

  

花鶴川河口には、フグの稚魚が団体で泳いでいました。

 

花鶴川を渡るとすぐ右折します。

 

花鶴川から花鶴ケ浜へ。

 

真ん中にある島(岩)はなんだろう?とカメラのアップで撮りました。クジラの形をした岩でした。ここにも釣り人がいます。

 

砂浜を歩きます。

   

歩いていると「夕陽風景時計」というのがあります。これは、一目で夕日の沈む時刻と方位が分かる時計です。海岸から眺める夕日の美しさを子どもたちにもっと知って欲しいと、2011年の3月に地元ボランティアが設置しました。この海岸は、夕陽のきれいなスポットです。

 

砂浜の先の方が工事中の為、工事の手前から松林に入ります。西鉄宮地岳線の廃線跡を通ります。

 

 

福間海浜公園で休憩

 

休憩後再スタート

 

民家の庭先で珍しい花を発見。「マンデビラ・サンデリ」情熱的な赤の花です。

マンデビラは、キョウチクトウ科チリソケイ属のつる性植物で、中央アメリカからアルゼンチンにかけての熱帯地域に分布しています。

サンデリは、ブラジルのリオデジャネイロ周辺に生息しています。花色は赤、白、ピンクで、開花期は5~10月です。

マンデビラは、耐暑性は強いのですが、寒さには弱く、冬の寒い時期には室内管理が必要です。

 

11:50 JR福間駅にゴールしました。

 

 

 

 


京街道(東海道57次)4日目「枚方宿~光善寺駅」(大阪府枚方市)

2022-06-21 18:36:47 | 京街道(東海道57次)

5/20(金)京街道4日目。今日は、午後から若狭・三方五湖ツーデーマーチ参加の為、街道歩き終了後、福井県敦賀市に移動します。

9:00枚方市駅に到着。駅にある観光案内所で枚方市観光案内のパンフを受け取ります。

先ず最初に行ったのが、「一乗寺」説明文によると、「当山は寺伝によると元は山城の洛北一乗寺村にあった天台宗の寺院で(現在は浄土宗)、現在地が平安京の裏鬼門に当るところから移され、

伝教大師最澄が阿弥陀仏と日吉大神の像を刻し、王城鎮護の寺社と定めた事に始まるという。弘法大師も役行者、弁財天をの2像を安置、天下鎮護の祈祷をしたと伝える。
 1204年(元久元年)法然の高弟で浄土宗鎮西派の祖聖光房弁長が、南海地方に念仏行脚に出る途中風雨を避けて当寺に留錫し、六字名号を残した。これが寺宝の『名残りの名号』であると

伝える。応仁の乱の戦火で寺は焼失するが、枚方城主の本多政康が1600年(慶長5年)本堂及び日吉神社を再建。知恩院の雄譽雲厳を請じ開堂供養し、その高弟光譽素覚を中興開山とした。
 一乗寺の大檀那であった本多氏は百済王氏の末裔を称し、豊臣秀吉に仕えたが、大坂夏の陣のとき、徳川方に攻められ、枚方城は落城、政康は戦死し、本多氏は没落した。
 寺社は徳川氏に没収されたが、その後本多氏遺臣の尽力で復興されるも、往時の勢いは失われた。
なお、政康の娘(乙御前:おとごぜん)が秀吉の愛妾であった関係で、当寺には豊臣家ゆかりの品が伝わっているとのことである。」

また、この寺には、「鈴見の松」という鶴の恩返しの伝説があります。鈴見の松の伝説はこちらです。→枚方の民話 第1話『鈴見の松と別子山の物語』 | 枚方南支部 WP (shoai.ne.jp)

 

一乗寺から万年寺山を登り、「御茶屋御殿」に向かいます。

御茶屋御殿は、案内板によると

京・大阪間を結ぶ交通の大動脈、淀川と京街道を見下ろすこの地に豊臣秀吉が御茶屋御殿を建てたのは文禄3年(1596)のことです。三矢村に残る記録から秀吉が「御茶屋」を当地に建てたことが確認できます。伝承では、秀吉の家臣である枚方城主本多内善正政康の娘「乙御前」をここに住まわせたとも言われています。

 京都伏見と大阪に拠点を置いた秀吉は、この間しばしば行き来していました。中間にあたる、ここ枚方の地にも立ち寄ったことでしょう。文禄5年(1596)の淀川堤防修築に際しては、対岸の大塚から枚方の工事の様子を上機嫌で眺めたとの話も残っています。

 江戸時代に入ると、御茶屋御殿は幕府公用の施設となりました。元和9年(1623)には2代将軍徳川秀忠が、寛永9年(1626)には3代将軍家光が逗留したと記録に残されています。家光来訪の際には、秀吉が建てた「台茶殿」の脇に桁行5間、梁行3間の御殿が新築されました。「河内鑑名所記」には、桧皮葺と思われる三棟の建物が描かれている。

 その後は利用されることもなく、「大茶殿」は承応3年(1654)老朽化により解体され、新築御殿がその用材の収納庫にあてられていました。しかし、延宝7年(1679)7月1日に起った火事によって新築御殿もろとも全焼し、以後再建されることはありませんでした。

  

 

 

御茶屋御殿跡を下りてくると「移ろいの座」というのがありました。「台座の中央に刻まれた溝は夏至の日のお日様の通り道です。太陽のエネルギーが最も力強く感じられる夏至の日は季節の指標として 古来重要視され人々が集うイベントの日でもありました。『移ろいの座』は、その故事に因み、癒しの里にも市民が集い、プロジェクトの活動が世代を超え継承されていくようにとの

願いを込めています。」

 

京街道に戻ってきました。

  

京街道から「淀川資料館」に向かいます。説明文では、古代、大阪のほとんどは海でした。長い年月をかけて、琵琶湖から注がれる淀の流れが土砂を運び、大阪の地を作ったのです。

歴史の中で、幾度も姿形を変えていった淀川。理由の半分は、自然の猛威の歴史。そしてもう半分は、人と淀川との闘いの歴史です。
淀川資料館には、淀川と対峙し、歴史と文化を築いてきた人々が残した、貴重な本物の資料があるのです。ここへ来て、彼らの足跡に思いを馳せれば知られざる淀川の歴史に一歩近づくことが

できるはずです。

館内には、淀川の歴史、淀川の工事に尽力された方々の資料などが展示されています。

 

  

船番所跡は、江戸時代中期以降、三十石には、「過書船」と「伏見船」の2つがあり、それぞれの番所があり、乗客や荷物をチェックしました。

通行手形を持つ特権川船のことを過書船と称し、享保初年(1716)には、乗客を主とした30石船671艘、貨物運送を主とした20石船507艘が、大阪と京・伏見の間を航行していました。

 一方、過書船の営業独占に対抗して、元禄11年(1698)に伏見船の営業が認められたため、両者は、激しく競合しました。泥町村には、過書船・伏見船の船番所がそれぞれ設置され、

淀川を上下する船を監視しました。

 30石船は船頭4人、乗客定員28人で伏見から大阪への下りは半日か半夜、上りは、竿をさしたり、綱を曳き上げるため、1日か1晩を要しました。

 船客相手に飲食物を商う煮売茶舟(にうりちゃぶね)は、「餅くらわんか、酒くらわんか」という売り言葉から俗に「くらわんか舟」と呼ばれました。

昔から、淀川は大阪と京都を結ぶ交通の大動脈として、多くの舟が上下していましたが、大阪夏の陣(1615)の時に徳川方に協力した功によって、淀川を上下する舟に、食物を売る特権を与えられたのがくらわんか舟で、後に地の利によって、枚方の方が繁栄したようです。

発祥の地は、高槻市桂本といわれ、「柱本茶船記録」に書き残されています。1615年の夏の陣で徳川方に協力した報奨として、兵量輸送地であった高槻市桂本に、徳川幕府から商い船の特権が

付与されました。その桂本の淀川堤防上には、くらわんか舟発祥の地としての碑が建てられています。

尚、「江戸っ子だってね、食いねえ寿司くいねえ」のセリフで有名な廣澤虎造の浪曲「森の石松三十石船」は、この三十石船を題材にしています。

西見附は、枚方宿の西側にあります。江戸へ向かう参勤交代の大名が通る時は、まずここに一報が届きました。

 

西見附から先に進みます。このあたり国道170号線と府道13号線が交差しており迷路みたいになっています。地図では「枚方大橋南詰」になっているのですが、この南詰の信号が

わからない。近くの人に聞いてやっとわかりました。

 

国道と府道が交差する前の橋から「水面廻廊」を通っていけばよかったのに・・・・

水面廻廊とは、昭和初期に農業用水路として造られたもので、寝屋川市界まで2.8kmの長さがあります。

枚方市では、この水路を出口雨水幹線として改修するのを機会に、豊かなうるおいのある街づくりの一環として、「水面回廊」と名付けて、地域の状況に応じた整備を進め、

水に親しめ安らぎのある水辺空間を創造していきます。枚方市の桜の名所にもなっています。   

   

伊加賀小学校を通り、「光善寺」へ。

出口御坊光善寺(でぐちごぼうこうぜんじ)は、蓮如上人開基の寺であります。
 文明七年(1475)八月二十一日に福井県の吉崎を退去され舟にて小浜に着かれ、丹波・摂津を抜けて九月五日に河内国茨田郡中振の郷出口村に移られました。御厨石見入道光善が草庵を建ててお迎えされました。出口は京都と大阪の中間地点で淀川の南岸に接し、水陸交通の便利な土地柄でした。当時この地には二丁四方(一万四千四百坪)の大きな池があり、それを埋め立てて諸堂を建立されましたので、山号を淵埋山(えんまいざん)と名づけられました。
 その池は今も小さく残され、石川丈山作という光善寺庭園の一部となっています。
 また池の周囲には梓(はり)の木「現在の植物名-さいかち」がよく茂っていましたので、人びとは光善寺のことを「梓原堂(しんげんどう)」とも呼んでいたと伝えられています。今も光善寺庭園の片隅に梓の大木が残っていて、大阪府の天然記念物に指定されています。
 池に面した書院は五百二十数年前の蓮如上人ご在住当時の姿で残されています。石川丈山は、この書院を萬象亭と名づけました。当時は池のすぐそばを淀川が流れていて、三十石船の上り下りする情景や彼方に見える天王山の風景を借景に取り入れた風流な眺めでしたが、今は淀川の堤防が五百米以上も西へ移り、その風情は昔話となりました。
 天文三年(1534)火災にあい、一時は淀川の向こう側の摂津国島下郡鳥飼や、河内国茨田郡大場等に移転していましたが、慶長年間に再び出口に還って再建されました。
 現在は敷地約三千坪で、本堂は約三百六十年前の建設になるものです。間口は十一間、奥行は八間の大きさです。(光善寺HPより)

 

光善寺から再スタート。このあたりの地図は用意していますが、目印がなく、今、自分がどこにいるかわからなくなりました。

番地を頼りに歩きますが、番地が書いてある所と書いてない所があり、この道で合っているかどうか不安でした。

蓮如上人御田地、腰掛石・・・福井県吉崎から蓮如上人が最初に身を寄せられた「箕屋」があった所です。上人は、このこの石に腰掛けて説教されたそうです。

御田地とは、お上から預かった田畑ですが、ここでは説教の場所です。

 

蹉跎(さだ)神社の御旅所があります。蹉跎神社は、ここから約1、5km先にあります。

延喜元年(901)菅原道真が大宰府へ左遷される途中、山の上で休憩し、都の方を望んで名残を措しんだ。その場所を「菅相塚」という(現寝屋川市菅相塚町)。

その後を娘の苅屋姫が追いかけたが、あと少しの所で間に合わず、足摺り(=蹉跎)して嘆いたという。ここから、その山を「蹉跎山」と呼ぶようになった。大宰府でその話を聴いた道真は、

三尺二寸の自身の木像を作って娘に送ったという。天歴5年(951年)、蹉跎山に社殿を造営して木像を祀り、近隣25箇村の産土神としたのが当社の始まりと社伝に伝える。(Wikipediaより)

 

  

時刻も12時半を廻りました。今日は、若狭・三方五湖ツーデーマーチ参加の為、大阪発14時半ぐらいの特急を予約していますので今回は、ここまでとします。

次回こそ、大阪・高麗橋迄完歩したいと思っています。

 

 


京街道(東海道57次)を歩く3日目(その2)「御殿山~枚方宿」(大阪府枚方市)

2022-06-18 07:43:59 | 京街道(東海道57次)

(前回号より続き) 御殿山から街道に戻ってきます。

カササギ橋の所には、枚方なぎさ高校、関西医科大学があります。

 

天の川に架かる「鵲(かささぎ)橋」を渡ります。天の川、カササギ・・・・何か七夕伝説みたいですね。

枚方市から交野市にかけての一帯には、七夕伝説が今も残されています。橋のモニュメントには、カササギが飛ぶ姿をモチーフにしています。

鵲(かささぎ)橋は、七夕の夜、彦星と織姫が会う時、カササギが翼を並べて天の川に渡すという想像上の橋のことです。男女の契りの橋渡しにも使われます。

大伴家持の百人一首「鵲の渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける

意味は、七夕の日、牽牛と織姫を逢わせるために鵲が翼を連ねて渡したという橋ーー天の川にちらばる霜のようにさえざえとした星の群れの白さを見ていると、

夜もふけたのだなあと感じてしまうよ。

カササギは、九州北部(特に佐賀県)でよく観察されます。実際我が家の家の前の電柱に巣を作っていました。北部九州では、別名「カチガラス」とも呼んでいます。

 

  

 

天の川を渡り左折すると「枚方宿東見附」です。

 

 

枚方宿(東海道五十六次)の規模の大きさは、京街道の中でも屈指で東見附から西見附まで約1,5kmに及びます。淀川を進む三十石船の乗客に対して、「餅くらわんか、酒くらわんか」と

売りつけに来た小舟は、「くらわんか舟」と呼ばれこの辺りで発展しました。宿の規模は、人口1549人、家数378軒、本陣1,旅籠69軒、でした。

話は、それますが、私、学校を卒業して最初に配属されたのが大阪でした。寮は枚岡(ひらおか)にあり、何も知らない私は、「まいおか」と呼んでいました。(笑)

これと同じ「枚方(ひらかた)」のことを「まいかた」と呼んでいました。「枚」を「ひら」と呼ぶなんて20歳そこそこの私には初めての経験でした。

ここに「枚方」の地名の由来を調べてみました。はっきりとしたことは、わからないということでしたが、候補として、①枚方=「比攞哿駄」説 日本書紀継体天皇24年10月の条に

「比攞哿駄(ひらかた)や笛の吹き上がる近江のや毛野の若子笛吹きあがる」とあり、比攞哿駄が枚方になった説。

②平潟説 河内湖にそそいでいた為、あちこちに潟が入り組んでいた。潟の周囲は平らな入江。③白肩説 神武天皇東征で近畿への上陸地点が白肩之津であった。

話を戻します。

小野平右衛門邸・・・屋号八幡屋。醤油業を営む豪商で岡新町村の年寄・問屋役人を務めました。揚げ見世などが残る幕末期の建物。

 

旧枚方の町は、岡新町、岡、三矢、泥町に分かれていました。

 

枚方橋 現在は暗渠となっていますが、かってここには安居川(中川)が流れていました。江戸時代の枚方宿は、南北2つの「枚方ノ橋」があり、明治時代以降、北の橋は鵲橋、南の橋は枚方橋

と呼ばれるようになりました。現在も「枚方橋」と刻まれた欄干の一部が残っています。

  

宗左の辻 枚方宿は遊郭も栄えたようで「送りましようか、送られましょうか、せめて宗左の辻までも」と詠われ遊郭から客が帰るときに遊女が宗佐の辻まで見送ったそうです。

宗左とは、江戸時代製油業を営んでいた角野宗左(かどのそうざ)のことで、宗左が住んでいた辻は、京街道と磐船街道の分岐点になっていました。

現在の宗佐の辻には京街道と磐船街道の追分を示す文政9年(1826年)建立の追分道標があり、正面に「右大坂みち」、側面に「願主大阪」とあり和泉屋、近江屋、錦屋、小豆嶋屋と、

刻まれています。

  

ビオルネの所に来ました。ここが枚方で一番の繁華街かな?ビオルネは、フランス語のVIE ORNE(生活を彩る)という意味でショッピングセンターとマンションの複合施設です。

枚方は、東海道五十六番目の宿場ということで第2日曜日には、五六市が開かれるそうです。

  

旧岡村に入ります。この地域には、古い商家や旧家が残っています。京街道を山科から歩いてきましたが、このような旧街道の姿は、初めて見ました。

それだけ枚方市が保存に力を入れていることでしょうね。

  

旧街道の中に「常夜灯」がありました。嘉永7年(1854)、能勢妙見宮に枚方宿の安全を祈願しました。「妙見宮」、「天下泰平」、「驛内安全」と記されています。

  

ここから旧三矢村に入ります。高札場は、幕府のお触書などを人々に知らせるための掲示板みたいなものです。この場所は札の辻と呼ばれていました。

  

三矢公園の中にあるのが枚方宿本陣跡です。江戸時代初期は、宇野新右衛門が、享保2年から明治初期までは、池尻善兵衛が経営していました。天保5年(1785)枚方宿が幕府に提出した

書類によると間口20間、奥行き約24間の敷地に建坪215坪の立派な建物がたっていたようです。

枚方宿の常連は、紀州候(6代藩主宗直から。八代将軍吉宗も紀州藩主時代にはここに宿泊しました)、大阪加番大名、長崎奉行、松江藩、高松藩、岸和田藩などです。

慶応4年(1868)1月、鳥羽・伏見での敗北によって幕府の影響力は衰えます。すかさず3月に明治新政府は、明治天皇の大坂行業を企て、この本陣が休息所にあてられました。

明治3年(1870)に本陣は廃止されます。明治21年(1888)7月には、浄念寺にあった茨田、交野、讃良郡役所がここに移ってきました。明治29年統廃合により北河内郡役所になりました。

  

  

 

明治30年代の浄念寺前の写真ですが、建物は変わっていますが、道幅は明治時代と同じですね。

  

旧木南邸 屋号「田葉粉屋」庄屋と問屋役人を兼ねた木南家の屋敷。虫籠窓や出格子の伝統的町家で敷地内に4棟の土蔵があります。

 

 

鍵屋:江戸時代、淀川往来の船を待つことができる宿「船待ち宿」を営んでいたのが「鍵屋」です。「鍵屋浦には碇はいらぬ、三味や太鼓で船とめる」と歌われました。

近代以降、「鍵屋」は、料亭、料理旅館として平成9年(1997)まで営業を続けていました。

 

鍵屋の本館は、市立枚方宿鍵屋資料館です。入館料200円を払い館内へ。

 

くらわんか舟

 

朝鮮通信使や琉球使節もこの淀川を通行しました。

享保の象は享保14年(1729)長崎を出発し、4月24日にここ枚方宿に宿泊しました。象を安全に通行させるため、道筋にはさまざまな御触れが出されました。

●川越え 馬が渡れる程度の川は、象も歩いて渡れるので浅瀬を案内すること。歩いて渡れない川は、船を用意すること。

●坂道 雨天の場合、坂道には、滑らないように砂をまくこと。

●路面 石の多い所は取り除くこと。●牛馬犬猫 象が驚いて暴れるので道路から遠ざけておくこと。

●看板提灯 道路の障害物は撤去すること。●見物人 近寄らず騒がないよう注意すること。

当番になった宿は、大変だったでしょうね。

 

 

 

枚方には、私の従妹が住んでいます。連絡すると迎えに来てくれ、従妹の自宅にお邪魔しました。3年ぶりの再会でした。

この日の残りの日程は、明日に持ち越しました。

 

 


楽しいウォーク「百道浜~愛宕浜散策」(福岡市中央区~早良区~西区)

2022-06-17 05:55:06 | ふくおかウォーキング協会

6/15(水)ふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、「百道浜(ももちはま)~愛宕浜散策」でした。

集合場所は、福岡ペイペイドーム横の地行(じぎょう)中央公園。参加者は33名でした。

コースは、地行中央公園スタートして百道浜~百道中央公園~愛宕大橋~愛宕浜~愛宕中央公園~愛宕浜緑道~愛宕大橋~金屑川河畔~地下鉄藤崎駅ゴールの約10km。

 

9:30 ウォーキング開始。ペイペイドームはソフトバンクホークスの本拠地。先週まで交流戦が行われていました。

 

百道浜

 

 

サザエさん通りに来ました。漫画「サザエさん」の作者であり、1992年(平成4年)漫画家として初めて国民栄誉賞を受賞された長谷川町子さんゆかりの地として、命名されました。
長谷川町子さんが、昭和20 年頃に百道の海岸を散歩しながら、国民的人気漫画「サザエさん」の登場人物サザエ、カツオ、ワカメなどの名前を発案しました。
「サザエさん通り」の中程に位置する磯野広場には、「サザエさん発案の地記念碑」があります。

  

  

サザエさん通りを歩いていきます。

  

愛宕大橋を渡り右折します。ここから西区に入ります。この辺りは、夜景の名所として知られています。

  

室見川河口には、魚釣りをされている方がおられます。我々が通りかかった時、魚が釣れました。大きなサイズのチヌ(クロダイ)です。

釣れた時点でみんなで拍手しました。(笑)

 

愛宕浜の松林に入ります。

 

 

市立福岡女子高校です。私が高校時代は、赤坂に校舎があったのですが、平成7年(1995)に愛宕浜に移転してきました。

愛宕浜中央公園で休憩。

 

休憩後再スタート。

  

来るときに通った愛宕大橋を渡ります。渡るとすぐ右折、ここは、室見川と金屑川の合流地です。

 

早良口交差点を過ぎ、藤崎バスターミナル(藤崎駅)にゴールしました。

 

本日のGPSです。

 

 

 


京街道(東海道57次)を歩く3日目(その1)「石清水八幡宮~御殿山」(京都府八幡市~大阪府枚方市)

2022-06-15 13:55:51 | 京街道(東海道57次)

(前日からの続き)石清水八幡宮駅からケーブルに乗り石清水八幡宮に向かいます。石清水八幡宮は、男山の山頂に位置しています。

 

ケーブルを下り山道を歩きます。

  

男山山上の石清水八幡宮境内にエジソン記念碑が建てられています。これは、発明王トーマス・アルバ・エジソンが八幡の竹を使って白熱電球の実用化に成功したことを記念し、建立されたもの

です。エジソンは白熱電球の点灯時間を飛躍的に延ばすため、動物の爪や植物の繊維など、ありとあらゆる材料を使って実験を繰り返していました。その材料は6,000種を数えたといわれています。

そんな折り、研究室にあった扇に使われていた竹を使って実験すると、思いのほか良い結果を得られたため、世界各国に最良の竹を求めることになりました。
明治13年(1880)夏、エジソンの特命を受け、日本にやって来た助手のウィリアム・H・ムーアは、2代京都府知事の槙村正直から「竹なら八幡か嵯峨野がいい」と紹介され、ムーアによって

男山付近で採取された真竹がエジソンの元へ送られました。結果は驚くべきもので、約1,000時間も明かりを灯し続けました。
以来、男山の竹はセルロースのフィラメントにとってかわる1894年までの約10年間、「八幡竹(はちまんだけ)」の名で、エジソン電灯会社に輸出され、何百万個の馬蹄型フィラメントの

白熱電球が作られ、全世界に明かりを灯し続けました。最初のエジソン記念碑は1934(昭和9年)に石清水八幡宮境内に建立されましたが、1958年(昭和33年)に現在の場所に移転され、

1984年(昭和59年)にはデザインを一新し再建されました。

 

 

石清水八幡宮は、貞観元年(859)に奈良の大安寺の僧であった行教が宇佐八幡(大分県)のお告げを受けて平安京の裏鬼門 男山に勧請したのに始まる。

平将門・藤原純友による承平天慶の乱(935 〜 941)の際、朝廷からの勅使が当社へ祈願したところ速やかに平定されたことから国家鎮護の信仰を集めた。

皇室からの崇敬が篤く伊勢神宮に次ぐ国家第二位の宗廟に位置づけられ、天元二年(979)の円融天皇に始まる歴代天皇の行幸は現在に至るまで200回以上を数える。

弓矢の神、戦勝の神として源氏の氏神となったことから武家からも信仰され、織田信長、豊臣秀吉・秀頼も社殿や回廊の修復、再建に尽力している。

現在の本殿も徳川家光によって建てられたもの。

明治維新が始まると官幣大社に列せられ男山八幡宮に改称されたが、由緒ある「石清水」の号を守るべく大正七年(1918)に石清水八幡宮となった。

この「石清水」は境内の石清水社で湧出する冬に凍らず夏に枯れることがない霊泉に由来し、当社創建以前に遡る長い歴史をもつ。

宇佐八幡宮、石清水八幡宮、筥崎八幡宮(福岡県)が日本三大八幡です。※最近は、三大八幡に筥崎宮の代わりに鶴岡八幡宮(神奈川県)を入れる方もありますが、

創建は、筥崎宮が延喜21年(921年)創建、鶴岡宮が治承4年(1180年)創建ですので筥崎宮の方が古いです。

 

折角ですのでご朱印をいただきました。

 

帰りは、ケーブルを利用せず歩いて下ります。展望台の所には、谷崎潤一郎の文学碑があります。

 

展望台からの眺めです。木津川、宇治川、桂川の三川合流が見れます。

私が5年ぐらい前西国街道を歩き、途中天王山に登った時もこの三川合流が見られました。

5月19日(木)京街道3日目。大阪駅から京阪電鉄を利用し石清水八幡宮駅には、9:20到着。ここから枚方宿に向け歩き始めます。

やわた走井餅は、大津宿にも描かれた大津名物走井餅は、明治43年(1910)6代井口市郎右衛門の四男嘉四郎によって名水で名高い石清水の麓へ引き継がれ石清水八幡宮のお参りに欠かせない

やわた名物と言われています。

 

5月19日(木)大阪駅から京阪電車に乗り継いで前日ゴールの石清水八幡宮駅に着きました。今日はここから枚方宿を目指して歩きます。

9:30スタート

 

しばらく歩くと「二宮忠八飛行器工作所跡」の看板があります。二宮忠八は、「飛行原理」を世界の誰よりも早く発見しました。彼の「玉虫型飛行器」の製作を始めた場所がこの地です。

明治22年(1889)烏の翼さばきを見て「飛行原理」を発見。明治24年(1891)烏型飛行機の飛行実験に成功。明治26年(1893)「玉虫型飛行機」の模型を完成。

明治33年(1900)石油発動機があった精米所の当地を買い取り飛行器製作を開始。この付近の木津川には広い砂原があり、飛行機の完成時に試験飛行を予定していました。

明治36年(1903)アメリカのライト兄弟による有人飛行実験の成功を知り、製作を断念しました。

若し、ライト兄弟より先に飛行実験に成功していたら全世界に名が知れ渡っていたでしょうね。彼は大正4年(1915)に航空安全と航空業界の発展を祈願し飛行神社を創建しました。

  

橋本駅周辺に来ると、渡し場の道標があります。

  

橋本駅の近くには、古い民家が立ち並んでいます。ちょっと怪しげな佇まいです。

橋本は、淀宿と枚方宿の中間に位置。橋本の名前は、日本三古橋の1つで、行基が725年(神亀2年)に淀川に架けた山崎橋(山城国山﨑〜橋本間)の最寄りであったことに由来します。

元々、橋本は石清水八幡宮の参拝者が宿泊する場所として賑わっていました。江戸時代(1619年)に京街道の宿場が整備されてからは、淀宿と枚方宿の中間にある宿場として栄えたとのこと。

明治10年(1877)橋本に遊郭が設置されます。昭和5年(1930)に刊行された「全国遊郭案内」では、橋本遊郭が「八幡町遊郭」として次のように紹介されています。

「夜間の不夜城、川岸に弦歌のさんざめくあたりは、実に別世界の感じがある」という表現から遊郭として栄えていた当時の様子が伝わってきます。(千里ニュータウンスケッチより抜粋)

  

マップを見ると、大阪府と京都府の境界がこのあたりですが、看板もありません。勝手にスーパーマツモト付近と決めつけました。

 

街道は、大阪府枚方市に入りました。歩いていると「国史跡楠葉(くずは)台場跡」が見えてきます。

 

①楠葉台場は、京都守護職を務めた会津藩松平容保の建白により江戸幕府が築造し、慶応元年(1865)に完成した砲台場です。「河州交野郡楠葉村開門絵図一分計」という設計図によると、

台場南正面(大坂側)は、西洋の築城様式である「稜堡(りょうほ)式」が採用され、3基の砲台や高い土塁、深い堀などが設けられました。河川台場としては、日本で唯一遺構が残っている

ことなどから平成23年(2011)国の史跡に指定されました。➁造られた目的は、幕末期、開国を求める異国船が大阪湾にも入ってきたので、淀川を遡り京都へ侵入するのを防ぐために築造

されたとされていますが、京都と大坂を結ぶ京街道のルートを曲げて台場内部を通過させていることから実際は、関所として尊王攘夷派らの京都侵入を取締ることにありました。

➂楠葉台場移り変り 慶応4年(1868)1月、大阪城から京都に向けて進軍した旧幕府軍は、鳥羽・伏見で新政府軍と衝突し戦闘が始まりましたが、旧幕府軍は、後退を続け、戦線を立て直す

ために橋本陣屋(八幡市)と楠葉台場に集結します。そこへ新政府軍に寝返った津藩(藤堂家)が淀川対岸の高浜から砲撃を加えたため、旧幕府軍も対戦したののの退路を断たれることを恐れ、

大坂へ落ち延びていきました。その後、台場は新政府軍が接収、跡地は民間へ売り渡され、明治末期には完全に姿を消したようです。

 

戊辰役橋本砲台跡の石碑は、京都の呉服商だった三宅清治郎が、父の安兵衛の遺志に基づき、昭和3年(1928)に建てたものをこの地に移設しています。

幕末期京都から見ると陣屋のあった橋本集落の南に台場があったことから「橋本台場」と呼ばれていました。

 

  

樟葉駅のくずはモールに来ました。ここで休憩します。ちょっとここで気づきましたが、駅名は「樟葉」で町の名は「楠葉」。

調べてみると枚方市と合併する前は、樟葉でした。合併後、楠葉が使われるようになりました。駅名は、樟葉村時代からですのでそのまま樟葉駅です。

  

  

休憩後再スタート。樟葉駅の裏側を歩きます。

 

 

楠葉橋を渡りすぐ左折します。牧野駅の踏切を渡り穂谷川沿いに歩きます。

前島街道の道標があります。前島街道は、京街道と高槻、西国街道を結びます。前島の渡し場跡は、牧野駅西側の淀川の堤防にあり、高槻の渡し場は前島町にあります。

  

阪今池公園の手前から右折しなくてはいけなかったのですが、間違えて直進しました。しばらくして間違っていることに気づき引き返します。

 

民家の庭先には、ブリキで作ったカエルがありました。何に使われるのでしょうか?

 

「三栗」という交差点で府道13号線に合流します。この「三栗」は、「めぐり」と呼ぶそうです。

三栗の先のスーパーで休憩します。あまりお腹はすいてはいませんが、スーパーでサンドウィッチを買いました。

 

休憩後再スタート。踏切を渡った所に「渚院跡」があります。説明文を見ると、

渚院は惟喬親王(844~897)の別荘だとされています。
惟喬親王は文徳天皇(850~858在位)の第一皇子でしたが、立太子争いにやぶれ憂いをはらはすため、しばしば渚の院に来たようです。
【伊勢物語】には親王一行が交野ヶ原に遊猟にかたものの、渚の院で観桜や酒宴に興じ、歌を詠むばかりであったと記してあります。
『世の中にたえて桜のなかりせは春の心はのどけからまし』業平
この歌はこの時同行した在原業平が『渚の桜ことにおもしろし』と詠んだものですが、失意のうちにあって『のどか』でない惟喬親王の心境が詠みこまれていると解釈されています。
渚の院跡には、観音寺が建立され十一面観音を本尊としていましたが、明治初年の神仏分離により廃寺となり、本尊は渚の西福寺に移されました。
今に残る梵鐘は寛政8年(1796)の鋳造で、河内鋳物師として著名であった枚方村金屋田中家信の作です

  

下記写真は、御殿山です。御殿山の由来は、中世の渚城からその跡地に江戸初期に領主永井伊賀守がここに陣屋を構えたことによるそうです。

登ってみようかとも思いましたが、先を考え写真だけにしました。

 

枚方市まであと少しなんですが、私のGPSのバッテリーがなくなり、今回はここまでとします。

 


サタデーウォーク「小戸公園散策」(福岡市西区)

2022-06-13 10:16:04 | ふくおかウォーキング協会

6/11(土)ふくおかウォーキング協会サタデーウォークは、「小戸(おど)公園散策」でした。

今日は、朝から雨模様。この雨で北部九州は梅雨入りになるかもしれません。

集合場所は、JR下山門(しもやまと)駅、参加者は22名。雨の為参加者が少ないかな・・・・

9:30スタート。

 

生の松原へ入ります。この生の松原は、神功皇后が新羅遠征の際、松の枝を逆さに挿して戦勝を祈ったところ、松の枝が根付き生き返ったという逆松の伝承があります。

私が子供の頃は、ここに生の松原海水浴場がありました。

 

生の松原海岸からの眺望。天気が良ければ絶景ポイントなんですが・・・・

 

生の松原にも元寇防塁が復元されています。

蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)には、この地区を担当した肥後(熊本)の竹崎李長一行が石塁と共に戦ったのが描かれています。

 

 

 

博多織工芸館で休憩の後、小戸(おど)公園に入ります。

 

 

全国の神社の神主さんがお祓いの決まり文句に

「筑紫の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小戸の阿波岐原でイザナギの大神が禊祓いをされた時に生まれた大神たちよ。いろいろな災難や罪や穢れを祓ってください、清めて下さい。」

黄泉国より帰還した伊耶那岐命(みそぎの場面では「伊耶那伎大神」と表記される)が、自らの体についていた黄泉国の穢れを洗い清めるためにみそぎを行った地。このみそぎによって、

いわゆる住吉三神の「底筒之男命」「中筒之男命」「上筒之男命」や、阿曇氏の祖神である「底津綿津見神」「中津綿津見神」「上津綿津見神」などが成り、最後に「天照大御神」「月読命」

「須佐之男命」の三貴子が生まれた。

天照大御神の生誕地説は、宮崎県が有力ですが、ここ福岡の小戸も候補の一つです。筑紫=北部九州、日向=糸島市と福岡市の市境にある日向峠、小戸=小戸の意味は水の流れが狭った所、

また、神功皇后が三韓征伐からご帰還の際,この小戸の浜に上陸され,濡れた衵(あこめ)の御衣を乾かされたので衵ヶ浜、後に転じて姪浜となりました。

小戸公園内には、「小戸大明神」があります。説明看板には、

海中から引き揚げられた銅矛2本が神宝とされ,享保10年(1725年)福岡藩六代藩主黒田継高が社殿を建立しました。小戸大神宮は神代の昔,伊邪那岐命が御禊祓の神事を行われた尊い地であり,

皇祖天照皇大神を始め住吉三神,他神々が御降誕され,神功皇后の御出師及び凱旋上陸された実に由緒深い神社であります。

宮崎市にも「小戸神社」という神社がありますが・・・・・

 

能古島は小戸公園から一番近い所です。

 

 

 

マリナ大橋を渡り、名柄川沿いに歩きます。雨も上がってきたようです。このあと、唐津街道を通って姪浜住吉神社に行くことになっていますが、途中の興徳寺橋が工事中で通行止めに

なっており、変更してゴールの姪浜駅に向かいます。

11:10姪浜駅にゴールしました。

  

このあと、福岡ペイペイドームに向かいます。今日は、東京ヤクルト戦で「タカガールデー」が行われます。

球場内は、配られたピンクのユニフォーム、ピンクのフラッグでピンク一色でした。結果は、1-3で敗れました。  

  

今日、九州北部地方は、梅雨入りしました。

 


楽しいウォーク「三苫・新宮海岸散策」(福岡市東区~粕屋郡新宮町)

2022-06-11 06:21:12 | ふくおかウォーキング協会

6/8(水)ふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、「三苫・新宮海岸散策」でした。集合場所は、JR和白駅。参加者は43人です。

参加者の中には、遠路福井県敦賀市から〇本さんご夫妻も参加されました。

コースは、和白駅をスタートし三苫海岸~綿津見神社~三苫浜中央公園~新宮海岸~磯崎神社~西鉄新宮駅ゴールの約10km。

9:30和白駅スタート。

  

この辺りは通称和白干潟です。塩浜は、昔塩田でした。

 

 

奈多の町に入ります。

 

 

綿津見神社参道に入ります。

 

途中海が見えるところがあります。

綿津見神社は海の守護神である綿津見三神を多くは祭神として祀っていますが、娘である豊玉姫と玉依姫も祀っています。

神功皇后が征韓の渡航の際、対馬沖で暴風雨に遭いました。その時この「苫」が流れ着いたところに神様を祀ると航海の無事を海神に祈って船の覆いである「苫」を海中に投げ入れました。

すると暴風雨が止んで征韓を成し遂げられました。その苫が三枚漂着した場所が、綿津見神社が鎮座する海岸であり、三つの苫ということから「三苫」と呼ばれるようになりました。

 ※「苫」とは、菅(すげ)や萱(かや)などを荒く編んだムシロ。和船や家屋を覆って雨露を防ぐ。

 

 

休憩後再スタート。コースは新宮町に入ります。

 

 

コースは新宮海岸へ

 

新宮海岸を通り「磯﨑神社」へ

江戸時代前期、神社を波止場近くから移転した頃に、神宮浦から新宮浦となり、今の新宮の地名になったそうです。

 

磯﨑神社からの途中、赤いねむの木の花が咲いていました。これは、赤いねむの花ということで「ヒネム」というそうです。

 

11:40 西鉄新宮駅にゴールしました。

 

この日のGPSです。

 

 

 

 

 


第21回SUNIN未来ウォーク2日目20㎞三朝町コース(鳥取県倉吉市)

2022-06-10 12:19:50 | オールジャパンウオーキングカップ

6/5(日)SUNIN未来ウォーク2日目20kmコース。(三朝町コース)

スタート前の会場では、沢山の歩友さんとも再会することができました。そういえば、参加者名簿がなかったなと思い、総合案内所に聞いてみると、今回は参加者名簿を作成していないとのこと。

本舞台の横では、今回の参加者の数が発表されていました。スタッフを合わせ約2,100人です。

昨日同様、8:50から出発式。

  

9:00スタート。会場を出る時に、下記の記念碑を見ました。「自然こそが病院であり、あなたの2本の足がお医者さんです

これは、2005年(平成17年)、未来ウォークで李康玉大韓ウォーキング連盟理事長(尚志大学教授)が倉吉市を訪問し、講演された言葉です。

私は、医学の方は全く無知ですが、ウォーキングは、認知症に効果があるといわれています。まさにこの言葉通りだと思います。

私のウォーキング歴は約10年、歩く前は地元の歴史など全く知りませんでしたが、見て、聞いて、感じて、最近は少しは、説明できるようになりました。

五感を感じるというのはこのことでしょうか?

 

  

歩き始めて約40分、三朝町(みささちょう)に入ります。右側には、土砂崩れの復旧工事が行われています。そういえば、出発式の時、工事中の場所があるから別なルートを設定していると

言われていることを思い出しました。工事中でなければこの道を通ったのかな?

  

三朝町(みささちょう)は、鳥取県の中央部にある町で、東伯郡に属す。鳥取県において2番目に大きな町で、国宝の三佛寺投入堂(三徳山)や名勝の小鹿渓があり、世界一といわれる高濃度のラジウム温泉が噴出する三朝温泉街を有する。そのラジウム泉特有のホルミシス効果は病気治療・療養目的でも有用で、岡山大学の付属研究所なども立地する。(Wikipediaより)

三朝町の町名の由来は、三晩泊まって三回朝を迎えるとどんな病気も治ることから(諸説あります)。それだけ温泉の効能の高さを物語っています。

また、フランスのラマルー・レ・パン(温泉リゾートの町)と友好姉妹都市を締結しています。

  

 

三朝温泉のキャッチフレーズは、「日本一危ない国宝鑑賞と世界屈指のラドン温泉 六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)清浄と六感(観・聴・香・味・触・心)治癒の地」です。

この中で日本一危ない国宝とは、三徳山の投入堂です。(投入堂の写真は5年前撮った分です)絶壁の中にあり滑落の恐れがあるため危ない国宝と呼ばれています。

 

  

  

  

  

恋谷橋を渡り、キューリ広場の所がチェックポイントです。ここは、道路に矢印をラインで施しただけで分かりにくいです。何人か、通り過ぎて行きました。

せめて地面の矢印でなく、「チェックポイントはこちらです」といった看板を設置してもらいたかった。

 

歩いていると、「岡山大学惑星物質研究所」があります。ここは、はやぶさが持ち帰った「イトカワ」の岩石分析や小惑星リュウグウから回収された粒子の解析を行っている所です。

 

キューリ夫妻の銅像があります。放射能の研究で世界的に有名なキュリー夫妻です。女性初のノーベル賞と2回受賞したことでキュリー夫人の知名度が高いですが、1903年の受賞は
キュリー夫妻との共同研究です。1911年はキュリー夫人単独の研究結果でノーベル化学賞を受賞しています。

ラジウムの研究が今日の三朝ラジウム温泉の恩恵を受けているということで、夫妻の功績を称えるため2010年建てられました。

  

三朝町役場から細い路地に進みます。路地の横にはきれいな水の水路があります。水路には鯉が泳いでいました。

  

竹田橋です。昨日もこの橋を通ってゴールへ向かいました。ここからは、昨日のルートと同じです。

 

12:26 2日目20kmをゴールしました。私のGPSでは、19,1kmでした。

早くゴールできましたのでなしっこ館で、なしソフト(小)をいただきました。未来ウォーク参加者ということで250円→200円でした。

  

2日目のGPSです。私にしては結構速いペースでゴールできました。

倉吉の天気予報では、昼から雨でしたが、ウォーキング中雨には遭いませんでした。

シャトルバスで倉吉駅まで送ってもらい、倉吉発14:24の特急はくとで姫路へ、姫路から新幹線で博多へ、博多には19:02到着。

博多は、雨でした。

 

 


第21回SUN IN 未来ウォーク1日目20kmコース(鳥取県倉吉市)

2022-06-07 08:19:10 | オールジャパンウオーキングカップ

6/4~5に行われる「SUN IN未来ウォーク」に参加しました。この大会5年前2017年大会に参加していますので2回目の参加です。

前回は、福岡から車で倉吉迄来ましたが、もう歳もとっていますので今回は、JRを利用しました。

倉吉駅前には、倉吉の地名の由来にもなった羽衣伝説の「お倉とお吉」の像があります。

「昔むかし、舎人(とねり)という狩人が水浴びをしている天女の羽衣を見つけ、その美しい天女を妻にしようと羽衣を隠してしまいました。

天女は、浅津(あそづ)という名前を付けられ泣く泣く舎人の妻となり、やがて月日が流れ二人の可愛い娘『お倉とお吉』ができました。
天女はどうしても天の事が忘れられません。とうとう娘達から羽衣の隠し場所を聞き出し、天女は空高く天へと帰ってしまいました。
残されたお倉とお吉は、くる日もくる日も母を呼び戻そうと近くの山へ登り笛や太鼓を鳴らしましたが、ついに母を呼び戻す事はできませんでした。

この事から、その地名を二人の名前の『倉吉(くらよし)』、「太鼓を打つ・笛を吹く」から、近くの山を『打吹山(うつぶきやま)』と呼ぶようになりました。」

 

駐車場で車を見ていると鳥取ナンバーの「」の4つの点が左下に向いています。普通は、右下を向いているのですが、何か意味があるのでしょうか?鳥が飛び立つ姿を表しているのかな?

それとも隣の県「島根」と区別するためだろうか?取の耳の部分も上が少し長いですね。

 

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さて、SUNIN未来ウォークですが、昨年は山陰地区の方限定で行われたそうですが、今年は全国の方が参加していました。

コロナ対策として、検温、手指の消毒、これを終えた方は、手首にリストバンドをつけてもらいました。

  

8:40から出発式。

今年になって福島花見山、福井若狭と参加しましたが、両大会とも受付終了後順次スタートしていましたが、この未来ウォークでは、出発式が行われました。

もうコロナ以前の大会に戻りつつありますね。

 

9:00 20kmのスタート。

 

コースは、倉吉線廃線跡に作られた遊歩道を歩きます。遊歩道の両側にはアジサイなどのお花が植えられています。

  

天神川にかかる倉吉大橋を渡ります。

  

 

コースは、湯梨浜町に入ります。湯梨浜町は、羽合町、東郷町、泊村が合併してできた町です。各町の特徴の「温泉(湯)」二十世紀梨(梨)」「砂浜(浜)」から名付けられました。

  

東郷池です。東郷池は、かつての日本海の内湾がふさがってできた海跡湖であると考えられています。

周囲約10kmの汽水湖で、鳥取県のほぼ中央に位置します。鉢伏山から見ると鶴が羽を広げて飛んでるような形に湖が見えることから「鶴の湖」ともいわれます。
東郷池の池岸や池底からは温泉が沸出し、池畔には「東郷温泉」と「はわい温泉」の2ヶ所の温泉地があります。

  

 

東郷池には、「燕趙園(えんちょうえん)」があります。

中国庭園・燕趙園(えんちょうえん)は、日本最大級の本格的な中国庭園です。中国・河北省の技師が設計し、材料も中国から輸入して作られています。

園内には、中国風の建物が並んでいるだけではなく、丹念に描かれた壁画や像も並びます。庭園を一周する間に28景が巧みに配置され、歴代の中国皇帝が好んだ壮大な理想郷を表現。
中国ならではの造形美を堪能することができます。
「三景軒」に「長廊」、「迎水坊」「七星橋」など撮影スポットとしても絵になる箇所がいっぱい。(米子観光ナビより)

 

燕趙園がチェックポイント

  

燕趙園の龍鳳閣の信号の所が折り返し点。ここからゴールまで約8k。5年前に参加したときは、燕趙園から松崎の方に行って「鬼嫁」さんから接待をうけました。

 

道の駅近くでは、グランドゴルフが行われていました。何と、グランドゴルフは、ここ湯梨浜町が発祥地だそうです。

  

羽衣石城は、1366(貞治5)年、南条貞宗が築いた標高376mの山城。関ヶ原の戦いで西軍に味方して敗れ、徳川方に焼き払われるまでの約250年間、南条氏の拠点となっていました。

現在の天守閣は平成2年に再建されたもので、城山の中腹には天女が羽衣をひるがえしながら踊ったという伝説の場所があります。

  

マップには、「伊能忠敬が歩いた道」と書いていますが、このあたりかな?倉吉市内に入りました。

  

  

県道22号線から竹田橋を渡ります。橋の上からは、大山が見えています。

  

橋を渡ってすぐ左折します。

 

12:44 ゴールしました。

  

この日のGPSです。信号も少なく結構早い時間にゴールできました。

 

 


京街道東海道57次2日目「伏見~石清水八幡宮」(京都市~八幡市)

2022-06-02 17:39:32 | 京街道(東海道57次)

5月18日(水)京街道2日目。今日は、10:00に伏見桃山駅でJR九州ウォークで知り合った北九州出身「ポンさん」と待ち合わせています。

ポンさんとお会いするのは5年ぶりぐらいかな???  

  

キザクラカッパカントリー カッパのキャラクターでおなじみ、黄桜株式会社の複合施設。

社名の由来は、社長が黄色の桜(淡く緑色のかかった白い花を咲かせるサトザクラの一種)を好んだことから。

  

黄桜とカッパの関係は、1955年(昭和30)に清水崑さんのカッパをキャラクターとして採用。ほのぼのとした雰囲気の崑カッパと誰にでも親しめるおいしい日本酒=黄桜 の精神に通じる

ものを感じブランドキャラクターとしての使用を申し入れた。崑さんがお亡くなりになったあと、1974年(昭和49)小島功氏がカッパを引き継がれて現在に至ります。

私が子供の頃、ちょっと色気のあるこのCMにドキドキしていました。(笑)確か、楠としえさんが歌っていましたね。

  

 

月桂冠は、寛永14年(1637年)、初代・大倉治右衛門が京都府南部の笠置から、城下町として発展し宿場町・港町としてにぎわう伏見に出て来て創業。2017年で創業380年になりました。
屋号を「笠置屋」、酒銘を「玉の泉」として酒の製造と販売を始めました。創業から250年ほどは、主に地元の人たちや、旅人を相手に商う小さな酒屋でした。歴代当主は家業に精励し、

明治の躍進期を迎えました。
明治38年(1905年)、勝利と栄光のシンボル「月桂冠」を酒銘に採用。明治42年(1909年)に大倉酒造研究所(清酒メーカーとして初の研究所)を創設、酒造りに科学技術を導入し品質の向上を成し遂げました。樽詰全盛の時代、びん詰酒に力を入れ、防腐剤なしのびん詰を本格的に販売、明治43年(1910年)には駅販用の「コップ付き小びん」が鉄道で採用されました。
東京市場への進出、洋式簿記採用により経営を近代化するなど次々と新機軸を打ち出し、酒銘が全国に知られていきました。
昭和36年(1961年)には、日本で初めて年間を通じた酒造りを行なう四季醸造システムを備えた酒蔵を完成。その後開発・導入した新規技術の活用と共に、高品質で多彩な酒造りを行なうもとになっています。(伏見酒造組合HPより)

  

  

 

  

湊川より寺田屋に向かいます。

寺田屋事件慶応2年1月23日(1866年3月9日)、坂本龍馬と三吉慎蔵が伏見の寺田屋に止宿中、伏見奉行所の捕り方に踏み込まれる、寺田屋襲撃事件が起こりました。薩長同盟締結直後の出来事

でした。伏見の寺田屋は、江戸時代初めからの船宿といわれます。伏見は京と大坂を結ぶ舟運で栄え、大坂から淀川を遡ってきた過書船が伏見港で荷揚げし、荷物を高瀬船に積み替えて

京都市中へ運ぶ中継地点でした。また過書船の中で最小の三十石船は旅人専用の船で、定員28名、水夫4人が乗り込んで、伏見と大坂八軒家間を1日2回、昼と夜に運航していました。

その船着場となったのが伏見の京橋で、船宿や旅籠が39軒も建ち並んでいたといいます。中でも大きな宿が6つあり、その一つが寺田屋でした。

寺田屋は薩摩藩の指定宿でもあり、大いに繁盛しましたが、幕末に2度、大きな事件の舞台となります。一つが文久2年(1862)春の、薩摩藩国父・島津久光の率兵上京の際に起きた、薩摩藩士の

同士討ちである「寺田屋事件」です。9人の藩士がここで命を落としました。当時、寺田屋にはお登勢という名物女将がいて、亭主を失って後、一人で宿を取り仕切っていたといいます。

非常に面倒見がよく、捨て子を育てたり、志士たちを匿ったりもしていました。坂本龍馬もお登勢を「おかあ」と親しみを込めて呼んだといいます。

龍馬は元治元年(1864)8月頃、お登勢に頼んで、恋仲の娘を宿に置いてもらいました。娘の名は龍。京都の医者・楢崎将作の娘で、将作の死後、一家離散の憂き目にあっていたところ、龍馬と

知り合ったのです。義侠心に富むお登勢はこれを快諾しました。お龍は住み込みの仲居として寺田屋で働くことになり、やがて龍馬を絶体絶命の危機から救うことになります。

慶応2年(1866)1月22日、龍馬は京都で幕末史の一つのエポックとなる大仕事を成し遂げました。犬猿の仲の薩摩藩と長州藩の手を組ませる「薩長同盟」の締結です。翌23日、龍馬は伏見の寺田屋に

戻り、成功を祝って、彼の護衛役である長府藩士・三吉慎蔵やお龍らと、2階の部屋で八つ半(午前2時頃)まで酒を飲み語らっていました。

異変にまず気づいたのは、お龍です。小宴も果て、風呂に入ろうとしていたお龍が、窓の外を見ると、宿を多数の提灯が囲んでいます。即座に彼女は着物もまとわずに2階に駆け上がり、捕り方に

囲まれていることを龍馬に報せました。当時、龍馬は要注意人物として幕府方からマークされており、新選組や京都見廻組、奉行所から狙われていたのです。

ほどなく、奉行所の捕り方が寺田屋に踏み込み、龍馬らのいる2階の座敷に向かいました。灯りを消した座敷を、捕り方の龕灯提灯が照らす中、死闘が始まります。部屋に踏み込んできた捕り方に

龍馬は短銃で、三吉は手槍で応戦、龍馬は左手に負傷しました。捕り方にも死傷者が出て怯んだところ、二人は闇に紛れて脱出。目指したのは、1kmほど北にある薩摩藩伏見屋敷でした。

寺田屋の200m北西に芸州浅野屋敷があり、その西側は濠川に面しています。龍馬と三吉は川を泳いで渡り、対岸の材木小屋に身を潜めます。材木小屋にたどり着いた龍馬は、出血と疲労で身動きができなくなりました。三吉はすぐに発見されるだろうから、潔く切腹しようと言いますが、龍馬はそれを制し、一人で薩摩屋敷に向かうよう勧めます。三吉は承知し、龍馬を残して救援を求める

べく北上します。空が少し白み始めた頃、三吉がようやく薩摩屋敷に駆け込むと、薩摩屋敷にはすでに危急が伝わっており、救援の手勢が出発していました。伝えたのは、お龍です。

彼女は寺田屋の2階に駆け上がり、龍馬に急を告げると、自分の判断で外に飛び出し、薩摩屋敷に駆けていたのです。見事な機転でした。

薩摩屋敷では留守居役の大山彦八が救援態勢を整えて、2人の行方を捜しており、三吉から龍馬の居場所を聞くと、藩の旗を掲げた船を仕立てて川を下り、龍馬を救出します。ちなみに大山は

大山弥助(巌)の長兄で、西郷吉之助(隆盛)の従兄弟でした。薩摩屋敷に保護された龍馬は、数日間、お龍の手厚い看護を受けて過ごし、やがて西郷のはからいで、3人は京都の薩摩屋敷へと移ります。そしてこの事件をきっかけとして、龍馬は命の恩人のお龍を妻に娶りました。 一つ間違えば凄惨な事件になるところでしたが、龍馬とお龍を結びつけた幕末のエピソードとして、多くの人に

好まれる話です。(WEB歴史街道より)

  

寺田屋女将「お登勢」は、近江国大津で旅籠を経営していた大本重兵衛の次女として生まれた。18歳で、伏見南浜の船宿である寺田屋の第6代目主人寺田屋伊助の妻となり、一男二女をもうけた。

夫伊助は放蕩者で、経営を悪化させたので、お登勢が代わりに寺田屋の経営を取り仕切り、姑の面倒も見ていた。伊助は(酒を飲みすぎとも言われるが)病に倒れて35歳で若死にしたが、

お登勢はそのまま女将として家業を続けた。

寺田屋は薩摩藩の定宿であり、文久2年(1862)には寺田屋騒動が起きて薩摩藩士が斬り合いを行なった際には、お登勢もその場にいて3歳の次女を竈に隠して帳場を守った。事件後、薩摩藩からの

見舞金が入り、使用人に命じて即座に畳や襖を取り替えて、営業できるように整えたと言う。

お登勢は人の世話をすることを道楽としており、坂本龍馬をはじめとする幕府から睨まれていた尊王攘夷派の志士たちを保護した。龍馬に託されたお龍は養女として扱い、お龍の母に仕送りまでしていた。

慶応2年1月24日(1866年3月10日)、寺田屋に滞在していた龍馬と三吉慎蔵が伏見奉行によって襲撃され捕えられそうなったことがあり、薩摩藩と伏見奉行との間で軋轢が生れ、薩摩側のお登勢も幕府から目を付けられて、危険人物と見なされて牢に入れられかけたこともある。明治10年(1877年)、死去。墓所は寺田屋に程近い伏見松林院。

  

寺田屋の中に「三十石船」の説明文があります。ちょっと古いので書いてみます。

「三十石船とは、江戸時代に淀川を上下した客船です。乗客は先ず船宿に入り、それから乗船していました。寺田屋も有名な船宿の一つでこの付近には、多くの船宿が並んでいました。

淀川は、平安時代以来船運が盛んで、豊臣秀吉、次いで徳川家康が過書船の制度を定め、運賃や営業に対し税を課すなどの取締りを行い、伏見大手筋には過書船番所を設けていました。

船の大きさは、二十石積から三百石積で数百隻が運行し貨物や旅客を運んでいました。その内三十石船は長さ17m、幅2,5m、船頭4人定員28名の旅客専用船で、上りは一日又は一夜、

下りは半日又は半夜で伏見と大坂天満の間を運行しました。船賃は江戸中期で約五十文、途中、枚方に立ち寄ります。そこでは、船客に「くらわんか」と声をかけながら餅を売りにきました。

そうした風俗や船内の様子は落語や講談、浪曲で有名です。尚、三十石船は明治4年(1871)に廃船になりました。」

  

寺田屋でポンさんと別れ、街道に進みます。

 

この伏見は、「鳥羽・伏見の戦い」の激戦地となった所でもあります。戊辰戦争最初の内乱。王政復古後、新政府内部において、討幕派は公議政体派を抑え、前将軍徳川慶喜(よしのぶ)に

辞官納地を命じた。慶喜は大坂に退いて主導権回復を策したが、討幕派の関東での挑発、攪乱(かくらん)工作にのり、江戸薩摩藩邸を焼打ちし、1868年(慶応4)1月2日、旧幕側は、幕兵、会津・

桑名両藩兵ら1万5000人を北上させた。新政府も、薩摩・長州両藩兵ら4500人を出し、1月3日、両軍は、京都郊外の鳥羽と伏見で衝突し、数では3分の1に満たないものの、装備と士気に勝る

新政府軍が幕府軍を1日で退却させ、6日に戦いが終了し、慶喜は海路、江戸へ逃れた。この結果、新政府内での討幕派の主導権が確定し、2月9日、慶喜追討軍が東征に向かうこととなった。

 

和菓子「駿河屋」の横には、「電気鉄道発祥地」の碑があります。明治28年(1895)京都塩小路~伏見下油掛間を日本最初の市街電車が走りました。全長6,7kmの京都電気鉄道伏見線です。

この年の勧業博覧会へ船で淀川を経て入洛した見物客を運びました。

   

この碑の横には「駿河屋」です。550年以上昔の室町時代中期の創業です。紅羊羹が秀吉に取り入れました。また、紀州徳川家とも関連があります。

堺にも系列店(現在廃業)がありましたが、堺店が歌人与謝野晶子の実家です。

店内で笹結びという和菓子をいただきました。おいしかったです。

  

伏見土木事務所の所に「伏見長州藩邸跡」があります。

幕末の元治元(1864)7月19日未明、長州藩家老の福原越後はここ伏見長州藩邸から武装した約500名の兵とともに、京へ進軍しようとしました。

その途中、伏見街道の稲荷付近から竹田街道を守る大垣・会津・桑名・鯖江の藩兵と衝突、禁門の変が勃発しました。

福原が率いる長州勢は敗走して伏見藩邸に立ち戻り、態勢を整えて打って出ましたが、彦根藩や他の連合軍が京橋から伏見藩邸を砲撃、このため伏見長州藩邸は焼け落ちてしまいました。

  

三栖(みす)神社から濠川沿いに歩きます。

  

京阪の踏切を越えると「伏見港公園」があります。ここには、伏見港の歴史などが書かれています。

 

その突き当りが三栖閘門(こうもん)です。

伏見の街を水害から守るため、1922年(大正11年)、宇治川右岸の観月橋から三栖の堤防工事が始まり宇治川と伏見港が分離されました。そのことに伴い1929年(昭和4年)、三栖閘門

(みすこうもん)が建設され、宇治川と濠川との4.5メートルほどの水位差を上下させて調整し船を行き来させていました。完成当初から、旅客を乗せた蒸気船や石炭の輸送船など年間2万隻以上が

通航していたといいます。しかし昭和30年代に入って、陸上運輸の発達で貨物船による輸送が減少していき、1962年(昭和37年)、ついに淀川の舟運はなくなってしまいました。

さらに1964年(昭和39年)、宇治川上流に天ヶ瀬ダムが完成してからは水位が大幅に減少し、閘門はその役目を終えました。(月桂冠HPより)

  

 

街道は、ここから宇治川沿いに歩くようになっています。東高瀬川の所から歩道用の橋を渡るように書かれていますが、何とこの橋「通行止め」です。

他に対岸に渡る橋もないので京阪の踏切迄戻ります。

  

 

踏切を渡りしばらく歩くと下野第二公園の所に「戊辰の役戦没者の碑」があります。

碑には、「幕末の戦闘ほど世に悲しい出来事はない。それが日本人同族の争でもあり、いづれも正しいと信じたるままにそれぞれの道へと己達の誠を尽くした。然るに流れゆく一瞬の時差により

或る者は官軍となり或いは幕軍となって士道に殉じたのであります。ことに百年の歳月に関し、其の縁り有る此の地に不幸賊名に斃れたる誇り有る人々に対すし、慰霊碑の建つるを見る。

在天の魂以て宴すべし。  中村勝五郎  昭和45年(1970)春」    正にその通りですね。個人で建立されたのかな?

  

街道は、淀宿に入ってきました。

この辺りは、京都競馬場です。付近の有料駐車場は、日、祭の駐車料金がすごく高いです。渋滞解除の為駐車料金を高くしたのかな?

淀小橋旧址は、淀小橋は宇治川に架けられた橋で,紀伊郡納所村と城下町淀を結んでいました。京都・伏見と大坂を結ぶ街道のかなめにあった重要な橋です。

淀小橋は淀川改良工事(明治30~同44年施工)の一環として明治36年に宇治川が付け替えられると,その流路からはずれ撤去されました。この石標は淀小橋の跡を示すものです。

  

納所(のうそ)交差点には、「唐人雁木旧址」があります。説明文によると、「かつてこの辺りは、京都と大坂とをつなぐ重要な港であり、付近は「淀津」と呼ばれた。

納所(のうそ)の地名の由来は、皇室に納める穀類の重要な倉庫があったためで、荷揚げで港は賑わっていた。この地は軍事的にも重要な地であった。そのため、戦国時代から城が築かれ、

近世の淀城と区別するため、「淀古城」と呼ばれている。

秀吉による伏見城の構築に際しての築堤工事により、巨椋池・宇治川などの流路や街道が整備された。結果、宇治川は納所と淀の間を流れ、桂川へ合流した。また納所には、桂川沿いに続く

「大坂街道」と宇治川の流路あとの「伏見街道」も通り、水陸の分岐点となっていたといえる。

宇治川には、淀小橋が架けられ、朝鮮通信使の上陸地にもなり、近くには桟橋や雁木(がんき)(上陸用の階段)も設置され、陸路で京都へ向かった。

明治時代以降、納所を取り巻く水系が大きく変化し、木津川付け替えに続き、明治時代中期には、宇治川も現流路に変わっていった。

  

興杼(よど)神社は、 淀・納所・水垂・大下津の産土(うぶすな)神として鎮座しています。

祭神は、中央に豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)向かって右側に高皇産霊神(タカミムスビノカミ)向かって左側に速秋津姫命(ハヤアキツヒメノミコト)の三柱であります。

この神社は、僧の千観内供が応和年間(961年~963年)に肥前国(佐賀県)佐賀郡河上村に鎮座の與止日女(ヨドヒメ)神社より、淀大明神として勧請したのに始まるとある。しかし、

延喜式(901年~)第9巻「山城国乙訓郡」中に、與杼神社の名がある処からみて、応和年間より以前に鎮座していたと考えられます。

元の鎮座地は、今の宮前橋の下流、桂川右岸の川原になっているあたりで、古来よりこのあたりを「大荒木の森」と呼ばれていた。 (当時は、ここを乙訓郡水垂村といった)(興杼神社HPより)

 

稲葉神社:淀城主を長く務めた稲葉家の初代稲葉正成公を御祭神としている。正成は戦国時代の武将で小早川秀秋の家臣だったが、関ヶ原の戦いで家康と内通し、秀秋を東軍に寝返らさせたことで

有名。3代将軍家光の乳母で大奥を仕切った春日局(福)は正成の後添えだったが、福が家光の乳母になった時に離縁した。しかし、亡くなった前妻の産んだ嫡男ではなく福の産んだ正勝が後を継ぎ、

5代目の正知が享保8年(1723年)淀藩城主となり、以後幕末まで12代148年間稲葉家が藩主であった。

 

淀城跡:淀城は江戸時代に徳川秀忠の命により松平定綱が築いた城です。築城に際し、廃城となった伏見城の資材を転用、二条城の天守を移築したと伝えられています。

秀忠・家光父子が上洛の際にはこの城を宿舎としたそうです。江戸中期には春日局の子孫である稲葉正知が入城し、幕末まで稲葉氏が城主を務めました。幕末には老中である稲葉正邦も城主を

務めています。現在は淀城跡公園として整備されており、石垣や天守台が残っています。

 

淀駅前にある「水車のモニュメント」から京都競馬場方向に歩きます。

淀宿は、規模の大きな伏見宿と枚方宿に挟まれ、宿場町としては比較的小規模で、本陣や脇本陣はなく、旅籠が16軒あったのみとされています。この地は、宇治川、木津川、桂川の三川が

合流し淀川へと注ぎ込む三川合流の地であり、淀船の寄港地として栄えました。人口2847人、家数836軒。

街道は、三川合流の宇治川に入ります。

  

  

さくらであい館で少し休憩します。であい館では、ソフトクリームが販売されていましたのでそれを買っていただきました。生き返りました。

木津川の御幸橋を渡ると「石清水八幡宮」です。今日は、ここまでとします。