下総・江戸川ツーデーマーチ2日目。今日は、中山法華経寺コース20kmに参加。
帰りの時間を考え、8:30フライングスタート。
すぐ江戸川河川敷に出ました。
市川橋の所が20k、32kの分岐点です。20kは、このまままっすぐ進み、32kは、市川橋を渡り、江戸川の東京側を歩きます。
江戸川の河口に向かって歩いていると河川敷では野球の試合が行われていました。今日は天気もいいから気持ちがいいでしょうね。
河川敷には、たんぽぽが咲いていました。たんぽぽって漢字で書くと「蒲公英」です。
河口では、アサリ?でしょうか、潮干狩りをされていました。
林遊船所が9km地点です。コースは、ここで河川敷から左折します。民家の庭には、八重のヤマブキが咲いていました。
東西線「原木中山駅」、京葉道路を通ると、コンビニがありましたのでここで休憩します。
このあたりは、船橋市になります。船橋市のマンホールは、江戸を中心に関東近辺の海運に用いられていた海川両用の廻船「三大力船」と市の花「山茶花」が
デザインされています。船橋の名は、日本武尊が東征の折、川を渡るために船で橋を作ったのが由来とされています。
コンビニでトイレ休憩とコーヒータイムをして再びスタート。
コースの矢印を見ながら歩いていたのですが、どうも道に迷ったようです。京成中山駅を通って法華経寺へ行くのですが、道がわからなくなりました。
近くの人に京成中山駅を教えてもらいやっとコースに戻りました。
市川歴史散歩図の地図を見ていたら、セロリーさんのお友達のR・Sさんに再び遭遇。競馬好きのR・Sさんは、「中山競馬場」は、法華経寺の裏手の方にあると
教えていただきました。私、競馬はあまり好きではありませんが、でも中山競馬場の名は知っています。法華経寺当たりの地名が中山ですのでこの地から
名をとったのですね。
法華経寺(ほけきょうじ)は、千葉県市川市中山二丁目にある日蓮宗大本山の寺院です。鎌倉時代の文応元年(1260年)創立。中山法華経寺とも呼ばれています。
山号は正中山。日蓮の説法と安息の地であり、境内の鬼子母神も広く信仰を集めています。
ここでも御朱印をもらってきました。
真間川の桜並木に来ました。両岸の桜が見事に満開です。この真間川の桜には、下記のようなエピソードがあるそうです。
真間川沿いの桜並木は、昭和24年の市川市制15周年記念事業の一環として市内の中学生の手によって植えられたと伝えられており、真間川本川の境橋(国道14号)から
国分川合流点までの区間(約2.5km)に約390本のソメイヨシノが見事な花を咲かせる桜並木として成長し、市川市内の桜の名所として広く市民に親しまれていました。
しかし、急激な市街化の進行により度々浸水被害が発生し、改修工事の実施が急務となりましたが、この改修工事の実施にあたっては桜並木の保存が大きな課題でありました。
現在の改修計画である昭和54年の総合治水対策特定河川事業の計画に際し、桜並木の保存の検討を試みましたが、真間川下流部約950m区間の桜並木を伐採し、
拡幅せざるを得ないという結果となりました。これを機に市民の桜並木の保存の気運は高まり、市民団体の結成ともに、約17,000人による街頭署名が集められ、
県議会や市川市議会に請願が行われるなど、市民と桜並木の保存に対する議論が続きました。
一方、このような中でも真間川の氾濫は度重なり、昭和56年10月の台風24号では、有史最大の被害となる狩野川台風に匹敵する大水害が発生し、
早急な改修の着手が必要となりました。
このような背景の中、昭和57年10月に地元関係者や市川市などとともに「自然と人間の共存」を基本理念とする「真間川緑化護岸構想」をとりまとめ、
河道の拡幅により伐採する桜並木の再生を図るとともに、川沿いの遊歩道の整備、地域のランドマークとなる親水公園、ポケットパーク、橋梁等を整備し、
真間川を「水と緑のオープンスペース」として整備を図ることとしました。(千葉県HPより)
しばらくは、この桜を見ながらのウオーキングです。
千葉県は梨の生産が日本一です。(因みに我が福岡県は第8位) そういえば船橋の非公認ゆるキャラの「ふなっし~」も梨の妖精ですね。
千葉県で梨栽培が始まったのは、江戸時代の1769年に、八幡地方(現在の市川市八幡地区)で、川上善六氏が取り組んだのが最初と言われています。
川上善六氏は、1742年八幡地方に生まれ、幼児より書を好み学識に富んでいました。殖産興業に熱心で、八幡地方にどんな作物が適しているかを探していたところ、
美濃国大垣辺で品質の良い梨栽培を見てその技術を学び、枝梢を持ち帰って八幡地方に広めました。
八幡地方で収穫された梨は江戸に運ばれ、高級品としてもてはやされていました。(千葉県HPより)
千葉県の中でも市川市は、梨の生産高県内2位です。
市川市のマンホールは、梨かな?と思いましたが、市の木「クロマツ」をデザインしています。
弘法寺の階段の所に来ました。ここからは昨日と同じコースです。昨日は、階段の前から左折しましたが、最終日ですので階段を登りました。
弘法寺は、奈良時代の天平9年(737)、行基菩薩が真間の手児奈(注)の霊を供養するために建立した求法寺がはじまりとされる。平安時代、空海が伽藍を構えて弘法寺と改称したという。
その後、天台宗に改宗した。鎌倉時代、日蓮の布教を受けて、時の住持・了性法印が法華経寺・富木常忍と問答の末やぶれ、日蓮宗に改宗した。常忍の子で日頂を初代の貫主とした。
大檀那の千葉胤貞より寺領の寄進を受ける。室町時代、山下に真間宿または市川両宿といわれる門前町が発展した。徳川家康より朱印地30石を与えられる。
江戸時代、徳川光圀が来訪し茶室に遍覧亭という号を贈る。紅葉の名所として知られ、諸書に弘法寺の紅葉狩りのことが記されている。明治時代、火災のため諸堂は焼失した。
その後、再建され現在に至る。境内には、日蓮の真刻と伝える大黒天を祀る大黒堂、鐘楼、仁王門、伏姫桜とよばれる枝垂桜があり、小林一茶、水原秋桜子、富安風生などの句碑がある。
(注)手児奈・・・・・・市川の町を歩いているとこの手児奈(てこな)という名を目にします。山崎パンでは、手児奈パンという地域限定のパンを販売しています。
市川市の昔話から手児奈伝説を引用します。
むかしむかしの、ずうっとむかしのことです。真間のあたりは、じめじめした低い土地で、しょうぶやアシがいっぱいにはえていました。そして、真間山のすぐ下まで海が入りこんでいて、
その入江には、舟のつく港があったということです。
そのころは、このあたりの井戸水は塩けをふくんでいて、のみ水にすることができないので困っていました。ところが、たった一つだけ、「真間の井」とよばれる井戸からは、
きれいな水がこんこんとわきだしていました。だから、この里に住んでいる人びとは、この井戸に水をくみに集まりましたので、井戸のまわりは、いつも、にぎやかな話し声や笑い声がしていたといいます。
この、水くみに集まる人びとの中で、とくべつに目立って美しい「手児奈」という娘がいました。手児奈は、青いえりのついた、麻のそまつな着物をきて、かみもとかさなければ、はき物もはかないのに、
上品で、満月のようにかがやいた顔は、都の、どんなに着かざった姫よりも、清く、美しくみえました。
井戸に集まった娘たちは、水をくむのを待つ間に、そばの「鏡が池」に顔やすがたを写してみますが、その娘たちも、口をそろえて手児奈の美しさをほめました。
「手児奈が通る道のアシはね、手児奈のはだしや、白い手にきずがつかないようにと、葉を片方しか出さないということだよ。」
「そうだろう。心のないアシでさえ、手児奈を美しいと思うのだね。」
手児奈のうわさはつぎつぎと伝えられて、真間の台地におかれた国の役所にもひろまっていったのです。そして、里の若者だけでなく、国府の役人や、都からの旅人までやってきては、
「手児奈よ、どうかわたしの妻になってくれないか。美しい着物も、かみにかざる玉も思いのままじゃ。」
「いや、わしのむすこの嫁にきてくれ。」
「わたしなら、おまえをしあわせにしてあげられる。洗い物など、もう、おまえにはさせまい。」
「手児奈よ、わしといっしょに都で暮らそうぞ。」
などと、結婚をせまりました。そのようすは、夏の虫があかりをしたって集まるようだとか、舟が港に先をあらそってはいってくるようだったということです。
手児奈は、どんな申し出もことわりました。そのために、手児奈のことを思って病気になるものや、兄と弟がみにくいけんかを起こすものもおりました。それをみた手児奈は、
「わたしの心は、いくらでも分けることはできます。でも、わたしの体は一つしかありません。もし、わたしがどなたかのお嫁さんになれば、ほかの人たちを不幸にしてしまうでしょう。
ああ、わたしはどうしたらいいのでしょうか。」
といいながら、真間の井戸からあふれて流れる小川にそって、とぼとぼと川下へ向かって歩きました。手児奈のなみだも小川に落ちて流れていきました。
手児奈が真間の入江まできたとき、ちょうどまっ赤な夕日が海に落ちようとしていました。それを見て、
「どうせ長くもない一生です。わたしさえいなければ、けんかもなくなるでしょう。あの夕日のように、わたしも海へはいってしまいましょう。」
と、そのまま海へはいってしまったのです。
追いかけてきた男たちは、
「ああ、わたしたちが手児奈を苦しめてしまった。もっと、手児奈の気持ちを考えてあげればよかったのに。」
と思いましたが、もう、どうしようもありません。
翌日、浜にうちあげられた手児奈のなきがらを、かわいそうに思った里人は、井戸のそばに手厚くほうむりました。
真間の「手児奈霊堂」は、この手児奈をまつったもので、いまでは、安産の神さまとして、人びとがおまいりにいきます。
また、手児奈が水くみをしたという「真間の井」は、手児奈霊堂の道をへだてた向かいにある「亀井院」というお寺の庭に残っています。
弘法寺でも御朱印をいただきました。
弘法寺で朱印をもらって戻る時、ホロホロさんが家内と話しています。今日はフライングスタートしましたので会えないなと思っていましたが、偶然です。
やはり「SNSの絆」でしょうか?
13:00 20kmゴール!この2日間、膝の痛みもなく無事完歩いたしました。
これでオールジャパン36県目です。あと11県。
4/10 20kmコースのGPSです。 京成中山駅の所でコースを間違えました。
≪追記≫
今日(4/21)、熊本地震で中止になった久留米ツツジマーチの大会誌、記念品などが送ってきました。
14日の前震と16日の本震とたて続けての大きな地震でした。福岡でも横揺れがしましたが、幸い、大きな被害はありませんでした。
熊本城や益城町、南阿蘇・・・・・・どこもウオーキングで行った所ですが、テレビの画面からは悲惨な姿が映し出されていました。
そのあとも熊本地区は、余震が多く発生しており、被災者の方は心の休まることがないのではないでしょうか。
少額では、ありますが、熊本地震に寄付をさせていただきました。
一刻も早く終息し、亡くなられた方のご冥福をお祈りし、また被災地の一日も早い復旧、復興を願うばかりです。