鹿島アントラーズ原理主義

愛する鹿島アントラーズについて、屈折した意見を述べていく場です。

ヤスと聖真、連携を磨け

2014年11月08日 | Weblog
2014年11月08日(土)


9時からボールを使用したフィジカルトレーニングを実施した後、攻守のトレーニングやミニゲーム、シュート練習を行いました。攻守のトレーニングでは、中村選手が良い動きを見せていました。




攻守のトレーニングを行うヤスと聖真である。
連携を磨き崩しきる力をつけていくのだ。
ヤスのミドルやスルーパスが警戒されてマークされたところで、聖真がフリーになる。
前線の美しいパスワークが観られるのではなかろうか。
また、アツの調子が良い様子。
アツはここに来て実力を発揮しておる。
強さと高い技術はチーム随一。
終盤戦にて勝ち点を重ねるジョーカーとして力を発揮するのだ。
期待しておる。

鹿島、セレッソ・丸橋へオファー

2014年11月08日 | Weblog
【鹿島】C大阪・丸橋に正式オファー、元U22代表左SB
2014年11月8日6時0分 スポーツ報知

 C大阪のDF丸橋祐介(24)が、鹿島から来季戦力として正式オファーを受けていることが7日、分かった。ドリブル突破や左足からの精度の高いクロスなどに定評がある元U―22日本代表。左サイドバックが補強ポイントだった鹿島から白羽の矢が立った。

 U―17から世代別日本代表入りする丸橋は、C大阪U―18から09年にトップ昇格。同年、同期でブラジルW杯日本代表のMF山口蛍(24)とブラジル1部パルメイラスへ短期留学した。本場のレベルを体感するとU―21、U―22日本代表にも選出。ロンドン五輪代表入りこそ逃したが、J1では左足から何度も見せ場を演出している。

 C大阪は現在J1の17位で残留争い中も、さらなる高みを目指すレフティーが、J1で常に上位争いを繰り広げる鹿島へ移籍する可能性は十分ある。プライベートでは10月に一般女性と結婚。24歳が下す決断に注目だ。




鹿島からのオファーを明かしたセレッソの丸橋である。
丸橋はセレッソの下部組織よりトップ昇格した選手で、当初のポジションはMFであった。
セットプレイも蹴る精度のある左足を持っておる。
鹿島としては、補強ポイントとして挙げられておったSBに合致する選手と言えよう。
ユキは五輪予選にて抜ける可能性が、西には海外移籍の可能性があり、SBの層には不安があった。
正式オファーと報じられており、動向に注目が集まる。
続報を待ちたい。

小笠原満男、おまえはそこで待っていろ

2014年11月08日 | Weblog
内田篤人、代表続行の決断の裏側 「このまま終われば、何か負け犬のような気がする」


今も胸に刻む恩師の言葉、「チャラチャラするなよ。サッカー選手はサッカーで示せ」

 ブラジルから帰国したばかりの内田篤人は、茨城県鹿嶋市に向かって車を走らせていた。2010年7月に移籍してから4年が経つが、帰国時には必ず古巣の鹿島アントラーズのクラブハウスに出向くことにしている。いつもと違っていたのは、はっきりとした目的を持っていたことだ。お気に入りの音楽を流しながら、梅雨の合間にしては珍しく日差しが照りつける道を、アクセルを少し強めに踏んで進んだ。

 ブラジル・ワールドカップ(W杯)敗退が決まったコロンビア戦の翌日。敗戦のショックが抜けきらない中で「代表の飛行機って成田に着くよね? そうしたら俺、鹿島のクラブハウスに行こうかな」と打ち明けた。あいにく飛行機が到着したのが夜だったため、その足で鹿嶋に出向くことはできなかった。その後は日本代表の解散式に参加するなど予定が立て込み、帰国から4日後の7月1日、ようやく時間が空いたのだ。

 鹿嶋に出向く理由は3つあるという。まずは、かつてのチームメートとの再会を楽しむこと。そして、鹿島での4年半が選手としての成長に大きく影響していると考え、関係者に「おかげさまで」「元気でやっています」と顔を見せることだ。最後の1つは、プロ選手として、人間として間違った方向に進んでいないかを確認すること。古巣には、屈託のない意見を言ってくれる先輩や気の置けない仲間がたくさんいる。今回は、3つ目の意味合いが強かった。

 コロンビア戦の後、自らの進退について言及していた。「今後、日本代表から引退することは考えていますか」というテレビ局の質問に、はっきりと日本代表から退く可能性について口にした。

「(代表引退について)まぁ、考えてます。日本に帰って、少し休んで考えたい。そのことに関しては今から考えるんじゃなくて、自分の中ではちょっと前から考えていたことなんで、考えようかなと思います。ずっと思っていたんでね。人には言ってなかっただけで」

 26歳。まだまだ選手として成長が期待できる。鹿島、シャルケ、日本代表で刻んできたキャリア、実力、実績を考えれば疑問が浮かぶ。そして何よりも、ブラジル大会の3試合を通じて見せた大舞台でも動じないパフォーマンスは、「自分らしく」プレーできなかった日本代表において、特筆すべきものがあった。そんな選手が「代表引退」を示唆したのだから、大きな衝撃を与えた。

 ただ、本人は「大した問題かな。そんなに騒がれることかな」と言った。年代別代表にも選ばれ、フル代表でも71の出場試合数を刻んでいる。その重みは十分に理解しているが、このタイミングでの再考は既に2年前から決めていた。彼にとってみれば予定通りの行動だったのだ。

 引退を示唆してから一夜明け、内田は報道陣にこう打ち明けている。

「それ(代表引退)って人に言われて決めることじゃないからね。自分の中でいろいろ整理して決めることだと思う。もちろん代表のことはリスペクトしているし、重みというのも分かっている。ただ、自分の中でちょっと前から、この大会が終わったら考えようと決めていた。今始まった話じゃないから、俺の中では。

 身体的負担。それもあるだろうし。でも、それよりも前から、考えるって決めていた方が大きいかな。クラブも代表もリスペクトしている分、何だろう、100%でいられない自分っていうのが、もどかしいという思いはある。ただ、それだけじゃないからさ。前から考えるってことだからさ」

 12年2月に1度、日本代表からの引退を決意した瞬間があった。アルベルト・ザッケローニ監督の部屋を訪れ、その意志を伝えに行くと決めた。欧州と日本との往復などで良い状態が保てなくなり、シャルケでポジションを失った時期だった。結局、部屋を出る直前に代理人を務める秋山祐輔氏から「W杯、日本代表でしか得られないものがある。代表でしか対戦できない選手もいる」という言葉を聞いて、思いとどまった。その時点で、ブラジルW杯までは「引退」を口にしないこと、そして、大会が終わった時点で自分と向き合う時間をつくると決めた。

「アッキー(秋山氏)から言われて、ブラジルW杯まではやろう、と決めたんだよね。余計なことを考えないで、何事も自分のためになると思ってやる。日々のシャルケの練習も、日本代表の試合もそう。やるだけやってみよう、と。W杯に出られるチャンスがあるのに、それを自ら捨てるのももったいないしね。

 俺は南アフリカで試合に出られなかった。だから、まだW杯というものを知らない。それを知らないまま代表選手を終わるのはもったいないとも思うし、W杯に出られないまま代表にいなくなったら、逃げたと思われるのも何だか格好悪いでしょ。だから、やってみようと。選手のみんながあれだけW杯と言うのだから、自分の知らない世界がW杯にはあるんだろうと思った」

 やり抜く決意は固めた。「ブラジルまではやり続ける」と。

 たが、代表引退を考える時間がゼロになったかと言われれば、それはうそになる。度重なる肉離れなど、取り巻く状況は変わらなかった。試合は当然、毎日の練習でも全力勝負が繰り広げられるドイツ。黄色い歓声が飛び交うスタジアムで、必ずしも本気ではない対戦相手と交わる日本代表とは、同じサッカーでも一線を画す。心の中で貫くことを決めたが、目の前にある現実は何一つ変わらなかった。

 ただ、自分が一度決めたことは曲げない性格だ。黒以外の頭髪でピッチに立たないのは、清水東高校時代の監督で、今も恩師と慕う梅田和男氏との約束を守るため。「チャラチャラするなよ。サッカー選手はサッカーで示せ」と教えを受けた。クラブを離れて4年が経過しても、帰国時に鹿島に出向くことも欠かさない。これが正しいと思ったら、その道を突き進む芯の強さを持っている。

尊敬する小笠原から送られたメッセージ「おまえはそこで待っていろ」

 都内から1時間半を運転して、ようやく鹿島に着いた。自分から切り出すつもりはなかった。間違っているという意見があれば、これまでもそうだったように誰かが必ず伝えてくれる。

 笑顔で迎えてくれた仲間たちからは「引退発言」について何も意見されることはなかった。「W杯お疲れさん」「元気か」「けがは大丈夫か」と労をねぎらう言葉をかけられた。その後は食事を共にし、たわいもない会話をして別れた。

 鹿島を訪れてから1週間が経ったころ。そのときはプライベートな話しかしなかった小笠原満男から、知人を通じて伝言が届いた。内田が「サッカーで一番尊敬する選手の1人」として目標にする先輩の言葉は、ぶっきらぼうの中にも愛が込められたものだった。そして、迷いを断ち切るものでもあった。

「俺もこの年(35歳)だけど、まだ代表を目指しているんだから、おまえはそこで待っていろ。何も言わずに待ってればいい。もう一回、俺も一緒のチームでやりたいからさ。それができるのは代表だと思うから。これからも何も考えずにしっかりやって、待っていろよ」

 背中を押された気がした。

「一度そう(引退発言を)言うことで、自分を追い込むことができると思って、ああいう発言をしたということもある。だって、次に引退するかもしれないと言ったら、もう後戻りが利かないから次はなくなるし、今回決めたことが最後の決断になる。そうやって自分を追い込んだら、いくらコンディションが整わなかろうが、いろいろ思おうが、やるしかなくなる」

 続けて、こうも言った。

「やるしかないんよね、きっと。やり続けるしかない。それが自分のためになることは、一番よく分かっているつもりだからさ。でも、こうやって考える時間をつくるのは、なかなかない機会だし、悪いことだとは思わない」

 南アフリカ大会では、岡田武史監督が大会直前に守備的な戦術に舵を切ったため、攻撃が持ち味の内田はピッチに立てなかった。この4年、さまざまな葛藤があった中で代表活動を続けられたのは、その悔しさとW杯でプレーするという目標があったからに他ならない。

「どんな戦術、どんな監督になっても、先発11人に選ばれる選手になる。チームには多少コンディションが悪くても、代えの利かない選手が必ずいる。そういう選手になりたいと思って、ずっとやってきた」

 報われたのがコートジボワール戦。試合前に日本国歌が流れると、思わず涙した。挫折を味わった4年前。この日のためにドイツで努力を積んできた。大会直前に負った右膝裏の腱損傷では、医療スタッフの献身的な尽力を受け、このピッチに立つことができた。ようやくたどり着いた気持ちと感謝の気持ち。この4年で抱いた全ての思いが重なり合い、戦い抜く決意の涙を流したのだった。

 そうして向かった初めてのピッチ。想像していたようで、実は想像していなかった光景が飛び込んできた。

「この4年間ドイツに行ってやってきた。W杯がどういう大会なのかと思ったけど、大会が違うだけでした。意外と普通のサッカーだった。11人対11人で、ボールは1個。自分もやれたんだ。今はそういうふうに思えている。海外に行って、いろいろな経験をドイツで積んだから。

 サッカーはチームスポーツだから結果が出なければ、それまでの努力は報われない。勝負事だし、勝ち負けがあるものだから、しょうがない。報われるのは優勝したチームだけだし、そういう世界で生き続けてきた自分もそうだけど、報われる努力は少ないと思っているから、しょうがない。ただ、自分としては普通にできたと思っている」

 普通のサッカー。それは決して期待はずれという意味ではない。仮に未知の世界が広がっていたなら、まだまだ努力をしなければいけない。そうなれば、極論ドイツで4年間取り組んできたことは間違いだった、大きく軌道修正しなければいけない、という感触になる。だが、実際には方向性は間違っていなかったということが確認できたのだ。

「課題や世界で勝つという夢や目標を下の世代に託すのはどうか」

 圧倒的なフィジカルで攻撃を仕掛け、2分間で試合をひっくり返したコートジボワール。ディディエ・ドログバは1人でピッチの空気を変えるほどの存在感があった。数的不利になったギリシャは10人で守り切り、後半ロスタイムの得点でコートジボワールを下して決勝トーナメントに進出した。日本が勝利すれば、グループリーグ突破の可能性があったコロンビア戦は、チームとして全く歯が立たなかった。

 しかし、世界クラスの選手と欧州チャンピオンズリーグやブンデスリーガで日常的に対峙している内田の目には、「当たり前のこと」だった。クラブとしてではなく国を背負ったときにも、世界的な選手は同じように力を発揮していた。

「(日本代表の)地力がまだまだと分かって、この大会に臨んだつもりだった。その中でもどうにかして勝っていこうと思ったが、うまくいかず歯がゆい思いでいっぱい。自分たちの望む結果ではなかった。

 やっぱり、サッカーで強いと言われる国は引き出しが多い。そりゃ、自分たちのサッカーができれば勝てます。でもこのレベルになると、できないというか、させてもらえないからね。そこでどうするか。強いチームは、自分たちの流れではないときやうまくいかないときに、我慢できるんだよね。

 うーん、何だろう。ボールも持てないし、向こうの選手は一発を持っているし。まあ、これが地力じゃないですか。もちろん、技術があって球際で戦えるという前提での話だけど、そこプラス、試合の勝ち方というものを知っている。やっぱり歴史がある国やチームは、勝ち癖があるんだと思う。日本はまだ、その勝ち方を知らないと思った」

 コロンビアに敗れたときにはピッチから離れ、ベンチに腰を下ろして涙を流した。肩が震えるほど号泣した。最後かもしれない大舞台で1分け2敗。個人として手応えはあったものの、「DFは勝って初めて評価される」というポリシーからすれば到底、納得できる結果ではなかった。

 1度は代表引退を考えた末に望んだW杯。もし望む結果を得られていたら、完全燃焼していたら、その決断は早まったかもしれない。だが今回は、やり残したことも得られなかったものも、あまりに多かった。

「球際での勝負強さ、引き出しの多さ。そういう課題や、世界で勝つという夢や目標を下の世代に託すのはどうか、と。僕らの大会は終わってしまった。自分たちが努力した部分が、報われない結果になって残念だった。それも勝負の世界だから、タラレバがないので仕方ない。

 できたこともできなかったことも、相手があってのこと。難しいゲームにしてしまったのは自分たち。まだまだ未熟だった。世界は近付いてきたけどまだまだ広いな、と感じた。日本のサッカーは進歩していると思うし、いろんな選手が海外に行ってやれているということもそう。でも何か、世界は近いけど広いなっていう感覚があります。それは別に、この大会で初めて思ったことじゃなく、ドイツに行ってすぐ思ったことでもあるけど。このまま終われば、何か負け犬のような気がする」

 ブラジルから帰国後は10日ほどの休暇を取り、7月9日から静岡県内で大迫勇也と共に自主トレを始めた。W杯期間中、左太ももと比べて右足の筋肉量が20%以上減ってしまったため、今はそれを戻すメニューに取り組んでいる。「きちぃ」などと大声を出しながらも精力的にトレーニングに励む。表情も明るい。

 それは今季5年目を迎える欧州で戦い抜くための準備であり、4年後のロシアW杯への再出発を意味する。4年前、どんな状況でも先発になるという目標を持っていた22歳は、26歳になって1つの目標をかなえた。ただ、新たな目標ができた。「チームを勝たせる選手になりたい」。悔しさは形を変えてやってきた。理想の選手像を求め、“日本代表の”内田篤人は再び歩み始める。(サッカーマガジンZONE2014年9月発売号に掲載)

【了】

サッカーマガジンゾーンウェブ編集部●文 text by Soccer Magazine ZONE web
ゲッティイメージズ●写真 photo by Getty Images




シャルケの篤人について記すSoccer Magazine ZONE webである。
代表引退を仄めかせた篤人に小笠原満男の言葉が刺さる。
「俺もこの年(35歳)だけど、まだ代表を目指しているんだから、おまえはそこで待っていろ。何も言わずに待ってればいい。もう一回、俺も一緒のチームでやりたいからさ。それができるのは代表だと思うから。これからも何も考えずにしっかりやって、待っていろよ」
ここだけで、この記事を読む意味がある。
我らの主将の言葉で奮起する篤人を更に応援したい。
活躍を期待しておる。