よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

たびら平戸口駅(長崎県平戸市)

2011-09-28 05:00:00 | 旅行
平戸ツーデーウオークのあと、田平の日本最西端の鉄道駅「たびら平戸口駅」に行きました。


私が高校生の頃は、博多駅から筑肥線を通り急行が平戸口駅まで運行していたと記憶しています。
平戸は島だったため、平戸へ行くにはここからフェリーで平戸に渡っていました。
もともとは、国鉄「松浦線」の駅でしたが、平成元年第3セクター松浦鉄道の営業になりました。
それに伴い駅の名も「平戸口駅」から「たびら平戸口駅」に変わりました・
2003年までは、日本最西端の駅でしたが沖縄モノレールが開通してその座を「赤嶺駅」に譲りましたが
鉄道としては、今でも日本最西端の駅です。



駅の前の記念碑は、平戸出身の作曲家「藤浦洸」さんの直筆です。



※MRは松浦鉄道の略です。

2011 ひらどツーデーウォーク

2011-09-27 11:06:37 | ウォーキング


9/25ひらどツーデーウォーク30kmコースに参加しました。
我が家から平戸まで約110km。当日は朝3時半に出発。
ひらどウォークは、昨年は生月コースに参加しましたが、平戸の風景が
たまらなく好きになり病み付きになりました。
今回は、平戸から田平のコースですが途中、田平天主堂も通ります。
また、9/20には平戸オランダ商館がオープンしました。
オランダ商館は約400年平戸に設置されその後長崎・出島に移転しました。

私と平戸の出会いは今から約37年前仕事で平戸に来てからです。
あのころは橋もかかってなく田平からフェリーで平戸に渡りました。
フェリー代が高かったという記憶があります。
ただ、海がきれいで魚もおいしく異国情緒もあり一遍で好きになりました。

このウォーキング大会は、下関よりMさんご夫婦も参加されておりスタート前しばし歓談しました。
8時半地元の太鼓とMさんご夫婦に見送られながら(Mさんご夫婦は別なコース)ウオーキング開始です。

先ずは平戸城城内にある亀岡神社を廻り、平戸大橋に向かいます。
平戸大橋は車ではもう数えきれないくらい通っていますが、歩いて渡るのは初めてです。
橋の上から何枚も何枚も写真を撮ります。本当にきれいです。


橋を渡ると田平(たびら)です。
ここは以前北松浦郡でしたが、平成に入り平戸市と合併し平戸市田平になりました。
平戸大橋が架かる前はこの田平からフェリーが出ていました。

田平の町中に入るとジャズの音楽が聞こえてきます。
地元田平中学校吹奏楽部の方が歓迎(激励?)の音楽で迎えてくれます。


田平から左折すると上り坂になってきます。
昨年の生月コースもアップダウンがすごかったなと思いながら登っていきます。

次のチェックポイントが中瀬草原。
ここからは、平戸の的山(あずち)大島、呼子の加部島などが見えます。
写真をパノラマにしてみました。



コースは海岸線に別れを告げ山道に入ってきます。

久吹ダム、田平東小を通り里田原支石墓(しせきぼ)へ。
支石墓は、福岡・糸島にもよく見られる墓です。
この支石墓は、弥生時代朝鮮、中国からきたものです。
支石の上に大きな石を据付けます。大きな石の下には石棺、甕棺などの埋葬品があります。
ここで見られるとは思いもしませんでした。
ただ、この支石墓に誰が捨てたか知りませんが弁当の殻が捨ててありました。
折角の文化財なのに情けないです。

20kmと30kmの分岐点がこの里田原です。
20kmはここを右折、30kmはここからまた山手の方に行きます。
途中田んぼがあり稲穂が頭を垂らしています。収穫はもうすぐのようです。
田んぼには彼岸花が咲いています。満開のもあればまだ蕾のものもあります。
色んな所を歩いていますが今年の彼岸花はちょっと遅れ気味みたいです。


山道はまだまだ続きます。
平地では係りの方が案内されますが山道には案内の方もいなければ矢印の印もありません。
果たしてこの道で合っているのだろうか?
近くの人に聞こうとしても人がいません。
峠を降りたところにウオーキングの幟が立っていました。
この道で合っていたんだ・・・・・

12時半昼食会場の西荻田公民館に到着。
お弁当の中身はこれです。
さすが平戸です。あご(飛魚)が入っていますね。


30分ぐらい休憩し再びスタート。
すぐ案山子君のお出迎え。
今回のひらどツーデーウオークは、休憩場所などで地域の皆様の接待が非常によく
疲れもいっぺんで飛んでしまいます。

大椎の木、保育園、昆虫園を通り、田平天主堂に到着しました。
この田平天主堂は大正7年(1918)の建造で平成15年には国の重要文化財に指定されています。
赤レンガ造りの建物で設計、施工は教会建築の専門家鉄川与助氏です。



この天主堂の裏には、墓石に十字架が付けられたものがあります。


田平公園を通り平戸大橋に戻ってきました。
アップダウンで疲れたのか橋から眺めを見る余裕もなくただただ足を運ぶだけです。

14時30分ゴール。所要時間6時間(休憩時間を除くと5時間半)かかりました。
やはり今回もアップダウンがきつく疲れました。
然し山頭火も書いているように「平戸は日本の公園である」の通り美しい光景が
印象に深く残るウオーキングでした。






接待の数々






稲刈り風景

2011-09-24 11:32:06 | ウォーキング
昨日(9/23)は久しぶりにJRウオーキングに参加しました。
枝豆収穫を体験するコースでしたが、それはパスしました。
秋晴れの下、田園地帯を歩くコースは、本当に気持ちがよかったです。

その田んぼで稲刈りの作業が行われていました。
私も田舎の生まれですので子供の頃はノコ鎌で稲を刈ったりしていました。
最近は、コンバインで収穫するのが殆どですが、ところがここでは
稲刈り機械が稲を刈り米だけを取って藁はコイル状にしているんです。
言葉では解りにくいかもしれませんので写真を使って説明します。


機械が稲を刈っていきます。(時速4kmぐらいで早いです)
米はアームを通って後に入っていきます。

米を取った残りの藁はコイル状にします。

そこに別の機械が来てそのコイル状の藁を持ち上げます。




あっと言う間にラッピングが始まりました。
ラッピングされた藁は向こうに止まっているトラックに運ばれます。
運ばれた藁は多分牧草になるのでしょうね。

昔は親戚など集まって稲刈りをしていたのですが、現代では機械がしてくれます。
年寄りの私は昔の方が風情があるように思いますが・・・・・。

長崎街道を歩いています№12「神埼宿~鳥栖轟木宿」

2011-09-22 04:30:00 | 長崎街道歩き
夏の暑さを避けしばらく休憩していました長崎街道歩きを9/18に再開いたしました。
当日は朝から細かい雨が降っていましたのでポンチョを被っての街道歩きです。
8時20分前回ゴールの神埼駅に着き、それから街道の方まで歩いていきます。
時計のGPSをセットしスタートです。

街道を歩いていると神埼にも古い家が建っています。
そんな家を見ていると昭和時代に返ったみたいで懐かしいです。

しばらく歩くとひのはしら一里塚があります。
説明文によれば「江戸幕府は、長崎街道の一里(約4km)ごとに五間四方の築土をし、
旅行く者の道標を知らせ疲れを癒してくれた。この一里塚は、長崎街道に残る
唯一つのものである。ひのはしらの地名はここに櫛田宮の赤木の鳥居があったことによる。


街道は、田手川を渡りすぐ左折する。


橋の横には橋の石碑が並んでいる。このあたりが「田手宿」だ。
田手の町に入ると古いお宮「田手神社」がある。


この神社は1300年前天智天皇が創建され天照皇大神を祀っている。
また、この一帯は1530年(享禄3)北九州の覇権をめぐり、周防・大内氏と肥前・少弐氏との
間で戦があった所だ。(田手畷の戦い)


田手宿を抜けると地図には「追分石」があると書いてある。
探してみるがそれらしいものがない。道路拡張でなくなったかな?
追分石があったであろう所には恵比須様が立っていた。

街道は旧三田川町に入ってきた。
三田川町は平成18年に東背振村と合併し「吉野ヶ里町」になった。
三田川小学校横を過ぎ「目達原(めたばる)自衛隊駐屯場」にやってきた。
34号線「苔野」の信号を横切ると目達原宿に入ってくる。


商店街が立ち並び自衛隊があるせいか、飲み屋さんの看板が目に付く。
祇園宮を右に行くと木造3階建ての建物がある。
もう誰も住んでいないのだろうか、家の周りには蔦がはびこっている。
コテ絵もあるということだったが蔦があり見ることができない。
この家の少し先にも木造3階建ての家がある。



目達原の町を通り過ぎると再び34号線に合流する。
ここが「久留米分岐」
街道は34号線鳥栖方面に行く。鳥栖まであと10km地点。
今年1月から始めた長崎街道歩き、尺取虫方式で歩いたこの街道
自分でいうのも変だがよく歩いたものだ。


街道は上峰町に入ってきた。
しばらくは34号線と並行する。
切通の信号の先に「中原宿(なかばる)」の道標が立っている。


ここから脇道に逸れて行く。
43番礼所を通り、祇園神社の先に「長崎街道」の標識があり、そこを左に曲がる。


見ると一面草むら。マムシに注意しながら進む。先にグラウンドがある。
そのグラウンドから「こんにちは」との声。
声の方向を振り向くと野球部員だろうか、帽子をとって挨拶してくる。
私もどちらかといえば体育会の人間、彼らに負けないぐらいの声で挨拶のお返しをする。
彼らは「三養基高校(みやき)」野球部員だった。

あぜ道から再び旧道に戻る。
先を見ると会社の花壇に一面の白の彼岸花。
立ち止まりしばし彼岸花鑑賞。昔の人も街道に咲いている花に見とれていたのだろうか?
この先にも大きな松葉ボタンが咲いていた。


寒水川の六ノ坪橋を渡る。
このあたりが「中原宿」の中心だ。中原宿の説明文を見ると、
中原宿の始まりははっきりとしないが、正保3年(1646)に幕府に提出された「正保絵図」には
宿を示す記号があることからこの頃には宿として成立していたと見られる。
また、元禄14年(1701)に幕府に提出された元禄絵図には中原宿の記述と宿を示す記号がある。
中原宿は、鍋島藩親類筆頭家老「白石鍋島家」の知行地となっており、中原宿は長崎街道の
本宿(公的な宿)だったが鳥栖の轟宿と神埼宿の間の宿であったため規模は小さかった。
中原宿には6軒の旅籠があり道の北側には東から泉屋、長崎屋、桜屋、南側には東から
松坂屋、大阪屋、岡崎屋があった。岡崎屋の2階の手摺には「中原駅岡崎屋御定宿」の透かし彫り
の看板が残っている。
中原宿は、明治18(1885)8月14日の大火で大部分が焼失した。
全80戸中74戸を飲み込んだ大火災だった。





この旅籠の近くにも祇園社がある。
この中原宿は東と西の木戸に祇園宮があることになる。本家と分家だろうか?



街道は、34号線に合流。みやき町の説明文がある。
この辺りは「太刀洗峠」といって江戸時代轟宿から中原宿に向かう最後の難所だった。
坂の頂上には鳥栖方面の養父(やぶ)郡とみやき町を含む三根郡との郡境になっており、
郡境石が立てられていた。またすぐ西脇を流れる小川は太刀洗川と呼ばれ当時峠を進む
旅人などを襲う山賊が出没し、襲撃に使った刀を洗っていたので太刀洗と呼ばれるようになった。
(中略)元禄4年(1691)オランダ商館ドイツ人医師ケンベルが江戸参府の際記した「日本誌」には、
この地について「我々は心地よい小さな松林を通った。こういう林はこの地には珍しいもので
その中には木の丈が非常に高く大きいものもあったが、松かさはイトスギのようであった。
また、文政9年(1826)オランダ商館医師シーボルトも紀行文の中に「太刀洗の近くで昔、山賊が
住んでいた太刀峠を指して恐ろしい話を聞かせてくれた人があると記している。


※昔の写真みたいに撮ってみた。

太刀洗を過ぎると鳥栖市に入ってきた。
太刀洗峠から少し先にカラオケ屋さんがある。
街道はここから国道から外れる。
五反三歩池がある。
説明文を読むと
「五反三歩池は、溜池造る時五反三歩の水田をつぶしたことからその名が由来とされる
灌漑用水だ。鍋島藩内の治山治水に数多く功績を持つ成富兵庫茂安が最初に造った溜池と
いわれ、またその形が似ていることから名付けられた「尺八」と呼ばれる「配水調整樋管」が
最初に設けられた溜池とも言われている。
満水面積はおよそ2町6反で村田、江島、三島、北茂安などの水田100町歩を潤している。」


その池は、現在茫々でどこが池かわからない。

先のほうに馬小屋がある。
まさか、今頃農耕馬でもあるまい。この馬よく見ると、筋肉が引き締まっている。
競走馬?そう考えながら歩いていると右側に広く大きな「さがけいば場」がある。
この馬は、競走馬だったんだ。
さがけいば場の前を通ると左側に「馬刺し屋」さんがある。
競馬場の前に馬刺し屋さん・・・・何か変な気持ちだ。
尤も馬刺しは熊本直送となっているが・・・。



街道は鳥栖市の中心部近くに入ってきた。
国道34号線沿いには車屋さんがたくさん立ち並ぶ。
生コン屋さんの先から右に折れる。
村田町に入ってきた。
村田村は人家40軒ばかり茶屋、酒屋ありという記録に見えるように街道沿いの
町並みであると同時に村田鍋島藩の城下町であった。
町には六地蔵が祀られている。



一本松の交差点を抜けると道の両脇にネットが張られている。
何の意味だろうかと歩きながら考えていると左の方からゴルフのショットの音。
なるほど、ゴルフのOBのボールが直接当たらないようにネットを張ってあるんだ。
そう思ってネットを見ると沢山のゴルフボールがある。


街道は「安良(やすろ)」に入る。
安良は、朝日山南麓に広がる古くからの集落。朝日山は建武元年(1334)朝日一族によって
山城が築かれている。江戸時代においても街道沿いにあり人家40軒茶屋多しとあるように
旅籠はなかったが轟木宿に宿泊者が多いときにここに分宿していた。



安良の坂を下ってくると新幹線の高架が見えてくる。
左の方は「新鳥栖駅」。カメラを構えていると新幹線が駅に入ってきた。


新幹線のガードを潜ると何かしら記念碑が建っている。
文字がよく読めないがどうも学校跡のようだ。


この辺りは工場や倉庫が立ち並んでいる。
工場の側に目をやると「黄色の彼岸花」が咲いている。
中原宿では、白の彼岸花をみたが、ここでは黄色の彼岸花。
何か今日はついているのかな?



時計は1時を廻っている。
今日は朝6時半福岡を出てきたのでお腹もすいてきた。
今日は家内が朝早く起きておにぎりを作ってくれた。
早くどこかで食べなきゃぁ。
どこか、スーパーでもと探すと34号線交差点の先にスーパーが見えてきた。
ここでペットボトルを買い、スーパーの休憩所でお弁当を開く。
おにぎりの具材は今年我が家で採れた梅の梅干。
やはり自家製の梅干は一味違う。とっても「うめ~」。

30分ぐら休憩して再び街道歩きをスタートする。
今日の予定は「田代宿」までだが何かお腹一杯であまり調子が出ない。
それでも歩き出す。

今日も街道と今の道を事前にグーグルでチェックしてきた。
持ってきた街道地図には赤のマークがいっぱい付けている。
驫木町の信号を渡りパール工業の所を左折する。
ここが轟木宿



轟木宿は佐賀鍋島藩の東に位置し隣の対馬藩飛び地「田代宿」と番所川を境に国境をなしている。
従って番所が設けられ厳しい検問が行われていたそうだ。




高札所跡の横には「日子神社」がある。


番所は番所川の横に設けられていた。


時計を見ると2時半。
久しぶりの街道歩きでちょっと疲れてしまった。
今回はこの驫木宿で終了することにする。
時計のGPSは、距離19.6km、所要時間5時間半。
次回はいよいよ福岡県に入ってくる。


※電車代:鳥栖~神崎360円、神埼駅駐車場:100円 佐賀大和温泉アマンディ入浴代:700円



















田んぼアート(福岡県糸島市二丈町)

2011-09-12 17:08:00 | 自然観察
糸島市二丈町の「赤米鑑賞田」で田んぼアートがあるということで
出かけていった。
ここは、古代米の赤米、黒米を栽培している。
田んぼアートは、100mX20mの田んぼ2面の中に描かれている。


この田んぼアートのために作られた展望台からアートを見ると
とても1枚の写真では収まりきれない。

従って写真を3枚使ってパノラマ加工してみた。

「糸島より(ハートマーク)(日の丸)元気を!!」

今日は(11日)昼から赤米で作ったうどん?でうどん流しがあるそうです。
田んぼには、うどん流しが用意されていた。


赤米です。お米の花が咲いています。わかりますか?



黒米です。


もう稲穂が頭を垂れています。

9月、彼岸花とお米の花

2011-09-01 18:37:47 | お花
今日から9月ですね。
田んぼを歩いているともう彼岸花が咲き始めていました。
例年よりも少し早いのではないでしょうか?




田んぼを見るとお米の花が咲いていました。




わかりますか?小さい花です。
こちらでは稲の収穫は10月半ばごろです。
美味しいお米になるようにお米に話しかけました。(笑)

この田んぼでは、9月17日のJRウオーキングのコースになっています。
目玉は「田んぼアート」です。
今年のタイトルは、右側から「明るい未来へ 日本(日本地図)」です。



季節は秋に模様替えですね。