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Kennyの郷土史:浅井三代の終焉

2013-08-04 15:04:46 | 郷土史

 440年前の、最後の数日を追体験してきました
   
=浅井氏の滅亡、落城前後:小谷城=
          Kennyの滋賀から情報発信

              (この日記の掲載期間:8月9日~8月15日)

  もう何度も見てきたはずが・・、まだこんな大事な話が!
                         水の手道


        「
小谷城址保勝会」 の皆様に現地を案内頂きました

           
”水の手道” から夜襲を掛けた
それは 水の手道(後で説明)こんな名前の道、それも小谷城にとっては大
切な水を運ぶ道があったんですね。しかし、その道 が浅井氏の滅亡に繋
がる近道になったとはね! 実は、木下藤吉郎(秀吉)が急坂のこの道を
夜襲して京極丸に攻め入り、先ずは小丸に楯籠る久政(二代目)を自害さ
せます。天正元年8月27日でした。そして次の項、その日、9月1日です。

 

 
 

天正元年(1573)9月1日
この日は信長自身が京極丸に取り上がり、本丸に楯籠もる長政を攻めた
て自害させた日とされています。ここに北近江に三代の繁栄をほこった
井氏
は滅亡したのです。それは滋賀県長浜市小谷郡上の地に今も観光客
の絶えない小谷城を舞台に展開しました。


      木下藤吉郎秀吉)が浅井攻めに使ったとされる「水の手道」
(この絵図は現地の案内板です:水の手道の赤い線は私の想像で書き加えました)



 北村圭弘先生:浅井氏の信長反覆から滅亡までの歴史的背景を講義

この小谷城先鋒の秀吉、信長の止めの攻略は、
時は既に、山本山に陣取る阿閉淡路守の信長に味方(裏切り)、焼
尾砦の浅見対馬守の信長への味方(同)、等々と牙城は実にもろく
も崩れ落ち、浅井氏は人数も手薄に、また私の故郷、塩津(しおつ
を含め、江北の適地は焼け野原となっていました。 もう信長の攻撃
し放題
の様相です。

 
 北村先生は、「信長公記」 の関連箇所を取り上げて易しく解説下さいました  
                (当日の映像資料から)

そうか、浅井氏は、こんな運命を、こんな最後を・・・
またもこんな有りがたい講座、現地見学会がありました。主催は、小谷城
戦国歴史博物館、小谷城址保勝会です。小谷城についてはもう何回も
見てきたし、お話も沢山聞いてきたのでこれ以上はもうないかと高を括っ
ておりましたが、今回の講座は 浅井氏滅亡経緯の生々しい実態を伺い知
るありがたい機会となりました。

北村先生の資料から浅井氏滅亡の経緯を

今日のお話の全てはスペースがなくて記載することが出来ません。そこで
詳報を省略して北村先生の当日のレジュメからそのまま引用させて頂きま
す。 先生はこの滅亡へと辿る前の元亀元年、元亀2年を「最後の輝き」
捉えてお話
を開始され、長政の自害、そして助命を聞き入れず、信長によ
る万福丸の磔刑(たっけい)を持って浅井氏の完全なる滅亡として講義を締
めくくられました。

北村圭弘先生
滋賀県商工観光労働部、(併任) 教育委員会事務局文化財保護課 

     
                       当日の映像資料

以下引用、
                    



上の 3.の大嶽(おおづく)
落城から小谷城の落城が一気に始まります。

補足情報
水の手道は
急斜面、道は不確かで、案内がなければ個人では絶対に進む
ことは出来ません。秀吉が夜襲を掛けた時も、兵は具足をぬ脱ぎ捨てて
急登したと記録が残っているそうです。暑い時期、少しでも身軽になって坂
を登っていったのですね。清水谷(きよみずだに)から取り付きまでは辿れても
その先は、危険なため普段は進入禁止となっています。

          
 
      水の手道途中の井筒跡(井戸) 道中道なき急坂道です

小谷城の地図の大サイズを念のため添付します
 
    
 
      拡大してご覧ください


信長公記
信長公記(しんちょうこうき または のぶながこうき)は織田信長の一代記。
著者は信長旧臣の太田牛一。江戸時代初期に原本が成立。信長
の幼少時代から信長が足利義昭を奉じて上洛した1568年(永禄
11年)までを首巻とし、上洛から本能寺の変が起きた1582年(天
正10年)までの記録が全16巻(16冊)にまとめられている。
 (ウィキペデアより抜粋引用)

 
  清水谷道 両側には家臣の屋敷跡が   小谷城から見た虎御前山(信長陣地)


 
                           清水谷道沿の家臣の屋敷跡にある案内板



あとがき
北村圭弘先生、現地ガイドの皆様のお話を基に日記としてまとめて
みました。しかし聞き違いなどによる間違いは多々あると思います
が、どうか素人故、ご容赦ください。

記事、資料および講義内容の当ブログでの掲載は主催者、北村
先生のご了解を頂いております。

まだまだ貴重な情報を頂きましたが、またいづれかの機会に発信
したいと思います。

    今日もご覧くださいましてありがとうございます

 

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