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よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

第28回久留米つつじマーチ2日目5km(福岡県久留米市)

2025-04-24 10:57:11 | ウォーキング

4/20(日)久留米つつじマーチ2日目5km

今日も昨日と同様6:30に福岡の自宅を出発、7:20に会場の中央公園に到着。

30kmのスタートに間に合いましたので見送りをします。

今日は、天気予報では、明け方には雨は止むということでしたが、小雨が降り続いています。

やはり今年も「久留米つつじマーチは、必ず1日は雨が降る」というジンクスが当たりました。

今日も、10時過ぎからスタッフとしての仕事がありますので、30kmがスタートしてしばらくして5kmコースを

家内と一緒にスタートします。(本当は10kmを歩きたかったのですが雨のため5kmを選択)

20日のマップです。

5kmコースは「甍が連なる寺町一万歩コース」です。

       

櫛原町の信号から筑後川へ

 

筑後川久留米つつじ園

ここにもたくさんのツツジがあります。

 

  

約2km地点が5kmのチェックポイント。ここは、7:30から開設されています。

  

百年公園に比べるとまだ5分咲きかな??

  

5kと10k・20k・30k分岐点を過ぎます。

街路に植えられているハナミズキも満開です。

 

  

ここから「寺町」です。

  

「寺町」の名の通り、ここには17の(古くは26寺)の寺院が集まって一つの聖域をつくっています。
数多くの先人が永眠している中で、最もよく知られた人物は、勤王の志士高山彦九郎、久留米絣始祖の井上伝、久留米つつじの始祖坂本元蔵、洋画家古賀春江などがいます。

高山彦九郎の墓のある遍照院には、彼の後を追って死んだ酒好き西道俊のひょうたん墓。 筑後の同志を頼って長州から逃れ、果ては止むなく明治四年、同志の手で殺された反政府主義者・

大楽源太郎主従四人の「耿介四士之墓」。 大楽の庇護と殺害の罪で明治政府から処刑(罰)された地元の志士たちを弔った「辛未遭難志士之墓」が並び立っています。

     

     

     

     

何か、キリスト教の教会みたいです。

 

  

  

妙正寺は、久留米つつじの元祖「坂本元蔵」の墓碑があります。

  

   

   

     

     

 

   

   

   

この寺町は、江戸時代久留米城防衛の一環としてここに寺を集めたそうです。昔は、26の寺がありました。

寺町から昭和通りへ

  

五穀神社には、「からくり儀右衛門」(田中久重)の紹介文があります。※田中久重は、「東芝」の基礎を作りました。

田中久重 - Wikipedia

 

五穀神社から会場の中央公園へ

  

9:00  5kmの歩き終えました。

  

会場では、10km・5kmのスタートの準備が行われていました。

10km、5kmのスタートを見送り、スタッフとしての業務を行いました。

30kmのアンカーがゴールしたのが、16:40です。

これで2日間のスタッフ業務が終了しました。

2日間の参加者です。

 

 

 

      

 

 

 


第28回久留米つつじマーチ1日目10km(福岡県久留米市)

2025-04-22 12:36:06 | ウォーキング

4/19~20まで行われる「第28回久留米つつじマーチ」に参加しました。

 

 マップを見ると昨年と同じコースです。

今年もスタッフとして参加です。

6:30福岡の自宅を出発し、会場の中央公園に着いたのが7:20。もう30kmコースの出発式が行われていました。

   

7:30 30kmコーススタート。お見送りします。

  

スタッフとして動くのは、10時から。まだ時間があるので独自に10kmコースを歩きます。

石橋文化センターの先から右折、高良川沿いに歩きます。

  

  

鳥越建設様のエイド。 今日は暑くなりそうなので水分補給します。

  

分岐点から10kコースに入ります。

 

 

  

久留米競輪場前を通過

  

競輪場から久留米大学御井学舎へ

  

 

  

先へ進みます。高良大社の近くは、防津街道(薩摩街道)府中宿です。昔ながらの建物が立ち並んでいます。

  

  

御井小学校がチェックポイント。この御井小学校の所が防津街道府中宿本陣跡です。

時刻は、9:00 早いのでチェックポイントは開設されていません。スルーします。

  

九州道の側道から中干出公園へ

  

中干出公園から筑後川に出ます。

  

ゆめタウンを過ぎ百年公園へ

見事なツツジです。

  

 

 

10:00 10kコースゴールしました。

ゴール後、本来の10kmコースがスタートしましたのでそれを見送ります。

30分後には、5kmコースがスタートしました。

そのあとは、スタッフとしてウォーカーの方のゴールを待ちます。

16:30 30kmのアンカーがゴールし、この日のスタッフとしての仕事が終わりました。

 

 

  


第33回いぶすき菜の花マーチ2日目10km(鹿児島県指宿市)

2025-02-06 06:24:58 | ウォーキング

1/26 第33回いぶすき菜の花マーチ2日目10kmコース

今日もホテルを7:30にチェックアウトして会場のフラワーパークかごしまへ。

昨日できたマメは、救急絆とテーピングで痛みは少しとれました。

今日は、ふくおかW協会のメンバーと歩きます。

8:30スタート

 

今日のコースは、昨日歩いてきた所を逆に歩きます。

西大山駅では、9:11発上りの列車と遭遇。

 

列車が行った後でもまだウォーカーがいます。

 

レジャーセンターかいもんに向かいます。

 

長崎鼻パーキングガーデン

 

私、初めて長崎鼻に行ったのは、今から45年ほど前だったか???

その時は、「南国情話」という歌が流れていました。今は、流れていないです。この歌好きだったのですが・・・・

※若山彰・能沢佳子の「南国情話」 Bing 動画

 

 

あるウォーカーの方から「長崎鼻」の意味を尋ねられました。

長い「崎」(岬):海に突き出た地形に由来。「鼻」はその先端。

「長崎県」の長崎もこのような意味から付けられたのでは???

 

折角ですので記念写真を。(写真の女の子は小学2年生、きっといい思い出になるでしょう)

 

長崎鼻から折り返します。

11:20 ゴールしました。

 

昨年は、40kmコースがありましたが、今年は30kmでした。4月に行われる久留米つつじマーチも40kmコースが無くなり、

30kmになっています。長距離コースは無くなりつつありますね。

最終日ですので皆で記念写真を撮りました。

 

 

 

 

 

 


第24回城下町小田原ツーデーマーチ1日目「石垣山一夜城と箱根湯元温泉街」(神奈川県小田原市)

2024-11-22 06:19:45 | ウォーキング

11/16(土)6年ぶりに「城下町小田原ツーデーマーチ」に参加しました。久しぶりの遠征です。

この大会2012年に初参加し、2018年20回大会で2回目 そして今回3回目の参加です。

本来は2日間の参加を予定していましたが、11/18~11/23まで地元のウォーキングのイベントがありますので1日だけの参加です。

 

集合場所は、小田原城城址公園銅(あか)門広場。皆さんに分かるようにトレードマークの「風車の弥七」でスタート待っていると懐かしい歩友さんの面々が・・・・

地元の協会の役を引き受けていますのでなかなか遠方には出られませんので歩友の皆さんとは久しぶりの再会です。

今日の石垣山一夜城と湯元温泉街のマップ

9:00 北条手作り甲冑隊の「檄」でスタート。JWA畑会長も甲冑隊の衣装で挨拶。

 

 

銅門の所では、「北条太鼓」の勇ましい太鼓の音で応援されています。

 

銅門を潜ると、スタート印を押してもらいます。

 

小田原城を後に、石垣山一夜城へ向かいます。

 

 

 

早川観音を過ぎるといよいよ「石垣山一夜城」に向かう長い(約2km)坂道です。

 

12年前初参加の時は、この坂道そんなに「苦」とは思いませんでしたが、やはり歳のせいか、ペースが落ち、もう休み休み登っていきます。

途中には、この石垣山合戦に参加した武将の紹介看板があります。

昔の人は、この坂なんともなかったのだろうか????

 

 

スタートしてから約1時間半で「石垣山一夜城跡」に着きました。ここがチェックポイントです。

 

石垣山は、本来「笠懸山」と呼ばれていましたが、天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原北条氏を水陸15万の大群を率いて包囲し、その本陣として総石垣の城を築いたことから「石垣山」と

呼ばれるようになりました。

この城が、世に石垣山一夜城または太閤一夜城と呼ばれるのは、秀吉が築城にあたり、山頂の林の中に塀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って白壁のように見せかけ、一夜のうちに周囲の樹木を伐採し、それを見た小田原城中の将兵が驚き士気を失ったためと言われています。しかし、実際にはのべ4万人が動員され、天正18年4月から6月まで約80日間が費やされました。

秀吉は、この城に淀君ら側室や千利休、能役者を呼び茶会を開いたり、天皇の勅使を迎えたりしました。

この城は、関東で最初に造られた総石垣の城で、石積みは近江の穴太衆による野面積みといい、長期戦に備えた本格的な総構えであったといわれ、度重なる大地震にも耐え、今日まで当時の面影が大変よく残されており、平成29年4月6日に日本城郭協会より「続日本100名城」に選定されました。

この地は国立公園区域及び国指定史跡に指定されています。

 

一夜城を過ぎてもまだ坂道が続きます。

 

一夜城から310m地点でやっと下り坂です。

 

 

このあたり「早川石丁場群関白沢志支郡」と称しています。

早川石丁場群は、早川へと注ぐ関白沢の東側を中心とする地域にあり、江戸城の石垣を造るための石を切り出した「石丁場」の跡が残っています。江戸城の築城に際しては、神奈川県西部から

伊豆半島を中心とする地域に所在する箱根火山により生成された安山岩という石材が多数使用されました。各大名家は、自らが命じられた江戸城の石垣普請用の石材を入手するため、各地で石丁場の確保に努めました。
市内では、久野や石橋などにも大名家が確保した石であることを示すために記した刻書を確認することができます。
早川の石丁場は、石垣用の石材の中でも「角石」と呼ばれる石垣の角の部分に使われる大きな石を専用に採取した特別な石丁場であり、御三家(尾張・紀伊・水戸)などの大名家の関与が想定されます。ここで切り出された石は、早川を下り相模湾から海路、遠く江戸まで運ばれました。現在、早川などに残る石は、何らかの理由で江戸城まで運ばれなかった石と言うことができますが、

今でも「矢穴」と呼ぶ、石を割る際に掘られた穴や刻印が確認され、往時を偲ぶことができます。(小田原市HPより)

 

 

案内板には、「石曵道(いしびきみち)から早川の河口に運んで「石船」で江戸城まで運んだと記されていますが、当時はクレーン等がなくどのような手段で河口まで運んだのでしょうか?

丸太を使って転がしていったのかな????

 

地球博物館が見えてきました。ここで休憩します。 

休憩後再スタート。

 

小田急の線路を渡ると速いウォーカーとすれ違います。この後のルートは、湯本駅の先の「石畳」を折返します。

 

箱根町に入りました。

ここは、6年前東海道(京都~日本橋)を歩いた時に通っています。

今日は、紅葉見学でしょうか、車の渋滞が続いています。

 

久しぶりの長距離でまた、石垣山の山登りで疲労困憊の状態です。

マップをみるとアジサイ橋からチェックポイントの箱根町庁舎に抜けれます。ショートカットしてみました。

 

2回目のチェックポイントは、箱根町庁舎です。

 

チェックポイントから三枚橋に向かいます。ここも東海道を歩いた時に通りました。

 

鈴廣かまぼこの里で休憩。

お正月の箱根駅伝では、鈴廣の前が中継点です。

 

 

今日は、ウォーキング参加者には、店内で10%引きですが、観光客などで溢れ、買ってもレジまで約30分かかるそうです。

鈴廣かまぼこは、小田原駅前にもありますのでそちらで買うことにします。

 

 

松永記念館、ここは5kmコースのチェックポイントです。

松永記念館は、戦前・戦後と通じて「電力王」と呼ばれた実業家であり、数寄茶人としても高名であった松永安左ヱ門(耳庵)が、昭和21年に小田原へ居住してから収集した古美術品を一般公開するために、昭和34年に財団法人を創立して自宅の敷地内に建設した施設です。昭和54年に財団が解散し、その敷地と建物が小田原市に寄付されました。(小田原市HPより)

松永安左ヱ門は、九州電力の前身の東邦電力を設立した人で九州の電気事業に大きく貢献した方です。

 

 

三淵邸・甘柑荘

三淵邸・甘柑荘は、板橋地区に所在する歴史的建造物で、初代最高裁判所長官・三淵忠彦が昭和初期に建て、晩年を過ごしました。
NHK連続テレビ小説『虎に翼』ヒロインのモデルとなった三淵嘉子は、忠彦の長男・乾太郎(けんたろう)と再婚した後、この邸宅を別荘として愛用していました。
建物は、茶室を備えた数寄屋建築で、忠彦の意向で玄関と床の間を排するなど、簡単で清楚に作られています。
板橋地区の歴史的風致を構成する優れた意匠が認められることから、令和6年(2024年)5月に本市の歴史的風致形成建造物に指定されました。

 

小田原には薄皮で餡子たっぷりな「あんぱん」があります。ここは、柳屋ベーカリー、駅前には守屋パンがあります。

買ってみたかったのですが、この時間売り切れでした。

 

ゴールの小田原城が見えてきました。

 

13:50 ゴールしました。

 

今日のGPSです。

久しぶりの長距離ウォークでしたので疲れました。

2日目は、地元のウォークの行事がありますのでパスします。

長文をお許しください。

 

 


第68回元気!スマイルウォークin筑後(福岡県筑後市)

2024-11-04 15:55:58 | ウォーキング

11/3(日)

前日は季節外れの大雨で福岡地方約250mmの雨が降りました。その雨も前日の夕方には止み、今日は朝から秋晴れです。

NPO法人福岡県ウォーキング協会主催「元気!スマイルウォークin筑後」に参加しました。今回の担当は「ちくご歩こう会」です。

福岡県ウォーキング協会に所属する6団体+教職員互助会の会員さんが参加します。

会場は、県営筑後広域公園ステージ前。

この公園「筑後船小屋駅」を中心に東西約4kmの公園で総面積は、192,6ヘクタールもあり、福岡市にある大濠公園の約5倍の広さです。

車のナビは、ソフトバンクホークスの2軍球場の方を指していますが、ステージがどこにもありません。10分ぐらい徘徊しますがわかりません。

サッカーの応援に来ている父兄に聞いてみると、「恋ぼたる」の方だとか・・・・・

恋ぼたるの方に行くとやっと見つかりました。できれば会場入り口や駅に案内人を配置し参加者を誘導して欲しかった・・・・

案内人がいなかったら旗か看板を立てるとか何かの策を講じてほしかった。地元の人はわかるかもしれませんが、遠方から来る人にはわかりません。

この日は、3連休の中日でいつもの大会よりも参加者が少なめ、目視でだいたい60~70名ぐらいかな??? 当ふくおかウォーキング協会からは、16名の参加。

 

 

 

10:00 ウォーキングスタート

 

 

途中、公園内に「筑紫石人像」があります。

筑後地区には、古来から多くの古墳がありました。筑紫石人は、八女古墳群に特徴的な造形である石人に因んで造られました。

 

筑後船小屋駅の高架を通り、瀬高町の方に向かいます。駅のすぐ近くには、ソフトバンクホークス二軍球場(タマスタ)があります。

今年もこの二軍球場からたくさんの選手が一軍に合流しました。彼らの力があったからこそパリーグで優勝できたのではないでしょうか。

 

コースは、熊野神社へ。熊野神社というより「中山の大藤」の方が有名です。

 

 

昨年4月20日ごろこの「中山の大藤」を見に行った時の写真です。

 

中山の大藤から先に進みます。矢部川沿いに歩きます。

 

再び公園内に入ります。

 

コース上に紅のそばの花が咲いています。

 

行くときは遠くに見えていた「筑紫石人」です。BMXは、自転車の競技の練習場です。

 

 

船小屋鉱泉場です。

船小屋鉱泉井戸は文政7年(1824年)に掘られました。
そして、この温泉の炭酸の効能の噂が筑後一円に広がり、需要が多くなったことから明治時代に大規模な掘削工事を行いました。
その工事で3名の方が無くなり、鉱泉所内の薬師堂に3体の御薬師様が祭られています。

鉱泉場内では、蛇口を捻ると鉄分の苦味のあるシュワシュワの炭酸泉を無料で楽しむことが出来ます。(温泉の杜より引用)

 

 

 

12:3010kmコースゴールしました。

 

今日のGPSです。

ゴール後、すぐ近くの船小屋温泉「恋ぼたる」に行き、汗を流しました。

 


ひらどツーデーウォーク1日目「鄭成功生誕400周年記念コース」11km(長崎県平戸市)

2024-10-15 07:12:02 | ウォーキング

10/12(土)ひらどツーデーウォークに参加しました。

今回は、1日だけの参加。

朝6:00に福岡の自宅を出発し、途中朝食を食べ、平戸の会場に着いたのは、9:00。だいたい2時間ぐらいで到着しました。

会場に着くと22kmの出発式が行われていました。

 

11kmコースは、平戸文化センターをスタートし、川内(かわうち)峠を経由して川内港の鄭成功(ていせいこう)記念館までの約11km。

鄭成功記念館からは、バスで平戸文化センターまでマイクロバスで送ってもらいます。

このコースは、今年、鄭成功生誕400年を記念したコースです。

 

9:40 フライングスタート。 

 

市街地を抜けると緩やかな上り坂が続きます。

 

2km地点でFB友達の北九州のNさんご夫妻に追いつきました。

 

約3km地点が給水所

 

少し休憩し再スタート

 

10:45 川内峠に到着

川内峠は、何年か前、オルレ平戸コース(現在このコースは廃止)で歩きました。

 

ここがチェックポイントです。

 

川内峠は、西海国立公園に属し、標高200mに広がる約30haの草原で、頂上からは、絶好のパノラマで九十九島・西九州・壱岐・対馬の島々が見ることができます。

また、秋には、一面ススキの光景が見ることができます。

頂上には、歌人「吉井勇」の歌碑があります。「山きよく 海うるわしとたたえつつ 旅人われや 平戸よくみむ」

 

川内峠の写真です。

 

 

 

 

 

 

ススキが本当にきれいでした。2月には、野焼きが行われるそうです。

 

川内峠から一般道に戻ります。ここから下りになります。

 

 

 

川内港が見えてきました。

川内港は、17世紀初頭のイギリス・オランダなどの海外貿易時代は平戸港の副港として栄え、多くの外国船が帆を休めました。

川内というと、「川内かまぼこ」です。港内には、かまぼこの店舗が数十件ほど建ち並びます。

 

川内港の鄭成功門が11kmのゴールです。

 

ゴールでは、名物「川内かまぼこ簀巻き」が振舞われました。

平戸市川内町の『川内かまぼこ』の歴史は古く、江戸時代に漁師が余った魚をはんぺんにしたのが始りとされ、最盛期には町内に100軒の蒲鉾屋がありましたが現在は16軒に減少しました。

 

川内町には、「鄭成功」の廟や記念館があります。

鄭成功」(ていせいこう)は、中国人海商で平戸を根拠地として活動した鄭芝龍(ていしりゅう)を父に、平戸川内の田川マツを母に1624年7月14日平戸で生まれました。

幼名を福松、中国名を鄭森と言います。 鄭成功は、わずか7歳で単身海を渡り、21歳の時、明の隆武帝より明王朝の国姓「朱」を賜ったことから、人々は彼を「国姓爺」と呼びました。

後に清朝との戦いの中、父芝龍が清に投降しますが、鄭成功は「抗清復明」の旗印を揚げ不利な戦いを続ける中で、台湾に進攻し占拠中のオランダ人を追放しました。その後、政府を設置し

法律を定め、開拓を行い、民を養い大いに時運の挽回を図りますが、ついに病のために1662年39歳で亡くなりました

 

 

 

十数年前台湾台南に旅した時、鄭成功が祀られていました。鄭成功は、今でも台湾の英雄です。

  

ゴール後、川内港からマイクロバスでスタート地点「平戸文化センター」まで移動しました。

平戸ツーデーウォークは、明日も行われますが、明日は使用の為1日だけの参加でした。

 

 

 

 

 

 


第12回大阿蘇元気ウォーク1日目10km(熊本県阿蘇市)

2024-09-10 18:32:46 | ウォーキング

9/7(土)は、熊本県阿蘇市で行われた「第12回大阿蘇元気ウォーク」に参加しました。

福岡の自宅を4時半に出発し、阿蘇市には、7時20分に到着しました。

私、この大会3回目の参加です。

8:10から出発式。佐藤阿蘇市長から、歌とエールをいただきました。(佐藤市長は、成人式で新成人に持ち歌を披露するので有名です)

 

 

8:35 20kmコーススタート。私は、20kmでエントリーしていますが、日ごろ20kmは歩いてなくまたこの暑さ、一応歩けるところまで歩こうとスタートしました。

阿蘇市を歩いていると「水基巡りの道」というのがあり、いろんなところから湧水があります。

「九州の水がめ、阿蘇」。高岳の麓に位置する阿蘇神社、その境内から湧く「神の泉」は不老長寿の水と崇められている。
 門前町商店街では同じ伏流水が湧いており、古くから地元の人はその豊かな水を生活に利用してきた。この美しい水を観光客にも味わってもらいたいと、町づくりの一環として「水基」と呼ぶ水飲み場を設置しその数は現在28箇所になる。観光客はそれぞれの水で喉を潤しながら散策する「水基巡り」を楽しむ。まさに自然と町づくりがうまく融合した姿と言える。(熊本県観光スポットより)

 

阿蘇山は、朝靄に覆われています。

 

 

コースは、馬場八幡宮へ

 

馬場八幡宮は、由緒の正確な記録はないが八幡宮は古来、源家の氏神として尊崇せられていた神であるので源平の争乱の頃源家の流れを汲む鎮西八郎為朝がこの地に城を築き居住した記録が

残されている(肥後国誌)ことを考慮すると、為朝が鎮守社とした(1151)と推察しても不自然ではない。約860年前の事である。
石灯篭の古いものに享保14年(1730)の刻銘が残っている。後世阿蘇三宮より八宮まで六座の神が併祀されている。これは阿蘇開拓の祖神を尊び合祀されたものと思われるが年代は不詳である。
明治6年(1874)白川県(熊本県)より当社を第266区の郷社として指定を受けている。
明治27年(1894)に旧坂梨村の村社となった。

ここで少し休憩します。

 

休憩後再スタート。コースは豊後街道「坂梨宿」へ

 

豊後街道は、熊本市新町1丁目御門前「札の辻」を起点とし、大分市鶴崎に至る全長31里(124km)に及ぶ参勤交代路です。
坂梨町はこの「札の辻」から東へ13里(52km)に位置します。
天正16年(1588)熊本城に入り、のちに肥後一国の藩主となった加藤清正はこの街道を「鶴崎路」と称し豊後の国「鶴崎港」から瀬戸内海を経て、大阪、江戸に参勤しました。
清正は肥後4大街道(豊前、豊後、薩摩、日向)のうちこの鶴崎路を最も重要視して道路の確保、保全に万全を期したといわれています。
寛永9年(1632)加藤氏のあと藩主となった細川忠利もこの道路に大きな関心を寄せ改良整備に力を入れました。
寛永12年、徳川幕府が定めた「武家諸法度」により参勤交代が法制化された為、忠利以降の藩主も更に道路の整備改良維持に意をそそぎ、江戸への参勤、熊本への下国と街道を利用しました。
また、街道のこうした整備保護により庶民の旅の世界が拡大され商取引が盛んになり寺社参詣が流行し、単に参勤路としてでなく産業、信仰の道としても大きく発展していきました。
坂梨の町はこうした時代背景の中で豊後の国境にも近く野尻日向往還、南郷矢部に至る火野尾峠越えの交通の接点となり宿場町として栄えました。
交通の要衝としてだけではなく行政、経済、文化の中心地として、細川藩独特の手永政治の坂梨手永会所(役所)や、女性の出入りには特にきびしかった街道の坂梨番所には女改の部屋があったと伝えられています。
藩主が参勤、下国の時、宿泊休憩をされる坂梨御茶屋を始め、旅人宿、酒造業、呉服、雑貨、問屋、薬屋、医者、諸儲けなど屋号持ちの店が軒を連ね大変な賑わいであったといわれています。
参勤交代制度は藩主を始め多数の共侍、沿道の住民それぞれに大きな労苦と負担をあたえましたが、文化伝達の極めて困難な時代に阿蘇地方の文化発展に多大の貢献と影響をもたらしました。
毎年藩主の参勤、下国は数百千の共侍の上がり下がりの移動により江戸、京都、大阪や瀬戸内の文化、風俗ならびに産業、殖産を伝え中央政治の一緊一緩をも知ることができました。
旅人の往来もさかんで、その中には日本初の実測地図を作成した伊能忠敬、勤王の志士高山彦九郎、儒者で詩人の頼山陽、藩校時習館教授高本紫溟など多くの文人も訪れ歌や漢詩を残しています。
街道には坂梨手永会所跡、霊台橋で有名な石工卯助が架けたアーチ型の天神橋、木喰上人作子安観音像などの文化財、藩主の避難場所円通寺や浄土寺、浄行寺、妙法寺、馬場八幡宮などの

寺社もみられます。「大阪に坂なく、坂梨に坂あり」の里言で名高い滝室坂は街道一の難所として坂梨町の東端から高低差200m、全長3kmの峻坂ですべて石畳でした。頂の坂の上から

笹倉へと通じています。街道の周辺には阿蘇谷の七鼻八石の内、妻子ヶ鼻、卯の鼻、箱石、いぼ石や古閑の滝など自然の景観にも恵まれています。
大政奉還により明治維新となり参勤交代制度が廃止され明治、大正、昭和、平成と時代は移りましたが坂梨の町並みは歴史の道「豊後街道」の宿場町として今も往時の面影とたたずまいを

色こく残しています。(ASO Pediaより引用)

 

坂梨宿には、高山彦九郎・・・尊王思想家 「寛政4年(1792年)7月滞在

      伊能忠敬・・・・「文化7年(1810年)12月内牧から小池野まで測量

      勝海舟・坂本龍馬・・・文久4年(1864年) などの方が宿泊されています。

坂梨公民館がチェックポイント

 

チェックポイントでは、キュウリの醤油漬けや辛子漬けが振舞われました。

 

坂梨公民館の横には、豊後街道の説明板が掲示されています。

私ももう15年ほど前でしょうか、大津宿から内牧まで歩いたことがあります。雨が降っていましたので石畳が滑りやすくゆっくりゆっくり歩いた記憶があります。

いつか、内牧から豊後鶴崎まで歩いてみたいと思っていますが、もう歳のせいかなかなか行動に移すことができません。

歩いていると「めがね橋」があります。近くに天神社があるので「天神橋」とも呼ばれています。1847年種山石工(現東陽町)の夘助が建てたといわれています。

 

歩いているとコスモスが咲きだし、また栗の木には栗の実が熟しています。まだまだ暑いけど秋はそこまで来ているのですね。

 

 

なだらかな坂道を登ると10k、20kの分岐点です。

 

暑いので20kをあきらめ10kmコースの方に行きます。

運動公園で少し休憩し再スタート。

JR宮地駅を通過

 

ゴールまであと少し。

 

 

11:00 ゴールしました。

 

ゴール後の楽しみは、「かき氷」です。

 

今日のGPS

明日の2日目は暑いのでパスします。

帰り道、久しぶりに(20年ぶりかな?)「あそ路」に行って「たかな飯」「だご汁」をいただきました。

 

 

 

 


「第38回飯田やまびこマーチ1日目大平(おおだいら)宿コース22km」(長野県飯田市)

2024-04-30 18:48:12 | ウォーキング

4/27~28長野県飯田市で行われる「第38回飯田やまびこマーチ」に参加しました。

博多から新幹線で名古屋へ、名古屋から高速バスで飯田市へ。約6時間かかりました。

この大会これで4回目の参加。2020年にも参加する予定でしたが、コロナで中止になりました。

会場は、中央公園、中央公園の前はリンゴ広場になっており、リンゴの花が一斉に開いています。

 

 

 

大平(おおだいら)宿コース】

大平集落は長野県南部 飯田市と南木曾町との境界近くの山間の集落であったが、昭和45年に200年以上続いた集落を捨てて集団移住し、その村の歴史を閉じたのだった。
天龍川の流れる伊那谷と、中山道の通る木曽谷が並行している。この二つの谷の間には中央アルプスの山々が連なっているので、伊那谷と中山道を結ぶ道は極端に少なく、伊那谷南部の飯田市と中山道の南木曽妻籠を結ぶ大平街道は、唯一ともいえる峠越えの道だ。
この街道の開通は江戸時代中期の宝暦年間(1751~64)のことである。飯田藩と地元の商人山田屋新七の手によってであった。表向きの目的は山林開発のためとのことだが、実際は中山道を通る参勤交代の荷物運搬の人夫に伊那の農民を動員するための最短ルートを開くためであった。
その後大平は飯田と木曽を結ぶ大平街道の峠の宿場として発展した。幕末の戸数は37軒、旅篭2軒であった。明治38年にはこの街道が車両通行可能になり、伊那谷と木曽谷を走る二本の鉄道を結ぶ主要街道として全盛期を迎える。
明治末から大正期の大平は、林業・養蚕の最盛期とも重なり、宿場としての集落は繁栄の時代を迎え、暮らしは豊かになり、立派な構えの家も現れてきた。養蚕と豊かな林産資源で炭を焼き、標高1100mの高所に戸数75戸もの大平集落が形成された。
しかし大平の生業の中心は炭焼きで、昭和30年頃までは値もよく豊かな生活ができたが、石油エネルギー取って代られ生活の糧を失ってしまった。過疎集落になっていく大平はついに昭和45年に200年以上続いた集落を捨てて集団移住をしてしまったのである。
今この集落は僅か20数戸だが、宿場時代の姿が良く残っている。宿の建物の建築年代は江戸末期から明治期に建てられたものが殆どである。切り妻造りで、平入りの場合も妻入りの場合も、街道に面した側は出桁造り(せがい造り)になっていた。この出桁造りは中山道の木曽路から北国街道沿いなど、長野県を中心にして分布しているようだ。殆どが平屋建で中二階建もあるが、中二階は天井の低い物置として利用していたようだ。平入りと妻入りが入り混じり、屋根はかって全戸板葺石置きであったが、今は殆どその上にトタンを被せていたが、2・3戸は板葺石置きのままであった。
間取りは前土間型で道路に面して土間があり、道路に対しても、家内部に対しても広く開放されている。土間に接する床上部分が板張りになっていて、大きな「いろり」が切ってある。
今、残っている民家は宿場時代の旅篭から養蚕、林業、炭焼きで活気のあったときに建てられたもので大型の家屋が多く、山間のひなびた宿場にしては立派な構えで場違い的な建物が多い。


会場の中央公園からマイクロバスで約1時間かけて大平宿へ。

 

 

ここは、標高1150mの地点、建物は、江戸から明治にかけて建てられたものです。まさに原風景です。

 

 

 

一瞬別世界に来た感じです。

 

スタート前には、韓国ウォーキング協会会長が挨拶されました。

今から36年前、このやまびこマーチを視察され、大平街道の大自然の豊かさと奥深さを実感され、「この豊かな自然に恵まれた大平は、総合病院であり、みなさんの二本の足は、

お医者さんです」と熱く語られたそうです。今回も韓国・原州から10人が参加されています。

 

 

やまびこマーチでも以前は、ここで宿泊して下りるコースがあったそうです。

 

8:30 ウォーキング開始。気温を確認しようと携帯を見ると「圏外」の表示

 

 

未舗装の道を下っていきます。

 

途中には、こんな所もあります。

 

歩いていると空気が美味しいです。側を流れる「黒川」は、飯田市で天竜川と合流します。

 

 

  

鳩打隧道・・・・隧道の中は、真っ暗で持ってきたヘッドライトで照らします。

 

鳩打隧道の先にある「あずまや」までが、未舗装道路、ここからは舗装道に変わります。そして自由歩行。

 

 

舗装道を下っていると古傷の膝がいたくなってきた。

山道を下り一般道へ。

 

 

 

  

 

急な上り坂です。

 

  

昨年、滋賀県高島市今津を歩いた時に「ザゼンソウ」自生地の看板を見ましたが、ここにも自生地があるのですね。

 

膝が痛くなり、公園でしばし休憩。10分後再スタート。

 

 

ここから中央道高速の上を歩くのですが、この上りがきつい!高速道渡った所にある公園で再び休憩します。

 

 

飯田市中心部に入りました。ゴールまであと少しです。

14:00 無事ゴールしました。このコースアップダウンが多く少々バテました。

 

今日のGPSです。

翌日の中日新聞に飯田やまびこマーチの事が書かれていました。

 

 

 


第27回久留米つつじマーチ(福岡県久留米市)

2024-04-25 09:08:44 | ウォーキング

4/20~4/21まで福岡県久留米市で行われた「第27回久留米つつじマーチ」に参加しました。

この大会もう10回以上参加していますが、今年はスタッフとしての参加です。

私は、IVVの担当で10時集合でいいのですが、せっかくだから集合時間の前に10kmコースを歩きました。

【第一日目10kmコース】

 

7:30が40kmのスタート。それを見送り後方からスタート。

 

石橋文化センターを通り、高良川沿いに歩きます。

高良川沿いでは、毎年鳥越建設さんが個人で接待をされています。

 

分岐点を左折、正源氏公園へ

 

 

 

正源寺池から久留米競輪場へ

 

 

久留米競輪場から久留米大学御井キャンパスに向かいます。

  

久留米大学の中に初めて入りました。昔の職場の先輩が久留米大学出身でした。その先輩も今月帰らぬ人となりました。

 

高良大社の大鳥居です。

 

大鳥居の横(御井小学校内)には、薩摩街道府中宿本陣がありました。

 

御井小学校の所がチェックポイントです。ですが、早いので何も準備されていませんでした。

 

 

 

久留米そろばん踊りのモニュメントがあります。

久留米そろばん踊り(福岡県民謡) (youtube.com)

 

また、久留米には「久留米小唄」という歌もあります。久留米小唄2版 (youtube.com)

コースは筑後川沿いに歩き百年公園へ

 

ゴールが見えてきました。ちょうど10kmコースがスタートしていました。

 

何と、久留米観光大使女優の「田中麗奈さん」が応援に来られていました。

 

ゴール後、スタッフとしてIVVの担当をしました。

しばらく遠征をしていませんでしたので全国の懐かしい歩友と再開しました。

 

【久留米つつじマーチ2日目】

2日目も30kmコースの後、10kmを歩く予定でしたが、前日ふくおかウォーキング協会の会員さんからIVVが「2023年」になっている・・・と指摘を受け、

朝早くから昨日のIVV・今日の分のIVVを点検しました。

すると、全体の約2割ぐらいが「2023年」が混じっていました。

すぐ、大会本部に行きIVVを間違って配布したことをアナウンスしてもらうよう依頼します。

2023か2024かわからない人には、新しいIVVを渡し。何とか危機脱出しました。

早く気づいてホントよかったです。

2日目は雨が本降りになり、ウォーカーの方がずぶ濡れになってゴールされていました。

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初めての大会スタッフでしたが、大会運営には裏方の力が必要ですね。いろいろ勉強になりました。

ですが、やはりお客さんとして歩きたいです。

 

 

 

 

 

 

 


真鯛満喫ウォーク(佐賀県東松浦郡玄海町)

2024-03-19 06:50:10 | ウォーキング

3/17(日)佐賀県玄海町で行われる「真鯛満喫ウォーク」に参加しました。

仮屋漁港に車を置き、シャトルバスでスタート地点の「玄海会場温泉パレア」へ。

このウォーキング大会、真鯛の塩焼きが格安でいただけます。

  

生憎朝から小雨が降り続けています。天気予報では、昼から回復するということですが・・・・・

スタートまで時間がありますので会場周辺を散策します。

 

仮屋漁港では、「若鷲之碑」がありました。

小富士海軍航空隊と書いてます。小富士海軍航空隊というと、先月小富士梅園ウォークに行ったときに「小富士海軍航空隊跡の碑」というのがありました。

小富士で訓練してここ仮屋湾から飛び立ったのですね。

碑文を見てみると、「昭和20年まさに仮屋湾は戦雲急なる激動の海であった。第34突撃隊仮屋派遣隊は、小富士海軍航空隊より15・16歳の第16期甲類飛行予科練生179名を

もって編成、この地を兵舎として日夜本土決戦に備え特攻基地づくりに身命を賭した。機到らんとする8月15日終戦爾来半世紀、いま仮屋湾は平和を祈念し、新しい希望を象徴する

海として甦った。昭和51年から始まる仮屋総員整列は常に同期の鎮魂の祀りであった。

仮屋湾は我々の青春すべてを見つめ歴史の一頁を刻み込んだ海である。 我々はここに死に そして生きた

平成7年10月   小富士海軍航空隊  第34突撃隊  仮屋派遣隊員一同」

 

  

出発式の時間になりましたので会場に戻ります。

9:40 スタート。雨は一向に上がる気配もないのでポンチョを着てのウォーキングです。

 

ゴールの仮屋漁港駐車場を通ります。駐車場では、お土産用の鯛を炭火で焼いています。その匂いがたまらないです。

 

漁港駐車場から長い長い上り坂です。

 

スタートして約40分で浜野浦に着きました。

 

この棚田では主に「コシヒカリ」が栽培され、例年、4月中旬から田んぼの水張りが始まり、5月上旬には田植えが終わります。この間、水平線に沈む夕日が海面と水田とをオレンジ色に染め、畦道が描く幾何学的模様は私たちの目を楽しませてくれます。

確か、2011年(平成23)5月だったか、浜野浦の夕日が見たくて5日間通ったことがあります。

5日目に下記のような写真が撮れました。(2011年5月7日撮影)

 

この日の棚田には、菜の花が植えられていました。天気が良ければいい写真が撮れると思います。

この棚田は、「恋人の聖地」に認定されています。

 

 

浜野浦では、イチゴが振舞われました。

 

浜野浦の棚田からは、下り坂です。

 

 

11:05 仮屋漁港駐車場にゴールしました。

 

ゴール後、鯛めし、鯛汁、玄海町のお茶、そして玄海町のお菓子「しっとりさざえもなか」をいただきました。

注文していた鯛の塩焼きです。約40cmぐらいの大きな鯛です。割引券を利用して一尾@800です。

隣では、カキ焼きがあり試食させていただきました。身も大きく1袋買いました。(1000円)

 

温泉の割引券もありましたので玄海会場温泉パレアに行き、汗を流しました。

今日のGPSです。マップと照らすと浜野浦に行く道を間違えたようです。