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よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

ビワイチ徒歩の旅「番外編」比叡山延暦寺へ(滋賀県大津市)

2025-05-25 04:07:24 | 琵琶湖一周徒歩の旅

ケーブル坂本駅から乗車します。

このケーブルは、昭和2年(1927)開業、もうすぐ100年迎えます。

坂本から比叡山延暦寺までの2025mを約11分で結ぶ日本一長いケーブルカーです。

  

ケーブル延暦寺駅

 

今日は、少しかすんでいますが、延暦寺駅からの琵琶湖です。

ここから延暦寺まで上っていきます。延暦寺まではそんなに勾配がきついわけではありませんが、初日の長命寺の808段の石段、2日目の近江八幡から堅田まで25km、

そして今日の堅田~坂本まで10kmと足に疲れが残っているのか、思うように足が進みません。

  

元亀2年(1571年)信長が比叡山焼き討ちを行いましたが、この時はまだケーブルもない時代、兵は、坂本から重装備をして徒歩で(いや駆け足でかな?)比叡山を登ってきたのでしょうか?

 

延暦寺に到着。

延暦寺は、比叡山に広大な寺域を持つ、天台宗の総本山。平成6年に世界文化遺産に登録されています。奈良時代末期、19歳の最澄(さいちょう)(767-822)が、比叡山に登り草庵(そうあん)を

結んだのが始まりです。最澄が中国に留学して天台宗を開宗してからは、弘法大師(こうぼうだいし)の開いた高野山金剛峰寺(こうごうぶじ)とともに、約1200年もの間、日本の宗教界最高の

地位に君臨し、この比叡山からのちに日本仏教をささえた円珍(えんちん)(814-891)、円仁(えんにん)(794-864)、慈円(じえん)(1155-1225)、源信(げんしん)(942-1017)、

法然(ほうねん)(1133-1212)、親鷲(しんらん)(1173-1262)、一遍(いっぺん)(1239-89)、道元(どうげん)(1200-53)、日蓮(にちれん)(1222-82)などの傑僧(けっそう)を

輩出しています。全盛を誇った平安時代末期には、三塔・十六谷・三千坊を数えていたといわれています。この時代に門下の対立が激しくなり、分立した三井寺(園城寺)の寺門に対して、

山門と呼ばれています。杉木立が深く生い茂っている比叡山中の境内は、天台宗修行道場としての威厳に満ちみちた雰囲気が漂い、訪れる者の心を引き締めます。延暦寺は比叡山の山上山下に

大別されており、山上には、根本中堂を中心とした東塔、釈迦堂を中心とした西塔、円仁によって開かれた横川の3地区に分かれています。一方、山下になる坂本には、延暦寺の鎮守社だった

日吉大社や本坊だった滋賀院などがあります。戦国時代に織田信長(1534-82)によって、一山焼き討ちに遭いましたが、豊臣秀吉(1536-98)・徳川家康(1541-1616)の手によって復興された

諸堂は、数多く国宝・重要文化財の指定を受けており、宝物類も目を見はる物ばかりです。

 

初めて延暦寺に行きましたが、広い敷地に東塔・西塔・横川とまさに寺院のアミューズメントです。

ここで私の足に異変が・・・・疲れでもう歩けなくなりました。

折角ですので東塔だけでも見ておこうとまず大講堂へ

 

 

根本本堂は、工事中のため、シートの間から入っていきます。

 

 

古今和歌集の紀貫之のお墓は、比叡山中腹にあります。

 

東塔を見てから来た道を比叡山駅の方に戻ります。

ケーブルの時間があったので駅の上にある展望台に行きました。

比叡山坂本駅から京都へ。京都駅から新幹線で博多に戻りました。

次回は、坂本から大津まで約10kmを歩いてビワイチのゴールにしたいと思っています。秋の紅葉見学を兼ねて行こうかな~

 

 


ビワイチと徒歩の旅「番外編」坂本歴史の町 (滋賀県大津市)

2025-05-24 15:22:21 | 琵琶湖一周徒歩の旅

5/12(火) 坂本駅に到着後、比叡山延暦寺に向かいました。

バスでケーブルカー乗り場まで行こうかと思いましたが、坂本の門前町の地図を見ると、歩いていきたくなりました。

坂本は比叡山に抱かれた扇状地。比叡山に源を発する大宮川や藤木川(権現川)が琵琶湖に注ぎ込み、目前には銀色に輝く琵琶湖が広がっています。

比叡山を挟んで京都市の東隣に位置し、琵琶湖に面していたことから、かつては東国や北陸からの物資運搬の重要幹線として大変重要な役割を果たした港町でもありました。

現在では世界文化遺産の比叡山延暦寺をはじめ日吉大社、西教寺を擁する門前町として、また延暦寺の里坊のまちとして、その歴史的価値が再評価されています。

     

お昼時ですが、中高生が下校しています。このあたりに学校があるのでしょうか?

   

     

公人屋敷(旧岡本邸)は、江戸時代に延暦寺の僧侶でありながら妻帯(さいたい)と名字帯刀(みょうじたいとう)を認められた「公人(くにん)」が住んでいた住居のひとつです。

内部が原型をとどめないほど改装されている住居が多い中、岡本家の家屋は全体に公人屋敷としての旧状をよくとどめた社寺関係大型民家の特徴を示す住宅として残されてきました。

  

1636年6月1日三代将軍徳川家光は、600年ぶりに新しい統一通貨をつくるよう幕府に命じました。

江戸の芝、浅草とここ近江坂本の三か所が銭造地に選ばれました。

 

平安の昔、最澄(伝教大師)が延暦二四年(805年)中国浙江省天台山から持ち帰った一握りの茶種。
比叡山の麓、大津の里に蒔かれ育ったのが日本茶の祖と謂われています。
平安時代初期に編纂された勅撰史書「日本後記」には「815年4月15日唐崎行幸の途中、嵯峨天皇が梵釈寺(大津市滋賀里)を過ぎたところで、永忠(えいちゅう)から茶のもてなしを受けた」と記述されており、これが、文献に残る日本での喫茶記録第一号となっています。この出来事は最澄上人がここ日吉茶園にお茶を植えてから、10年後だったそうです。

そういえば、福岡博多の崇福寺には、栄西禅師が中国(南宋)よりお茶の種子を請来し、茶樹の栽培、喫茶の方法を伝え、その普及に大いに貢献し、後に茶祖と称されました。

栄西禅師が京、栂尾高山寺の明恵上人に茶の種を分けてあげた話は有名な事です。

 

   

歩いていると、石積みが多いことに気づきます。延暦寺のふもと坂本町穴太(あのう)に残る石垣集団「穴太衆」があります。

穴太とは、大津市坂本付近に今も残る地名。室町時代の末頃、この地に居住し、延暦寺の土木営繕的な御用を勤めていた人々は「穴太衆」(あのうしゅう)と呼ばれ、織田信長の安土城を始め、

江戸時代初期、各地の石垣普請に従事した。大小の整形していない自然石を巧みに積み上げたもので、堅固に積むことから、城の石垣などに利用されたという。延暦寺の門前に開けた坂本の町には、

同寺の里坊が点在しているが、その町並み景観を特色付けているのが、この穴太衆積み石垣である。市指定史跡。

 

 

旧竹林院は、庭園が見事です。

 

福岡にも山王という地名に「日吉神社」がありますが、この日吉大社が本宮だったのですね。

日吉大社は、全国各地にある3,800余りの「山王(さんのう)さん」の総本宮。比叡山連峰 八王子山(牛尾山・378m)の麓に広がり、延暦寺の門前町坂本の鎮守神。

「山王七社」「山王二十一社」ともいわれ、摂社・末社が多くあります。創祀は古事記に記されるほど古く、地主神である大山咋神(おおやまくいのかみ)とその妻、

鴨玉依姫神(かもたまよりひめのかみ)を祀ったのが始まりです。その後、延暦寺の発展とともに整備されました。

境内は、東本宮と西本宮の2区域からなります。東本宮は神体山の八王子山(378m)に鎮座する大山咋神を祀ったものです。山頂付近には金大巌(こがねのおおいわ)と呼ばれる大きな

磐座(いわくら)や迫力ある懸造りの奥宮などがあります。

中世には、織田信長公の焼き討ちによって以前の構造物は、すべて灰燼に帰しましたが、その後復興によって今日の姿となっています。

西本宮は大津京遷都にあたって奈良県の三輪山より大己貴神(おおなむちのかみ)を勧請したもので、宇佐神宮の姫神をまつる宇佐宮、加賀国一宮である白山比咩神社から勧請した白山宮などが

あります。東本宮・西本宮ともに本殿は日吉造(ひえづくり)といわれる特殊な建築で、国宝です。

このほか、石の橋で重要文化財に指定されたのは珍しいといわれる日吉三橋(ひよしさんきょう)、猿の彫刻がある朱色の西本宮楼門、山王の「山」という文字を表した山王鳥居など、

重要文化財が多くあります。ご社殿の大半は織田信長による比叡山焼き討ち以後、江戸時代初期に再建、建立されたものです。

大宮川の渓流が流れる清風の森に、見事な建築美を誇る数多くの社殿が点在し、特に秋は周囲の紅葉に壮麗な社殿が映えてさらに美しい眺めになります。

また、「山王さん」と呼ばれて広く親しまれている例祭(山王祭)は、湖国三大祭の1つです。3月の第1日曜・27日・30日、4月3日・12日から15日に行われ、特に、4月13日の宵宮落し神事は

期間中最も勇壮な神事です。

〈国宝〉西本宮本殿 東本宮本殿
〈重文〉西本宮拝殿 東本宮拝殿 摂社樹下宮本殿及び拝殿 摂社宇佐宮本殿及び拝殿 摂社白山宮本殿及び拝殿 摂社牛尾宮本殿及び拝殿 摂社三宮宮本殿及び拝殿 西本宮楼門 日吉三橋 

 東本宮楼門 山王金銅装御輿   〈史跡・名勝〉日吉大社境内               

 

 

今回は、時間がないので日吉神社見学はスルーしますが、いつか時間があるときに特に秋口に行ってみたいですね。

 

求法寺(ぐぼうじ)走井堂

 

学生さんの姿が多かったのは、ここに学校があったのですね。

 

ケーブルカー乗り場にやってきました。

 

運賃は、片道870円に値上がりしていました。

現在、気温は20度ですが、比叡山は16度と4度も低いです。

  

                                                                          (比叡山延暦寺へ続く)

 

 

 

 


ビワイチ徒歩の旅(13日目)「堅田駅~比叡山坂本駅」(滋賀県大津市)

2025-05-22 05:00:00 | 琵琶湖一周徒歩の旅

5/13(火)ビワイチ徒歩の旅13日目「堅田~比叡山坂本」。いよいよ私のビワイチ徒歩の旅も終盤を迎えました。

京都駅発湖西線で前日ゴールの堅田駅へ。

今日のマップです。(堅田~衣川)

8:20 堅田駅スタート

 

本堅田信号を左折

堅田の町を歩いてすぐ気づいたことは、古い家並みが多い。調べてみると、堅田は、琵琶湖の北湖と分ける狭くなった西岸に位置し、海上要衝でした。

堅田は古くから琵琶湖舟運の盛んな地域で、その利権にを巡り何度も争いが起っています。中世に入ると一時、地侍と民衆からなる惣組織(堅田衆)が形成され、権力者からの支配から脱却し、

琵琶湖周辺にある舟運の拠点に大きな影響力を持ちました。室町時代に入ると比叡山延暦寺と対立した蓮如が堅田に逃れると、多くの民衆がこれに賛同し「堅田門徒」と呼ばれる

強固な宗教集団が生まれました。しかし、延暦寺と堅田門徒との間に対立が深まり応永2年(1468)に堅田大責が行われ、殆んどの町並みや集落、関係寺院が焼き討ちにあいます。

応永4年(1470)、延暦寺と坂本との抗争が起き、坂本が勝利、堅田の再興が許され堅田門徒も復活しましたが後年になり本願寺と対立したことで次第に衰微します。

その後、織田信長の近江侵攻により形式的には従属するものの舟運の特権は保護され経済的繁栄は江戸時代を通して維持されました。元禄11年(1698)、堀田正高が1万石で入封し

堅田藩を立藩、文政9年(1826)に加増され下野佐野藩に陣屋を移すまで堀田家が藩主を歴任しています。

 

しばらく歩くと居初(いそめ)氏の庭園「天然図画亭」の石碑が見えてきます。居初(いそめ)という名前は、難解苗字ですね。

天然図画亭は、堅田の郷士居初家にある庭園。
芭蕉と同じ時代に活躍した茶人藤村庸軒と堅田郷士の北村幽安の合作江戸時代初期の作庭。国指定名勝に指定。
庭に面した縁がある萱葺入母屋造の茶室「天然図画亭」からの眺めは、琵琶湖と対岸の湖東の山並みの雄大な景観を借景としている。

入ろうとしましたが、今日は休館日でした。仕方ないので裏側に回りました。ここからは、琵琶湖が一望できます。

 

 

先へ進みます。

 

伊豆神社の横には、江戸時代堅田陣屋があった所です。祭神は大山祇命(おおやまずみのみこと)。中世、琵琶湖の水運に絶大な特権をもっていた堅田の総鎮守。
室町時代には堅田大宮と呼ばれ、神社を中心とする地域組織「宮座」も存在していた。

 

 

伊豆神社から「浮御堂」へ

 

浮御堂は、平安時代に恵心僧都源信が琵琶湖の湖上安全と衆生済度のため、湖中に仏閣を建立したとされている。臨済宗大徳寺派の寺院(満月寺)。現在の建物は、昭和9年の室戸台風で倒壊して

しまった後、昭和12年に再建されたもの。柱は鉄筋コンクリートとなったが、昔の情緒をそのまま残している。
湖中に浮かぶお堂の景観の素晴らしさは、近江八景「堅田の落雁」で名高く、松尾芭蕉はじめ多くの人々に愛され続けてきた。

 

 

ここの松も素晴らしいです。満月寺境内には、枝が長く伸びています。

また、浮御堂の松もいい雰囲気を出しています。

 

阿波野青畝の句碑「五月雨の 雨垂ばかり 浮御堂

近江八景は、近衛信尹が選じた琵琶湖岸の8つの風景地のひとつで、ここ「堅田の落雁」も八景の一つです。琵琶湖西岸に位置する浮御堂及び松樹に彩られた満月寺境内を中心に、中天から

一群の雁の群れが舞い降りる情景を主題とする。中国の「瀟湘八景」に描く各々の情景と結びつくことにより、近世から近代にかけて多くの旅行者や行楽・参詣の人々が訪れる一群の名所へと

発展を遂げた。

  

湖族の郷資料館は、10時からですのでまだ閉まっています。

湖族の郷資料館は、歴史上特筆される堅田の歴史、文化を築いた堅田衆をはじめとする堅田ゆかりの先人の足跡をたどる資料等が展示されています。
 「文学と堅田」、「堅田の変遷」、「豪族の民具」、「芭蕉と堅田の門人たち」、「志賀廼家淡海」等、テーマ毎に資料展示されています。

 

本福寺

 

堅田の旧家

 

妙盛寺

 

堅田は、お寺が多い町ですね。調べてみると、平安時代から京の外港として重要な役割を担った堅田は、湖上のあらゆる権利を独占支配する湖族(堅田衆)によって築かれた地域です。

多くの人や物資が行き交うことにより各地の文化が入り南北2km湖畔には6社10箇寺が現存。

 

【仰木口~那波加神社~比叡山坂本駅】

仰木口信号から県道558号に出ます。このあたりは、車関係のお店が立ち並んでいます。

 

雄琴に入りました。

雄琴というと、コロナ前まで「おごと温泉・びわ湖パノラマウォーク」(2013年~2021年)という大会が行われていましたが、2021年から中止になりました。

やはり、コロナの影響でしょうか?

 

京都まで22km、浜大津まで10km。おごと温泉観光公園で休憩。

  

足湯もありましたが、先客がおられたので遠慮しました。

おごと温泉の由来は、「この地域にある法光寺は、最澄大師によって開かれた天台宗の古刹。

その境内の蛇ヶ谷という所に念仏池と呼ばれる池があって、この水を飲むと難病が治ったとか、この池の泥を塗ると皮膚病にきいたという言い伝えがあり、近代になってこの水を分析したところ、

温泉であることがわかったそうです。

休憩後再スタート

 

難解な地名があります。「苗鹿」(のうか)と呼ぶそうです。由来は、この先の「那波加(なほか)神社」にありました。

 

那波加神社の縁起には、祭神の天太玉命が、稲の苗を背負った鹿に導かれるという記載があります。苗鹿(のうか)の地名は、この伝承によるものといわれ、

「のうか」の読みは、社名の那波加が転訛したものとされています。

 

11:15 今日の目的地「比叡山坂本駅」に到着。

 

ビワイチ徒歩の旅もあと1日で大津にゴールできそうです。(10km弱かな?)

次回は、紅葉見学も兼ね、秋口に行いたいと思っています。

 

折角ですので、このあと、比叡山延暦寺に行ってみます。

 

 

 


ビワイチ徒歩の旅(12日目)「近江八幡~大津・堅田」(近江八幡市~大津市堅田)

2025-05-19 07:18:51 | 琵琶湖一周徒歩の旅

5/12(月)~13日 この2日間でビワイチを歩きます。

5/12は、近江八幡市~大津市堅田まで歩きます。コースは、近江八幡駅~湖岸白鳥川~岡山公園~日野川大橋~家棟川大橋~中州大橋~マリオットホテル~琵琶湖大橋~堅田駅、約20km。

【マップ1近江八幡駅~堅田全体図】

京都発琵琶湖線7:52で近江八幡駅へ。到着後、ビワイチスタート。

 

近江八幡駅前から直進し、市役所の交差点を左折、白鳥川に向かいます。

白鳥川では、「白鳥川の景観を良くする会」の方が鯉のぼりの川渡りということで川一面に鯉のぼりが泳いでいます。

 

ここは、桜の名所でもあります。樹齢20年ぐらいの桜の木が遊歩道に植えられています。桜の季節の時は、人が多いでしょうね。

  

田んぼには、もう田植えが行われていました。ここのお米は「近江米」かな?

 

白鳥川の遊歩道は、土田橋から湖岸白鳥川まで約3,5kmあります。

 

岡山園地

ここからの道は、「さざなみ街道」です。

 

【マップ2 岡山園地~中州大橋】

琵琶湖が見えてきました。

 

中央に見えるのは、「沖島」です。琵琶湖の島で唯一人が住んでいます。約250人ぐらいかな??

 

日野川大橋

 

家棟(やなむね)川大橋手前から「野洲市」に入ります。

 

     

途中、紫式部の歌碑があります。「おいつ島 しまもるる神や いさむらん 浪もさわがぬ わらわべの浦

沖の島(沖島)は、古くから人の心をとらえていた島で、歌に詠まれたり文字の中にその名をとどめている。この歌は、紫式部が沖の島の対岸であるあやめ新田童子が浦のこの地から

遠く沖の島を望んで詠んだものです。

 

マイアミランドという看板があります。マップをみると「マイアミ浜」と書かれています。

  

ここで休憩します。浜に出てみるときれいな砂浜です。

どうして「マイアミ」か、気になって調べました。「昭和25年(1950)頃、戦後の復興に必死になって働いている人々に安らぎと保養の場を提供できれば・・・

世界的リゾート地であるアメリカフロリダ州マイアミビーチのように・・・というのが命名の由来だそうです。

 

琵琶湖には、びわ湖フローティングスクール「うみねこ」が航海していました。

 

アヤメが植えられていました。この地は、「あやめ」という地名だそうです。

 

歩いていて琵琶湖の方を見ると、琵琶湖大橋が見えてきました。今日のコースは、あの琵琶湖大橋を渡り、堅田駅までです。

 

「かねふくめんたいパーク」が左側に見えてきました。「かねふく」というと、福岡に本社がある明太子の会社です。確か福岡市東区にあったと思います。

調べてみると、かねふくは、全国6か所に「めんたいパーク」を展開しています。(群馬・神戸・伊豆・常滑・大洗そして琵琶湖)

 

中州大橋の手前から「守山市」です。

守山市の「マリオットホテル」で休憩。ここで持ってきたパンで軽い食事をします。

   

【マリオットホテルから堅田駅】

マリオットホテルで休憩後再スタート。疲れているのか、座って立ち上がろうとすると、ついつい「よっこいしょ」という言葉が出てきます。歳のせいかな???

なぎさ公園です。23年1月にここを通った時には、一面の菜の花でしたが現在は何もありません。幟には「はまひるがお」と書かれていました。

   

2023年1月17日撮影 ↓ ↓ ↓

なぎさ公園から琵琶湖大橋(1400m)へ

  

2年前通った時は、左側歩道でしたが、今回は歩道幅が広い右側車線を通ります。

 

橋の中心が守山市と大津市の境界

 

14:50 JR堅田駅にゴールしました。

スマートウォッチのGPSを見ると25kmを指していました。

 

 

 


ビワイチ徒歩の旅【番外編その2長命寺】(滋賀県近江八幡市長命寺)

2025-05-18 05:33:21 | 琵琶湖一周徒歩の旅

5/11(日)豊郷駅から近江鉄道八日市乗り換えで近江八幡駅にやってきました。

駅前のバス停から長命寺に向かいます。

今回のビワイチのルートには、長命寺を入れていませんので「番外編」として行きます。

長命寺は、

近江八幡市の北西端、長命寺山(333m)の標高約250mの山腹にある寺院。西国三十三カ所第31番札所で、「八千年や柳に長き命寺、運ぶ歩みのかざしなるらん」という詠歌のとおり、

「寿命長遠」の御利益があるとされています。3世紀後半から4世紀初頭の景行天皇の時代、武内宿禰(すくね)がこの山で長寿を祈ったといい、開基は聖徳太子と伝えられます。
平安時代前期に寺院の基盤ができたと考えられており、その後、近江守護佐々木定綱(さだつな)が戦死した父の菩提を弔うために、平安時代後期に本堂をはじめ、釈迦堂・薬師堂・太子堂・

護摩堂(ごまどう)・宝塔・鐘楼・仁王門などを建立しました。現在の社殿は戦国時代中期に兵火で焼失したあと再建されたものです。
湖岸のそばから808段といわれる長い石段を登ると、諸堂の屋根の線が美しく重なりあっています。千手観音を本尊とし、聖観音・十一面観音・毘沙門天など多くの国指定の重要文化財が

安置されており、その他、建造物のすべてが県あるいは市の指定文化財になっているという由緒ある寺院です。四季を通じて多くの参詣者が全国から訪れ、湖辺近くの山腹風景も美しいです。

近江八幡駅前から約25分で長命寺港に到着。

これから808段の石段を登り、長命寺境内に向かいます。ガイドブックには普通の方で約20分で登られると書いてましたが、何せこちらは高齢者、30分はかかるのでは???

   

     

808段の石段を歩きます。この石は、自然石ですので非常に歩きにくいです。

   

5分ぐらい登ったところで家内がリタイア。ここからは一人で登ります。

     

これは、鳥居でしょうか?

 

 

聖徳太子礼拝石

 

あと少し

  

25分かけて登ってきました。もう汗だくだくです。

   

長命寺は、琵琶湖周航の歌6番に挿入されています。水森かおりさんの歌です。Bing 動画

右の写真は、6番の歌詞の説明ですが、文字が薄くて読みにくいですね。

で、ここで疑問に思うのは、長命寺は西国31番札所ですが、歌詞には、西国10番と歌われています。

調べてみると、「ちなみに西国三十三箇所の十番札所は三室戸寺である。「西国十番長命寺」と歌われている理由については、「西国三十一番長命寺」では長すぎるためメロディに収まり切れず、

また、巡り方によっては長命寺が十番札所となる場合もあるからだ、と作詞の小口太郎本人が語ったとされている。」

  

本堂

 

 

三重塔と鐘楼

 

権現堂

  

三佛堂

 

長命寺は、紫陽花寺としても有名です。福岡ではもう紫陽花の花が咲いているところがありますが、長命寺では、まだまだのようです。

一通り見回り、下山します。

上るより下りる方が気を使います。約15分で下りてきました。

下りてきてリタイアした家内と合流します。

 

 


ビワイチ徒歩の旅【番外編その1豊郷町】(滋賀県犬上郡豊郷町)

2025-05-16 16:40:48 | 琵琶湖一周徒歩の旅

5/11(日)~5/13(火)まで旅行社のお得なチケットを利用し滋賀県に行ってきました。

5/11は、琵琶湖のルートには入ってない「豊郷(とよさと)町」、「長命寺(ちょうめいじ)」を電車やバスで行ってきました。

その1【豊郷町】

7:36 博多発のぞみで京都へ、京都から琵琶湖線で彦根へ、彦根から近江鉄道本線で豊郷駅に着いたのが12:15。

近江鉄道の電車は初めて乗りましたが、連結分の所なんか、揺れがひどく、あわや電車酔い??になりそうでした。

豊郷駅は、無人駅ですが、駅の裏には東海道新幹線の高架です。近江電車の本数よりも新幹線の本数の方が多いです。

  

豊郷町は、伊藤忠兵衛をはじめ、近江商人の町としても知られています。

豊郷町に行った目的は、マンホールカードをゲットするためでしたが、訪問するにあたり「豊郷」を調べましたら、何と総合商社「伊藤忠商事」「丸紅」創業者、「伊藤忠兵衛」の出身地でした。

伊藤忠兵衛に関しては、後で述べますが、先ずマンホールカードをゲットするために「旧豊郷小学校群」へ。

途中の豊郷病院(伊藤長兵衛寄進の病院)では、「ウサギと亀のモニュメント」があります。

どうしてウサギと亀かな????

  

豊郷小学校旧校舎群は、昭和12年に近江商人、商社「丸紅」の専務であった古川鉄治郎氏によって寄贈され、建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズ氏の設計で建てられました。

当時は、「白亜の教育殿堂」「東洋一の小学校」といわれ、平成25年には国の登録有形文化財に登録されました。 現在は、町立図書館や子育て支援センターなど町の複合施設として

利用されており、校舎のご見学も自由にしていただけます。(旧豊郷小学校群HPより)

校舎内の階段には、ウサギと亀の真鍮像があります。これは、寄贈者の古川氏にまつわる逸話として、子供のころいろいろなことがうまくできなくて当時の小学校の先生が

コツコツ頑張れ!」とうさぎと亀の話を引き合いに励まし、ゆくゆくは学校を寄付するまでに立身出世したというものがあり、建築家のヴォーリズは、このウサギと亀のモニュメントを

階段に設置したそうです。豊郷病院のウサギと亀のモニュメントも意味が分かりますね。

     

 

 

  

旧豊郷小学校から伊藤忠兵衛記念館に向かいます。

 

豊郷町は、旧中山道間の宿です。石畑の一里塚もあります。

 

豊郷町役場

 

紅公園には、「伊藤忠兵衛翁碑」があります。

 

 

伊藤忠兵衛記念館

 

伊藤忠兵衛記念館は、近江商人発祥の地である滋賀県にあります。
初代伊藤忠兵衛の百回忌を記念して、初代忠兵衛が暮らし、二代忠兵衛が生まれた滋賀県犬上郡豊郷町にある旧邸(1984年に伊藤家より公益財団法人 豊郷済美会に寄贈)を整備し、

2002年4月14日(日)より一般開放されることとなりました。

初代忠兵衛、二代忠兵衛の愛用品をはじめ、多くの資料が展示され、繊維卸商から「総合商社」への道を拓いたその足跡を紹介しています。

私、豊郷町を訪問するにあたり、下調べをしましたが、総合商社「伊藤忠商事」と「丸紅」、「呉羽紡績(現在呉羽化学)」は伊藤忠兵衛が創業したのですね。

知りませんでした。

伊藤忠兵衛に関しては、峠越えの道|伊藤忠商事株式会社

   

 

 

  

 

 

 

 

近江商人には、「三方よし」という言葉があります。三方よしとは「売り手よし」「買い手よし」「世間よし」の三方が満足している状態を指します。
売り手だけが儲けを得るのではなく、買い手にとっても満足があり、最終的には事業を通じて地域社会の発展に貢献するのが目指すべき商売の形であるという考え方です。

ここ豊郷町でも豊郷病院や、学校、公民館を建てたりして地域に貢献してきました。まさに地域に還元するやり方です。

 

豊郷町は、滋賀県の民謡「江州音頭」発祥の地と言われています。※滋賀県は近江の国または江州(ごうしゅう)と呼ばれていた。

江州音頭(ごうしゅうおんど)

 

江州音頭は、近江商人が目的地までの道中、全国各地で歌ったことから別名「商い音頭」と呼ばれるようになりました。

特に大阪では、江州音頭がとても流行り、河内音頭が江州音頭の影響を受けて現在の形に発展しました。

私も、江州音頭をネットで聞きましたが、かなり河内音頭に似ていますね。

  

豊郷駅に戻ってきました。電車は1時間に1本です。

時間があったので喫茶店やコンビニを探しますが、どこにもありません。昔は活気があったかもしれませんが、現在は長閑な町になっています。

14:34の電車で次の目的地近江八幡に向かいました。

 

 

 

 


ビワイチ徒歩の旅(11日目)「能登川~近江八幡」(東近江市能登川~近江八幡市)

2025-03-17 17:24:00 | 琵琶湖一周徒歩の旅

3/11(火)8:30に能登川駅に到着。この日は生憎小雨が降っています。

駅の構内で合羽に着替え出発です。

能登川駅前には、能登川水車のモニュメントがあります。先へ進むと林中央公園近くに「室町時代の連歌師 宗祇法師生誕地」の看板があります。

宗祇法師の生誕地説は、紀伊と近江に分かれていましたが、近江だったのですね。

 

 

能登川アリーナから左折。しばらく歩くと「伊庭内湖」が見えてきます。

 

乙女橋を渡る。

 

この先に「能登川水車」があるのですが・・・・・

残念ながら水車は工事中で中に入ることができません。

 

小さいほうの水車も周辺が工事中です。

 

先を進みます。浦葭(うらよし)橋のところで右折しなければいけなかったのに直進してしまいました。

脇道を通り本来のルートに戻ります。従って大中(だいなか)の湖南遺跡は、見れませんでした。

 

大中(大中)神社は、琵琶湖の大中の湖が干拓され、昭和41年から当時の近江八幡市、安土町、能登川町の三区画に各区画72戸、計216戸が入植しました。
入植十周年に住民の心のよりどころとして各区画に神社が創建され、近江八幡市大中町には大中神明宮が創建されました。

大中交差点を左折します。

 

左折すると「西ノ湖(にしのこ)」が見えてきます。

 

西ノ湖は、琵琶湖最大の内湖で、大中内湖が造成された際に、水域として残った部分である。流入河川は安土川、山本川、蛇砂川および黒橋川で、長命寺川を介して琵琶湖に注ぐ。

大中之湖干拓前は周辺の多くの内湖が存在したが、現在ではいずれも姿を消している。60年ほど前までは琵琶湖の一部に位置した。

西ノ湖沿いには、よし笛ロードという自歩道が整備され、そこを歩いていきます。

 

 

西ノ湖では、真珠の養殖がおこなわれています。昨日ぐらいでしょうか、野焼きが行われ、アシが焼かれていました。

 

蛇砂川にかかる寿久橋から右折します。近江八幡の市街地に入りました。

産直店「きてか~な」で休憩。

 

休憩後再スタート。近江八幡市の市街地に入ります。(写真は一部3/9に撮ったのも掲載しています)

 

近江八幡で欠かせないのが、ヴォーリズ。

ウィリアム・メレル・ヴォーリズWilliam Merrell Vories一柳米来留〈ひとつやなぎ めれる〉、1880年10月28日 - 1964年(昭和39年)5月7日)は、アメリカ合衆国(米国)に生まれ、日本で数多くの西洋建築を手懸けた建築家キリスト教プロテスタント信徒伝道者、社会事業家、実業家。(元華族 一柳満喜子と結婚し、一柳米来留と名乗る)

近江八幡の旧市街地には、異国情緒ある洋風建築が数多くあります。それらの建築設計を手掛けたのがウィルアム・メレル・ヴォーレズは、1905年(明治38年)滋賀県立商業学校

(現八幡商業高校)の英語教師として米国から来日しました。熱心なキリスト教伝道活動とともに「建物の風格は、人間と同じくその外見よりもむしろその内容にある」との信条をもって

国内外の約1600軒の建築設計に携わりました。

メンソレータム(現メンターム)を日本に輸入した人物でもあり、当時不治の病といわれた結核を治療する近江サナトリアム(現ヴォーリズ記念病院)の建設、更に教育の場として

図書館や近江兄弟学園(現ヴォーリズ学園)を設立するなど多岐にわたる社会貢献事業を行いました。「近江八幡は、世界の中心」との思いで、近江八幡の町を深く愛したヴォーリズの

軌跡と精神は、今もこの地で生き続けています。

  

白雲館でマンホールカードをゲットしようとしましたが、2か月前に配布終了とのことでした。

 

日牟禮(ひむれ)八幡宮:八幡山(271.9m)の南麓にある神社。誉田別尊(ほんたわけのみこと)・息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・比売神(ひめかみ)の三神を祭神とする

旧八幡町の総社で、第13代成務天皇が即位の折に創建され、正暦2年(991年)に九州の宇佐八幡宮の神霊を勧進したと伝わります。
 約4万4000平方メートルという広大な神域はエノキやムクの樹が生い茂り、その下を通り抜けて楼門をくぐると、拝殿・本殿が続きます。社宝には、江戸時代に海外貿易に活躍した

商人西村太郎右衛門が寄進したという「安南渡海船額(あんなんとかいせんがく)」をはじめ、祭神である三神の木像などがあり、いずれも国指定の重要文化財になっています。
 また、毎年3月14・15日に近い土・日曜には左義長まつりが行われ、4月14・15日には八幡まつり(松明(たいまつ)祭・太鼓祭)が行われます。どちらも滋賀県を代表する火祭り神事であり、

遠近から訪れる多くの人々で賑わいます。

 

 

左義長(さぎちょう)まつりは、天下の奇祭とも呼ばれ、国選択無形民俗文化財に指定されています。各奉納町がその年の干支を題材に趣向を凝らして、小豆や大豆などの穀類、スルメや昆布などの乾物などの食材を使って作り上げらた「ダシ」が勇壮華美に練り歩き、組み合わせが繰り広げられます。

  

 

 

八幡堀は、近江八幡の町の発展に欠かすことはできません。豊臣秀次は、八幡山城の堀であったこの八幡堀を運河として利用し、琵琶湖を往来する船を八幡の町に寄港させました。

また、八幡山城下は、かつての安土と同じく楽市楽座を取り入れたことから商人の町として活気づきました。注)楽市・楽座 - Wikipedia

 

近江八幡の旧市街には、旧家が立ち並んでいます。

寝具の「西川」は、日本で最初のボーナス制度を行った会社です。

 

 

 

時間も13時近くなってきました。明日は、協会の理事会がありますので夕方までには博多に着きたいです。

旧市街からバスで近江八幡駅に戻ってきました。

近江八幡駅前には、「近江商人発祥地」の石碑が建っていました。

今日は、能登川から16,2kmでした。

 

 

 

 


ビワイチ徒歩の旅(10日目)「彦根~能登川」(滋賀県彦根市~東近江市)

2025-03-15 10:14:31 | 琵琶湖一周徒歩の旅

3/10(月)~3/11(火) 倉敷ツーデーマーチの後、滋賀県彦根市に向かいました。実に1年半ぶりの「ビワイチ徒歩の旅」復活です。

2年前、地元のW協会事務局を任され、なかなか遠征に出られなく、また、決算前ですが、2日間と無理を言って出かけました。

マップは、大津の歩友、Oさんから頂いた資料とビワイチウォーキングマップという小冊子を基に自分で作成しました。

琵琶湖の湖西線側に比べ琵琶湖線側は、湖面から駅までが遠く、1日目は、彦根駅から能登川駅、2日目は能登川駅から近江八幡駅までというルートです。

9:00彦根駅に着きウォーキング開始です。

駅前には、「井伊直政公」の銅像が建っています。説明文によれば、

井伊直政」は、永禄四年(1561年)現在の静岡県井伊谷に生まれ、幼少の頃から文武両道に励み、慶長五年(1600年)に徳川四天王の一人として天下分け目の合戦で知られる関ケ原の戦で

功をあげ、石田三成の居城であった佐和山城を与えられ、十八万石の大名となった。
その後、城を現在地の彦根山へ移そうとしたが、同七年(1602年)四十一歳で病没し、子らが直政の遺志を受け継ぎ二十年の歳月を費やし元和八年(1622年)彦根城を完成させた。
こうして、彦根三十五万石初代藩主井伊直政公は、今日の彦根市発展の礎を築いたのである。

 

彦根」の地名は、むかし天照大神の御子に天津彦根命(あまつひこねのみこと)、活津彦根命(いきつひこねのみこと)の二神がおられ、このうち活津彦根命が活津彦根明神として彦根山に

祭られたことに由来しているとされている。

戦国時代になって絶えず戦場となっていたが、豊臣時代に石田三成が佐和山城主となってから町は次第に繁栄し、その後、関ヶ原の戦功で井伊直政が彦根の地に封ぜられ、その子直継が彦根城の

築城を始めて、直孝により完成され、城下町として発展、産業、政治、文化の中心地として300年間栄えた。

明治4年廃藩置県により、翌5年2月27日長浜県を犬上県と改称し、その後同年6月滋賀県となった。

同22年4月1日町制を施行、昭和11年都市計画法適用地域に指定され、翌12年2月11日隣接の松原、北青柳、青波、千本、福満の5ケ村を合併して彦根市人口39,335人、面積25.08平方キロメートルが

誕生した。次いで、昭和17年6月10日南青柳村、磯田村、昭和25年4月1日日夏村、昭和27年4月1日鳥居本村、昭和31年9月30日河瀬村、亀山村、昭和32年4月3日高宮町、昭和43年4月1日稲枝町が

合併し今日の彦根市となった。(彦根市HPより)

  

 

 

 

京橋通りにある「宗安寺」は、浄土宗の寺。佐和山城の正門を移築されたと伝えられています。大坂夏の陣で戦死した、豊臣家の忠臣として名高い木村長門守重成(きむらながとのかみしげなり)を偲んで、重成忌が行われます。
 井伊道政の正室東梅院の父母の菩提を弔うため上野国箕輪(こうずけのくにみのわ)に建立された安国寺は、佐和山(232.5m)山麓へ移され、宗安寺と改名、その後彦根城築城のさい現在の地へ再度移転されました。元禄の大火で、「赤門(あかもん)」と呼ばれる朱塗りの佐和山城大手門を移築した表門が唯一焼け残り、現在の本堂は江戸時代中期に長浜城付属御殿を移築したものです。また、本尊の阿弥陀如来立像は、大坂夏の陣の時、淀君の念持仏(ねんじぶつ)と思われる仏像を持ち帰ったもので、鎌倉時代の作といわれています。その他、墓所には木村重成の首塚、唐人門、鐘楼、白砂に巨石を配した庭園があります。
 また、徳川の将軍が替わるごとに祝賀のため朝鮮国から来朝した朝鮮通信使節団高官の彦根での宿泊所であり、朝鮮王像が残されています。 

 

時刻は、まだ10時前、地元のW協会の仲間から彦根のマンホールカードをもらってくれと頼まれていますのでここで時間をつぶします。

配布場所は、四番町スクエアです。10時になりましたのでマンホールカードをゲットしました。

  

芹川に架かる池洲橋から琵琶湖に向かいます。芹川沿いには、大きな桜が植えられています。あと半月もすれば、桜並木になるでしょうね。

 

琵琶湖に出てみると比良山系から福井県側、伊吹山が雪で白くなっています。

 

湖面からルート図に戻ります。しばらく歩き、県道から別れ旧道に入ります。

 

 

 

愛西地区送水記念碑:琵琶湖の水を愛西地区の田んぼに引いたための記念碑かな???

 

歩いていると「薩摩」とか、「柳川」の地名が出てきます。薩摩や柳川からの移住者が住んでいたからでしょうか?

この琵琶湖湖岸は、トイレが少ないです。自治会館が開いていましたので事情を話し借りることができました。開いていなかったらどうしようとただただ思うだけです。

 

沖島は、近江八幡から琵琶湖の沖合1,5kmのところにある島です。周囲6,8k、面積1,57㎢、琵琶湖最大の島です。また、約250人の方が住んでおられます。

しばらく歩くと「南三ツ谷」「新海」の分岐点があります。ゴールの能登川駅は、南三ツ谷の方向です。

 

南三ツ谷の方に行くと、広い田園地帯です。ここも琵琶湖からの放水で肥沃な土地でしょう。

 

 

愛知川に架かる橋を渡ると東近江市です。

 

市役所支所のそばには、清和源氏浅原邸跡の看板が建っています。

14時45分能登川駅に到着。

 

駅前には、水車のモニュメントがありました。この日から新しくスマートウォッチで計測しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ビワイチ徒歩の旅番外編(その3)「百濟寺(ひゃくさいじ)の紅葉」(滋賀県東近江市)

2023-12-13 06:32:01 | 琵琶湖一周徒歩の旅

湖東三山最後は、東近江市の「百濟寺」です。金剛輪寺から坂道を登っていき、約30分で着きました。百済寺のパンフを見ると、

百濟寺は、近江最古級の寺院。西暦606年(推古14年)に聖徳太子が「近江の仏教拠点」の一つとして建立されたと伝わる。仏教が半島の百済国経由で伝来したことから山号を

「釈迦山」、寺号を「百濟寺(ひゃくさいじ)」と称する。平安中期以後天台寺院として発展し、一千坊を擁したが、1573年4月、信長の焼討ちで壊滅的打撃を受けた。

1650年に広大な石垣遺構の中に本堂以下数棟が再建された。とくに寺社庭園として県下最大の「天下遠望の名園」内の散策と近江歴史舞台の眺望は、絶景です。

 

先ず庭園の方に向かいます。

 

 

素晴らしい紅葉です!

 

ハナノキ・・・・「その昔、聖徳太子が百済寺を建立したとき、仏教が繁栄していくなら、この木も栄えて花をつけるであろう、と誓って自ら食事の箸を各々の花沢村(北花沢村・南花沢村)に1本ずつ突き刺したところ、誓いの通り立派な木となった。」といわれています。百濟寺のハナノキは、その子孫です。

 

庭園から遠望台に向かいます。今日は山の方が少し霞んでいますので三上山がぼんやりしか見えません。

  

 

 

ルイス・フロイスが地上の天国と称した百濟寺ですが、戦国時代、織田信長によって焼打ちされました。百濟寺のHPを見ると、

織田信長おだのぶながの所業と聞けば比叡山延暦寺の焼き討ちが有名であるが、釈迦山百済寺しゃかざんひゃくさいじも天正元年(1573年)、信長に全域を焼き討ちされている。なぜ信長は百済寺を焼き討ちしたのか、そこには戦国乱世における武将たちとの因縁とも言える物語があった。
 近江源氏と呼ばれた名門、佐々木一族の流れを組む六角氏は、百済寺を含む近江国南部の守護職として長く支配していた。百済寺では常々、六角氏を御館様おやかたさまと呼んで安泰祈願を行っている。百済寺の城塞化には、六角氏から重臣を派遣されるなど、六角氏と百済寺は鎌倉時代以来の親密な関係にあった。
 一方、天下統一に向かう信長は、永禄十一年(1568年)に六角氏の居城、観音寺城を攻略するも、城主であった六角義賢ろっかくよしかた義治よしはる父子はすんでのところで脱出、逃げ延びることができた。この時、信長は百済寺に禁制を送っている。以下、現代訳。
一、 百済寺は以前からの寺法に従って、以前の通りに寺院の行事を行ってよろしい。臨時に百済寺に対して租税を課してはならない。
一、 百済寺領も以前からの通りである。なお、この地を治める武士は百済寺に人足を申し付けてはならない。
   また、武士は山林の竹木を伐ってはならない。
一、 百済寺は信長の祈願所とする。他の者が祈願所にすると申し出ても受け入れてはならない。
 信長の“祈願所”にするという一文は、明らかに百済寺を他の寺院とは別格に扱っている表れである。これは信長が全国を制した後、この地方に本拠地をつくり、百済寺を信仰の中心とする思いがあったと考えられ、経済力や文化力など、信長が注目する最も大きな力を持つ寺院が百済寺であったのである。
 しかし、百済寺の側になると、今まで六角氏を御館様と呼んでいた事から信長の祈願所にされることには相当の抵抗があった。さらに寺中の長老や高僧には六角氏に属する豪族や地侍の子弟が数多くいる。
 逃げ延びた六角氏は信長に反抗する浅井長政あざいながまさや本願寺一揆とも通じて徹底抗戦していた。信長は六角氏が籠城ろうじょうする城を佐久間盛信さくまもりのぶ蒲生賢秀がもうかたひで丹羽長秀にわながひで柴田勝家しばたかついえの四将によって包囲させ、この戦況を見るために自らの祈願寺とした百済寺に軍勢とともに入り、何のためらいもなく宿坊その他に宿泊して戦況を眺めている。しかし数日後、百済寺には六角氏の女子供がかくまわれていることを知った。さらに百済寺が六角氏に食糧を支援していた事実をも発見したのである。
 信長の怒りは頂点に達した。
 「全山ことごとく焼け山にしてしまえ。石垣は崩して安土に持ち帰るのだ」
 そして、信長の軍勢により、中枢部300坊を加え総計1000坊とも言われる百済寺は全山焼土と化し、石垣は安土城の建造のために持ち去られたのであった。同じく麓で寺領鎮護する十禅師社(現日吉神社)も焼失した。

 

仁王門から本堂に向かいます。

  

 

 

 

 

もう少しいたかったのですが、帰りの新幹線の時間も迫っており、下山します。

参道入口には、露店があり、「松茸のフライ」「松茸ご飯」などがあります。特に松茸のフライは食べてみたかったです。

 

このあと、車を米原のレンタカー屋さんに返却し、米原から新快速で新大阪へ、新大阪から「のぞみ」で博多に帰ってきました。

琵琶湖徒歩の旅もあと1/3です。次回は桜が綺麗な頃に行ってみたいな~

 

 

 


ビワイチ徒歩の旅番外編(その2)「金剛輪寺(こんごうりんじ)」の紅葉(滋賀県愛知郡愛荘町)

2023-12-12 06:17:47 | 琵琶湖一周徒歩の旅

西明寺から車で約10分ほどで「金剛輪寺」に着きました。

金剛輪寺」は、湖東三山の真ん中のお寺で奈良時代に聖武(しょうむ)天皇の勅願により行基が開山した天台宗の寺院。本尊は行基の作と伝えられます。また、源義経

(みなもとのよしつね)が義仲追討の武運必勝を願い太刀を寄進したり、北条時宗が佐々木頼綱に命じて元軍降伏の祈願をしたといわれます。 山門から本堂までサツキに囲まれた石段が続き、山岳城郭であったころの趣を今なお残しています。石段を登りつめたところに、当時の僧の機智により織田信長の焼き打ちによる焼失の難を免れた本堂大悲閣、三重塔、二天門が

あります。本堂大悲閣は、鎌倉時代の和様建築の代表とされ、国宝に指定されています。本堂前にある二天門は室町時代の建立で、最初、八脚門と呼ばれる楼門でしたが、江戸時代に

二階部分が取り壊され現在の形になりました。三重塔は大悲閣(だいひかく)より古いものですが、荒廃したままとなっていたため、昭和49年(1974)復元されました。 

ツツジやシャクナゲの名所としても知られ、山門脇に塔頭の常照庵(じょうしょうあん)が草むらに埋もれ残っていて、寺宝にも見るべきものが多いです。また、厄除けのかぶら汁が

接侍される初観音や、大きな数珠(じゅず)を回して念仏を唱える千体地蔵盆など有名な行事もあります。(滋賀県琵琶湖観光情報)

 

入山料800円を支払い黒門から寺内へ。

 

受付から参道を上がっていきます。

 

まるで寺院全体が真っ赤に燃えています。

 

庭園の方に回ってみます。

 

 

 

 

 

 

庭園から二天門を通り本堂へ

 

 

 

三重塔

  

 

西明寺も金剛輪寺もホント綺麗な紅葉でした。車を走らせ次の「百濟寺」に向かいます。