よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

歳末風景(福岡県糸島市の産直店)

2014-12-30 04:29:07 | 日記

12/29は、正月用の食材を買いに糸島市の産直店「伊都菜彩」へ行ってきました。

9時開店ですが、混雑を避けるため、8時45分ごろに到着。すでにお店はオープンしており、店内には、たくさんの人が食材を求めていました。

  

  

  

博多のお雑煮は、

特徴としては、焼きあご(とびうお)でとっただしにブリを入れます。餅はまる餅です。
その他の具として、かつお菜、かまぼこ、さといも、にんじん、大根、椎茸など具だくさんです。具は各家庭で若干違いますが、かつお菜だけは付き物です。
かつお菜は、博多に古くから伝わる野菜で高菜の仲間です。茎の部分がカツオ節の風味があることからこの名になったそうです。色は濃い緑色で、肉厚の葉は縮れています。
ぶりは「ヤズからイナダ、ハマチ、最後にブリ」と大きさによって名前が変わっていく出世魚で、めでたい席の料理に使われますが、博多雑煮でも欠かせない材料です。
なぜブリを博多では雑煮入れるようになったかは、いろいろ説があると思いますが、その一つのきっかけとして、博多では、嫁の里に年末「嫁さんぶりがよい」と大きなブリを一本持っていく風習がありました。

そのため正月のおせちの材料や雑煮に使用されるようになったとも言われています。

また、ここ糸島では、お雑煮に「焼豆腐」を入れることがあります。昔は、年末になると、スーパーの豆腐コーナーには、焼き豆腐が山積みされていました。

一通り買い物を済ませ、表に出ると、行列ができています。産直店が、混雑を避けるため、入場制限をされていました。早く行ってよかったです。

  

外のコーナーでは、お正月用のお花、しめ縄などが売られていました。

  

  

このあと、車で30分ぐらいの二丈町の産直店「福々の里」へ。

ここでは、天然ブリ1本ものが売られていました。3,8kぐらいのもので@7410。 kgに直すとkg/@1950です。

鯛も@800~@2900ぐらいのものが販売されていました。

  

今年最後のなぞかけ    年末の産直店とかけまして  アドレスとときます   そのこころは どっと混む (.com)

今年も明日まで。慌ただしくなりました。

今年一年有難うございました。また来年もよろしくお願いします。

 

【追記】

昨日、我が家の裏庭を掃除していると、メジロに似た鳥がやってきました。2~3mの地点まで近づいても逃げもしません。

何という鳥かな?と調べてみますと、渡り鳥の「ジョウビダキ」です。まんまるしてとても可愛い鳥です。これは、♀ですが、♂は、もう少し派手だそうです。

  

 

 

 

 

 


追悼 高倉健主演「網走番外地悪への挑戦」を観賞

2014-12-28 05:11:56 | 日記

先月亡くなられた福岡県出身「高倉 健」さんの追悼映画会が12/27福岡市総合図書館で行われました。

14:00からの上映で13:00過ぎに会場に入りましたが、もう満員ということで16:00から再上映するとのこと.

                          

16:00からの整理券を受け取り、しばし図書館周辺を散策します。

近くには、福岡のランドマーク「福岡タワー」があります。ここは、234mの高さがあり、お正月には、日の出の絶景ポイントですが、予報では、あいにくの空模様。

また、Xマスやお正月には、タワーのイルミネーションが楽しめます。この日は、外国からの(中国)観光客の方がたくさん訪れていました。

時刻も15:00になりましたので、図書館に戻り、開場を待ちます。16:00からの上映ももう満席とのこと。(整理券をもらっていたからよかったです)

     

入場料金は、500円。シルバー手帳(福岡市では、65歳になるともらえます)提示すれば、半額の250円です。

映画「網走番外地 悪への挑戦」は、1967年(昭和42年)8月の公開です。主役の健さんが、35歳の時の作品です。

福岡でロケ撮影がなされており、昭和40年代の福岡の街が出てきます。愛宕神社、姪浜漁港、早良炭鉱跡、中州、若松・・・・・・。見ていると懐かしい光景です。あれから47年、福岡の街もすっかり変わってしまいました。

映画のあらすじは、

橘真一(高倉 健)は流れ者の気軽さから、誘われるまま鬼寅(嵐 寛寿郎)のいる九州に来たが、博多港に着いた時、猟銃を手に警官隊を手こずらせているイキがった少年たちを取り押さえた。

そのため、不良少年たちの憧れのまとになって橘は苦り切ったが、鬼寅が病気で倒れた友人に代って不良少年保護施設で働いていることが分ると、その仕事を手伝うことになった。

ある日かつて暴力団門馬組の手先だった武(谷 隼人)が施設を脱け出し、故郷の若松に向った。後を追った橘は、武の家で母に重労働を押しつけ昼間から酒を浴びる義父に怒りをたたきつける武を見て、

かつての自分を思い出すのだった。同じ生いたちから共感しあった橘と武は義兄弟の契りを結び、堅気になってしっかり生きていこうと約束した。鬼寅の世話で、武は人形工場に就職した。

しかし、ライバルの港組組長を亡き者にしようとする門馬組は、武にその殺しをやらせようと、誘い出したのだ。武はそれを拒み、悽惨なリンチを受けた。その頃、施設の不良少年一郎は、

門馬組の川上と計って、施設に働く春子を犯した。春子は絶望して阿蘇山に向い、火口に身を投げようとしたが駆けつけた橘に救われた。やがて始った博多祇園祭の夜、門馬組の客人衆木は、

組の汚ないヤリ口に怒って武を助けようとしたが門馬に射殺され、また一郎が港組組長を襲って逆にとり押さえられた。事のすべてを知った橘は、急いで門馬組に駆けつけ瀕死の武を発見した。

堅気となる約束を守った武は橘の腕に抱かれて死んでいった。怒った橘は、白鞘の長脇差を抜くと、山笠祭りのまっただ中で門馬を斬った。このニュースが施設に伝わると、

少年たちは橘を英雄のように賞めたたえた。心を曇らせた鬼寅は、自首した橘に醜態を演じてくれと頼んだ。橘は手錠をかけられると、「助けてくれ、つかまるのは厭だ!」と喚きながら、警察に連行されていった。

そんな彼の姿に、少年たちは失望の声をもらすのだった。...

上映時間は、90分でしたが、所々つじつまが合わない場面があり、多分カットされているのでしょう。

この映画は、高倉健さんが、16㎜フィルムとして福岡市に寄贈されたものです。

健さんの映画は、他に「日本侠客伝」「昭和残侠伝 唐獅子牡丹」もあります。

この時代、70年安保をめぐり、各地の大学で紛争が起こっていました。あの東大でも学園封鎖がありました。九州でも九大が学生たちに封鎖され、機動隊が入る事件もありました。

健さんの映画は、学生たちにも人気があり、東大の学園祭で使われたキャッチコピーは、「とめてくれるなおっかさん 背中(せな)のイチョウが泣いている 男東大どこへ行く」でしたね。

あと、東映では、藤 純子(現 富司純子)さんの「緋牡丹博徒」もありました。共演者が、若山富三郎、清川虹子、シリーズごとに健さん、文太さん、鶴田浩二さんが出ていました。

藤純子さんの緋牡丹お竜が素敵でした。

今、テレビ局では、健さんの追悼番組が放映されていますが、こういった任侠映画は、テレビでは放映できません。やはり映画館でみるのが一番ですね。

懐かしい映画を見て若きころの私を思い出しました。 健さんのご冥福をお祈りいたします。

 

 

 


ソフトチームの忘年会

2014-12-22 18:52:50 | 日記

12/20は、所属するソフトボールチームの忘年会でした。

今シーズンは、地域のリーグ戦で6勝5敗1分で2位。これで3年連続2位です。

私は、いろいろ所用があり、参加したのが半分ぐらいでした。歳をとると、動体視力が弱くなりなかなか打てなくなりました。

忘年会は、糸島市志摩町の某旅館。ここは、料理がたくさん出て食べきれないぐらいあります。

  

会席料理ですが、次から次に料理が運ばれてきます。

  

  

  

   

最後は、しまあじを使った味噌汁と御飯。もう腹いっぱいです。

このあと、2次会には、ラーメン屋さんへ。ここでラーメンと餃子をいただきました。我ながら「よく食べるな」とただただ感心するばかりです。


弥生時代の遺跡「板付遺跡」「金隈遺跡」(福岡市博多区)

2014-12-16 19:21:43 | ウォーキング

12/13は、ふくおかウオーキング協会の板付遺跡、金隈(かねのくま)遺跡を歩いてきました。

集合場所は、博多駅筑紫口。途中御笠川の下水道処理センターを通り、「板付遺跡」へ。

  

 板付遺跡は、福岡平野の中央よりやや東寄りに位置する。御笠川と諸岡川に狭まれた標高12mの低い台地を中心として、その東西の沖積地を含めた広大な遺跡である。遺跡は弥生時代が主であるが、

それに先立つ旧石器、縄文時代や後続する古墳~中世の遺跡もある複合遺跡である。台地上には幅2~4m、深さ約2~3m、断面Ⅴ字形の溝を東西約80m、南北約110mの楕円形にめぐらした環溝がある。

環溝の内外には米やその他の食料を貯蔵するための竪穴(貯蔵穴)が多数掘り込まれている。台地の東西の低位段丘上には旧諸岡川から用排水路が引き込まれ、水路には井堰が設置されており、

水をコントロールできるようにしている。また、土盛り畦畔で囲まれた水田には水口(水尻)を設けており、整備された水田が開かれ、稲作と共に高度な土木技術がもたらされたことを証明しているとともに

日本で最も早く稲作農耕が開始された。弥生時代前期末には北部九州でも有数の集落に発展している。大正五年に環溝の東南に位置する田端地区から甕棺墓数基が発見され、中から細形銅剣、細形銅矛各3本が出土している。

これらの甕棺墓には大きな墳丘があったとみられ、有力者が台頭したことを示している。このころは環溝周辺だけでなく、北方の現板付北小学校や南側の台地にも集落が広がり、

貯蔵穴群や墓地が発見されている。このように、板付遺跡は日本における稲作農耕の開始について重要な問題を提起するとともに、弥生時代の人々の生活や社会を解明するのに、

集落、墓地、生産地(水田)が一体となって把握できる数少ない遺跡である。(福岡市文化財HPより)

また、魏志倭人伝に書かれている「奴国」があった場所とされている春日・須玖岡本遺跡にも近い場所です。

板付遺跡では、当時の水田が復元されています。

  

板付遺跡弥生館では、当時の人が使った土器、農耕具などが展示されています。入ると弥生時代にタイムスリップしたみたいです。

鍬、鋤、柄振(えぶり)などは、堅い樫の木で作られていますが、その形は現代とほとんど変わりません。、こういった技術は、大陸から渡ってきた人が広めたのではないでしょうか。

  

弥生人の身長は、男性で161cm、女性、150cmですので意外と背が高いですね。もっともこれは、渡来系弥生人です。

板付遺跡には、弥生人の足形が残されています。図ってみますと20cmぐらい。多分女性の足跡だと思われます。

  

板付遺跡は、福岡空港(昔は、板付空港と呼んでいた)近くですので、空を見ると飛行機が絶え間なく飛んできています。

    

板付遺跡から歩いて約30分、「金隈(かねのくま)遺跡」に着きました。

金隈遺跡は、福岡平野の東を御笠川に沿って南北にのびる月隈丘陵のほぼ中央にある。
弥生時代の共同墓地の遺跡で、弥生時代前期の中頃(西暦2世紀)から後期の前半(西暦2世紀)までの約400年間にわたって営まれた。
この遺跡からは、348基の甕棺墓と119基の土壙墓、2基の石棺墓が発掘されている。最初に土壙墓が作られ、その後に甕棺墓、最後に石棺墓が作られたものと考えられる。
甕棺墓からは、136体の人骨が出土した。平均身長は、男性が162.7cm、女性が151.3cmで、縄文人と比較すると、顔も面長になり、身長も急に高くなっている。このことから、

朝鮮半島との交流による混血が行なわれていたのではないかと考えられる。墓中の副葬品には、種子島からオーストラリアまでの海中にしか生息しないゴホウラ貝で作った腕輪や、

石剣、石鏃、首飾り用の玉などが見つかり、中国大陸や南方文化との交流を物語っている。
福岡市教育委員会が行なった、これらの発掘調査の結果から、遺跡は、弥生時代墓制の典型的な遺跡として、昭和47年に国指定の史跡として保存されることとなった。(福岡市文化財HPより)

金隈遺跡は、公園になっており、坂を登っていくと、甕棺展示場があります。

  

136体の人骨の内訳は、1歳~6歳までの死亡率が高く、成人の死亡年齢も低かったそうです。また、60歳以上まで生きた人は、女性のみで女性の生命力が強かったそうです。これは、現代でも変わりありませんね。(笑)

   

この人骨は、本物です。

  

この弥生時代の金隈人の身長は、男性が162.7cm、女性が151.3cmです。現代より少し小柄ですね。平均寿命は、40~50代でしょうか?

金隈遺跡を後に、ゴールのJR南福岡駅(旧雑餉隈駅)へ向かいます。

家内は、子供のころ、銀天町商店街近くに住んでいて、久しぶりにここに来たと言って喜んでいます。ここに映画館があった・・・・・、この店は、昔からある・・・・・・など懐かしがっていました。

商店街では、餅つき大会も行われていました。

  

やはり、搗き立ての餅は、おいしいですね。

  

 

  

 

 

 


今津干潟の鳥たち

2014-12-11 11:20:57 | 

12/9(火)は、天気も良く、瑞梅寺(ずいばいじ)川河口の今津干潟を一周してきました。

瑞梅寺川は、福岡・佐賀県境の井原山を源流として今津湾に流れています。(全長約12km)

 

この河口には、渡り鳥の 飛来地としても有名です。今の時期は、鴨がたくさんいました。

【マガモ】  頭が緑色の方がオス。

   

【クロツラヘラサギ】 満潮だったせいか、川の中州で羽を休めていました。

  

【カワウ】  渡り鳥では、ありませんが、集団でいました。 

     

 【サギ】これも渡り鳥ではありません。泳げないのか、満潮の時は、陸の方にいます。

【ユリカモメ?】 ユリカモメとウミネコの違いは、目の後ろの黒い模様と足の色ですが、座っているためどちらかわかりませんでした。体長からいうと、ユリカモメかな?

2時間かけ、干潟を一周してきました。今津橋からは、福岡タワー、ヤフオクドームなど福岡の市街地が見渡せます。

また、日の出、日の入りのスポットとして、カメラマンの方に人気があります。(写真は、2009年1月撮影分)

  

 

 

 


JR博多シティのイルミネーション(博多駅)

2014-12-09 04:57:30 | 日記

九州の玄関口「博多駅」にも11/14からイルミネーションが点火されました。

 今年のテーマは「響彩(おといろ)」といって、LED70万個が駅前を幻想的に彩っています。

今年から、屋台村もオープンし、ホットワインやビールを飲みながら観賞できます。

  

   

部隊では、聖歌隊の皆さんがクリスマスソングを歌っています。

  

  

クリスマスまであと、2週間。今年もあと20日余り・・・・・・・慌ただしくなってきますね。

 

 


恵比須カキ小屋(福岡市西区)

2014-12-07 21:18:14 | 食いしん坊

福岡糸島半島は、以前煮干し用のイリコ(片口イワシ)の生産が盛んでしたが、10年ほど前からこの片口イワシが捕れなくなり、カキの養殖を始めました。

今では、国道202号線を通ると、糸島市前原、志摩町、二丈町には、たくさんのカキ小屋があります。

昨日(12/06)行ったのは、202号線今宿から県道54号線に折れ、糸島半島の北部に位置する「北崎・唐泊(からとまり)」。

    

唐泊は、名のごとく、昔は、遣唐使の風待ち港でした。

江戸時代には、、福岡藩の「筑前五ケ浦廻船」の一つで千石船で福岡藩の年貢米を瀬戸内海を経て大坂、江戸などに運ぶほか日本各地の産物を日本海や太平洋岸の
長距離輸送に活躍しました。遠くは津軽ぐらいまで運んでいたそうです。江戸中期には50隻の廻船があったといわれています。
この筑前五ヶ浦廻船の基地になったのが「残島(能古島)」「今津」「浜崎」「唐泊」「宮浦」でした。

「恵比須牡蠣」とは、唐泊にある臨済宗東林寺(栄西禅師が開祖したといわれる)には、昔、竜神様と恵比寿様が一緒に祀られていましたが、後年になって蛭子崎(唐泊崎)に恵比寿神社として建立して移転させた。

この神社から命名したそうです。カキ小屋は、平成15年(2003)から海釣り公園横にオープンしました。

恵比寿カキは、2012年のカキ日本一選手権で準優勝になったそうです。買ったのは、Aセット1セットと別にカキ1kg、カキ飯、おにぎり、海老です。(カキ1kg/1000円)

  

  

炭火で焼く「カキ」は、香ばしく本当においしいです。カキ飯も少し辛かったけどグーです。

ビールを飲みたかったけど、帰ってから車で出かけなければならないので、ノンアルコールにしました。

2kgのカキは、あっという間に無くなってしまいました。

カキ小屋の裏の海です。

 

 


大阪・難波 巨大な看板

2014-12-06 06:47:32 | 日記

西国街道歩きの夜、私の街道歩きの師匠「ランドセル」さんに大阪難波を案内していただきました。

丁度連休中でしたので難波の町は、人が一杯です。

先ずは、「法善寺横丁」  包丁一本さらしに巻いて 旅へ出るのも 板場の修業 待っててこいさん 悲しいだろが あ~若い二人の思い出にじむ 法善寺 月も未練な十三夜 

この歌は、私が小学生のころ流行りました。この歌のせりふの所に「水かけ不動」があります。私達も街道歩きが無事に進みますようと願掛けしました。

   

水かけ不動の横には、「夫婦善哉」の碑があります。今を遡ること、百十年以上前。法善寺境内に、ちょっと変わった善哉屋が開店します。文楽の太夫、竹本琴太夫こと「木文字(きもんじ)重兵衛」という人が

はじめた「お福」という名のお店です。何が変わっていたかというと、一人前なのに二杯のお椀に分けて善哉が出てきたからです。「へぇー、こら変わっとる。なんで二つや」。

聞かれると、実際にお店を切り盛りしていた重兵衛の妻「こと」と娘「かめ」はニッコリ笑って、「おおきに。めおとでんね」と答えたといいます。実際は、二つのお椀に分けた方がたくさん入っているように

見えると考えたからなのですが、これが大当たり。その後の「夫婦善哉」へと繋がっていったのです。(夫婦善哉の歴史より)

   

法善寺横丁を歩きます。最初の法善寺横丁の看板は、「桂 春団治」の書、逆の方は、藤山寛美の書ですが、「善」という字の横棒が一つ足りません。

  

難波の看板は、どれも「巨大」です。看板で何屋さんか、すぐわかります。それを見て回るのも楽しみですね。

  

   

  

  

私が、学校を卒業して、東京で研修を終えて最初の赴任地が大阪でした。大阪の町が全然わからず、その年の5月、同期と難波に遊びに行きました。

九州から出てきて、初めて見る大阪の町・・・・・・・ 

そういえば、難波駅の地下に「虹の町」というのがありました。  ・・・・・・・・・・・大阪みなみの虹の町という歌があったと思います。

また、大阪を題材にした「歌」もたくさんありますね。宗右衛門町ブルース、たそがれの御堂筋、大阪の女、大阪で生まれた女、雨の御堂筋・・・・・・・もう数え切れません。

今やその「虹の町」も「なんばウオーク」と洒落た名前に代わっているそうです。その晩、10時過ぎに会社の寮に帰ってくると、寮の先輩から「火事に逢わなかったか?」と聞かれました。

「火事って?」

「千日デパートが火事なんや」

「千日デパートなんか行ってません。虹の町に行っていました」

「その上が、千日デパートなんや」

百数十名が亡くなった大惨事でした。もう40年以上経つのですね。

  

 

ランドセルさんとは、噺家さんもよく行くというお店に連れて行ってもらいました。なんばの喧騒とは違い、格調高い落ち着いた雰囲気のお店でした。

ランドセルさんとは、6年ぐらい前、下関で初めてお会いし、それからのお付き合いです。美味しい料理を前に、話も弾みました。

  

 夜、10時過ぎというのに、なんばの町は、人通りが絶えません。中には、韓国、中国語が飛び交っています。外国の方にも人気なんでしょうね。

 

 

 


『京の紅葉2014③』哲学の道を通り「銀閣寺」~「清水寺」

2014-12-04 21:04:21 | 旅行

南禅寺をあとに哲学の道を通り、銀閣寺へ行こうと思います。

途中、東山高校の近くの「永観堂禅林寺」の紅葉が綺麗ですので覗いてみます。

  

  

見事な紅葉ですね  

哲学の道に入りました。「哲学の道」は、哲学者西田幾多郎が散策、思索にふけっていたからこの名がついたそうです。

2年前の3月、京都ウオークでこの道を歩きましたが、桜並木がたくさんあり、桜が咲いたら綺麗だろうな・・・・などと思ってましたが、この道も紅葉が綺麗です。

着物を着た女性に逢いました。てっきり日本人と思ってましたら、外国(中国か韓国)の言葉を話されています。京都では、着物を着て散策するサービスがあります。外国の方も日本旅行の記念になるでしょうね。

    

  

銀閣寺参道に来ました。銀閣寺(ぎんかくじ)は金閣寺と並ぶ京都楼閣建築の代表寺院ですが、正式名称を慈照寺(じしょうじ)といいます。銀閣寺を創建したのは室町幕府8代将軍の足利義政で祖父である

足利義満が建てた北山山荘(金閣寺)を参考に、東山文化の代表東山山荘を造営しました。東山山荘の楼閣建物を「銀閣」と呼ぶことから、寺院全体が銀閣寺と称されています。

  

   

銀閣寺のあとは、バスで清水寺へ。

ここも観光客でいっぱいです。参道を観光客で埋め尽くしています。この人出では、境内に入るのに時間がかかるので清水寺の外側を散策しました。

   

今日(11/24)は、朝から駆け足で京都の紅葉を見てきました。福岡で紅葉の写真を何枚か撮ってきましたが、やはり紅葉の質が違います。

京都の紅葉は最高です。

 

銀閣寺、清水寺の写真をデジブックにしました。こちらです。

 

デジブック 『京の紅葉2014③』


『京の紅葉2014②』南禅寺、

2014-12-03 12:05:15 | 旅行

嵐山のあと、嵯峨野線で三条に行き、それから地下鉄で「蹴上駅」へ。蹴上駅から「南禅寺」までの道路は、紅葉見学の方でいっぱいになっていました。

  

   

奥の方に行ってみると、何やら煉瓦造りの建物が・・・・・

これは、「水路閣」といって琵琶湖の水を疎水させるためのものです。

   

その横には、南禅院の庭園があります。ここの庭園の紅葉は、見事でした。

  

  

    

 この南禅寺の紅葉をデジブックにしました。こちらです。 

 

デジブック 『京の紅葉2014②』