よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

JR九州ウオーキング「木屋瀬宿と吉祥寺藤まつり」

2016-04-30 15:47:30 | JR九州ウオーキング

4月29日、ゴールデンウイーク最初の日、JR九州ウオーキング、長崎街道「木屋瀬(こやのせ)宿と吉祥寺藤まつり」のコースに参加しました。

JR黒崎駅から筑豊電鉄に乗って「木屋瀬駅」へ。私、この筑豊電鉄(略筑電)に乗るのは、2度目です。

筑電は、八幡西区黒崎から直方市の筑豊直方までの16kmを35分かけて走ります。

北九州から直方を経て福岡を結ぶ鉄道を計画していましたが、直方までの開業に留まりました。かつては西鉄大牟田線(現・天神大牟田線)とつなげる構想もあり、

その後も飯塚市までの延長が審議されたこともありましたが、双方共に実現には至りませんでした。

この日は、JRウオーキング参加者で満員状態です。

  

約30分で「木屋瀬駅」に到着。

私、5年前、長崎街道を長崎・出島から北九州・門司まで歩きました。この木屋瀬には、2012年1月3日に歩いています。

その時のブログを見てみますと、

木屋瀬(こやのせ)宿」に到着しました。
江戸時代筑前黒田藩は、黒崎、木屋瀬、飯塚、内野、山家、原田の6宿を開設しました。この6宿を総して「筑前六宿(ちくぜんむしゅく)」と呼んでいます。

木屋瀬宿は唐津街道「赤間宿」と遠賀川を通じ結ばれていました。また、川を利用して水運も発達していました。
宿場は東構口から西構口まで約1.1キロメートルの街道で、裏通りのない一本道は本陣付近で「く」の字に曲がり、家並みはのこぎり歯状に建てられていました。

これは、「矢止め」と呼ばれ、敵が攻めてきたときにそのくぼみに隠れたり不意をついて攻撃したりするために配慮されたものと言われています。

宿街道のほぼ中間には、代官所、本陣、脇本陣、郡屋、人馬継所などの施設と共に14、5軒の旅籠がありました。

木屋瀬宿には「船庄屋」「村庄屋」「宿庄屋」がありました。「船庄屋」(松尾家)は、村全体を統括した。屋号を灰屋と称し、問屋役、人馬支配役、村庄屋役などを務めました。
「船庄屋」(梅本家) 年貢米の集積場である本場(米場)が置かれ、その輸送は権利を持った24艘の川ひらた(川舟)に限られていました。この24艘の管理を行っていたのが
船庄屋です。「宿庄屋」は、旅籠など宿内を統括していました。

先ず、「木屋瀬宿記念館」へ。ここが藩のお茶屋跡(本陣跡)。※お茶屋は藩主の別邸

記念館には、「みちの郷土資料館」「ふれあい宿」「収蔵庫」などに分かれ江戸時代から明治、大正、昭和の街道の歴史が見ることができます。

4年前は、お正月だったので記念館はお休みでした。ここを見ておればまた違った街道の歩き方が味わえたかもしれません。

館内は、撮影禁止ですが、体験コーナーのみ撮影がOKでした。

  

  

  

記念館を出て木屋瀬の町中を歩きます。鏝絵の旧家、虫籠(むしこ)窓の旧家・・・・・・・なかなかいい風情です。

現在、東海道を京都から江戸・日本橋に向かって歩いていますが、宿場町には、町家に「虫籠窓」があります。

江戸時代には本格的な二階を持つ商家や民家は、“町人が武士を見下ろさず。”の禁制から建築されず、高さを抑えた中二階(厨子二階)

として主には物置き部屋として利用されていました。 通風と明かりとりのために設けられた虫籠 (むしこ)窓の形状は建築時期によって異なる為、

建築様式の変遷を知る目印として大変興味深いものです。江戸期中期は、丸、江戸後期は、横長の丸、明治からは、長方形になっています。(富田林・寺内の探索HPより引用)

   

   

永源寺の所に木屋瀬宿の本陣門があるということで行ってきました。瓦には、黒田家の家紋「巴藤」が入っています。

  

  

木屋瀬宿を過ぎると山陽新幹線と並行して歩きます。高架の下には、ツツジが満開です。また、九州では、珍しい「赤詰草」が咲いていました。

昨年札幌を歩いた時、豊平川にたくさんの赤詰草が咲いていたことを思い出します。

  

広旗八幡宮です。境内には、藤棚がありましたが、ちょっと盛りを過ぎているようでした。

   

荒川沿いに歩いて藤まつり会場の吉祥寺を目指します。途中聖福寺の藤も見て行きます。

藤棚の下では、老人会の人でしょうか、藤の花見が行われていました。この藤も盛りを過ぎているようです。

  

  

吉祥寺公園です。27日から吉祥寺藤まつりがおこなわれており、公園内は、沢山の人です。

  

公園には、なんじゃもんじゃ(ひとつばたこ)の白い花が満開です。何か、雪を被っているように見えます。

  

大藤棚

 

  

  

紫の藤は、盛りを過ぎていましたが、白藤は、今が一番の見ごろでした。白藤もいいですね。

   

  

ゴールは、筑電香月駅です。永犬丸(えいのまる)で途中下車し、銀河のチャンポン店へ。

この店も4年前、長崎街道を歩いた時に立ち寄りました。

  

  

銀河チャンポンは、チャンポンの上に唐揚げが2個のっています。味も濃厚で美味しいです。

銀河チャンポンから永犬丸駅まで歩き、黒崎行の電車に乗りましたが、電車内は、ウオーキング帰りの人で大混雑でした。

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 


第10回下総・江戸川ツーデーマーチ2日目20km(千葉県市川市)

2016-04-21 20:02:27 | オールジャパンウオーキングカップ

下総・江戸川ツーデーマーチ2日目。今日は、中山法華経寺コース20kmに参加。

帰りの時間を考え、8:30フライングスタート。

  

すぐ江戸川河川敷に出ました。

市川橋の所が20k、32kの分岐点です。20kは、このまままっすぐ進み、32kは、市川橋を渡り、江戸川の東京側を歩きます。

   

 

江戸川の河口に向かって歩いていると河川敷では野球の試合が行われていました。今日は天気もいいから気持ちがいいでしょうね。

河川敷には、たんぽぽが咲いていました。たんぽぽって漢字で書くと「蒲公英」です。

河口では、アサリ?でしょうか、潮干狩りをされていました。

  

 

林遊船所が9km地点です。コースは、ここで河川敷から左折します。民家の庭には、八重のヤマブキが咲いていました。

  

東西線「原木中山駅」、京葉道路を通ると、コンビニがありましたのでここで休憩します。

このあたりは、船橋市になります。船橋市のマンホールは、江戸を中心に関東近辺の海運に用いられていた海川両用の廻船「三大力船」と市の花「山茶花」が

デザインされています。船橋の名は、日本武尊が東征の折、川を渡るために船で橋を作ったのが由来とされています。

  

 コンビニでトイレ休憩とコーヒータイムをして再びスタート。

コースの矢印を見ながら歩いていたのですが、どうも道に迷ったようです。京成中山駅を通って法華経寺へ行くのですが、道がわからなくなりました。

近くの人に京成中山駅を教えてもらいやっとコースに戻りました。

  

市川歴史散歩図の地図を見ていたら、セロリーさんのお友達のR・Sさんに再び遭遇。競馬好きのR・Sさんは、「中山競馬場」は、法華経寺の裏手の方にあると

教えていただきました。私、競馬はあまり好きではありませんが、でも中山競馬場の名は知っています。法華経寺当たりの地名が中山ですのでこの地から

名をとったのですね。

 

  

法華経寺(ほけきょうじ)は、千葉県市川市中山二丁目にある日蓮宗大本山の寺院です。鎌倉時代の文応元年(1260年)創立。中山法華経寺とも呼ばれています。

山号は正中山。日蓮の説法と安息の地であり、境内の鬼子母神も広く信仰を集めています。

ここでも御朱印をもらってきました。

  

        

  

真間川の桜並木に来ました。両岸の桜が見事に満開です。この真間川の桜には、下記のようなエピソードがあるそうです。

真間川沿いの桜並木は、昭和24年の市川市制15周年記念事業の一環として市内の中学生の手によって植えられたと伝えられており、真間川本川の境橋(国道14号)から

国分川合流点までの区間(約2.5km)に約390本のソメイヨシノが見事な花を咲かせる桜並木として成長し、市川市内の桜の名所として広く市民に親しまれていました。

しかし、急激な市街化の進行により度々浸水被害が発生し、改修工事の実施が急務となりましたが、この改修工事の実施にあたっては桜並木の保存が大きな課題でありました。

現在の改修計画である昭和54年の総合治水対策特定河川事業の計画に際し、桜並木の保存の検討を試みましたが、真間川下流部約950m区間の桜並木を伐採し、

拡幅せざるを得ないという結果となりました。これを機に市民の桜並木の保存の気運は高まり、市民団体の結成ともに、約17,000人による街頭署名が集められ、

県議会や市川市議会に請願が行われるなど、市民と桜並木の保存に対する議論が続きました。

一方、このような中でも真間川の氾濫は度重なり、昭和56年10月の台風24号では、有史最大の被害となる狩野川台風に匹敵する大水害が発生し、

早急な改修の着手が必要となりました。

このような背景の中、昭和57年10月に地元関係者や市川市などとともに「自然と人間の共存」を基本理念とする「真間川緑化護岸構想」をとりまとめ、

河道の拡幅により伐採する桜並木の再生を図るとともに、川沿いの遊歩道の整備、地域のランドマークとなる親水公園、ポケットパーク、橋梁等を整備し、

真間川を「水と緑のオープンスペース」として整備を図ることとしました。(千葉県HPより)

しばらくは、この桜を見ながらのウオーキングです。

  

  

  

千葉県は梨の生産が日本一です。(因みに我が福岡県は第8位) そういえば船橋の非公認ゆるキャラの「ふなっし~」も梨の妖精ですね。

千葉県で梨栽培が始まったのは、江戸時代の1769年に、八幡地方(現在の市川市八幡地区)で、川上善六氏が取り組んだのが最初と言われています。

川上善六氏は、1742年八幡地方に生まれ、幼児より書を好み学識に富んでいました。殖産興業に熱心で、八幡地方にどんな作物が適しているかを探していたところ、

美濃国大垣辺で品質の良い梨栽培を見てその技術を学び、枝梢を持ち帰って八幡地方に広めました。

八幡地方で収穫された梨は江戸に運ばれ、高級品としてもてはやされていました。(千葉県HPより)

千葉県の中でも市川市は、梨の生産高県内2位です。

市川市のマンホールは、梨かな?と思いましたが、市の木「クロマツ」をデザインしています。

   

弘法寺の階段の所に来ました。ここからは昨日と同じコースです。昨日は、階段の前から左折しましたが、最終日ですので階段を登りました。

  

弘法寺は、奈良時代の天平9年(737)、行基菩薩が真間の手児奈(注)の霊を供養するために建立した求法寺がはじまりとされる。平安時代、空海が伽藍を構えて弘法寺と改称したという。

その後、天台宗に改宗した。鎌倉時代、日蓮の布教を受けて、時の住持・了性法印が法華経寺・富木常忍と問答の末やぶれ、日蓮宗に改宗した。常忍の子で日頂を初代の貫主とした。

大檀那の千葉胤貞より寺領の寄進を受ける。室町時代、山下に真間宿または市川両宿といわれる門前町が発展した。徳川家康より朱印地30石を与えられる。

江戸時代、徳川光圀が来訪し茶室に遍覧亭という号を贈る。紅葉の名所として知られ、諸書に弘法寺の紅葉狩りのことが記されている。明治時代、火災のため諸堂は焼失した。

その後、再建され現在に至る。境内には、日蓮の真刻と伝える大黒天を祀る大黒堂、鐘楼、仁王門、伏姫桜とよばれる枝垂桜があり、小林一茶、水原秋桜子、富安風生などの句碑がある。

(注)手児奈・・・・・・市川の町を歩いているとこの手児奈(てこな)という名を目にします。山崎パンでは、手児奈パンという地域限定のパンを販売しています。

市川市の昔話から手児奈伝説を引用します。

むかしむかしの、ずうっとむかしのことです。真間のあたりは、じめじめした低い土地で、しょうぶやアシがいっぱいにはえていました。そして、真間山のすぐ下まで海が入りこんでいて、

その入江には、舟のつく港があったということです。

そのころは、このあたりの井戸水は塩けをふくんでいて、のみ水にすることができないので困っていました。ところが、たった一つだけ、「真間の井」とよばれる井戸からは、

きれいな水がこんこんとわきだしていました。だから、この里に住んでいる人びとは、この井戸に水をくみに集まりましたので、井戸のまわりは、いつも、にぎやかな話し声や笑い声がしていたといいます。

 この、水くみに集まる人びとの中で、とくべつに目立って美しい「手児奈」という娘がいました。手児奈は、青いえりのついた、麻のそまつな着物をきて、かみもとかさなければ、はき物もはかないのに、

上品で、満月のようにかがやいた顔は、都の、どんなに着かざった姫よりも、清く、美しくみえました。

 井戸に集まった娘たちは、水をくむのを待つ間に、そばの「鏡が池」に顔やすがたを写してみますが、その娘たちも、口をそろえて手児奈の美しさをほめました。

  「手児奈が通る道のアシはね、手児奈のはだしや、白い手にきずがつかないようにと、葉を片方しか出さないということだよ。」

 「そうだろう。心のないアシでさえ、手児奈を美しいと思うのだね。」

 手児奈のうわさはつぎつぎと伝えられて、真間の台地におかれた国の役所にもひろまっていったのです。そして、里の若者だけでなく、国府の役人や、都からの旅人までやってきては、

 「手児奈よ、どうかわたしの妻になってくれないか。美しい着物も、かみにかざる玉も思いのままじゃ。」

  「いや、わしのむすこの嫁にきてくれ。」

 「わたしなら、おまえをしあわせにしてあげられる。洗い物など、もう、おまえにはさせまい。」

  「手児奈よ、わしといっしょに都で暮らそうぞ。」

 などと、結婚をせまりました。そのようすは、夏の虫があかりをしたって集まるようだとか、舟が港に先をあらそってはいってくるようだったということです。

 手児奈は、どんな申し出もことわりました。そのために、手児奈のことを思って病気になるものや、兄と弟がみにくいけんかを起こすものもおりました。それをみた手児奈は、

 「わたしの心は、いくらでも分けることはできます。でも、わたしの体は一つしかありません。もし、わたしがどなたかのお嫁さんになれば、ほかの人たちを不幸にしてしまうでしょう。

ああ、わたしはどうしたらいいのでしょうか。」

 といいながら、真間の井戸からあふれて流れる小川にそって、とぼとぼと川下へ向かって歩きました。手児奈のなみだも小川に落ちて流れていきました。

 手児奈が真間の入江まできたとき、ちょうどまっ赤な夕日が海に落ちようとしていました。それを見て、

 「どうせ長くもない一生です。わたしさえいなければ、けんかもなくなるでしょう。あの夕日のように、わたしも海へはいってしまいましょう。」

 と、そのまま海へはいってしまったのです。

 追いかけてきた男たちは、

 「ああ、わたしたちが手児奈を苦しめてしまった。もっと、手児奈の気持ちを考えてあげればよかったのに。」

 と思いましたが、もう、どうしようもありません。

 翌日、浜にうちあげられた手児奈のなきがらを、かわいそうに思った里人は、井戸のそばに手厚くほうむりました。

 真間の「手児奈霊堂」は、この手児奈をまつったもので、いまでは、安産の神さまとして、人びとがおまいりにいきます。

 また、手児奈が水くみをしたという「真間の井」は、手児奈霊堂の道をへだてた向かいにある「亀井院」というお寺の庭に残っています。

弘法寺でも御朱印をいただきました。

      

弘法寺で朱印をもらって戻る時、ホロホロさんが家内と話しています。今日はフライングスタートしましたので会えないなと思っていましたが、偶然です。

やはり「SNSの絆」でしょうか?

13:00  20kmゴール!この2日間、膝の痛みもなく無事完歩いたしました。

これでオールジャパン36県目です。あと11県。

4/10 20kmコースのGPSです。 京成中山駅の所でコースを間違えました。

 

 ≪追記≫

今日(4/21)、熊本地震で中止になった久留米ツツジマーチの大会誌、記念品などが送ってきました。

14日の前震と16日の本震とたて続けての大きな地震でした。福岡でも横揺れがしましたが、幸い、大きな被害はありませんでした。

熊本城や益城町、南阿蘇・・・・・・どこもウオーキングで行った所ですが、テレビの画面からは悲惨な姿が映し出されていました。

そのあとも熊本地区は、余震が多く発生しており、被災者の方は心の休まることがないのではないでしょうか。

額では、ありますが、熊本地震に寄付をさせていただきました。

一刻も早く終息し、亡くなられた方のご冥福をお祈りし、また被災地の一日も早い復旧、復興を願うばかりです。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


第10回下総・江戸川ツーデーマーチ1日目18km(千葉県市川市)

2016-04-14 10:40:24 | オールジャパンウオーキングカップ

4/9(土)千葉県市川市で行われた「第10回下総(しもうさ)・江戸川ツーデーマーチ」に参加しました。

会場は、JR市川駅からバスで約10分の所にある「市川市スポーツセンター」。

   

市川の桜もピークは過ぎましたが、まだまだ綺麗です。

第1日目は、大町自然観察園コース     33km

        堀之内貝塚コース        18km

        野菊の墓文学碑コース     11km

        水と緑の回廊コース        6km

この中の18kmコースに参加しました。33kmのコースには、とほ娘さんご夫妻、Kさん、神奈川のSさん、セロリさんの御親友R・Sさんなどの方が参加されていました。

18km出発前、ブロ友のホロホロさんが会いに来てくれました。ホロホロさんとは、何年か前のSNS仲間です。

鳥に詳しく、ブログには、珍しい鳥、希少な鳥などをアップされています。    ※ホロホロさんのブログ名「tek-tekウオーキング」

ゴール後またお会いしようと約束し、18kmスタートしました。

  

約1kmで「じゅんさい池公園」に到着。千葉県公式観光情報によると、池の名の由来は、国府台と国分の台地間に深く入り込んだ古くからの沼があります。

これを国分沼といいましたが、この沼にはじゅん菜がたくさん生えていたことから、じゅん菜池と呼ばれるようになりました。市川市では、公園の名にふさわしく、

じゅん菜の栽培につとめています。

  

公園の中は、まだ桜が楽しめます。また、池には、たくさんの種類の鴨が元気に泳いでいました。

  

 

 

北国府駅が18k、33kの分岐点。18kは、ここから矢切を通り葛飾大橋を渡り、東京都の江戸川沿いに歩きます。このあたりは、千葉県松戸市です。

矢切神社が右側にあります。

矢切の民家は江戸川沿岸にありましたが、宝永元年(1704年)6月の長雨により、江戸川が大洪水を起こし多数の死者を出しました。そのため、村民は、

災害から逃れるように台地に移住し、京都東山より稲荷を勧請して「稲荷五社大明神」を建立しました。祭神は、倉(うか)稲(の)魂(み)命(たま)で、食物・稲などの穀物を司る神です。

今日では、矢切神社と名を改め、社殿に向かって右側には、菅原道真を祀った天満宮の小社があります(松戸市の歴史から引用)

矢喰村庚申塚」ここでは、矢切村でなく、矢喰村と書かれています。案内板を見てみると、

温暖で平坦な下総原野が川と海に落ち込むこの矢切台地に人が住んだのは約5千年前朝に魚や貝を採り夕べに鳥や獣を追う平和な生活も下総の国の国府が

国府台に置かれた千3百年ほど前から武士たちの政争の場となりなかでも北条市や里見氏の国府台合戦は、この矢切が主戦場となり戦没者は一万余を数えました。

家は焼かれ田畑は荒らされ女子供年寄りは逃げまどい男どもは人足に狩り出され傷つき一家は離散。

この塗炭の苦しみから弓矢を呪うあまり「矢切り」「矢切れ」「矢喰い」の名が生まれ親から子 子から孫に言い伝えられ

江戸時代中期に二度と戦乱のないやすらぎと健康を願い庚申仏や地蔵尊に矢喰村と刻み朝夕お祈りをしてきました

このたび先人たちの苦難と生きる力強さを知り四百年前の遺蹟と心を次の世代に伝えるため平和としあわせを祈りこの塚をつくります

               昭和六一年十月吉日              庚申塚保存会」

 

  

先へ行くと、「野菊の墓」文学碑があります。

政夫と民子は仲の良いいとこ同士だが、政夫が十五、民子が十七の頃には、互いの心に清純な恋が芽生えていた。しかし民子が年上であるために、ふたりの思いは遂げられず、

政夫は町の中学へ、民子は強いられ嫁いでいく。数年後、帰省した政夫は、愛しい人が自分の写真と手紙を胸に死んでいったと知る。野菊繁る墓前にくずおれる政夫……。

    

矢切橋に着きました。ちあきなおみさんの唄で有名な「矢切の渡し」は、この橋をまっすぐ行った所にあります。

 つれて逃げてよ ついておいでよ 夕暮れの雨が降る 矢切の渡し~ 

江戸初期、江戸川の両側に田を持つ農民が、関所を通らずに江戸と往来したことから「矢切の渡し」が始まったそうです。

このウオーキング、18kmのコースには、矢切の渡しが入って下りません。(11kmコースには入っている)

行って歌いたかったのですが・・・・・・・・

   

矢切のネギ」は、江戸川の氾濫で出来た土壌がネギの生育に適していたため、明治時代から植えられました。

矢切のネギは、太くて甘みがあり、焼いてよし、鍋にもよしと言われる高級品です。

    

松戸市のマンホールには、コアラとユーカリの木がデザインされています。松戸市にコアラがいたのかな   

調べてみると、 松戸市はオーストラリアのビクトリア州ホワイトホース市と姉妹都市を 結びユーカリが市の木に指定されました。

江戸川に架かる葛飾大橋を渡ります。橋の中央部が東京都との県境。

葛飾大橋の歩道を歩いていると、後ろから来た自転車が「おい、そこどけ!」と大きな声で怒鳴ってきました。一瞬私はカチンときましたが、ここは、抑えて抑えて・・・・・

何様と思っているのでしょうか、あなただけの橋ではないでしょう。

 

  

東京都に入ってきました。江戸川の河川敷は、寅さんの映画にも出てきますね。特に映画のタイトルバックなどに使われています。

河川敷では、パークゴルフ、野球、サッカー、ラグビーなどのゲームが行われています。今日は天気もいいし、気持ちがいいでしょうね。

時刻も12時近くなりお腹もすいてきました。。この江戸川マーチには、休憩する所が設定されてなく、仕方ないので江戸川の河川敷に座り、昨日福岡で買ってきたパンを

頂きました。

 

  

江戸川コースは、途中帝釈天、寅さん記念館に寄り道できるようにはなっていますが、河川敷だと車の心配もしなくていいのでこのまま歩きます。

ただ、7~8kmも同じような河川敷を歩きますので飽きてきます。

1時間ぐらい歩いて市川橋に来ました。ここからゴールまであと3km。市川橋の所には、「関所」がありました。

  

市川市内に入ります。真間(まま)の継橋を通ると、正面に弘法寺の長い階段が待っています。これを登るの???と思っていたら階段の前に左折の矢張がありました。

 

  

弘法寺を通り、千葉商科大学構内を通ります。隣には、和洋女子大もあります。文教地区なんですね。

大学構内の桜は満開で綺麗でした。

   

  

13:00  18kmコースゴール!

  

ウオーキング会場の市川スポーツセンターは、昔「下総(しもうさ)国総社」があった所です。地名も市川市国府台(こうのだい)。

下総は、北で常陸国と下野国、西で上野国と武蔵国、南で上総国、内海を挟んで相模国と接していました。

  

会場で完歩賞をもらっていると、出発前お会いした「ホロホロさん」が待ってくれてました。ホロホロさんは、6kmに参加されたそうです。

ホロホロさんから頂いたビール、焼き鳥で歓談していると、33kmを歩かれたとほ娘さんご夫妻がゴールされました。

とほ娘さんご夫妻とホロホロさんは、ご近所だそうですが、今回初のご対面でした。

下関・はなまりんさんの言葉を借りるなら本当に「SNSの絆」ですね。

   

4/9 18kmのGPSです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


東京・上野公園の桜&柴又へ

2016-04-12 07:31:09 | 旅行

4/8 (金)市川で行われるウオーキング大会参加の為、福岡発9:30の飛行機で東京へ行きました。

ホテルのチェックインまで時間がありましたので、ブロ友「ホロホロさん」のブログを見て、上野公園の桜が綺麗でしたので私達も行ってみました。

福岡の桜は、2日前の嵐で花が散り、上野の桜はどうかな?と思ってましたら、ピークは過ぎてはいましたが、まだまだお花見ができます。

 

先ず、腹ごしらえ。

前から行きたかった「精養軒」。窓際の席で桜を見ながら食事をしたかったのですが、満席の為、一般席へ。

料理もちょっと奮発して、「ビーフシチューセット」を注文しました。流石、老舗の味ですね。美味しかった~。

 

   

お腹も一杯になった所で上野の桜見学です。平日なのに人が多く、特に外国の方が多かった。

 

 

    

  

  

不忍池は、野鳥の宝庫。人が餌をやっているせいか、あまりにも人になついていて、野鳥本来の「野性味」があまり感じられなかった。

雀がこんなに人に近づくなんて見たことがありません。

 

この鳥の名は???

  

ユリカモメは、東京都の鳥。

  

  

上野公園というと、やはり西郷さんですね。ここからは、スカイツリーも見えます。

  

  

     

このあと、京成上野駅から高砂駅で乗り換えて、寅さんのふるさと「柴又」へ行きました。

柴又駅前には、「寅さん」の銅像があります

  

この風景、どこかに寅さんがいるような感じですね。

映画「男はつらいよ」第1作は、私がまだ学生時代でした。当時、東映では、高倉健、鶴田浩二、藤純子さんなどの任侠映画がヒットし、又、大映では、「座頭市」、

松竹でもこのような映画を、ということで寅さんの映画が生まれたのでは、なかったでしょうか?本来は、4~5作で終わる予定が、ヒットし、26年間、48作品が

生まれました。

  

柴又帝釈天は、経栄山題経寺(日蓮宗)と言い、寛永年間(1629)に開基され、開山上人を下総中山法華経寺第十九世禅那院日忠(ぜんないんにっちゅう)上人とし、

その弟子の第二代題経院日栄(だいきょういんにちえい)上人が実際の開基である。(HPより)

映画では、帝釈天に笠智衆さん、佐藤蛾次郎さんがいましたね。

  

御朱印をいただきました。

  

今日のホテルは、千葉・市川です。

柴又からどうやって市川に行こうかスマホで確認します。

JR金町から常磐線で新松戸へ、新松戸から武蔵野線で西船橋、西船橋から中央・総武線で市川。金町から約1時間かかりました。

市川駅前には、ヤマザキパンのベーカリーショップがあります。

山崎製パンは、ここ市川が発祥地です。1948年、京成国府台駅付近で飯島藤十郎氏が創業。家庭に配給された小麦粉を預かってパンにする委託加工が主でした。

創業者が、飯島氏だったらどうして「山崎」パン???? 

当時は、食管制度で製パン業は厳しく規制されており、創業者の飯島氏は、他の名前で製パン製造に関わっていたため、飯島氏名義では、許可が下りなかったので

義弟だった「山崎」の名義を借りて許可をとり、現在に至っています。

  

    

 

 

 

 


福岡ソフトバンクホークス2軍戦観戦ウオーキング(福岡県筑後市)

2016-04-07 12:24:27 | ウォーキング

4/6(水)は、福岡ウオーキング協会主催の「ソフトバンクホークス2軍球場ウオーキング」に参加しました。

今年3月に筑後船小屋駅そばに、ホークスの2軍球場がオープンしました。

集合場所は、JR筑後船小屋駅。9:30ウオーキング開始。

  

矢部川沿いの桜は、もうピークを過ぎたのか、葉っぱが目立ってきました。

船小屋温泉は、日本一の炭酸泉です。一口飲んでみると、味がしないサイダーみたいです。

   

白滝神社にやってきました。ここには、楠と椋の木が仲良く絡んだ「白滝夫婦木」があります。高さ15m、幹周り5,5m、樹齢300年。

この地には、「平家落武者伝説」があります。案内板によると、

別称平家堂ともいわれ、文治元年(1185)壇ノ浦の戦いで敗れた平家の残党は、九州奥地に逃走しようとするのを、源氏の追討軍が激戦を行った時、

平家軍には多数の戦死者があり、その慰霊の為建立されたといわれる。白滝神社の社殿の玉鶴社の碑(高さ1m位)は、落武者其の若妻「玉鶴姫」が、

はるばる京より夫を慕いて、当地に訪ねてきて、夫の戦死を知り、戦死者を弔った平家塚の前で、自らの手で命を絶った玉鶴姫の悲哀哀話がある。

尚、同所にある井手は別称「赤井手又は、ち井手」と呼ばれ、平家軍追討戦の際、多くの死傷者の流れた血により、花宗川が赤く染まったと言われます。

クスの木とムクの木は、玉鶴姫と平家の落武者を表しているかもしれません。

  

  

12:00タマホームスタジアム筑後に到着。ここが今日のゴールです。(タマホームは、ここ筑後が発祥地です)

今日は、2軍戦、ホークスとドラゴンズの公式戦が行われるそうです。せっかくだから、チケットを買って観戦します。

グラウンドは、人工芝で規模もヤフードームと同じ広さです。

 

 

ホークス、先発は、1軍でも活躍している中田投手。ドラゴンズには、主力の森野選手もスタメンです。

試合は、ドラゴンズが先制し、ホークスが中盤逆転し2-1のまま、7回ラッキーセブンです。

 

 

1軍でもおなじみのジェット風船です。

 

 

時間の関係上、7回で帰りましたが、最終的には、ドラゴンズが9回に2点を入れ逆転勝ちしました。

ホークス1軍も開幕から調子が出ず、下位を低迷しています。2軍も同じように、ここという時に、決定打が出ません。

今日の試合は、楽に勝てていた試合です。(2軍戦) もう少しアピールして1軍に上がり、旋風を巻き起こしてほしいものです。

個人的には、3番手で投げた寺原投手が1軍に一番近いのでは、と思いました。

 

 

 

 

 

 


古河(こが)まくらがの里花桃ウオーク(茨城県・古河市)2日目15KM

2016-04-06 04:30:02 | オールジャパンウオーキングカップ

3/27 古河まくらがの里花桃ウオーク2日目(渡良瀬遊水地の自然を訪ねて)。

            30KMコース    はなももコース

            20KMコース    たんぽぽコース

            15KMコース    すみれコース

             7KMコース    つくしコース

このうち、帰りの時間もありますので15KMに参加。それも30KMコースの方と一緒にフライングスタートです。8:20スタート。

  

渡良瀬川の堤防に、「古河城本丸跡」の碑があります。

古河城は、江戸時代古河藩の中心として城郭の象徴ともいえる御三階櫓を有していました。御三階櫓は、寛永11年(1634)江戸幕府大老だった土井利勝が標高約20Mの本丸土塁の上に

築いた外観三層、内部四階建の櫓で、高さ七丈三尺余(約22M)もある、古河のランドマークタワーでした。

江戸時代が終わり、明治6年(1873)の廃城令により、古河城も御三階櫓をはじめとする建造物はすべて撤去され、堀と土塁だけの城址になりました。

更に、度重なる洪水対策として明治43年(1910)から始まった渡良瀬川改修工事により古河城跡の堀と土塁は崩され。城跡の一部を残し完全に消滅してしまったのです。

大老クラスの大名が城主となった巨大城郭が跡形もなく破壊された事例は古河城の他にはありません。(案内板より)

 

  

「三国橋」を通ります。ここは、一旦河川敷に出てまた戻ってくるという変則なコースですが、係り員の方もいなく、皆さん河川敷に行かずに橋を渡られていました。

ちょっとここは、難しかった・・・・・・

三国橋の中央部が茨城と埼玉の県境です。

茨城と埼玉だったら「二国」でいいのでは?という疑問が湧いてきます。

調べてみると、かつての三国橋は、現在より上流の渡良瀬川と思川の合流地点に架けられました。そこは、下総(茨城)、下野(栃木)、武蔵(埼玉)を跨ぐ所でしたので「三国橋」と名づけられたそうです。

  

  

堤防の所にカスリーン台風決壊地という碑があります。

カスリーン台風とは、1947年(昭和22年)9月、東海道から房総半島の南端をかすめて進んだ台風。雨台風で関東地方に大水害をもたらせました。

  

渡良瀬遊水地に着きました。渡良瀬遊水地は、地図で見ると、ハート型しています。

  

 渡良瀬遊水地をHPで見てみると、

 明治23年、29年の洪水を契機に、渡良瀬川下流部の洪水被害とともに、足尾銅山から渡良瀬川に流れ出した鉱毒による被害は明確になった。

これに対し、渡良瀬川の改修や最下流部に遊水地計画が打ち出され、当時、渡良瀬川は栃木県管理であり、明治37年県議会可決後、明治38年から明治40年までの間に

930町歩余りが買収された。その間、明治39年(1906)には谷中村は藤岡町に合併廃村となった。明治43年には、内務省による改修事業が始まり、昭和5年には渡良瀬遊水地が完成した。

その後、昭和10年、13年、22年と相次ぐ大洪水を契機に渡良瀬遊水地を、より効果的に活用するために、渡良瀬川、思川、巴波川に沿って、新しく囲繞堤や越流堤を設け、

調節池化を図り、大きな洪水の時だけ調節池の中に川の水が入るようにし、従来より洪水調節機能を増大させる事業(調節池化事業)を実施した。

  

  

昨日の「ヨシ焼き」の跡です。まだ周囲は煙たかった。時々風でヨシの燃えカスが宙に舞っています。

  

 

ゴールの公方公園に入ってきました。公園には、「古河桃むすめ」さんが通られましたので写真を撮らせていただきました。

11:30ゴール!距離は16KMでした。

  

2日間の参加者です。これでオールジャパン35県クリアしました。あと12県。

11:40公園から臨時バスで古河駅へ。古河発12:26で東京に行き、14:40の新幹線のぞみで博多へ。

  

今日2日目16KMのGPSです。遊水地がハート形になっているのがわかりますか?

 

 

 

 

     


古河(こが)まくらがの里花桃ウオーク(茨城県・古河市)1日目20KM

2016-04-05 07:07:34 | オールジャパンウオーキングカップ

3/26~27日 茨城県古河(こが)市で行われた「古河まくらがの里花桃ウオーク」に参加しました。古河は、初めての地です。

古河では、今、花桃祭りが行われています。出発式まで時間がありましたので満開の花桃を楽しんできました。

                

  

古河というと、すぐ、財閥の「ふるかわ」と読んでしまいますが、ここは、「こが」と読みます。私も福岡で古河までの切符を買う時「ふるかわ」と言ってしまいました。(笑)

古河は、古くは「許我」と呼ばれ、万葉集にも詠まれています。奈良時代から渡良瀬川の渡し場として賑わいました。

「まくらが」とは、万葉集の古河にかかる枕詞と言われています。

会場は、古河公方公園。参加者名簿がないため、誰が参加されているかわかりませんでしたが、会場内では、とほ娘さんご夫妻、地元茨城のKさん、藤沢のSさん達が参加されていました。

1日目のコースは、20K・・・・・・古河名所旧跡コース

            15K・・・・・・桜と街道コース

             7K・・・・・・歴史と美術館コース

私達は、20KMコースに参加しました。出発式のあと、9:00スタート。

  

古河公方公園内には、古河公方館跡があります。

古河公方館跡(県史跡)は、御所沼と呼ばれた沼に突き出た所に位置し、「鴻巣御所」とも呼ばれていた。ここは古河公方足利成氏が古河城の別館として築城したものといわれる。

また最後の古河公方義氏の遺児氏姫が古河城からここに移され、その死まで住んだ所でもある。現在は「古河公方館跡」の碑が立っており、近くには堀と土塁を見ることができる。

  

公方公園を出て、コースは、渡良瀬川河川のサイクリングロードに出ます。渡良瀬川は、利根川の支流の一級河川です。

渡良瀬川というと、熊本出身の森高千里さんが歌った「渡良瀬橋」があります。

     渡良瀬橋で 見る夕日を  あなたはとても好きだったわ きれいなとこで育ったね  ここに住みたいと行った・・・・・・

その渡良瀬橋を探しますが、残念ながら古河ではなく、栃木県足利市の方にあるそうです。

河川敷に来ると、一瞬火事」 かな?と思うぐらい煙が上がっています。これは、「ヨシ焼き」といって渡良瀬遊水地のヨシを焼いて害虫駆除をするそうです。

   

7,6KM地点が1回目のチェックポイントです。このあとコースは、古河第二高校内を通ります。

  

13,3KM地点の野木神社が2回目のチェックポイント。この野木神社は、栃木県です。

およそ1600年前、仁徳天皇の時代の建立。平安時代の征夷大将軍、坂上田村麻呂が延暦21年(802年)にここに詣で、勝どきをあげたといわれています。

坂上田村麻呂は、蝦夷の反乱を抑えられたのは「神の助け」として、そのお礼に社殿を新築し、宮地を現在の場所に定めたのです。

鎌倉時代になると、源頼朝が社領として田地を寄付したり、源実朝が神馬を奉納するなど、源氏の信仰が厚かったようです。

江戸時代には、古河藩主の崇敬も厚く、現在の社殿は、文政2年(1819年)に土井利厚によって再建されたものです

    

境内を見ると、「二輪草群生地」とあります。

二輪草というと、川中みゆきさんが歌った「二輪草???」

   あなた おまえ 呼んで呼ばれて 寄り添って・・・・・・

キンポウゲは、見たことがありましたが、その仲間の「二輪草」は、初めて見ました。そうですね、歌の歌詞みたいに寄り添っているように見えますね。

 

  

コースは、再び渡良瀬川河川に。

ここには、「古河」を歌った万葉歌碑がありました。

  「まくらがの 許我(こが)の渡りの からかじの 音高しもな 寝なへ児故に」

      意味は、(まくらがの古河の渡りに唐楫(からかじ)の音の高いように、噂が高くたったなあ あの子と共寝したわけではないのに」 ※唐楫・・・唐風の楫、柄のついた楫

  「逢はずして 行かば惜しけむ まくらばの許我(こが)漕ぐ船に 君も逢はぬかも」

     意味は、(あなたと逢わずに行ったら心残りだろう。まくらがの古河を漕ぐ渡り船であなたとお逢いできないものかな)

    

コースは、日光街道の方に行きます。「雀神社の大欅」があります。この欅は、元来2本あった木が合体したので「夫婦欅」とも呼ばれています。

目通り周囲8,8M、根元周囲18M、樹高25M。

  

  

  

古河歴史博物館の所が3回目のチェックポイント。このあたりに古河城出城があったそうです。

   

鷹見泉石記念館は、歴史博物館の別館として開館されました。もともとは古河藩の武家屋敷でしたが、鷹見泉石が晩年を送った住まいで古河に現存する唯一の武家屋敷です。

   

長谷観音に来ました。長谷観音は、鎌倉、奈良の長谷観音と共に日本三大長谷と呼ばれています。

古河城の鬼門除けとして明応2年(1493年)、古河公方足利成氏が鎌倉の長谷寺より勧請したもので、累代古河城主が祈願をこめたところとされています。

背丈2メートルあまりの十一面観世音菩薩立像が安置されています。日本三大長谷のひとつです。

ここでも朱印をいただきました。

    

香取神社を過ぎると国道沿いに大きなファミレスがあります。「ばんどう太郎」です。お店の前の駐車場は、お昼時で車がいっぱいです。

確か、テレビの「ケンミンショー」で見たような気がします。ばんどう太郎は、茨城が発祥地なんですね。

公方公園に戻ってきました。公園内は、花桃の花見客でいっぱいです。アトラクションでバルーンも上がっています。

古河では、花桃のあとは、桜の花見ですね。ここを歩いた時は、桜は蕾の状態でしたが、もう満開になっているでしょうね。

このように古河の人は、花見が2回できるのですね。

  

13:28 無事ゴールしました。今日は、膝の痛みもそんなに感じなく平均速度5K/hぐらいで歩き、ました。全快までもう少しです。

 本日20KMのGPSです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


青春18きっぷで三重・亀山から茨城・古河へ

2016-04-04 11:15:09 | 旅行

3/26からの茨城県古河市花桃ウオークに参加の為、青春18きっぷで三重・亀山から茨城・古河まで行きました。

  

亀山から古河まで約490㎞、料金は、7880円です。それを青春18きっぷ(1枚当たり2370円)で行こうとするのだから・・・・・・・

前期高齢者になって、青春と名がつくのは、妙に照れくさいですが、時間はたっぷりあります。

関西本線亀山発7:00で名古屋へ。名古屋着8:09.

  

名古屋では、名物のモーニングをいただきました。

  

東海道本線 名古屋発9:17で豊橋へ。豊橋10:09着。

  

豊橋駅より10:22浜松行。浜松10:57着。

まだ早かったけど浜松でお昼をいただきました。

  

浜松発12:29 興津行

 

お昼を食べてポカポカ陽気なのでウトウトしてきます。隣には、小学生ぐらいの子供さんでしょうか、この子供さんも船を漕いでいます。

何回も私の肩に頭をぶつけてきますので、お相撲の決まり手でいうと、「肩透かし」を使うと、見事に倒れてきました(笑)。それでも本人起きないようです。

13:14島田駅到着。ここから始発で熱海行が出ます。島田発13:25熱海行。

  

このローカル線の一番の楽しみは何といっても富士山です。

途中興津駅あたりで見えるのでは?と期待していましたが、曇っていて見れませんでした(残念)。 熱海着15:08。

車内は、部活の高校生がたくさん乗ってこられ満員状態。

熱海駅からは、15:11 宇都宮行と連絡しています。これに乗ると古河まで乗り換えなしで行ける(JR快速アクティー・JR上野東京ライン)ので何としても乗りたいのですが

乗り換える人が多く、その方たちが階段に殺到していますので先に進みません。それでもどうにかこうにか間に合いました。

電車は東京駅を経由して古河へ。古河駅17:54着。(東京駅での乗り換えもなく大変快適でした)

  

移動時間11時間、乗車時間9時間、乗換回数5回で古河に着きました。流石、東海道です。乗換もスムーズにいき9時間の乗車でもそんなに疲れませんでした。

地方だと行くとそうはいきませんね、乗換に2時間ぐらい待つこともあります。

青春18きっぷ楽しめました。

 

古河には、美味しい餃子屋さんがあるとのことですので、そこに行ってきます。

創業昭和39年 なんと50年も営業してるんですね。

期待は膨らむばかりです。

 

   

何と、丸い餃子 です。一見たこ焼きかな?とも思いました。タレに漬けいただきますが、これ、いけます。美味しいです。

水餃子も注文しました。水餃子は、普通の形でしたが、これもいけます。ニンニクをたっぷりいただき明日のウオーキングに備えました。

余り美味しくて 翌日の予約をしてしまいました(笑)

 

 

 

 

 

 

 

 

 


東海道道草ウオーキング№9(坂下宿~関宿)

2016-04-03 17:14:30 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

坂下宿の筆捨山から1号線沿いに進み、「新所町」の信号から斜左に入ります。

そこが関宿西の追分です。14時関宿到着。

  

関は古代から交通の要所であり、古代三関のひとつ「鈴鹿関」が置かれていた所です。関の名もこの鈴鹿関に由来しています。

関宿の西の入口にあたる西追分は、東海道と大和・伊賀街道の分岐点です。

  

東海道で唯一往時の町並みを色濃く残していることから昭和59年国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

町並みには、電柱がなく(地中化)実にすっきりしています。また、民家のお正月飾りは、2年前伊勢市で見た「笑門」です。

   

関宿の範囲は、東西追分の間、約1,8km、25haに及び、江戸時代から明治時代に建てられた古い町家200軒あまりが残っています。

  

   

  

宿場町を歩いていると「会津屋」という看板を見つけました。ここでお茶タイムにします。

会津屋」は、元は、山田屋と言い、小万が育ったことで知られています。

鈴鹿馬子唄にも謡われる関の小万は、女の身で父の仇討ちをした仇討烈女として名高い。小万の父は、九州久留米有馬氏の家来で、剣道指南役牧藤左衛門と言ったが、

遺恨により同輩の小林軍太夫に殺された。身重の妻は夫の仇を討つため旅に出たが、鈴鹿峠を越え、関宿についた頃には旅の疲れが重なって、

地蔵院前の旅籠山田屋の前まで来たときには行き倒れ同様の有様であった。山田屋の主人も女将も親切な人たちであったので、この女を引き取って手厚く看病し、

女はそこで女の子を産んだ。これが小万である。女はまもなく、子供の将来を宿の主人山田屋吉右衛門に託して死んだ。

小万は成長して養父母から両親のことを聞き、女の身ながら亡き母の志を継いで亡父の仇討ちをする決心 をする。山田屋の主人は、亀山藩家老加毛寛斎に頼んで

武術の修行に励むようにした。

天明三年(1783)八月、運良く仇と巡り会うことができた小万は、馬子姿に変装して亀山城大手前の辻で仇のくるのを待ち受け、見事本懐を遂げることができたのであった。

これにより、関の小万の名前は一躍高まったが、その後も山田屋にとどまって養父母に仕え、享和三年(1803)正月十六日、三十六歳で死んだ。墓は福蔵寺にある。

関の小万はこのほかに、近松門左衛門作「丹波与作待夜の小室節」に出てくる遊女小万が有名である。しかし、これは近松が書いたのが宝永四年であるから、

仇討ちの小万より百年ほど前のことである。(亀山の昔話より

   

  

   

 

   

一服後、宿場町を見て廻ります。廻っていると、宿場ツアーに参加されている団体さんと遭遇。私のDバックに付けている風車、と長崎から歩いています・・・・・・というのを見つけ

写真を撮られました。一躍有名人になったみたいです。(笑)

この関宿は、江戸時代にタイムスリップしたみたいで、どこからか参勤交代の大名行列が来るような気がします。

  

 

関宿旅籠玉屋歴史資料館」に来ました。

玉屋は、「関で泊るなら鶴屋か玉屋、まだも泊るなら会津屋か」と謡われたほどの関宿を代表する大旅籠の一つです。江戸時代に建築された貴重な旅籠建築に

当時使われていた道具類や、庶民の旅に関係する歴史資料など展示して、江戸時代に栄えた旅籠の姿を再現しています。

     

  

   

奥の土蔵には、歌川広重の浮世絵が展示されています。残念ながらここは、撮影禁止でした

 

江戸時代の宿場の宿泊施設は次の通りでした。

本陣。脇本陣:大名・公家・幕府の役人などが休憩したり、宿泊する格式のある宿屋で、東海道では各宿に平均2軒置かれました。

         脇本陣は、大名などの宿泊が重なった場合に本陣を補佐した宿屋で、本陣に次ぐ格式をもっていました。

旅籠      武士や一般庶民を宿泊させた食事つきの宿屋で宿場で多数を占めていました。旅籠を描いた浮世絵には、店先で客を呼び込む客引き、桶で客の足を

         洗ったり、御膳を運ぶ女中、化粧する飯盛女、風呂に入り座敷でくつろぐ客などが描かれています。

木賃宿    旅人が、米を持参するか、宿で買うかして自炊を行い、蒔代を支払う形式の宿屋です。古くは殆どの宿屋がそうでしたが、旅籠が普及すると宿場のはずれや、

        町裏で営業するようになり、商人や、旅芸人などの貧しい人々が宿泊していました。

 

 

道中や宿屋での蚤を避ける方法も記されていました。

  

関宿の本陣は、「伊藤本陣」(現松井家)と「川北本陣」です。

伊藤本陣は、間口十一間(約20M)、建坪69坪、西隣の表門は、唐破風造りの檜皮ぶきでした。現在残っている街道に面した部分は、家族の居住と大名宿泊時に

道具置き場に供する建物でした。

広重の浮世絵「関宿」は、大勢の人数を従えた大名行列の移動は大変で、まだ明けやらぬ早朝の暗いうちから「伊藤本陣」出立の準備があわただしく始まります。

  

  

川北本陣」は、間口十九間半(約35M)、奥行き五十間半(約91M)、総建坪395坪にも及ぶ広大なものでした。表門より白砂を敷き詰めた通路を経て、唐破風の玄関があり、

奥に来客用の書院や風呂を設け、道に面しては、板間や通り土間があるミセを構えていました。現在は建物などは全て取り払われましたが、表門が延命寺の山門として

移築されています。

  

関まちなみ資料館があります。ここは、関宿の伝統的な町家を公開した資料館です。

   

  

そこまでが精いっぱい」という意味で使われる「関の山」という言葉は、夏に行われる関神社の祭礼で町内を練り歩く山車が語源と言われています。

絢爛豪華な山車が町内の街道をいっぱいにふさぎ、これ以上通るに通れない様子を表現し、この言葉が生まれたとのこと。また、山車がとても豪華で、

これ以上の贅沢は出来ないと言われたことからきたという説も。いずれにせよ、現在も残る4台の山車は、毎年“関宿夏まつり”で盛大に町を練り歩き、祭りを華麗に彩 っています。

  

「鶴屋」は、江戸時代の終わりには、脇本陣も務めました。

  

  

時計を見ると、もう4時。あっという間に2時間たってしまいました。百五銀行の所からJR関駅に向かいます。

  

亀山行の電車まで約1時間あります。駅の売店でビールと関のお菓子「志ら玉」をいただきました。

  

亀山のホテルに着くと、津の歩友〇川さんから、鰻弁当、鰻ひつまぶしの差し入れをいただきました。津は、鰻が名物です。

天むす、ひつまぶしは、名古屋の名物になっていますが、もともとは、三重の名物です。

〇川さん、鰻も厚みがあり本当においしかったです。次回、津周辺に行きましたらもう一度食べてみたいです。有難うございました。

3/24のGPSです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


東海道道草ウオーキング№8 (土山宿~坂下宿)

2016-04-02 13:32:07 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

3/24、亀山のホテルを6:30に出て亀山発6:40の関西本線で柘植駅へ、そこで草津線に乗り換え貴生川駅へ。貴生川からあいくるバスで昨日のゴール地田村神社に行こうと

行程をたてました。これだと田村神社には、8:07分に到着します。

柘植駅から草津線乗り換えまでは、すべて予定通りでしたが、この草津線の車掌さんの車内アナウンスが声がこもっていて聞き取れずまた、車内には、電光表示板もなく

神経を使って降りる駅は、まだかまだかと待っていましたが、ついつい、うとうととしてしまい、気が付いたら電車は、貴生川駅を発車する所でした。慌てて降りようとしましたが、

無情にも扉が閉まってしまいました。次の三雲駅で上り線で貴生川に戻りましたが、貴生川駅からのバスは、約1時間半ばかり待たなくてはいけません。

他に交通手段がなく、タクシーで3000円ぐらいだろうと思い、タクシーで神社まで行きましたが、この金額5160円でした。

それでも8:30には、着きましたので予定より30分遅れのスタートです。

先ず「田村神社」へ道中の無事と今後電車に乗り過ごさないよう祈願します。

田村神社は、征夷大将軍・坂上田村麻呂を主祭神として、嵯峨天皇並びに倭姫命をお祀りしています。

田村神社のご祭神「坂上田村麻呂公」は、平安初期の武人で、天性の才能に優れ、兵を用いるに神の如くであったと伝えられ、 恒武天皇・平城天皇・嵯峨天皇の三代に仕え、

その忠勲と蝦夷征伐等のご功績は後世まで高く顕彰され、有史以来およそ匹敵するものはありません。 征夷大将軍に任ぜられたことは、あまりにも有名です。

田村神社は近江国(滋賀県)と伊勢国(三重県)の国境にあり、古来には都より伊勢へと参宮する交通の要衝でした。 当社の言い伝えによると、

「鈴鹿峠に悪鬼が出没して旅人を悩ましており、嵯峨天皇は坂上田村麻呂公に勅命を出してこれを平定させた」とあります。 それゆえに、交通の障害を取り除いて

土地を安定させた坂上田村麻呂公の御遺徳を仰ぎ、弘仁3(812)年の正月、 嵯峨天皇は勅令を出して坂上田村麻呂公をこの土山の地に祀られることとなりました。

坂上田村麻呂公が鈴鹿峠の悪鬼を平定してよりのち、作物が実らず疫病が流行しました。 そのため、弘仁3年の正月に嵯峨天皇は詔を出し、

坂上田村麻呂公の霊験を以て厄除の大祈祷が斎行されました。 これにより、坂上田村麻呂公は厄除の大神として崇敬され、その御神徳は厄除の祖神として

崇敬されることとなりました。 また坂上田村麻呂公は、鈴鹿峠の悪鬼を討伐して交通の安全を保たれたことに加え、延暦年間には東北に出征され、これを平定されました。

その御神威により、交通安全の神様としても崇敬されています。(神社HPより)

 

    

神社をあとに街道歩きスタートします。

海道橋があります。ここが広重が「土山宿・春の雨」を書いた場所とされています。

 

左上部に田村神社が見えます。私も広重と同じ構図で写真を撮ってみました。

  

橋を渡った所に「高札場」があります。書かれている内容は、

「この橋を渡ることができるのは安政4年(1775)の閏年12月からである。この橋を渡る時、幕府の用で通行する人達や、武家の家族が渡る時は無料である。

また、近村に住む百姓達の中、川向こうに田畑があり毎日橋を渡って生活しなければならない人達の渡り賃も無料である。しかし、それ以外の住民及び一般の旅人に

ついては一人につき三文、また荷物を馬に乗せて渡る荷主についても馬一頭につき三文、渡り賃を取ることになっている。

この規則は一時的なものでなく、橋がある限り永遠に続くものである。」

私が渡る時、渡り賃を取られるかな?と不安でしたが、現代では取られないようです(笑)。因みに三文というと、今の価値ではm50~100円ぐらいでしょうか?

   

先に行くと「蟹坂古戦場跡」があります。

天文11年(1542年)9月、伊勢の国司北畠具教は、甲賀に侵入しようとして、彼の武将神戸丹後守及び飯高三河守に命じ、鈴鹿の間道を越えて山中城を攻めさせた。

当時の山中城主は、山中丹後守秀国であり、秀国は直ちに防戦体制を整え、北畠軍を敗走させた。こうして北畠軍はひとまず後退したが、直ちに軍勢を盛りかえし、

さらに北伊勢の軍勢を加えて再度侵入し、一挙に山中城を攻略しようとした。このため秀国は、守護六角定頼の許へ援軍を乞い、六角氏は早速高島越中守高賢に命じて、

軍勢五千を率いさせ、山中城に援軍を送った。一方、北畠軍も兵一万二千を率い、蟹坂周辺で秀国勢と合戦した。この戦いは、秀国勢が勝利を収め、

北畠勢の甲賀への侵入を阻止することができた。(案内板より)

  

蟹が坂の信号近くで1号線と合流します。地図では、旧街道は、国道を横断して山道を行くようになっていますが、案内板では、行き止まりになっていると書かれています。

それでも行ってみることにしました。蟹塚を過ぎ山道をどんどん行きます。地図では、1号線に戻るようになっていますが、それらしいものはありません。

最終的には、高速道路のガードまで来ました。携帯のGPSで確認すると旧街道とはコースが外れています。

仕方なく、1号線に戻りしばらく国道沿いに歩きます。

 

  

1号線「猪鼻」の信号を左折。

  

猪鼻村は、鈴鹿山脈の西方に位置し、中世は鈴鹿山警固役であった山中氏の支配を受け、近世は幕府領や諸藩領となり幕末にいたる。
村中を東海道が東西に五町36間余(約610メートル)、商いを営む者も多く、往時五十戸を超え街道を賑わしていた。
土山宿から坂下宿間の立場(休憩所)があり、草餅や強飯が名物であった。村高は、五十三石余「天正十九年(1591)徳川家康知行目録写」、
おもな産業は農業で、製茶や林業も行われた。
赤穂浪士の一人で俳人の大高源吾(俳号は子葉)が旅の途中に詠んだ「いの花や 早稲のもまるゝ 山筏ろし」の句碑がある。井上士朗の『幣袋』に安永三年(1774)鈴鹿峠に向う途中で

「猪鼻峠といふ名のをかしければ、ゐのししの鼻吹き返せ青あらし・・・・」とある。
寺院は、臨済宗東福寺派の浄福寺、集落の東端には火頭古神社があり、本殿は十七世紀後半の造営とされ、国登録有形文化財となっている。
明治二十二年猪鼻村は町村制により甲賀郡山内村大字猪鼻、昭和三十年合併により甲賀郡土山町大字猪鼻、平成十六年十月一日合併により甲賀市土山町猪鼻となる。
      平成二十年十二月
        土山町猪鼻区   (案内板より)

     

再び街道に戻ります。1号線には東京までの距離が記されていました。東京まであと437km・・・・・・・・・

名神高速道路の高架の手前に「山中一里塚」があります。ここは、一里塚公園となっていて旅人の休息地になっています。

私達が行ったときも鈴鹿峠を越えた方がいました。

 

高速のガードを潜り、しばらく旧道を歩きますが、山中西の信号からまた、1号線と合流します。

ここは、交通量も少なく、鈴鹿トンネルを下りてきたトラックがかなりのスピードで走り去ります。その風圧で私の風車が勢いよく廻ります。

トンネルの手前から旧街道に入ります。

  

万人講常夜燈」に来ました。

万人講常夜燈は、江戸時代の金比羅詣りの講中が道中の安全を祈願して建立したものである。重さ28t、高さ5m44cmの自然石の常夜灯で、地元山中村を始め、

坂下宿や甲賀谷の人々の奉仕によって出来上がったと伝えられている。もともとは、東海道沿いに建っていたが、鈴鹿峠の工事の為、現在の位置に移設された。

東海道の難所であった鈴鹿峠に立つ常夜燈は、近江国側の目印として旅人たちの心を慰めたことであろう。(案内板より)

 

万人講常夜燈にあるトイレ休憩をし、そこに置いてある杖をお借りして「鈴鹿峠」を目指します。

  

峠の入口が県境です。私達の東海道歩きも京都、滋賀と通り、これから伊勢の国・三重県に入ります。

鈴鹿峠は、伊勢と近江の国境にまたがる鈴鹿山(378m)の脇を縫うように超えるのが鈴鹿峠越えです。古くは「阿須波道」と呼ばれ、仁和2年(886)に開通したとされています。

「鈴鹿山」は、本来は「三子山」のことを指しているとみられますが、「今昔物語」や和歌などに登場する「鈴鹿山」は、鈴鹿峠越えを指しているものが多いです。

なだらかな近江側と違い、山深い「八町二十七曲り」の急な山道は、古くは山賊の話が伝えられ、江戸時代には、箱根越えに次ぐ東海道の難所として知られていました。(パンフより)

  

鏡岩:昔山賊がこの岩を磨きそこに映った旅人を襲ったという伝説から「鬼の姿見」とも呼ばれています。

  

 

  

  

片山神社」は、その由来が延喜式内社で鎌倉時代には、現在の場所に鎮座したと伝えられています。また斎王群行の際、皇女が休泊した「鈴鹿頓宮」の跡とも

いわれています。江戸時代には、鈴鹿権現と呼ばれ、往来する多くの人の信仰を集めました。昭和53年に市史跡に指定されましたが、平成11年、本殿などを

焼失し、現在では、神楽殿のみとなりました。高い石垣などにかつての面影を留めています。(パンフより)

【祭神】倭比売命
       (配祀)瀬織津比売神、
気吹戸主神 、速佐須良比売神、 坂上田村麻呂、天照大神 、速須佐之男命 、市杵島姫命 、大山津見神

  

このあたりは、「古町」と呼ばれ、慶安3年(1650)9月3日にこの地を襲った大洪水により、埋没したため、翌年約1km東へ移転し、宿場集落として繁栄しました。

尚、洪水以前の寛永14年(1637)に実施された「勢州鈴鹿郡坂下村検地帳」によれば、坂下村で全体で寺社の他に百十軒の人家があったとされています。

どうにか、鈴鹿峠を越えてきました。感想をいえば、近江側からの方が、登りが少なく、殆ど下りでしたので、かえって、三重からの方が登りが多く大変だったと思います。

  

坂下宿に入りました。

坂下宿は、鈴鹿峠の麓に位置し、その名もその立地に由来しています。いつごろ宿が立てられたかは定かではありませんが、「宗長日記」大永4年(1524)の条に

「坂の下の旅館」とあることから、室町時代には宿として機能していたものとみられます。慶安3年(1650)の大洪水により壊滅し、1kmほど下流に移転して復興されました。

江戸時代には、東海道五十三次の江戸から数えて48番目の宿場町として峠を往来する人々で賑わいました。東海道難所の一つである鈴鹿峠を控えて参勤交代の大名家

などの宿泊も多く、江戸時代後半には、本陣3軒、脇本陣1軒、旅籠48軒を数え、東海道有数の宿にあげられます。

特に大竹屋は、間口13間半(24m)、奥行25間(45m)もあり、鈴鹿馬子唄にも「坂下では大竹小竹、宿がとりたきゃ小竹屋に」と唄われたように、数多くの大名家も

休泊する東海道随一の大店として世に知られていました。大竹屋の庭にあった「不断桜」も著名で、往来する公家や文化人によって歌に詠まれています。

明治23年(1890)関西本線の開通による通行者の激変とともに宿場としての役割を終えました。

これほどまでの賑わいをみせたこれらの建物は、明治以降すべて取り壊され、現在は跡地に石碑を残すのみとなりました。(坂下宿パンフより抜粋)

   

  

 

街道の東側には、「鈴鹿馬子唄会館」があります。

会館の前には、東海道五十三次宿場名を書いた柱が立っています。

  

時刻も1時を廻っており、ここで休憩します。

 

鈴鹿馬子唄は、鈴鹿峠を越える馬子たちの間でいつしか歌われ始め、いつしか近松門左衛門の浄瑠璃などにより広く全国に知れ渡ってゆきました。

  坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る  

   坂下では 大竹小竹 宿がとりたや小竹屋に

   席の小万が 亀山通い 月に雪駄が二十五足  

鈴鹿峠自然の家は、昭和13年坂下尋常小学校として建築されましたが、昭和54年に廃校になり、現在は青少年の為の研修施設として使われています。

   

街道は、先の方で1号線と合流します。閑静な宿場町から一転、トラックや乗用車の車の音がやかましいぐらいです。今日は風も強いので私の風車が勢いよく廻り、

デリネーターの役目をしてくれています。

 

歩いていると「筆捨山」のバス停があります。筆捨山は、その昔、画家の狩野元信が旅の途中、この山を描こうと筆をとったところ、山の風景が刻々と変わってしまうことに

絵を描くことを諦め、筆を投げ捨てたことからこの名がついたと伝えられます。

広重もこの位置で坂下宿の筆捨山を描いています。

  

筆捨山を見ながら次の関宿へ向かうのでした。(続く)