よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

唐津街道を行く№10(博多宿~福岡城)

2010-02-25 10:48:36 | 唐津街道

よく、福岡と博多を間違えられますが、博多は商人の町、福岡は城下町です。
明治時代、福岡の市名を福岡にするか博多にするかで投票がありました。
投票の結果、僅差で福岡になりました。
博多の名前は昭和47年政令指定都市になった時、博多区として残されました。

福岡部に入ると、街道を少しそれ、街道と平行している旧電車道に入ります。
すぐ右手には「水鏡天満宮(すいきょう)」があります。
ここは、「菅原道真が京より太宰府に左遷される道中で博多に上陸した際、四十川
(現、薬院新川)の水面に自分の姿を映された場所であるとされ、今泉に社殿が建造され、
「水鏡天満宮」「姿見天神(すがたみのてんじん)」と呼ばれた。
1612年福岡藩主黒田長政によって福岡城鬼門にあたるこの地に移住した。
福岡市の中心地「天神」は、この天満宮に由来します。また、鳥居の「天満宮」は
福岡出身の初の総理大臣「広田弘毅」が小学生の頃書いたものです」
改めて、鳥居を見てみると、とても小学生が書いたとは思えない立派な字体でした。





時間は2時を過ぎました。箱崎からここまでは、そんなに距離はないんですが、
彼方此方寄り道している為か、距離以上に万歩計の数字が上がっています。
この街道歩き、1月2日にスタートしました。お正月でお昼を食べたいのに
食堂は休みでお昼に苦労しました。
然し、今回は、福岡市の中心地「天神」。家内の情報では、ビルの地下に安くて
美味しい店があるということ聞き、(家内はこの天神の某社に勤めています)
即、そこに行きました。
早速そこのお店の「おまかせ定食」を注文し、メニューを見るとグラスビールが
100円であります。唐津街道も半分を超えたし、また今日は暑いし、いろいろ
理由を考えながら二人でビールで乾杯。
babyさんがいつも言われているように歩いた後のビールは美味しいですね。

30分ぐらい休憩のあと、再び街道へ。
今日はここから20KM先の前原宿まで行きたかったのですが、
寄り道ウオークが多く、前原宿までは無理ですので、行ける所までいくように
しました。

天神の交差点から100Mぐらい行った所の証券ビルの一角に福岡民謡「黒田節」の
モデルになった「母里太兵衛」の屋敷跡があります。
この一帯は、大名町と言って、福岡藩上級武士の屋敷があったところです。
「♪酒は呑め呑め 呑むならば 日本一のこの槍を 呑みとるほどに
のむならば これぞまことの 黒田武士♪」
この黒田節には、こんな逸話が残っています。
黒田長政の使者として伏見城の滞在中の福島正則を訪ねた太兵衛は、
酒を勧められるが、酒豪で有名な太兵衛は、使者であるからと断った。
私だったら、いただきますかと言ったと思いますが、彼は仕事ということで
断り続けます。あまり断るので正則は何か太兵衛に言ったのでしょうね。
そこで正則は、大盃を出し、「これを飲み干せば好きな褒美をとらす」と
言いました。太兵衛はあまり言われるのであえて受け、大盃になみなみと
注がれた一気に飲み干すと、褒美として正則が秀吉から拝領した
名槍「日本号(ひのもと)」を所望します。
正則はしぶしぶ「武士に二言はない」といって太兵衛に「日本号」を
渡します。これが民謡の黒田節になっているんです。

赤坂門の交差点を抜けると福岡城が見えてきます。
私が殿様だったら沿道にお迎えがずらっと並んでいたのでしょうが、
私は、一市民。お迎えなどありません。(笑)
一応、殿様気分になったつもりで裁判所横の上の橋から城内に入っていきました。


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唐津街道を行くその8「筥崎~博多宿」

2010-02-23 15:36:22 | 唐津街道
2月21日晴れ 唐津街道第4日目。
9時半、前回ゴール地の筥崎宮前に到着。
この街道も福岡市内中心部に入ってきました。
歩数計の目盛をチェックし、いざスタート。

筥崎宮の前からは、昔は一帯に松が植えられ、これが「千代の松原」と呼ばれていましたが、
今は、その面影もありません。
筥崎宮から100mぐらい行った所に道標があります。
地図ではここからが旧地名で那珂郡馬出村(まいだし)。
馬出という地名は、昔、宿場町から馬を出したのでこの地名がついたそうです。
因みにこの近くの吉塚は、筑後の豪族、星野吉実のお墓があったことから
「吉塚」とついたと何かの本に書いてありました。

馬出に入ると、右側に九大病院が見えてきます。
昔は、古い建物でしたけど、今、近代的な建物になっています。
私事ですが、子供の頃、叔母がこの馬出に住んでいて、夏休みなんか、
よく泊りがけで遊びに来ていました。九大病院の塀の前で従姉妹と遊んだことなど
今でも鮮明に覚えています。この塀当時のままでした。懐かしかったです。

その先を行くと、「日蓮上人銅像道」という石碑が建っています。
日蓮上人は、鎌倉時代、元寇で外国が攻めてくると予言しました。
このあたりは、文永の役(1274)で古戦場になったところです。
ここで街道を離れ、東公園へ。
東公園は、県庁が来る前までは、広い公園で野球場もあり、若い頃は、ここで
草野球をしたことがあります。
公園の中を歩くと「松原水」がありました。その説明文によると、
松原水は、「明治時代、博多部の井戸は水質が悪く、塩分濃度が高いため
飲用には適さず、千代付近に続く松林の千代松原の砂地から汲み上げた井戸水を
博多まで運んでいたがその水も人家の汚水で利用できなくなった。そこで明治29年
(1896)市設の井戸を設置、業者を通じて1桶(18*)1銭で売った。
この松原水と箱崎のおきゅうとは、博多の風物詩だったが、大正12年(1923)
上水道の完成で姿を消した。1900年大正天皇が皇太子時代来福した際、
この水を飲料水に御使用なられている。」

また、街道に戻り、崇福寺(そうふくじ)に到着。
このお寺の山門は、福岡城の本丸表御門が使われています。
お寺の墓地には、福岡藩黒田家のお墓もあります。
黒田家の墓地には入ることができません。
この墓地には、玄洋社(注1)、頭山満のお墓もあります。

再び街道に戻り、コースは千代の交差点へ。
街道では、ここから篠栗街道と交差しています。現在は国道201号線です。

その千代の交差点の所に「刈萱(かるかや)石堂丸地蔵尊」があります。
これは、高野山の「刈萱道心」の誕生地です。
刈萱道心のことは、浄瑠璃にもなっていますのでご存知の方もいらっしゃると思います。

この地蔵尊の道路を渡ったところの川の側に悲しい伝説の「濡衣塚」があります。
「昔々、聖武天皇(724~749)の時代、筑前守に任命された佐野近世という人物が
妻と娘の春姫を伴い、博多へ。長旅の疲れか近世の妻は異郷の地で亡くなり、
娘の春姫は、博多の毎日を泣き暮らしていました。
人々の勧めもあり、近世は再婚し、春姫の下に新しい母親が来ます。
ところが、この継母にとって春姫の存在は目障りでなりません。
ある夜、継母は一人の漁師を呼んで春姫が自分の釣り衣を盗んだと近世に
譫言(せんげん)させました。信じられないという顔の近世は、
継母に問いました。継母は何食わぬ顔で「そんなことはございますまい。
姫は寝所で寝ています。後妻の私が問えば角が立ちますので、あなたが
確かめに行ってください。」と答えました。
近世は慌てて姫の寝所に行き、灯りをともして部屋を見て、驚きの声を上げる。
寝ている姫の体の上にびっしょり濡れた衣がかかっています。
この地を預かる近世としては、怒りで気が動転し、手にした刀を寝ている姫
めがけて振り下ろしていました。
一年が経ちました。
近世は寝苦しさにうつらうつらとする中、枕元に一人の少女がたっているのに
気づきました。「濡衣の袖よりつたう涙こそ永き世までの無き名なりけり」
はっと眼を覚ました近世は、春姫が夢枕に立ち自分自身の潔白を訴えていたと
悟りました。姫のいじらしさに悔恨の涙を流した近世は肥前の松浦山で苦行積み
娘の霊を弔いました。そして博多に戻り、七堂(普賢堂、石堂、里の堂、辻の堂、
かやの堂、脇堂、瓦堂)を建立したといわれています。
また、無実の罪をかぶることで「濡衣を着る」という言葉は、この話に由来します。」
    
     

濡衣塚を後に、再び街道へ。
旧電車道を呉服町方面へ行きます。
その後川端へ。博多宿は、地図によれば、博多リバレーンあたりと書いてあります。
然し、リバレーンあたりは、ビルばかりで何も残っていません。
ビルを一回り廻ってみると、那珂川の側に「渡唐口跡」の石碑があります。
昔は、ここが博多の海の玄関口だったんです。
そういえば、この石碑の後には「鏡天満宮」があります。
ここは、菅原道真が、博多に最初に足を踏み入れた地点です。
博多宿は、他に見るところがないので足は福岡城に向かいます。(続く)
    
  


(注1)玄洋社
板垣退助の自由民権運動に賛同した福岡の政治結社。
ここからは、頭山満、杉山茂丸、寺田栄、明石元二郎(坂の上の雲に出てきます)、
広田弘毅(元首相、城山三郎「落日燃ゆ」のモデル)、中野正剛、緒方竹虎などの
方が出られています。


豊後水道絶景ウオークに参加。(大分県臼杵市)

2010-02-19 18:48:11 | 日記

2月14日大分県臼杵市で行われた「豊後水道絶景ウオーク」に参加した。
この大会は、前日は津久見の四浦海岸、この日は臼杵の絶景ポイントを廻るコースです。
朝、3時半福岡を出発。会場の臼杵市諏訪山体育館に到着したのが7時10分。
会場横の駐車場には、他県ナンバーの車でいっぱい。
皆さん、前日の大会にも参加され、昨夜は車中泊されている。
車のトランクを見せてもらったが、トランクには、毛布、カセットコンロ、枕など
生活用品がいっぱい積んであった。



出発式の後、8時半スタート。
私は20kmにエントリーしていますが、ゴール後色々行きたい所があり、
30kmコースと一緒にスタート。
私は、先頭から50人ぐらいでスタートしたのですが、この大会参加者は
皆さん健脚ぞろい。時速6kmの私でもすぐ何人の方から抜かれてしまった。

  

10時40分最初のチェックポイントの臼杵石仏に到着。
ここが12km。今日、ゼッケンを見せれば石仏内はフリーパス。
しばらく、石仏を鑑賞。
この石仏は、平安後期から鎌倉時代にかけて彫像された。
その規模、数量においてまた彫像の質の高さにおいてわが国を代表する石仏群であり、
平成7年磨崖仏では全国初、彫刻としても九州初の国宝に指定された。
その数は60余体にも及び、このうち59体が国宝になっている。
石仏群は四群に分かれ、地名によってホキ石仏第一群、同第二群、山王山石仏、
古園石仏と名づけられている。

     

 

   

 

 

30分ぐらい散策の後、再びコースへ。
石仏近くの深田公民館が休憩場所になっており、ここで出されたブタ汁が
具沢山で本当に美味しい。お代わりもどうぞと言われるが、当方只今減量中、
食べたいのを我慢し、再び歩き始める。

コースも終盤に入り臼杵の町に入ってきた。
コースマップの絶景場所として龍原寺・三重塔がある。
ここは、1600年京都の知恩院の末寺として建てられ、聖徳太子の像を
祀っている。また、三重塔は、江戸時代の名工「高橋団内」が10年の歳月を
経て完成。九州には二つしかない江戸期の木造三重塔です。

  

龍原寺を出ると八町大路という臼杵の商店街に入ってきた。

「臼杵城址」は、1556年にキリシタン大名・大友宗麟(おおともそうりん)によって築城された。当時の臼杵は、明(中国)やポルトガルの商人が行き交う南蛮貿易により栄えており、

キリスト教布教の地として東西の文化が融合した国際色豊かな街だったという。

現在の臼杵の街並みは、美濃(岐阜県)から1600年に入封した稲葉氏によって築かれたもの。江戸時代は臼杵藩5万石の大名であった稲葉氏は、明治までの約270年間にわたって臼杵を統治した。

大きな特徴として挙げられるのは、臼杵城を中心に商家が立ち並んでおり、その外側を武家屋敷や寺院が取り囲んでいるところ。

 

  


ここは、平成15年老朽化した商店街をリニューアル。アーケードの撤去、電線の地中化、
石畳舗装され、城下町のイメージを持った商店街として生まれ変わった。
中でも鑰屋というお醤油屋さん400年の伝統を持っている。

  

臼杵の紙雛「うすき雛」

稲葉観通の時代の天保の改革の頃、質素倹約のために町の人たちは「紙製のお雛様」しか飾ることを許されていなかったそうです。でもそんな時代でも、

子供の成長を祈りながら紙のお雛様を飾ったと言われてます。その当時のお雛様の折り方は残っていないので、お雛さまの原型の立ち雛がずらりと並んでいる様子は、

とっても可愛く華やかな様子でした。

   

商店街を過ぎると右手の高台に臼杵城が見える。
その先には、木造の図書館・・・・・・
こんな風景、私の一番好きなところだ。
こんな景色を見ていると何か心が安らぐ。

   

   

臼杵川を渡り、ゴール手前の急な坂を上るとゴールの諏訪山体育館へ。
12時48分ゴール。途中休憩もしたが4時間18分で歩くことができた。

ゴール後は、高速で佐伯市(さいき)蒲江の道の駅へ。ここの海鮮丼が食べたくなった。

海鮮丼は、1050円と2200円の二種類がある。どう違うかというと、2200円の方は、アワビ付。

悩んだ末(懐と相談して)、1050円の海鮮丼をいただきました。次回来るときは、2200円の方を注文したいな~

  

 


唐津街道を行く№7(青柳宿~箱崎宿)

2010-02-15 16:35:40 | 唐津街道
【唐津街道をゆく】第3日目その2「青柳宿~箱崎宿」(福岡...青柳宿を出たのが12:00。
そろそろお腹も減ってきました。
食べたいものをいろいろ空想しながら歩いています。
昔の人もそうだったんでしょうか?
街道は、五所八幡宮を経て田園地帯に入ってきました。
天気がいいせいか、、土手には、つくしでしょうか、家族連れでとっている人がいます。
3歳ぐらいの子供さんでしょうか、我々に向かって手を振っています。
それに答え我々もその子供さんに手を振ると、子供さんが喜んでいます。
なんと可愛いんでしょう。

街道は、新宮町に入ってきました。
新宮の「太閤水」は、街道の右側にありました。
説明文をみると、
「天正15年(1587)九州を平定した秀吉が大阪への帰路、ここで馬を休め、
自ら清水を汲んで飲んだ所です。
当時九州の大部分に勢力を伸ばしていた島津義久に対抗し孤軍奮闘していた
立花宗茂を助けるため、秀吉は20万の大軍を自ら率いて九州へ乗り込んで
きました。この秀吉を追って九州入りした堺の茶人「津田宗及」は、三代(みしろ)の
里で水を求めましたが、あまりよい水でなかったので、自ら井戸を掘り、湧き水を
得ました。秀吉はこの水を飲んでたいそう喜び、掘った者の名を聞き、即座に
「宗及水」と名づけました。
その後、京都大徳寺の江月和尚(宗及の息子)が立ち寄った際に、「飯銅水」と
改めましたが、後世に石畳の井戸場が造られ秀吉にちなんで「太閤水」と
呼ぶようになりました。」
現在では蛇口が設けられ、この日も水を汲みにくる方がいらっしゃいました。
この堂の裏側が水汲み場になっています。

その立花家ですが、この先の千田の交差点の先に「夜泣き観音」と呼ばれる
立花城落城にまつわるお話があります。
「元禄11年(1568)、立花城主立花鑑載(あきとし)の妻と子は、城を抜け出し
追っ手から逃げるため橋の下に隠れました。然し子供が泣き止まず、もはや
これまでと諦め、観音経を唱えました。すると子供は泣き止み追っ手から
逃げることが出来ました。
以後、子を思う母の気持ちを表した観音様として祭られ、子供の夜泣きを治して
くれるのでこのように呼ばれています」


※写真説明 左上、新宮町「夜泣き観音」、左下、新宮町「太閤水」
        右上、新宮~和白山道、右下、立花山のみかん

時計も13:00を過ぎ、お腹も減ってきました。
原上の交差点には色んなお店があります。
腹が減ってくると何をみても美味しく感じます。
その中で「赤のれん」と書いてあるラーメン屋さんがありました。
赤のれんのラーメンは、今日のゴール地、箱崎にあり、おいしいラーメンとして
有名です。
迷わずラーメン屋さんの暖簾をくぐり、ラーメンを注文。
そういえば今日は朝5時に簡単な朝食を食べ、それ以外は
何も口にしていませんでした。
出されたラーメンは美味しくあっという間に完食。

お腹も満腹になり、再び出発。
このラーメン屋さんの先を左に行くと、今日2回目の山道に入りました。
ここは、殿様道といって新宮町と和白の境界になります。
山道を登っていくと両側がみかん山。
カラスを追っ払うためでしょうか、時々、鉄砲のような音がしています。
道には、みかんの食べ掛けが散乱しています。
どこかの誰かがみかんをちぎって食べそこに捨てたんだろうと思ってましたが、
違うんです。カラスがみかんをくわえて、食べやすいように上から落とすんです。
改めてカラスの利口さに閉口しました。

山道を下ると国道3号線に合流。
ここから福岡市東区上和白に入ります。
1月2日に北九州若松を出発し、3日目で福岡市内に入りました。
街道はしばし3号線と平行しています。
下原の交差点近くに差し掛かりました。
地図では、下原の信号の手前を左に入るようになっています。
ここは、旧3号線でしょうか?昔々通ったような気がします。
淨光寺を抜けると池がありその右側には九州産業大学が見えてきました。
そのまま進むと、香椎の商店街に出てきました。
右側が西鉄香椎駅、左側がJR香椎駅になります。
ここで休憩のためJR香椎駅へ。今日3回目の休憩です。
万歩計を確認すると内殿橋から約20km。道を間違えたので本当は
約25kmぐらいです。


※写真説明 左上、池の向こうは九州産業大学、左下、香椎跨線橋
        右上、博多バイパス(松崎)付近 、右下、筥崎宮前信号

15分ぐらい休憩し、15:00JR香椎駅を出発。
JR鹿児島線沿いの細い道を歩きます。
ここは、交通量も多く、おまけに歩道帯もありません。
香椎宮に行く道と交差し踏切になっています。
そこを横断するのですから、危険です。
ここは、ちょっと考え、遮断機が下りるのを待ち横断しました。

踏切を渡ると、右側にはマンションが・・・・
30数年前までは、国鉄の車両区で広い敷地にレールが沢山敷かれていたと
記憶していますが、昔の面影は全然ありません。

変わったことといえば、この先多々良中学のところが3号線博多バイパスに
なっており、細い道が片側3車線の広い道路になっていました。
まるで浦島太郎の心境です。

火の見下の信号で3号線バイパスと別れ旧道に入ります。
多々良川の大橋を渡り、都市高速の下を通ると流通センターに入ってきます。
ここは35年ぐらい前に建てられ、今では倉庫会社などが沢山入っています。

街道は、原田橋を渡り、箱崎宿へ入る。
箱崎の街中を通り今日のゴール地、筥崎宮へ。
16:17到着。
本日の歩行距離、引き返したりしましたが約32km。
本当でしたら内殿橋から27kmぐらいです。
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本日の交通費
JR 博多~福間 @450 、バス福間~内殿 @190
地下鉄箱崎~博多@200
昼食代 
ラーメン@450 、コーヒー代@150、おやつ@380

唐津街道を行く番外編「筥崎宮」

2010-02-11 16:42:53 | 唐津街道
【筥崎宮(はこざき)】福岡市東区先日の唐津街道3日目のゴールが筥崎宮でした。
この筥崎宮は、皆様あまりご存知ないかもしれませんが、
福岡では、お正月の三社参りには欠かせないコースです。
正月3日の玉せせり、9月12日からの放生会(福岡では「ほうじょうや」といいます)、
などのお祭りもあります。

※筥崎宮楼門、文禄3年(1594)名島城主小早川隆景造営

筥崎宮は、延長元年(923)、醍醐天皇が神勅により「敵国降伏」の
宸筆を下賜され、壮麗な御社殿を建立しました。
御祭神は、宇美町でお生まれになった「応神天皇」応神天皇のお母堂様の「神功皇后」、
神武天皇の母君の「玉依姫命」をお祀りしています。
鎌倉時代の蒙古襲来の時には、亀山上皇が祈願し、俗に言う神風が吹き、
未曾有の国難に打ち勝ちました。
こうしたことから、厄除け、勝運の神として有名です。
今年も地元のプロチームの福岡ソフトバンクホークスやJ2のアビスパ福岡などの
チームが必勝祈願に訪れています。
また、ここは、大分の宇佐、京都の石清水とともに日本の三大八幡宮とよばれています。









写真説明
上から、一の鳥居(1609年)黒田長政建立
ソフトバンクホークス、アビスパ福岡の祈願絵馬、
(後の松が御神木の筥松)
宸筆の「敵国降伏」
、お潮井とり
※山笠の時には、筥崎宮前の海岸でお潮井とりをします。

筥崎宮花庭園の『冬ぼたん』『福寿草』(福岡市東区)

2010-02-08 19:35:30 | お花

筥崎宮花庭園の『冬ぼたん』『福寿草』(福岡市東区)

月末から月初にかけ、バタバタしていましたので
10日ぶりの更新です。

昨日、唐津街道歩きで畦町から筥崎宮まで約35km歩きました。
この街道歩きの報告は、写真、文章を整理し、後日アップしますが、
ゴール地の筥崎宮の花庭園の冬ぼたん、福寿草が見ごろでした。

冬ぼたん


「福寿草」


花庭園には、他には、アネモネ、クロッカス、ふきのとう、椿「わびすけ」、「冬あやめ」
などの花も咲いていました。