よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

愛宕神社まで歩く(福岡市西区)

2021-02-26 18:02:56 | ウォーキング

昨日のテレビで愛宕神社の河津桜が見ごろと言ってましたので、今日行ってきました。

車をマリノアに置き、そこから歩いていきます。

 

愛宕山の河津桜は、登山口の所に2本ありました。ピンクに染まっていてとてもきれいです。

 

 

愛宕神社に到着。愛宕神社は、京都左京区の愛宕神社、東京港区の愛宕神社とともに日本三大愛宕と呼ばれています。

 

愛宕神社は、桜の名所としても知られています。境内の桜の蕾大きくなってきました。

  

福岡地方の桜の開花予想日は、3/17ごろ。(日本で一番早い)

また桜の時も来てみたいです。

 


伊都国王墓迄ウォーク(福岡県糸島市)

2021-02-24 10:46:47 | ウォーキング

先週は、「早良国王墓」まで歩きましたが、今回は、魏志倭人伝に記載されている「伊都国王墓」へ行ってきました。

車を産直店「伊都菜彩」へ置いてウォーキング開始です。

  

細石(さざれいし)神社 (三雲宮)     祭神は、磐長姫と木花開耶姫(日向第一代ニギニギノミコトの妃)の二柱。このあたりが弥生時代「伊都国」の中心地でした。

 

細石神社から少し離れたところにあるのが、「三雲南小路遺跡」です。

この遺跡は江戸時代終わりごろに発見され(1号甕棺)、出土品のうち銅鏡1面と銅剣1本が博多の聖福寺に伝えられ国の重要文化財に指定されています。
最初の発見から150年後の昭和50年(1975)、新たに2号甕棺が発見され、銅鏡22面以上、ヒスイ製勾玉、ガラス製勾玉、管玉、金銅製の四葉座飾金具などが出土しています。
墳丘は弥生時代の中期後半(約2000年前)に造られたと推定され、豪華な副葬品や墳丘の大きさから伊都国王初代?の墓であると考えられています。(糸島観光協会HPより)

 

  

井原(いわら)鑓溝遺跡は、江戸時代に発見されたあと遺跡の正確な位置や出土品の所在が分からなくなっている王墓です。福岡藩の国学者青柳種信が記した「柳園古器略考」によると

銅鏡21面の他、武器などの副葬品が収められていたとあります。副葬品の年代からこの遺跡は、三雲南小路遺跡に続く伊都国王の墓と考えられています。

  

 

この三雲・井原遺跡のすぐ近くには、築山古墳、端山古墳という前方後円墳の古墳があります。

端山古墳は、4世紀初めごろ造られ、この古墳に埋葬された人は、弥生時代の伊都国の王に代わってこの地域を支配したヤマト政権と深いつながりを持った豪族でした。

築山古墳は、4世紀末に造られ、端山古墳同様ヤマト政権と深いつながりのある豪族の墓でした。

 

 

 

石ヶ崎支石墓   支石墓は、弥生時代始まりと共に朝鮮半島南部から伝わり、糸島・唐津を中心とする北部九州に集中的に分布します。支石墓から出土した数々の副葬品は、まさに

朝鮮半島との交流の証であり、糸島地域の人がいち早く大陸文化を受け入れたことを物語ります。この先進性こそが階層性を生み出し、後の伊都国王都を培う基盤となりました。

石ヶ崎支石墓は、昭和24年(1949)の調査により支石墓1基、甕棺墓23基、土壙墓3基を発見しました。弥生早期から前期の支石墓の上石は、3,2mX2,8mの巨石で

12個の朝鮮系碧玉製太型管玉が副葬されていました。

 

弥生時代の糸島は、糸島水道で二つに分かれていた。大陸・朝鮮の文化や渡来人は、この水道を通って伊都国にやってきました。

先日、図書館に行くと「倭の女王卑弥呼」という本を目にしました。「邪馬台国は糸島平野」「卑弥呼の墓は、平原弥生古墳」と見出しに載っています。

借りてきてまだ読んでいませんが、なかなか興味のある本だと思います。

   

 

その卑弥呼の墓といわれている「平原遺跡」に行ってきました。

平原遺跡は伊都国の王墓と考えられる1号墓を中心とした墳墓遺跡で、昭和40(1965)年に発見されました。発見は偶然によるもので、土地の持主がミカンの木を植えるための溝を掘ったところ、

多数の銅鏡の破片が出土しました。そこで原田大六(はらだだいろく;故人)氏が調査主任となって、大神邦博(おおがみくにひろ;故人)氏とともに発掘調査が行われました。

1号墓は14メートル×12メートルの四隅が丸い長方形でその中央に木棺が埋葬されていました。この墓は弥生時代終末期(約1800年前)に造られたものです。
副葬品は銅鏡40枚、鉄刀1本、ガラス製勾玉やメノウ製管玉などの玉類が多数発見されています。銅鏡のなかには直径46.5センチメートルの内行花文鏡が5枚ありますが、

これは日本最大の銅鏡で非常に貴重なものです。また、ひとつの墓から出土した銅鏡の枚数も弥生時代としては日本一で、伊都国王の墓にふさわしい内容です。
この墓に葬られた人物は女性、すなわち女王ではないかと考えられています。その理由は、副葬品の中に武器がほとんどないこと、ネックレスやブレスレットなどの装身具(アクセサリー)が

多いこと、中国で女性が身につける「耳とう」といわれるイヤリングが副葬されていることです。(糸島市HPより) 

 

 

 

  

この遺跡の発見者原田大六氏(故人)によると、大型内行花文鏡(直径46,5cm)は、皇室にある三種の神器の八咫(やた)鏡と同型の鏡だそうです。これは、古代の世界最大の鏡で

1号墓は、巫女的な性格をもった伊都国の女王墓と推定されます。ただ、この墓は、2世紀半ば(150年頃)に造られましたので卑弥呼(240~249年ごろ没)卑弥呼とは時代が100年ぐらい

違います。      平原遺跡の詳細(クリックしてください) ⇒平原遺跡

 

 

  

3世紀ごろになると、ヤマト政権が全国を統一し、ここ伊都国は、ヤマト政権の大陸や朝鮮への外交の役割を果たしました。

 

 

 

 

 

 


やよいの風公園までウォーキング(福岡市西区)

2021-02-21 16:22:40 | ウォーキング

2/19(金)は、国史跡吉武高木遺跡がある「やよいの風公園」までウォーキングしました。

橋本駅の木の葉モールに車を置き、往復7kmのウォーキングです。

吉武高木遺跡には、西に飯盛山、東に室見川を望む地に営まれた弥生時代の大規模な遺跡で弥生時代中期(約2200年~2000年前)の国の成立を知るうえで特に重要な遺跡として

平成5年(1993年)に国史跡に指定されました。

 

国史跡吉武高木遺跡の周辺には、旧石器時代(約2万年前)から江戸時代(約200年前)にいたる数々の遺跡が営まれています。この地は古くから水田・農地として利用されていましたが、

ときおり土器や石器が採集できたことから、遺跡があるのでは?と考えられていました。そこで、福岡市は昭和43( 1968)年に遺跡分布調査を行って遺跡の存在を確認し、

「飯盛弥生遺跡」「樋渡遺跡」「高木甕棺遺跡」などの遺跡を登録しました。

現在、高木地区・大石地区・樋渡地区に広がるこれらの遺跡を統合し、まとめて「吉武遺跡群」と呼んでいます。吉武遺跡群は、北の日向川と南の竜谷川にはさまれた扇状地上に広がっており、

その面積は40ヘクタール(400,000㎡)にもおよびます。(やよいの風公園HPより)

 

甕棺墓群(甕棺ロード)

弥生前期の終わりから中期までの200年の間に南西に向かって幅30~40m、長さ550mの甕棺墓群が存在しその数は約2000基になります。

 

 

 

  

やよいの風広場の所には、特定集団最古の王墓があります。他地域に先駆けて出現した有力者の墓で中でも優れた副葬品を持つ3号木棺墓は早良国最古の王墓と呼ばれています。

副葬品は、銅鏡、勾玉、銅剣の3点がセットされていました。銅鏡、銅剣などの青銅は、朝鮮半島から、勾玉のヒスイは糸魚川からです。この時代、もう朝鮮半島や北越の糸魚川などとも

繋がっていたのですね。

3世紀の中国の三国志「魏志倭人伝」では、伊都国や奴国はありますが、早良国の記載がありません。

この遺跡は、紀元前2世紀のもので魏志倭人伝が書かれた紀元前1世紀~3世紀ごろは、奴国に吸収されていたかもしれません。

 

 

この吉武高木遺跡は、以前ウォーキング協会のコースで歩きましたが、その時は、トイレ休憩だけでしたが、今回じっくり見学することができました。

尚、吉武高木遺跡については、下記をクリックしていただければ詳しい説明になります。

吉武高木遺跡 


河津桜と菜の花畑(福岡県糸島市)

2021-02-18 06:11:37 | ウォーキング

糸島市にも河津桜が咲いているという情報を得て、行ってきました。

場所は、福岡県糸島市二丈町「ふくふくの里」。

河津桜は、大島桜と寒緋桜の自然交雑から生まれた日本原産の栽培品種です。原木は、静岡県河津町にあります。

 

 

また、菜の花も満開でした。この菜の花@110を払えば、摘み放題です。

 

 

 


小富士の梅林とメジロ(福岡県糸島市志摩町)

2021-02-14 08:41:32 | ウォーキング

2/12(金)そろそろ小富士の梅林が見ごろでは?と思い、アグリに車を置き、歩いて小富士の梅林に行ってきました。

この小富士の梅林は、ウォーキング協会のコースに入っていましたが、コロナの緊急事態宣言で中止になりました。

歩いていると畑の中に「小富士海軍飛行隊之碑」という石碑がありました。

碑文を見てみると、

風雲急なる大東亜戦下 祖国防衛の念に燃え決死報国の覚悟を秘めた若人を集め 消耗する航空戦力の補充を目的に若鷲練成の基地として 昭和十九年五月小富士海軍航空隊を解隊

終戦まで甲十三期乃至十六期の各期予科練約五千名を育成した 当時十有余才の学徒は国難に殉ずる我を惜いて他無しとの悲壮の決意で奮躍予科練に入隊し 青春の情熱を傾けて訓練に励んだ 

然るに戦局愈々過烈となり予科練教育は中止され夫々特攻基地に派遣されたが 遂に戦運我に利なく昭和二十年八月終戦となり小富士航空隊も其の使命を終わった

思えば当隊の歴史は僅か二年にすぎなかったが我らが命をかけて鍛錬した予科練魂は 克く戦後激動の試練に耐え新日本発展の礎となった 我等は往時の予科練時代を偲び茲に同隊の碑を建立する

昭和四十八年五月二十七日  小富士海軍航空隊出身者有志外一同

この田園は、時々真鶴などが北帰行の途中、休憩の為立ち寄る所なんですが、ここに海軍の飛行場があったとは知りませんでした。

福岡市西区元岡の元岡中学校の所には、予科練の練習場があったとは、聞いたことがありますが・・・・・

 

小富士梅林に着きました。この梅林は、江戸時代飢饉を防ぐために1000本の梅が植えられました。戦後、農家の収益の為に新木2000本が植えられました。

 

梅林内を歩いていきます。

 

 

 

梅林からは、船越湾が見えます。

 

梅の花には、メジロですね。ここには、天敵のヒヨドリもいないみたいです。

 

 

ジョウビタキもいました。これは、雄かな?

 

 

 

  

 

民家の方に戻りました。民家にもきれいな梅、ボケの花が咲いています。

 

 

早咲きの桜の花も咲き始めました。

  

 

小富士の梅林は、あと1週間もすれば、満開でしょう。

 

 

 


福岡城址の梅園と大濠公園の鳥たち(福岡市中央区)

2021-02-11 12:04:18 | ウォーキング

2/8(月)福岡城址の梅園を見に行こうと、博多阪急イヤーラウンド15KMを歩きました。このコース昨年の7/26日に歩いています。今回は逆コースで歩きます。

スタートは、博多駅。博多駅から千年門を通って寺社通りへ。

 

この辺りは、由緒あるお寺が続きます。

 

  

博多町家を通り、櫛田神社へ。櫛田神社の楼門には、お多福面が付けられています。このお面、高さ5,3M、幅5M日本一のお多福面です。

この面を潜るとご利益があるといわれています。

 

櫛田神社から上川端商店街へ。

 

 

上川端商店街から中州を通り福岡市の中心部天神へ。

 

 

天神から赤坂を通り福岡城址(舞鶴公園)へ。

 

すぐ目につくのが、広々とした空間。ここには、西鉄ライオンズ、福岡ダイエーホークスの本拠地平和台球場があった所です。

鴻臚館発掘に伴い、ホークスは、地行浜の福岡ドームに移転し、平和台球場は1997(平成9年)老朽化及び鴻臚館周辺の歴史公園整備の本格着手に伴い閉鎖されました。

  

福岡城址の梅園です。梅園には、約270本の梅があります。本来ならば2月半ばには、梅まつりが行われますが、今年はコロナの緊急事態宣言で中止となりました。

今日は、平日ですが、週末になると梅見客がたくさん来られることでしょう。

  

 

  

  

 

梅園から大濠公園に向かいます。この辺りは、桜の木もたくさんあり、3月末には花見の方で多くなるでしょうね。ちなみに今年の桜の開花予想は、3/18ごろだそうです。

福岡市民のオアシス大濠公園。鳥たちの憩いの場でもあります。

イヤーラウンドは、ここから西公園に向かうルートですが、西公園は桜の時に行こうと思い、ショートカットします。

  

  

 

 

大濠公園を出ると、NHK福岡放送局、今年春の選抜高校野球に出場が決まった福岡大学付属大濠高校があります。

 

護国神社の向かい側には、福岡市出身の元総理廣田弘毅の銅像もあります。

 

このあとけやき通りから薬院~渡辺通~住吉を経て博多駅に戻りました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


青春の思い出 「旧国鉄筑肥線跡地を歩く(その2)」(小笹駅~筑前高宮駅~筑前簑島~博多駅)

2021-02-06 13:46:33 | ウォーキング

旧国鉄筑肥線跡地を歩くその2です。

樋井川筑肥橋を渡ると、梅光園緑道に入ります。この緑道は、旧筑肥線跡地970Mを緑の散歩道として整備されました。

  

 

途中には休憩スポットもあり、ちょっとした散歩道です。

 

この近くには、友人の家があり、酒を飲みながら語り合ったこともあったっけ。その家は解体されて更地になっていました。

  

梅光園緑道から筑肥新道に入ります。

 

旧小笹駅です。少し高台にあったと思います。ホームは1面1線で離合ができませんでした。北側には、動物園(現存)がありました。

私の叔母が平和町に住んでおり、遊びに行くときは、この駅で降りて、平尾霊園を通って行くのですが、この霊園を通るのが怖かったです。

 

平和交差点の所にも踏切がありましたね。

 

旧筑前高宮駅は、現在のスーパーサニー辺りでした。高宮や大宰府の高校に通学する友は、ここで下り、西鉄平尾駅から電車に乗って通っていました。

 

歩いていると西鉄バスの復刻バスが通りました。ちょうど私がこの筑肥線に乗っているころがこのバスでした。

筑肥新道を歩いていると日赤通りに出ます。ここは、中央分離帯があり、渡るには、100Mぐらい離れた横断歩道まで行きます。

 

しばらく歩くと那珂川筑肥橋です。橋の向こう側には、九州松下電器(現パナソニック)の工場があります。この工場昔は、日本足袋(現アサヒコーポレーション)だったそうです。

  

那珂川筑肥橋は、欄干に枕木付きの線路、蒸気機関車のデザインが描かれています。橋を渡ると博多区です。

  

高架橋の下をくぐると旧筑前蓑島駅です。

筑前蓑島駅は、単線でホーム1面、1線でした。今でもホームの一部が残されています。できれば線路も付けて欲しかったな~。

この駅には、高校でいえば、精華女子高校、博多商業高校(現沖学園)が近くにあり、また、日本タングステンや九州松下電器(現パナソニック)、福岡製紙(今はない)などの

工場に近く通勤客の方も利用されていました。

 

 

蓑島という駅名は、昔このあたりが蓑島という島からです。ただ、町名は美野島です。昭和44年(1969)住吉校区から独立した際に美野島という町名になりました。

筑前簑島駅廃線跡は、遊歩道になっています。遊歩道の先は、美野島公園です。

  

旧筑肥線は、このあと、鹿児島本線に合流します。

 

博多駅は、1963年(昭和38年)までは、出来町の所に駅舎がありました。それから移転し現在の博多駅で博多ステーションビルとして開業しました。

確か、筑肥線は1番ホームだったと記憶しています。

また、私の中学の修学旅行は、この新しくなった博多駅から列車に乗って南九州一周でした。

その博多駅も2011年(平成23年)九州新幹線開業と同時に駅舎も博多シティとして生まれかわりました。

 

今回、旧筑肥線を歩いて若いころの記憶が蘇ってきました。今では、何回も何回も反復しないと覚えられませんが、若いころの記憶ってまだ残っているのですね。

 

 

 

 

 

 


青春の思い出 「旧国鉄筑肥線跡地(その1)」(姪浜~西新~鳥飼)を歩く

2021-02-05 11:45:05 | ウォーキング

旧国鉄筑肥線(姪浜~西新~鳥飼~小笹~筑前高宮~筑前簑島~博多駅11,7KM)は、1983年(昭和58年)福岡市地下鉄との相互直通運転の為、地下鉄と競合する博多~姪浜間が廃止されました。

今日(2/4)この区間を歩いてみました。小生、高校・大学時代はこの路線で通学していました.

小生が通学していたころは、この路線に朝と夕方蒸気機関車が運行していました。蒸気機関車には、通勤通学者で満員状態で、まだ冷房なんかなく夏なんか暑いので窓を開けると

蒸気のススが入ってきて顔を触ると黒いススが付いたりしました。

今は、10分に1本のダイヤですが、当時は、通勤通学帯を除き、1時間に1本でした。単線でしたので姪浜から博多駅まで45分ぐらいかかっていたのではないでしょうか?

長く筑肥線に乗っていると、同じ車両に乗ってくる「気になる女高生」に出会います。シャイな性格でしたので卒業まで一回も話したことはありませんが、あの時話しかけていればよかったかな?

名前は、いまでも覚えています。今、どうしているかな・・・・・・

小生にとってこの旧国鉄筑肥線は、懐かしい青春の1ページです。

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スタートは、姪浜駅。この駅は、福岡市地下鉄とJR筑肥線の乗換駅です。(乗換といっても乗務員が交代するだけ)

 

旧国鉄筑肥線は、姪浜の地下鉄線の高架沿いに歩きます。途中、地下鉄が地下に潜る少し前の所から右の方にカーブします。

  

   

都市高速のガードを潜ると室見川筑肥橋です。昔は、鉄橋でしたが、廃線後、橋がかけ替えられ道路になっています。ここから筑肥線の跡地ということで「筑肥新道」と名付けられました。

 

室見川筑肥橋の高欄には、車輪、鉄橋のアーチなどが付けられています。

  

室見川の鉄橋を渡ると、予備校の寮がありました。

私は知りませんでしたが、南庄のJAの所には、「筑前庄駅」があったそうです。昭和16年(1941)に廃止されました。

  

 

 

新開橋の交差点を過ぎると「西新町駅」です。コンビニからスタンドまでの間が駅ではなかったかな?この駅では、県立福岡工業高校の生徒が利用しています。

  

荒江交差点には踏切がありました。ここは交通量も多く渋滞が起こっていたのではないでしょうか?

 

荒江、城西、別府には、住宅公団(現UR)の団地があります。昔は5階建てでしたが、最近になって高層に建て替わっています。

 

旧鳥飼駅は、現在の城南区役所です。

 

鳥飼駅を出ると別府(べふ)橋の方に向かいます。12月に行われる福岡国際マラソンでは、別府大橋が難所の一つですが、別府大橋ができる前は、列車が鳥飼駅に入るや否や踏切の遮断機が下り、

大渋滞が起きていました。昭和45年(1970)筑肥線をまたぐ形で別府大橋が完成してからその渋滞も緩和されたそうです。

私は、大学に通学するときは鳥飼駅で下りて歩いて六本松バス停まで行きバスで学校に通学していました。

 

別府(べふ)という地名は、別勅府田が略されて「別府」となったそうです。別勅というのは、律令制の下で天皇の特別な命令の事です。朝廷に功績のあった役人などに

別勅で田地を下府した土地のです。(参考:別府公民館「別府のむかし・いま・あす」 より)

安藤病院の横を過ぎると樋井川筑肥橋です。

 

橋の欄干には、列車の動輪が描かれています。橋の近くにはUR別府団地があります。

 

橋を渡ると中央区六本松に入ります。六本松には、旧九州大学教養部がありました。九州大学は西区の方に移転し、九大跡地には、現在、マンション、裁判所などが建っています。

 

                                                                     (つづく)

 

 

 

 

 

 


春を求めて「鎮国寺の熱海桜とメジロ」(福岡県宗像市)

2021-02-03 21:10:07 | ウォーキング

2/3(水)今日は、立春。暦の上では今日から春です。

その春を求めて福岡県宗像市「鎮国寺」に行ってきました。宗像大社に車を止め、大社から歩いていきました。

鎮国寺

 

鎮国寺では、淡紅梅と早咲きの熱海桜が見頃です。

◎淡紅梅

  

◎ 熱海桜

熱海桜の所では、メジロが美味しそうに蜜を吸っていました。

その姿を撮ろうとアマチュアカメラマンが待ち構えていました。

 

 

 

淡紅梅、熱海桜鑑賞、道の駅むなかた立ち寄った後、小、中学の同級生が勤めている食堂に行ってきました。

 

お昼の定食が美味しいということで、

寿司定食                                       刺身定食

  

お味噌汁は、モズク入り、フグのから揚げ付き。びっくりしたのは、同級生からの海鮮ピザのサービスです。

アフターコーヒーとデザートが付いて@1500(税別)です。大満足です!

 

食事の後、「織幡宮」に行ってきました。

 

 

筑前鐘崎海女の像: ここ鐘崎は、古来風光明媚、海路の要衝として万葉の古歌に詠われた沈鐘の伝説で名高い。

先祖は、鐘崎海人と呼ばれ進取の気性に富み、航海術に秀で各方面で大活躍した。特に潜水の技術に優鐘崎海女は西日本の海女発祥の地として有名である。

海女の出稼ぎ地であった能登、長門、壱岐、対馬には、枝村(分村)ができた。海女の使用した道具は、県の文化財に指定され、保存されたいる。

ここには、渡り蝶?のアサギマダラが5月~6月ごろやってきます。

  

 

 

織幡宮を下りて海岸に出てみると、相島、大島、地島が見えます。

 

 

ここから約2時間かけて自宅に戻ります。