よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

「みだれ髪」の歌碑(福島県いわき市塩屋)

2020-05-27 18:14:12 | ウォーキング

2015年10月

前から行きたかった福島県いわき市「塩屋崎灯台」。

今回、下関のブロ友と一緒に磐梯山に行く計画をし、待ち合わせの時間を使い「塩屋崎灯台」に行ってきました。

郡山駅でレンタカーを借り、ナビを塩屋崎灯台に入力。郡山から約100kmです。

 

高速道をいわき中央で降り、塩屋岬へ向かいますが、道路には、ダンプカーがいっぱいです。まだ震災の工事が終わってなく、通行止めの所もあり、迂回していきます。

塩屋崎灯台に着きました。すぐ目にするのは、美空ひばりさんの「みだれ髪」の歌碑。歌碑の前に立つと、この歌が流れます。

「♬ 髪のみだれに 手をやれば 赤いけだしが 風に舞う・・・・・・♬」

この歌碑は、美空ひばりさんが亡くなられた翌年の平成2年(1990)6月に建てられました。

      

  

  

  

灯台への入口には、「喜びも悲しみも幾歳月」の歌碑も建てられていました。

  

灯台へ登ってみます。

  

灯台に登りたかったのですが、待ち合わせの時間が迫ってきておりパスしました。

 


巨済島「風の丘」(韓国・巨済島)

2020-05-20 05:40:42 | 韓国旅行

2011年5月3日

「巨済捕虜収容所遺跡公園」からの続きです。

捕虜収容所遺跡公園のあと、韓国の知人とランチに行きました。

ウニの混ぜご飯(ウニのビビンバ)

  

日本ではウニ丼などがありますが、ここでは、ウニなどをご飯と一緒に混ぜていただきます。おいしかった。

やはり、韓国の人と一緒に行くと思いがけない御馳走がありますね。おかずもおいしかった。

  

腹いっぱいになったあと、「風の丘」に行きました。風の丘」は、巨済市南部葛串里トジャンポに位置し、風が強い処からいつの間にか、「風の丘」と呼ばれるようになりました。

  

風の丘は、閑麗国立公園に属しており、韓国ドラマや映画などのロケ地として近年韓国でも脚光を浴びている場所です。

海に面した岩場が素晴らしい形をしており、ブラタモリのタモリさんだったら○○岩とすぐわかられますが、無知な私にはわかりません。

現在、パンフなどには、風車がありますが、私が行ったときには風車はありませんでしたが、菜の花が綺麗でした。

 

 

 

  

風の丘をあとに長承浦の市場に行きました。巨済島は、日本海に面していますのでお魚の種類は日本と同じです。

お魚のサイズからいうと断然巨済島の魚の方が大きいです。

 

私はカレイの干物が大好きです。お酒のおつまみに最高です。日本国内だったらすぐ買っていくのに・・・・・

 

  

時間も3時近くなりました。帰りも巨加大橋を通ってホテルに戻りました。楽しいミステリーツアーでした。

 

 

 


巨済島へ「巨済捕虜収容所遺跡公園」(韓国・巨済市)

2020-05-18 16:06:05 | 韓国旅行

昔を振り返って

2011年5月3日

釜山でも「黄砂」が降っているのでしょうか?今日は全般的に曇っています。

今日、家内の釜山の友達が「ミステリー小旅行」を計画してくれ、9時にホテルに迎えに来てくれました。

友人は、ご両親と一緒です。(彼女のお母さんはキムチを漬けるのがうまく、前回行ったときにたくさんのキムチをいただきました)

車に乗り込みますが、行先はまだ教えてくれません。私はGPSの時計を持って行って外国でも使えるか試しにGPSのスイッチをオンにしました。

車は、空港、釜山港の方に向かっています。ここで友人から「どこにいっているでしょう?」と質問してきます。

韓国で知っている地名を言いますが、全部当たりません。正解は「巨済島(コジェト)」でした。

昨年、釜山から高速船で巨済島まで行きましたが、そのことは、だまっていました。

釜山と巨済島には、昨年12月に釜山・加徳島との間に海底トンネルと海峡大橋が完成しました。(巨加大橋)

今まで高速船や内陸周りで巨済島に2時間ぐらいかけて行っていましたが、これが50分に短縮されました。

この海底トンネルには、海底48mに沈埋(ちんまい)トンネル工法が採用されています。沈埋トンネルというのは、予め海底に穴を掘ってそこにケーソンを沈め、その上に土を被せます。

日本では、首都高速多摩川トンネル、北九州若戸トンネルなどに採用されています。この巨加大橋は、トンネルが3,7km、橋が4,5mです。

 

 

 

 

 

  

道路の街路樹には、日本でいう「なんじゃもんじゃ(ヒトツバタコ)」の木が植えられています。

韓国では、この木を「ご飯の木」と呼んでいるそうです。これは、昔、貧しくてご飯もまともに食べられなくて幼く亡くなった子にあの世では、腹いっぱいご飯を食べてもらおうと

主にお墓近くに植えられたものだそうです。

車は、巨済島に入ってきました。巨済島は、韓国第14代(1993~1998)大統領「金泳三(キム・ヨンサン)」の出身地です。

最初に連れて行ってもらったのが、巨済捕虜収容所遺跡公園。巨済島には、1950年6月25日韓国戦争(朝鮮戦争)による捕虜を収容するための1951年2月に設置された巨済捕虜収容所の

遺跡公園があります。

10時半車を駐車場に停めます。周りは貸し切りバスでいっぱいです。巨加大橋PAに停まっていたバスがここに来たのではないでしょうか?

遠足の学生さんもいますが、ナンバーを見ると(韓国友人が見た)遠方の方から来られているそうです。

皆さん、この巨加大橋ができたから大橋とこの遺跡公園が旅行のセットになっているのでしょうか?

    

朝鮮戦争は、朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)と大韓民国(韓国) の間で 1950年6月に始った紛争で,およそ 300万人が命を落した。米軍を主体とする国連軍が韓国側に立って戦争に参加し,

また中国が最終的に北朝鮮支援に動いた。戦況は目まぐるしく変化した末,戦争は 1953年7月,決定打のないまま終結した。(コトバンクより)

当時の捕虜収容所は、1951年2月末まで朝鮮人民軍捕虜15万、中国軍捕虜2万人など、最大17万千人の捕虜を収容されました。

戦争捕虜となった捕虜は北朝鮮を支持する親共捕虜と反共捕虜に分かれて流血衝突が頻繁に発生し、1952年、収容所の司令官米軍ドッドゥ准將が捕虜に拉致される事件が起きるなど、

戦争中にも収容所では共産主義と民主主義の理念を異にした捕虜の戦いが相次いで引き起こされ、多くの死者を出した場所でもあります。

1953年6月18日、連合軍の管理にあった巨済捕虜収容所の反共捕虜(北朝鮮への強制送還を拒否する捕虜)27、389名を当時の大統領だった李承晩大統領が釈放させ、

7月27日の停戦協定の調印に合意することで収容所は閉鎖されました。

今は当時の建物一部だけが残されている巨済捕虜収容所は1万坪余りの規模で、韓国戦争(朝鮮戦争)に使用された戦車や野砲、ヘリコプターなどの戦争遺物とともに当時の捕虜の生活上が

窺える様々な遺品が展示されています。捕虜収容所、警備隊の宿所、野戦病院などの当時の建物が再現され、映画の撮影にも使われたとのことです。(釜山ナビより)

 

収容所公園内部には、収容所の様子がジオラマで描かれています。

 

 

 

  

一通り見て回り、出口に向かいます。

 

収容所公園の周りは、遊歩道になっています。

 

 

このあと、ランチに行きました。                                                        (続く)

 


釜山・金井山城ハイキングコースを歩く(韓国・釜山)

2020-05-14 10:09:05 | 韓国旅行

自粛生活の折、昔の写真を振り返っています。

2008年5月

釜山にある金井山城(クムジョンサンソン)ハイキングコースを歩きました。ここは、韓国の万里の長城と呼ばれる城壁が長く続いており、休日の時には釜山市民の方がハイキングに訪れます。

金井山城の規模ハは、長さ17,337m、城壁の高さ1~3m、総面積は8213平方km。釜山市の4つの区、そしてお隣の梁山(ヤンサン)市にまたがる韓国最大の城壁で、

釜山を屏風のように取り囲んでいるとも言って良いでしょう。ここからは洛東江(ナクドンガン)、東莱(トンネ)をすっかりと見渡すことができます。 
建てられた時期ははっきりしていませんが、城郭や門の模様から見て新羅時代に外敵から守るために初めて作られたと見られています。現在残っている山城は「文禄慶長の役」で

多くの被害を浴びた後に、避難と抗戦を目的に、無くなっていた城を再度建て始め、朝鮮時代に完成したと言われています。外敵からの防御を目的に建てられたこの山城ではありますが、

実際にここで戦いがあったという記録は見つからなかったそうです。その後、旧日本軍により破壊されてしまったものの、1972年に東門と南門、1973年に西門、1986年に北門を復元し、

現在も続けて復元作業が行われています。(釜山ナビより)

この金井山城へは、地下鉄温泉場駅から203番のバスに乗り、金剛公園(クムガンコンウォン)で下車。そこからケーブルカーで南門に向かうコースと私たちみたいに東門からスタートするコースがあります。本当は、南門まで行ってそれから歩きたかったのですが、このコースだと4時間もかかってしまいますので、東門からスタートしました。(時刻14:43)

韓国語がわからないのでバスの運転手さんにガイドブックを見せ、金剛公園に行きたいからその近くになったら教えてくれとジェスチャー交じりでお願いしました。

 

  

 

東門で少し休憩して北門に向かって歩きます。

  

天気も良く、松の木の間から差してくる日差しがとても気持ちがいいです。

ガイドさんもなく、我々夫婦だけで行くのは無謀かもしれませんが、私も家内もウォーキングを始めたばかりで面白くなってきています。

ガイドブックでこのコースを見つけた時、釜山に行ったら絶対行ってみようと思っていました。(注)僕らは、まだウォーキング歴10年ちょっとです)

 

釜山のウォーカーにカメラを向けるとVサインで応えてくれました。ウォーカーには国境はないですね。皆さんウォーキングを楽しまれています。

 

歩き始めて約1時間。山城が見えてきました。

 

 

山城付近には、所々につつじ?が咲いています。日本だったらミヤマキリシマだろうが、韓国では何というんでしょうか?

   

 

周りの景色が凄く、暫し立ち止まって見とれています。横たわる大きな岩、はてしなく続く城壁・・・・・・

山城では、アイスキャンディを売っていました。1本1000w(約100円)。

  

山城でのアイスキャンディ休憩のあと、北門に向かいます。振り返ると山城が遠くに見えます。あそこから歩いてきたんですね。

そういえば、あのアイスキャンディ屋さん、毎日キャンディを背負って山城迄来ているんでしょうか?何個売ったら採算がとれるのでしょうか?

そんなたわいな事を考えながら歩きます。

途中、左に折れる道と直進の道があり、標識がハングルなので読めません。

近くのウォーカーの人にメモ紙で「北門」と書いて道順を聞きます。一説によると韓国の人は漢字は使わないから漢字の読めない人もいるそうです。

この場は、漢字とジェスチャーで何とか通じました。あとで調べてみると左折は西門に行くそうです。

16時半北門到着。

  

北門は、4つの門の中で一番小さい門です。

これらの門は豊臣秀吉の文禄の役(韓国では壬辰倭乱)で多くの被害を被ったとのこと。

若し秀吉軍が、この城壁迄攻めたというのなら、昔の人の脚力は相当のものだったに違いない。

ガイドブックには、北門から梵魚寺(ポモサ)までは、2,5km(約30分)と書いてあります。

現在、4時半。5時ぐらいには梵魚寺に着くだろうと思いながら下っていきます。

最初は、なだらかな道、ところがだんだん歩くと道がない!岩の間を下っていく。どう表現したらいいのだろうか、川の岩のたくさんある所を下っていくといった方が分かり易いかな?

ひざ痛のため、下りは苦手。それも岩と岩の間をかき分けて進みます。持ってきたポールを使って一段一段ゆっくり下りていきます。こんな経験は初めてです。

写真を撮る余裕もありません。治りかけていた膝痛がまたぶり返してきます。

やっとの思いで梵魚寺に到着。(17:06)

 

この金井山(キムジョンサン)梵魚寺(ポモサ)は、韓国五大寺院にも数えられる由緒正しい寺として禅宗の総本山としての役割だけでなく、釜山の観光地の一つです。

梵魚寺の由来は、金井山の端に大きな石があり、その石の上には井戸があり、とても大きくいつも満たされていた。一匹の魚が五色雲に乗って空からおりてきて、その井戸で

遊んだことから、空の国の魚という意味を込めて、梵魚寺という名になった。(ガイドブックより)

注)「梵」という字を漢和辞典で調べると、「インドのバラモン教で、宇宙の最高原理、また、創造原理、宇宙創造の主。

 

境内には、お釈迦様誕生日(花まつり)(※日本は4/8ですが、韓国は旧暦を採用)のためか、提灯が飾られていました。

 

  

   

梵魚寺四大王

   

梵魚寺でのお詣りを済ませ、梵魚寺駅から地下鉄でホテルに戻ろうとしますが、寺から駅まで約2kmあります。

暗くなってきましたので、お店の人に地下鉄までの行き方を聞きながらどうにかホテルに戻れました。

 

 


冬のソナタの舞台「外島(ウェド)」へ(韓国・巨済市)

2020-05-12 16:01:37 | 韓国旅行

自粛生活の折、昔、旅した所を回想しています。

もう15~17年前でしょうか、韓国ドラマ「冬のソナタ」が日本でヒットし、韓流ドラマの火付け役になりました。

その冬のソナタのラストシーンでユジン(チェ・ジュウ)が設計した不可能な家をジョンサン(ぺ・ヨンジュン)がユジンを思いながら建てたあの場面。

泣けましたね。あれから韓ドラが好きになったという方もおられるのではないでしょうか?

その不可能な家のロケ地「外島(ウェド)」に12年前行ってきました。

2008年(平成20年)5月4日

不可能な家がある「外島」へは、釜山から船で巨済島(コジェト)の長承浦(チャンスンポ)へ行き、長承浦から観光船で渡ります。

(※2010年12月釜山・加徳島と巨済島に巨加大橋(8,2km)が開通し釜山から約一時間で巨済島に行くことができます)

午前8時釜山沿岸ターミナルより長承浦行の高速船に乗ります。(片道運賃19200W(日本円約1950円2008年時点)約50分で長承浦港に到着。

 

 

長承浦は、韓国2番目の島、巨済島に属し、サムソン、大宇の造船所があり、造船の町ということでも知られています。

また、長承浦小学校は、私の母校の小学校と姉妹校を結んでいました。(現在は不明です)

ガイドブックによれば、ターミナルの中に外島行観光案内所があると書いてますが、探せど見当たらない。そこで韓国の人に筆談で聞いてみる。

外島行観光船乗り場は日曜日のせいか、韓国の人で混みあっています。皆さん外島に行くのでしょうか?

19000w(1920円)で乗船券を買い、9:35出航。船内で説明を聞き(といっても韓国語ですのでわかりません)バッチを渡されます。

  

この観光船は、外島に行く前に「海金剛」(ヘグムガン)と呼ばれる海の中に浮かぶ岩山を探索していきます。海金剛は、日本でも和歌山県串本にもありますね。

海金剛(ヘグムガン)は景勝地として人気のスポットです。海金剛は高さ100メートルほどの3つの大きな岩で構成されており、切り立つ絶壁と奇岩の数々は長きにわたる波の侵食と風雨により

形作られたものです。

 

 

 

観光船は、洞窟の入り口の所でUターンします。岩から天を見上げると空が十字に見えるところがあります。十字洞窟(シッチャトングル)で、海金剛の東西南北に波蝕によりできた小さな海路です。

  

 

10時半外島上陸。外島は個人の持ち物で島の滞在時間は1時間半と決められています。そのために船内でバッチを配られました。これはツアー客と帰りの便の確認の為です。

 

この島は、1969年イ・チャンホ氏が購入し、夫人や仲間と共に島を切り開き、世界中から集めた植物があり、なんだか別世界のようです。

入口で入場料5000w(500円)を払い島内観光します。

 

 

 

  

 

ここがチェジュウとぺ・ヨンジュンが再会した「不可能な家」。観光客が多く家内とのツーショットは無理です。

  

1時間半の時間があっという間に過ぎ、港に戻ります。観光船で長承浦へ。長承浦から高速船で釜山に戻ります。

 

釜山での夕食。焼肉と冷麺

 

12年前の写真を見ながらこのブログを書いていますが、また外島に行ってみたくなりました。

 


海東龍宮寺(ヘドヨングンサ)「韓国・機張」

2020-05-10 18:42:12 | 韓国旅行

緊急事態宣言が延長され、ほぼ一日引きこもりの生活を送っています。散歩は人が少ない朝6時から近くを約1時間ぐらい歩き、そのあとはビデオ鑑賞などと時間を過ごしていますが、

ビデオも飽き、2~3日前からCDに収めていた写真を見てまだウォーキングを始めた「自分」を探しています。その中で見つけたのが、2010年1月に行った韓国・機張の「海東龍宮寺」。

これは、ブログもアップしてませんでしたので当時の記憶を振り返りながら、投稿したいと思います。

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 釜山から東の方に行った所に岩場に建つ「海東龍宮寺(ヘドヨングンサ)」があります。ここは前から行きたかった所。

以前にも行こうと計画しましたが、交通手段が悪く諦めていました。今回家内の友人が車で連れて行ってくれるということで、もう嬉しくて嬉しくて・・・・

 この海東龍宮寺は、1376年高麗時代に創建されたと伝えられています。高麗王の師であった懶翁(ナオン)大師の夢に龍王が現れ「蓬莱山(ポンネサン)の端に寺を建てると雨風がよく収まり、

国が安定し、民も安らぐ」と伝えたそうで、大師がこの地を見ると実際に朝、仏様を拝めば夕方に福が来る所であることがわかり、寺を建て「普門寺(ポムンサ)」と名付けたとのこと。

しかし、豊臣秀吉が朝鮮半島に攻め込んだ「文禄・慶長の役」で寺は消失。それから約300年後、1930年代のはじめに「通度寺(トンドサ)」の雲崗(ウンガン)和尚が寺を再建し、現在に至ります。

「普門寺」から「海東龍宮寺」に改名された時期は意外に新しく、1974年のこと。当時の晸菴(チョンアン)和尚がこの寺を観音道場にすることを発願し、100日間祈った末、100日目に

白衣の観音様が龍に乗って天に昇る夢を見たことから以来、寺の名前を「海東龍宮寺」に変え、誰もが心から祈りさえすれば必ず一つの願い事を叶えてくれると伝えられ、

参拝客が絶えず訪れるようになりました。(韓国旅行コネストより)韓国三大観音聖地の一つです。

 

十二支像。日本では「猪」ですが、韓国では「豚」です。十二支が中国からはいった時、日本では豚はなじみが薄く、似ている猪になりました。

  

入口を入りると洞窟があります。洞窟の中にも石像があります。

   

  

108段の階段を下りると絶景スポットです。

  

この石の器にコインが入れば幸運になれるそうです。寒いので氷が張っていました。

   

階段を下りた所には、「得男仏」といって、お腹を撫でると男の子が授かると言われています。多くの参拝者がお腹を撫でて行くので、仏様のお腹はツヤツヤになっています。

 

お寺の東側に行きます。ここ海東龍宮寺は、釜山で一番早く日の出が見れるところです。

  

境内に戻ります。すぐ目立つのが「金の豚像」、「金の福像」 韓国では豚は縁起のいい物とされています。

 

 

 

 

 

 

  

ざっと見て回りましたが、凄い寺院でした。言い換えるならお寺のアミューズメントといえるでしょうか? ただし入場料は無料でした。

海東龍宮寺より海雲台(ヘウンデ)に行きました。

海雲台ビーチです。釜山でも有数の海水浴場です。

 

ランチに入ったお店(海鮮鍋屋)です。カニはお店の方が食べやすく切ってくれます。焼きご飯(チャーハン)もおいしかった。

  

 

 


豊前街道歴史ロマンウォーク「肥後大津~坂梨宿」32km(熊本県大津町~阿蘇市)

2020-05-08 19:00:46 | ウォーキング

 もう10年ぐらい前ですが、2010年3月7日、大分県ウォーキング協会主催の「豊後街道歴史ロマンウォーク」に参加しました。

これは、豊後街道「熊本城~大分・鶴崎」までの133kmを5日間かけて歩くというもの。当時、仕事中ですので5日間は参加できず2日目の「肥後大津~坂梨宿」32kmに

参加することにしました。当日は8時半に熊本・大津町役場に集合とのことで福岡の自宅を5時半に出発し、JR特急を使い会場には8時10分に到着。

参加者は前日からの参加者を含め約200人の参加です。天気予報では曇りですが、阿蘇近くを通るため雨と気温の低下の為、防寒着とポンチョを持参してきました。

 この豊後街道は、加藤清正が天正16年(1588)初めて肥後に入国した際、通った道で、江戸時代豊後街道沿いの久住、野津原、鶴崎が肥後藩の飛び地となりました。

豊後街道を通って陸路で九州を横断した後、大分・鶴崎から船で瀬戸内海を経由して大阪に至り、それから東海道を通って江戸に向かいました。

勝海舟と坂本龍馬が通ったという記録は、文久4年(1864)四国艦隊下関発砲事件調停の幕命を受け、江戸から長崎に向かった勝海舟・龍馬一行は、大分・佐賀関に上陸後、豊後街道を

通って熊本経由で長崎に向かったとされています。

出発式の後、参加者を「ウサギチーム」と「亀チーム」に分け、9:00スタート。私と家内はウサギチームです。

豊後街道は、今でもほぼ昔の形で現存しており、熊本城から1里毎に里数木が設けられています。

大津の町を歩いている途中、街道がはっきりと方凹型になっているところがあります。この凹の真ん中が街道です。これは侵入した敵を両側の土手の上から攻撃するために造られています。

今では、公園になっており、桜の木が植えられています。桜のシーズンには多くの花見客が来られるのではないでしょうか。

  

街道は阿蘇に近づくにつれ、霧雨が降ってきました。吐く息も白くなってきます。

天気のいい日には、雄大な阿蘇の山々が見れるのですが、今日は雨の為、霧がかかっています。

二重峠に差し掛かりました。二重峠の頂上が標高683mです。途中に西南の役の石碑が建っています。

明治10年(1877)西郷隆盛率いる鹿児島士族が起こした我が国最初で最後の内乱「西南の役」、明治維新の総仕上げとしての役割を果たした戦争です。

協会の方の説明を聞きます。

  

明治10年(1877)西郷隆盛率いる鹿児島士族が起こした我が国最初で最後の内乱「西南の役」、明治維新の総仕上げとしての役割を果たした戦争です。

熊本、田原坂、山鹿、南関、玉名、御船、八代、人吉など熊本県下全域にわたって戦闘が繰り広げられ阿蘇地区も例外ではありませんでした。

宮崎県の飫肥藩士500名による飫肥隊は2月26日高千穂を越え阿蘇南郷谷を下り、俵山を越えて熊本入りしています。3月17日には二重峠の戦い、滝室坂での激しい戦いがありました。

薩軍に加わるため大分県中津隊百余名は、4月4日小国に入りました。そして薩軍が二重峠から撤退する4月21日まで阿蘇一帯は薩軍に支配されました。(案内文より)

 

二重峠頂上です。誰かが「気温4度」という声が聞こえます。

 

霧雨は一向に止みません。防寒着にはスタート前防水スプレーをしてきたのですが、もう効かなくなってしまいました。

ここからDバックからポンチョを取り出し着ていくことにしました。

ここから「二重の石畳」に入ります。この場所は、阿蘇外輪山に属しており、土は火山灰の黒土です。黒土は雨で流されるため、流されないよう峠道に石を敷いたそうです。

この石畳敷工事には、大津の岩坂村の農民が駆り出されました。峠道で今でこそ重機で運搬することができますが、江戸時代殆ど人力作業、さぞかし大掛かりな工事だったと思います。

  

この石畳、雨で濡れていて、滑りやすく、滑って頭でも打ったら大変なことになりますので、恐る恐る下りていきました。

昔は、お殿様を駕籠に担いでこの石畳を下りていくのも大変だったでしょうね。

 

  

お昼は、この街道で未だに現存している「的石お茶屋跡」でとることになっています。他の参加の方は前もってお弁当を注文したり、持ってこられたりしています。

私たち、朝が早かったため、お昼は何も用意しておらず、スタッフの方にお願いしてコンビニ弁当を買ってきてもらいました。

この的石茶屋跡は、肥後殿様細川家一行が、参勤交代で江戸へ東上の折、石畳の坂道を降りてきて休憩されたところである。屋敷内には、北外輪山からの伏流水で泉水が形づくられ、「御茶屋泉水」として、くまもと名水百選に選ばれている。(案内文より)

  

30分のお昼の休憩後再びスタート。外気が冷たいせいか、30分でも動かないと体が冷えてきて、すぐ全開モードにはいけません。

ここは、ゆっくりゆっくり歩くことにします。ゆっくり歩いているせいか先頭との差が広がっていきます。

霧雨は一向に止む気配はありません。むしろ小雨になってきました。

 

ゴールまであと10km。この分なら4時半にはゴールできそうです。

 

ゴールの後、温泉でも入って帰ろうと思って、お風呂セットを持ってきました。どの温泉がいいかな・・・・・

温泉から上がったらビールもおいしいだろうな・・・などとゴール後のことばかり考えている馬鹿な私。

そうこうするうちに内牧宿を通ってゴールの宮地駅に到着。(16:25)

  

同行の家内は少し疲れている状態。駅で時刻表を見ると16時37分の特急があります。温泉に入りたかったのですが、次の電車迄1時間以上待たないといけませんので

ここは、特急に乗って帰りました。

このコース雨で視界が悪かったけどまた行ってみる価値はあります。いつか、豊後街道を完歩したいですね。

 


世界文化遺産  韓国安東河回村(韓国安東市)

2020-05-05 08:30:39 | 韓国旅行

古い資料を見ていたら、2009年(平成21年)のGW(5/5)に韓国安東(アンドン)河回村(ハフェマウル)に旅行に行っていました。

ブログにアップしているのか調べましたが、アップしていないようなので古い記事で申し訳ございませんが、ここにアップします。

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○安東・鳳停寺(ポンジョンサ)

安東は、ソウルと釜山のちょうど中間ぐらいに位置しています。釜山から安東には、列車、高速バスなどがあるが、初めての地でおまけに日帰りとなるとなかなか大変です。

市内の名所を行くバスの本数があまりありません。下手すると帰れないかもしれません。いろいろ考え、現地のツアーを検索するとありました。

安東・河回村ツアー2名以上。料金一人178000ウォン(日本円約14200円(2009年時点))。

午前7時半ホテルに迎えに来てもらった。ガイドさんは釜山の短大で日本語を教えているという孫(ソン)さん。身長が177cmもあり、176cmの私が小さく見えます。

車は、高速道を通って安東へ。韓国もこの日は子供の日で休日。高速道も日本ほどではないがちょっと混んでいました。

韓国では、高速道の中央分離帯や山の彼方此方に「なんじゃもんじゃ」の木が植えられていました。長崎・対馬にもあるということですのでなんじゃもんじゃのルーツは韓国かな?

車は3時間ぐらいで安東に到着。

最初に行ったのが、1999年にイギリスのエリザベス女王が来られたという「鳳停寺」(ポンジョンサ)。

寺の由来は、672年義湘大師が栄州に位置する浮石寺(フリッサ)から飛ばした紙で作った鳳が降り立った所に寺を建立したことから「鳳停寺」という逸話が伝えられています。

但し、後に発見された極楽殿の上条文の記録によると、義湘大師の弟子である「能仁」が建てたとあった為、逸話は義湘大師の名声が作り上げた伝説と考えられました。

 

 

写真左 鳳停寺大雄殿 朝鮮時代初期に建てられました。 寺の前の提灯は、5月2日お釈迦様の誕生日祝いの為、付けられています。日本ではお釈迦様のお誕生日は4月8日ですが、

韓国では旧暦でお祝いしています。正面3間(5,4m)側面3間(5,4m)の八作屋根がのった多包式の建物で柱と柱の間には枡組みがあります。

写真右 鳳停寺極楽殿 高麗時代の中期に建てられました。韓国国内最古の木造建物、韓国国宝です。提灯は白ですが、これは死者を弔うものです。

大雄殿はカラフルな提灯ですが、これは現代を意味しています。極楽殿は、正面3間(5,4m)側面4間(7,2m)の端正な切妻屋根の建物ですが、主柱は中間が膨らんでいる

エンタシス様式。日本の法隆寺などで見られるスタイルです。この前に立つ三層石塔は、高麗時代に造られています。

この寺は、現在でも僧侶が修行していますので土中に穴を掘りキムチを貯蔵しています。この方法が韓国キムチ冷蔵庫の応用になっています。また、古い竈もあります。

寺の庭では、寺の人が「菊」を挿し木用に切っていました。ここは、「菊茶」としても有名です。

 

 

  

 

○安東・河回村(ハフェマウル)

今回の旅のメインである安東の河回村について紹介します。この河回村は朝鮮時代に作られた集落がそのまま残り、今も子孫の方が生活しています。

また、韓国を旅行された方は、一度は見られたことがあると思いますが、韓国の「お面」の所です。

   

河回村は、上記地図のごとく、川(洛東江ナクトンガン)が、S字型に村を囲むように流れていることに由来します。

この村は、庶民文化と両斑文化(諸事万般を統制する職)が調和をもって保っています。庶民と両斑との関係をコミカルに風刺的に表現したのが河回村仮面劇です。

この仮面劇は、韓国の重要無形文化財に指定されています。

  

※写真左 仮面屋さん。    

※写真右 庶民の家。藁ぶき屋根です。

高麗時代の終わりごろに官職に就いた柳従恵(リュジャンエ)がこの地を開墾して以来、大儒学者と知られる柳雲竜(リュウンヨン)や文禄・慶長の役(日本では秀吉の朝鮮征伐)の時に

総理大臣だった柳成竜(リュソンヨン)などの人を輩出しています。韓国スターの柳時元(リュウシウォン)もこの柳家の人です。

  

※写真左 韓国スター柳時元(リュシウォン)の生家です。表札に「柳 時元」と書かれているのがリュシウォンです。その上の表札は彼のお兄さんです。

ここの生家が日本映画高倉健主演の「はたる」の1シーンの撮影場所です。

※写真中 これは1999年にエリザベス女王がこの河回村に来られた時に植樹された樹です。横には韓国語と英語で書かれたプレートが設置されています。

※写真右 両斑の家。屋根は瓦葺です。

   

 

 

○ 安東郷土料理「焼きサバ定食(ホッチェサンバッ)」

韓国の海から少し離れている「安東」の郷土料理が「ホッチェサンバッ(焼き鯖定食)」です。日本でも福井・小浜から京都まで「鯖街道」があるように韓国版鯖街道があるのでしょうか?

資料によると浦項近くの「盈徳」という所から運ばれたらしい。

  

待つこと10分。食べたかった「塩鯖定食」。ステンの容器に「福」と書いてあるのが、ご飯。

韓国の食べ方は、中央の豆腐チゲをご飯にかけスプーンでいただきます。キムチとか他のおかずはお箸でいただきます。

この塩鯖、焼き方がカリカリして骨まで食べられました。塩加減も程よくとてもおいしかった。 アジュ マシッソッソヨ

安東では、あとチムタッ(蒸し鶏料理)などもありますが、鶏料理が苦手な私にはちょっと無理です。

 

この安東は、翌年の2010年に世界文化遺産に登録されました。

駆け足の日帰り旅行でしたが、本当はここの民宿に1泊してゆっくり見て回ればよかったかな?と思っています。次回はそうしたいですね。

 


健康ウォーク「国際センター~東公園~国際センター」(福岡市博多区~東区)

2020-05-02 09:25:37 | ウォーキング

本来なら4/29に行われる予定でした、「新生堂薬局健康ウォーク」もコロナ感染拡大防止のため中止になりました。

この大会私もスタッフとして参加予定で下見も11/25,2/10と2回行いました。記事は2/10に下見に行った分です。

コースは、国際センターをスタートし櫛田神社~博多千年門~崇福寺~東公園折り返しの10kmです。(5kmコースもありました)

国際センター(大相撲九州場所の会場)をスタートし、サンパレスの方からマリンメッセの方向に進みます。

ここが博多港。マリンメッセの方には、釜山行フェリー「カメリア」(現在運休中)が停泊しています。

  

櫛田神社浜宮。博多山笠の棒洗いはここで行います。

 

昭和通り、明治通りを抜け、冷泉公園、櫛田神社へ。櫛田神社山門には日本一大きなおたふく面が飾られていました。

  

承天寺は博多山笠発祥の地。(今年の山笠はコロナ感染拡大防止のため来年に延期になりました)また、うどん、そば、羊羹、饅頭を日本に広めた場所としても知られています。

  

コースは福岡市内でもたくさんのお寺が密集している御供所町に入ります。御供所町は、筥崎八幡宮への供物を揃えたからその地名が付いたそうです。

突き当りの明治通りが5km、10kmの分岐点です。10kコースはここから右折して千代町、東公園に向かいます。

 

東公園亀山上皇銅像前がチェックポイント。コースはこの先吉塚駅前を折り返します。

 

 

 

千代町の信号を右折

 

都市高速のガードを潜り、石堂大橋を右折。突き当りの臨港警察署入口信号を左折。

 

国際センターゴール!

約10kmのウォーキングでした。