鹿島アントラーズ原理主義

愛する鹿島アントラーズについて、屈折した意見を述べていく場です。

日本代表・内田篤人、しゃべらなくても記事かけるならもうしゃべらない

2014年11月10日 | Weblog
代表復帰の内田、すっかりメディア不信 「しゃべらなくても記事かけるならもうしゃべらない」

ホテルに到着した内田篤人=愛知県内(山田喜貴撮影)

 ワールドカップ(W杯)ブラジル大会以来の代表復帰となった内田の表情がさえない。注目を集めた“代表引退宣言”に絡む一部報道に「しゃべってこなかったのにしゃべったように書いてあって怖い」とぼやく。

 怒りは収まらない。「W杯が終わってから一言も話していないのに、代表に復帰する、しないの話が進んでいく」とまくし立て、「しゃべらなくても記事をかけるのならもうしゃべらない」と皮肉混じりに批判した。

 体調も万全ではない。今季出遅れの原因となった右ひざの不安は解消しておらず、8日の試合中に踏まれた左手の包帯も痛々しい。試合出場については「(出場は)ドクターと話し合ってから」と煮え切らなかった。

 本田は「誰もが認めるサイドバックが入ることでチャンスができる。選手が競い合えばチームに底力もつく」と復帰を歓迎する。26歳の実力者に精神的、肉体的準備が整うまでにしばらく時間がかかるかもしれない。(奥山次郎)


直前の試合で痛めた左手に包帯を巻いて練習に臨む内田篤人=愛知県内(山田喜貴撮影)

代表合流の内田、左手にテーピングも「手を使ったらハンドなので」
14/11/10 18:16



 日本代表は10日、愛知県内に集合し、14日のホンジュラス戦(豊田ス)に向けて合宿をスタートした。メキシコ企業が主催するサッカー殿堂に選出されたハビエル・アギーレ監督は練習前のミーティングに参加後、チームを一時離脱。指揮官不在の中、前日9日に試合のあったMF香川真司(ドルトムント)、GK川島永嗣(スタンダール・リエージュ)を除く21人で約1時間半の練習を行った。

 ブラジルW杯以来の代表復帰となったDF内田篤人(シャルケ)は8日のフライブルク戦で左手甲を負傷し、代表合流が心配されたが、この日帰国し、練習にも参加。軽めのメニューということもあり、最後のフットバレーを除いてチームメイトとともに汗を流したが、左手には痛々しいテーピングが巻かれた状態だった。

 ただ、病院で検査を受けた結果、「異常はないので大丈夫」と、骨折やヒビはなかったと説明。「腫れがひどいし、痛みもあるけど、手を使ったらハンドなので」と、プレー面への影響は否定した。

 とはいうものの、実戦形式となった際のコンタクトプレーでどうなるかは今後の練習の中で見極めていく必要がありそうだ。さらに「膝があれなので、ドクターと話しながら」と、W杯前から抱える右膝の故障は完全には癒えぬまま、クラブで出場を続けている。ホンジュラス戦出場に関しては「ドクターと話し合って」と繰り返し、慎重な姿勢を崩さなかった。

 約4か月半ぶりに戻ってきた日本代表。アギーレ監督とは「挨拶程度」だったそうで、「いなくなっちゃったので、また早く会いたいと思うし、新しいスタッフもいるので、コミュニケーションを取っていきたい」と、静かにリスタートを切った。

(取材・文 西山紘平)

W杯以来の代表復帰も…内田は報道に不快感「本心ではない」
14/11/10 18:37



 日本代表合宿が10日、愛知県内でスタートし、ブラジルW杯以来の代表復帰となったDF内田篤人(シャルケ)も直前のリーグ戦で負傷した左手にテーピングを巻いて練習に参加した。

 W杯グループリーグ最終戦となったコロンビア戦後、日本代表からの引退について「そのことに関しては、ちょっと前から考えていた」と言及。「代表も大事だし、代表をリスペクトしている分、100%でいられない自分はどうなのかなと」と、故障を抱えながらクラブと代表を両立させていけるかどうか、悩める心境も打ち明けていた。

 この日の練習後、報道陣の取材に応じた内田は「W杯が終わってから代表に関してしゃべっていなかったのに、最近の新聞とかで、俺が最近しゃべったように書いてあって、怖いなあと思った。(記事を)読む人が読んで、俺にメールをくれたりしたけど、本心ではないので」と、自身の代表復帰をめぐって過熱する報道に不快感を示した。

「自分がしゃべらなくても、記事になるし。というのを今日は言いたくて。W杯が終わってから代表のことは一言もしゃべってないけど、勝手に話が復帰する、しないで進んで、自分の意図しないところで大きくなって怖いなと思った」

 ハビエル・アギーレ監督就任後、これまでの代表招集時は右膝の故障からクラブで復帰していないタイミングだったため、自動的に招集を見送られてきた。今回はアギーレ監督の「是非、内田を呼びたい」という強い要望もあり、アギーレジャパン初選出となったが、W杯前から故障を抱える右膝は完治しないまま、シャルケではリーグ戦、欧州CLと続く過密日程を戦っている。

 今回は左手甲の負傷もあり、状態は満身創痍。14日のホンジュラス戦(豊田ス)に向けても「ドクターと話しながら」と慎重な姿勢を見せている。クラブは公式Twitterでシャルケの医療チームが日本まで帯同していることを明らかにし、代表チームのドクターとの話し合いにより、「代表戦に出場するか離脱するかを決定します」としている。

(取材・文 西山紘平)




メディア不信を口にした日本代表の内田篤人である。
これまで、篤人本人が口にしなかったことで報道が先走り、非常に迷惑を被った様子。
日本のメディアは質が低い。
なにを信じて良いのかわからぬことも多い。
自身の母国である日本を貶める報道のいかに多いことか。
嘆かわしいことである。
篤人のこの言葉で、多くのメディアが目を覚ましてくれることを望む。

日本代表・昌子源、チームとしてやることを頭に入れたい

2014年11月10日 | Weblog
昌子「うれしい」日本代表練習に初参加

個別練習でパスを出す昌子(撮影・今中雄樹)

 日本代表DF昌子源(21=鹿島)が10日、練習に初参加した。10月のジャマイカ、ブラジル戦は右太もも裏の筋挫傷で無念の招集辞退。1カ月後の返り咲きを果たし「アギーレ監督がミーティングで、初招集の選手に『ようこそ』と言ってくれたのがうれしかった」と初々しく話した。

 ほかの選手に話しかけながらランニングし、モラス・フィジカルコーチとの居残り練習では「最終ラインでは中途半端な判断をするな」と教わった。11日からの練習に向けて「明日から本格的に動くと思う。チームとしてやることを頭に入れたい」と意気込んだ。
 [2014年11月10日19時40分]




代表にて初練習を行った昌子源である。
居残り練習にて最終ラインのあり方を指導され、吸収しておる様子。
この合宿で良い経験を積むのだ。
源の躍動を期待しておる。

シャルケ・篤人、大丈夫です

2014年11月10日 | Weblog
内田帰国、踏まれた手は「大丈夫です」

代表合宿に合流するため到着した日本代表DF内田(撮影・今中雄樹)

 日本代表DF内田篤人(26=シャルケ)ら、海外組が10日、中部国際空港着の航空機で帰国した。

 9日のフライブルク戦で左手甲付近を踏まれた内田は、大きめのニット帽を深めにかぶり、手は服の袖で保護するようにして「(手は)大丈夫です」とだけ話し、移動車に乗り込んだ。チームは親善試合ホンジュラス戦(14日、豊田ス)に向け、午後から愛知県内で合宿をスタートさせる。
 [2014年11月10日10時27分]




日本に帰国したシャルケの篤人である。
負傷については「大丈夫です」と述べた。
代表辞退は無い様子なので、元気な姿を見せてくれるのではなかろうか。
日本代表での躍動を期待しておる。

大阪桐蔭高校・久保田和音くん、高校サッカー界屈指の司令塔

2014年11月10日 | Weblog
鹿島入り内定の久保田を擁する大阪桐蔭は、昨年代表校の履正社と激突。
サッカーダイジェストWeb編集部
2014年11月07日


大阪桐蔭の久保田は今夏のインターハイで初の全国出場を経験。選手権では、激戦区の大阪予選を勝ち抜けるか。(C) SOCCER DIGEST

 第93回全国高校サッカー選手権は、11月7日までに9地区で代表校が決定。さらに11月8・9日に12地区で決勝が行なわれ、16日までに全48代表校が決定する。選手権予選もいよいよ終盤戦となる。

 一方、選手権予選と同時に、この時期に気になるのが有望株の進路状況。すでに高校から6名のプロ入り内定選手が出ており、ここに数名の選手が続くと見られる。ここでは、来季のプロ入り内定選手と主な有望選手を紹介するとともに、選手権予選での勝ち上がり状況をお伝えする。

鹿島入団内定
久保田和音(大阪桐蔭高/MF)

生年月日:1997年1月1日
身長・体重:172センチ・63キロ
主な実績:13年国体準優勝、14年総体出場、U-17日本代表

 大阪府選抜として2年連続で国体に出場。今夏のインターハイ直前に早々と鹿島と契約した高校サッカー界屈指の司令塔は、攻撃にリズムを生み出す正確なパスさばきと突破力を備え、フィニッシュの能力も高い。選手権の大阪予選はベスト4まで勝ち進み、11月9日の準決勝で昨年の代表校・履正社と激突する。




大阪桐蔭高校の久保田和音くんを紹介するサッカーダイジェストWebである。
高校サッカー界屈指の司令塔と評されておる。
残念ながら、久保田和音くんの大阪桐蔭は惜しくも敗れ去り、久保田和音くんの高校サッカーは終わりを告げた。
今は、しばし心身を休め、プロへの準備をするのだ。
岳と共にプレイし、彼を超えるまでに成長して欲しい。
楽しみな逸材である。

山形・中島、絶対勝つんだと強い気持ちになった

2014年11月10日 | Weblog
【山形】中島V弾で奇跡3分逆転!PO圏内6位再突入
2014年11月10日6時0分 スポーツ報知


試合後サポーターにあいさつをした山形FW中島(中央)

 ◆J2第40節 山形2―1福岡(9日・NDソフトスタジアム)

 モンテディオ山形は、ホームで福岡と対戦し、2―1の逆転勝ちを収めた。勝ち点を61にのばし、順位が6位に浮上。再びプレーオフ進出圏内(3~6位)に突入した。0―1の後半38分にDF山田拓巳(24)が今季初ゴールとなる同点弾。同41分には途中出場のFW中島裕希(30)が17試合ぶりのゴールで、チームを勝利に導いた。次節はアウェーで3位・磐田と対戦(15日)する。

 最後まで執念を見せたモンテイレブンは、勝利の笛を聞くと抱き合い喜び合った。後半22分に失点しながらの逆転勝利。石崎信弘監督(56)は「最後まであきらめず、勝ちたい気持ちをゲームに出してくれ、逆転することができた」と選手たちをたたえた。

 2人の伏兵がゴールへの貪欲な姿勢を貫き、3分で逆転した。0―1の後半38分。DF山田がMFキム・ボムヨンの放ったシュートのこぼれ球を右足で押し込んだ。「無我夢中でゴール前に走り込んだ。シュートコースは見えてなかったけど、枠に打つことだけ考えた」と今季初ゴールで同点。スタンドには選手会が東日本大震災復興支援活動の一環で招待した閖上サッカースポーツ少年団(宮城・名取市)の子ども24人が見守っていた。「サッカーの魅力を伝えたい」と話していた選手会長の山田が見せた、執念のゴールだった。

 山田の同点弾が、石崎監督が「あいつは気分屋」と評する、中島の心に火をつけた。後半34分から途中出場した中島は「同点になったとき、次、決めればヒーローになれると思った。絶対勝つんだと強い気持ちになった」。同41分。FWディエゴのシュートのこぼれ球に反応。「転がすと相手に当たると思った」とスライディングしながらボールを浮かせる技ありの一発で、“英雄”になった。

 昨季チーム得点王(12点)の中島だが、4―2―3―1のシステムから、現在の3―4―3に定着した9月20日の京都戦以降、スタメンから外れていた。それでも「どんな状況でもやれることをやろうと思っていた」と腐らず、途中出場ながらチームの起爆剤となった。

 3試合ぶり、今季2度目のプレーオフ圏内・6位に浮上した。「ここで気を緩めず、最後まで全力で戦う。次もきっとヒーローが出ますよ」と中島。逆転勝ちを収め勢いに乗るチームが連勝を重ねる。(武田 泉)

 ◆J1昇格プレーオフ 昇格の3番目のイスをかけて、J2の3~6位の4チームでトーナメントを行う(1、2位は自動昇格)。まず3位と6位、4位と5位が戦い、その勝者同士が決勝で対戦する。今季は11月30日に準決勝、12月7日に決勝が行われる。




逆転弾を決めた山形の中島である。
ここしばらくレギュラーから外れておったが、途中出場で結果を出す力を持っておる。
泥臭さが真骨頂。
山形はこの勝利にてPO圏内に順位を上げた。
悲願のJ1昇格も見えてくる。
今季残り二試合、山形の中島に注目である。

八木、第二の人生

2014年11月10日 | Weblog
OB選手たちの現在――八木直生(元鹿島アントラーズ)「アントラーズのために恩返しをしていくことだけを考えています。本当に目の前のことをしっかりやるだけなんですよ。先のことがよく分からないことを、僕は誰よりも知っていますから」
[Jリーグサッカーキング 2014年9月号掲載]

Jリーガーたちのその後の奮闘や活躍を紹介する本企画。今回紹介するのは、昨シーズン途中まで鹿島アントラーズでプレーし、21歳という若さで現役引退を決断した八木直生さん。現在、鹿島アントラーズのスクールコーチとして忙しい毎日を送る彼に、アカデミーから昇格したトップチームでの3年半のプロ生活について、さらに始まったばかりの第二の人生について、率直な言葉を求めた。



文=米谷真人
取材協力=Jリーグ 企画部 人材教育・キャリアデザインチーム
写真=神山陽平、オフィスプリマベーラ、足立雅史


出場できないからといって、ふて腐れたことは一度もない

 昨年8月に現役引退を発表したばかりの八木直生は、現在、小学生や幼稚園児を対象とする鹿島アントラーズのサッカースクールでコーチを務めている。身長199センチの彼と子供たちとのコントラストは何ともユニークだが、コミュニケーションはお手のもの。コーチとしてのセカンドキャリアは1年にも満たないが、優しい言葉で、丁寧に指導するその姿は何とも頼もしい。

 とはいえ八木は、まだ22歳の若者である。彼はなぜ、若くしてプロの世界から身を引く決断を下したのか。

 1991年、群馬県で生を受けた八木は、幼稚園に通っていた頃にボールを蹴り始めた。小学生時代はFWやMFとしてサッカーに打ち込んだが、中学生になると、活躍の場は攻撃的なポジションから最後尾へと移ることになる。

「小学校を卒業する直前にGKがケガをしたんです。その子の代わりに僕がGKをやることになりました。その流れで、中学でも自然にGKになっていましたね」

 桐生市立広沢中学校在籍時に群馬県大会に出場したのは、最高学年である3年時のみ。しかし2回戦で敗退するなど、決して輝かしい成績を収めたわけではなかった。

 地元の高校に進んでサッカーを続けよう――。アントラーズから声が掛かったのは、そう考えていた矢先だった。

「中学時代に特に活躍していたわけではなかったので、アントラーズから声が掛かるとは全く考えていませんでした。ただ、僕の周りには他県の学校に進学する選手もたくさんいたので、『俺も挑戦してみよう』という感じで決めたんです。今振り返ると、誰も知り合いがいない鹿島によく一人で行ったなと思いますね」

 そうして八木は、自身が「精鋭部隊」と考えていたアントラーズユースに籍を置くことになる。そこには彼が考えていたとおりの強者が集まっていた。

「レベルの高さに衝撃を受けました。本当に自分が下手すぎて……毎日ヘロヘロでした(笑)。周りとの差がはっきりしていたので、必死についていくしかなかったですね。でも、1年間頑張ったからなのか、高2になると少しずつ試合に出られるようになりました。そこで初めてプロというものを意識した気がします」

 当然のことながら、ユースの選手全員がトップチームに昇格できるわけではない。両親とは大学進学について話し合ったこともある。

「高3の10月に右足を骨折してしまったんです。それ以前に何度かトップチームの練習に参加させてもらっていたのですが、昇格するという話はもらっていませんでした。だから、ケガをしてしまった時はかなり不安でした」

 2010年、それでも八木は見事にトップチームへの昇格を果たした。押し寄せたのは相反する二つの感情だ。

「昇格の話を聞いた時はうれしかったですし、安心しました。でも、ケガをしていた分、不安もかなりありました。そんな大ケガは初めてでしたから」

 当時、八木がトップチームに対して抱いていたのは「無敵軍団」というイメージである。ユース時代にほぼ毎試合のホームゲームをスタジアムで観戦したが、そこで感じたのは、たとえリードされても必ず勝利を手にする名門の勝負強さだった。自分もこのチームの一員になりたい。そう憧れたトップチームの一員となった喜びと、「本当についていけるのか」という不安を同時に抱いた。しかし、そうした不安があったからこそ、良い意味での“割り切り”をして日々のトレーニングに取り組むことができた。

「正直、試合に出られるとは全く思っていませんでした。線も細いし、知識も経験も技術もない。こういう考えはあまり良くないかもしれませんが、3、4年は下積み期間として力をつけ、それ以降で勝負するというビジョンを勝手に持っていたんです。もちろんすぐに試合に出られるに越したことはありません。でも、自分がすぐに試合に出られるような選手ではなく、そのような甘いクラブではないことも分かっていましたから」

 トップチームに加入して、3シーズンが経過した。この期間、公式戦には1度も出場できなかった。当時のアントラーズは現在もなお守護神として君臨する曽ヶ端準が不動の地位を築いていた。

「自分がまだまだの選手だということはよく分かっていましたから、出られなくて当たり前です。もし曽ヶ端さんがいなくても、試合には出られなかったと思います。自分に力がないことはこれまでずっと感じていたことですから」

 力を込めて、こう続けた。

「試合に出場できないからといって、ふて腐れたことは一度もありませんでした。3年目になると、自分の意識もかなり変わってきていたんですよ。自分が出れば、あれは止められたんじゃないかという考えも少しずつ出てきました。それまではそんなふうに考えたことはなかったんですけど、徐々に自信をつけていった感覚はありました」

 たとえ試合に出場できなくても、目標を持って日々のトレーニングに励んだからこそ、新たな感情が芽生えた。自信など全くなかった自分が、徐々に手応えを感じつつある。この調子で取り組んでいけば、いつかチャンスが巡ってくるかもしれない――。そう考えていた矢先の出来事だった。

アントラーズのためにできることをやりたかった

 13年1月。八木にとってのアントラーズでの4シーズン目が始動しようとしていた。そんな時、メディカルチェックで心疾患が発見された。

「正直、やっぱりそうかという感じでした。というのも、小学生の時から学校の検査で引っ掛かることはあったんです。ただ、気にしなくていいと言われていたので、特に注意するようなこともありませんでした。でも、兄が僕の前に心臓を悪くして手術をしていたこともあって、自分にも何かあるんじゃないかと思っていたんです。日々の生活に支障をきたすような症状は全くありませんが、自分にも何かあるんじゃないかということは頭の片隅にありました」

 あまりに突発的な知らせではあったものの、心のどこかではそうした可能性を排除することなく生きてきた。だからこそ、驚くほど冷静に受け止めることができた。

「結果を聞いた瞬間に頭をよぎったことですか? まだまだ全然いけるって感じでしたね。手術すればきっと大丈夫。復活するために、実家でずっと走っていましたから。トレーニングをしながら手術を待っていました」

 メディカルチェックから3カ月後の13年4月、八木の手術は無事に成功した。これからはリハビリを懸命にこなし、練習に合流する。そのことだけを考えていた。

「復帰する気満々でリハビリをしていました。でも、リハビリをしていくにつれてそれは難しいのかなと思うようになってきて……。身体の感覚が思いどおりじゃないことが何度かあったんですよ。立ちくらみや頭痛も増えてきました」

 間もなく、担当医からこれ以上の激しい運動は避けるようにと指示を受けた。事実上の引退勧告だった。

「普通の生活は問題ないと言われましたが、サッカーは難しいと。自分の中では薄々分かってはいましたが、僕はそれまでサッカーしかやってこなかったので、これからどうしようって……。僕からサッカーを取ったら何が残るんだろうって。目の前が真っ暗になった気がしました」

 心疾患が見つかってもなお、諦めずに復帰を目指した。ところが、担当医からの言葉で初めて厳しい現実に直面した。これから、どうすればいいのだろう。失意の八木に手を差し伸べたのは、強化部長の鈴木満だった。

「鈴木さんは真剣に話を聞いてくれました。そこで、育成組織のコーチになることを勧めてくれたんです」

 自身のセカンドキャリアについて、サッカー以外のことを考えることはできなかった。地元に帰って何かをすればいいと言う人もいたが、八木には肝心の“何か”が思い浮かばなかった。その“何か”を考えるまでもなく、たった一つの感情が八木を突き動かした。

「とにかくアントラーズのために力になりたかったんです。アントラーズは1試合も出場できなかった僕に対して本当に良くしてくれました。正直、コーチになりたかったわけではありません。でも、コーチであれば選手だった経験を生かせるんじゃないかと思いましたし、基本的には子供が好きなので。これまでお世話になった分、アントラーズのためにできることをやりたかった」

 13年8月、こうして八木は、ひっそりと現役生活に幕を下ろした。公式戦への出場はついに叶わなかった。

「開き直りではないですけど、何度も言うように、試合に出られなくて当たり前の選手でした。もっとできたんじゃないかと思う部分もありますが、毎日腐らずにトレーニングに臨んでいましたから、仕方ないですね」

 育成組織コーチとしての第二の人生は、翌月から始まった。指導の対象は幼稚園児と小学生の計9学年だ。

「まずはみんなで楽しくサッカーをしようという感じです。1日の流れとしては10時に出社して事務作業。そこから、夕方から始まるスクールに向けた準備をしています」

 スクールは曜日によって対象学年が分けられており、さらに毎月ごとに「シュート強化月間」などのテーマが設けられている。ちなみに取材日の強化テーマは「フルターン」で、八木を含めたコーチ陣からは「ナイスターン!」という声がしきりに飛び交っていた。

「しっかりと褒めてあげれば身に付いていきますよね。子供たちに『これでいいんだ』と思わせてあげたい」

 同時に、指導の難しさについても言及する。

「正直、どうして子供たちにはこれができないんだろうと思ってしまいます。でも、できないことをできるように教えるのがコーチですから。その技術はもっと磨いていかないといけません。とはいえ、コーチングに絶対の答えはありませんから、そこが難しいですね。選手であれば、どのような結果になっても自分の責任。でも、コーチは他人を預かっている分、選手とは違う責任が生じます。そういう意味では、選手より難しい部分もあるかもしれません」

 子供たちにできないことをできるようになってもらうため、工夫していることも少なくない。

「やはり子供たちの目線に立つことが一番重要だと思います。それは当然、各学年に合わせた目線です。例えば幼稚園児は、基本的には“自分とボール”という意識しか持っていないと思うんですね。でも、小学校3、4年生くらいになると“仲間”を意識するようになる。そうなると周りの子供たちとのパスの練習も組み込みます。そうやって年代に合った特徴を頭に入れつつ、トレーニングを組んでいくようにしています」

 しかし、ジレンマもある。

「本当は子供たちに考えさせないといけないんですけど、僕はすぐに答えを教えてしまうんです。あと、僕は子供が大好きなので、できれば怒りたくないんです。それでも、子供たちのためになることは、プレー面であろうとそれ以外であろうと、しっかり怒るようにしています。でも、モヤモヤしちゃいますね(笑)。コーチングキャリアをスタートさせたところなので、本当に当然のことですけど、指導者としては、まだまだ青いですよ。日々勉強です」

突然訪れたセカンドキャリア。でも、後悔はない

 歩み始めたセカンドキャリア。将来的には、GKコーチとして“第一線”に戻りたいと考えているという。ただし、同時にそれが決して簡単なものではないことも分かっている。自身のスタンスは、現役生活と何も変わらない。

「ライセンスももちろんですし、GKを指導するための知識、技術を習得しなければいけません。そういう意味では現役時代と同様、目の前のことにしっかり取り組みたいですね。そうやって下積みをすれば、その後にチャンスがくるんじゃないかと思っています」

 現役時代は全く考えなかったセカンドキャリアについて、今はその思いを巡らせることがある。

「ほんの1年前まで、セカンドキャリアはまだまだ先のことだと思っていました。だから、全く考えなかったですね。なので、引退しなければならないと分かった時は、本当に戸惑いました。でも、後悔はないですね。現役選手に対して、僕はできるだけセカンドキャリアのことを考えないでほしいと思います。だって、目の前に現役選手としての現実があるわけじゃないですか。きれいごとではなく、今を頑張ってほしい気持ちが強いですし、セカンドキャリアはそうなってしまった時に考えればいいと僕は思います」

 さらに、こう強調する。

「今はやりがいのある仕事が目の前にありますから。それに向かって、アントラーズのために恩返しをしていくことだけを考えています。本当に目の前のことをしっかりやるだけなんですよ。先のことがよく分からないことを、僕は誰よりも知っていますから」

 緻密な将来設計をし、それに向かって一つひとつハードルをクリアしていくことも方法論としては有効だと言える。しかし、設計した将来が一瞬で崩れてしまうことを八木は知っている。だから、目の前のことに全力で取り組むことしかできない。

 もっともそれは、これまで彼が貫いてきたスタイルでもある。突然訪れたセカンドキャリアを大好きなサッカーのフィールドで過ごせることは、彼がそうしたブレないスタイルを持っているからであると思う。

「確かに、みんなそう言ってくれるので、そうであればうれしいですね。まあ、これからの人生のほうが長いので、頑張ります」

 お世話になったアントラーズのために――。始まったばかりの第二の人生、その下積み期間を八木は、楽しみながらじっくりと過ごしている。




サッカーキング9月号掲載の八木の記事である。
八木の心疾患発覚から引退の流れには心を痛めた。
しかしながら、八木本人はこの経験を糧に強くなっておる。
若き八木の言葉に勇気づけられる。
我らも常に前向きに生きていきたい。