趣味・興味プラス挑戦

郷土史、登山、スキーなどを写真と共に書き綴っております

5爺の自転車を漕いで:天山古墳群・野洲市 

2018-06-24 18:28:13 | 古墳

                5爺の自転車を漕いで

        今日は野洲市にある6世紀から7世紀に
      かけての古墳群を爺さん5人で訪ねます
             天山(あまのやま)古墳群

 
            
 赤い点線が歩行ルート  二つの尾根にある白い線が古墳のある場所
                          (写真は三上山山頂から撮影)
 
       
 
5爺がなぜ古墳なんぞに?
野洲市内のお城跡や神社仏閣を訪ね終わった5爺、ならば今度は
市内にある古墳を訪ねてみたいと、5爺は益々好奇心旺盛です。

 
                                      自転車を漕いで目的地へ向かう爺さん

     
ところで、なぜこの地にもこんな立派な古墳が
平民ではなくてこの地の有力者(官僚)のお墓と考えられます。棺は
木製
です。この天山には30基ほどの古墳があるそうです。6世紀か
ら7世紀にかけてのお墓
です。その墓は全てが家族墳(家族の古墳)
との事です。つまり先祖代々とは言わ
ないまでも2,3人はその墓に
埋葬されたそうです。


                    すべての古墳は今、このような姿で残っています

古墳を見に行く人ってあまりいませんよね 草刈から・・
硬い話はこの辺にし詳細は末尾に掲載のURLにアクセス頂く
として、今日は 古墳への道は容易ではない、というお話です。

この日も自称歴男(れきお)、Kenny爺が案内役です。前日に念の
の為に下見を。ところが歩く道の草刈と云うか道探しです~。
勿論一人で
これだけ草が生え放題とは予想せずだったもんで。

こんな感じ・草刈 前・後・・

         
                           道はどこだっー!!
                                                   
  ↓

         
          なんとか草の上部を鎌で切り払いまして、ここが道だと目印程度に

         
                        同じく、どこを登れば・・・
                             

         
                    草を刈れば、下は岩がゴロゴロと

             結局は全行程の1/5ほどの草刈でした

         
           山中には幾筋もの分かれ道が! リボンも道しるべに付けまして

なんとか道を見つけて、当日を向かえます
数年前に野洲市の研究員さんのご案内で見学していますが、日が経て
ば、覚えておれるものではありませんよね~




今ではこのように石は崩れ、ずれ落ちていますが、元々は土に覆われた
長方形のお墓だったそうです。


                花崗岩だそうで、このように平たく加工されています
     


         城址も、古墳も山登りです。 山登りだけは私、Kennyは劣ってはいませんぞ!
                                   もっとも私が最年少! 当然といえば・・・


                                 途中、琵琶湖が見える天山への登山道の展望台で昼食です
                              正面は沖島です

 
        この古墳は人的になんらかの理由で近年壊したのでしょう  麓の古墳です


               約4時間の歴史探索を終えて帰路につきました

               過去の私のブログ:天山古墳群の詳細 
                          この上をクリックしてください

今回はこの古墳群の詳細は省略させて頂きます。少し知っておこ
うかな、でしたら上述のブログをご訪問頂ければ嬉しいです。
よろしくお願いします。

上記古墳の情報は:
2015年12月に開催された野洲市にある
「山部会」の皆様の里山
登山に参加して、当日解説下さった野洲市の進藤研究員さんのお
話を参考
に記載しました。  (当時掲載の許可を頂いております)

          今日もご訪問下さいましてありがとうございました

                       (6月24日、2018 UP)

 


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Kennyの歴史探索:天山古墳群

2015-12-11 16:51:27 | 古墳

       天山をめぐる遺跡:古墳群
 野洲市の「山部会」の皆様の里山登山に参加して
  古墳? 方々にある、では天山の古墳群、どうして?

                        Kennyの滋賀から情報発信
                      (この日記の掲載期間:12月18日~12月24日)



                             集合場所の駐車場  後方は三上山 (滋賀県野洲市)

天山(あまのやま)の古墳群を訪ねる
私達の町には立派な前方後円墳や大きな円墳が幾つもあります。野洲
市は特に古墳が多いのかと思って
いましたが、滋賀県、日本のいたる所
古墳、古墳群が散在しているのだそうです。その内の野洲市にある天山
の周辺にある古墳群を見てき
ました。

           私の過去のブログ:野洲市内にある前方後円墳
                      ↑ ここをクリックしてください


         古墳群探索コース  今回歩いた尾根筋の白い線の部分に古墳の石室が幾つか

こんなところに! それは山の尾根筋
野洲市(正確には二市一町に跨る)の希望が丘文化公園の南側にある天山
(あまのやま)の尾根筋に、私のような素人にもしっかり古墳と分かるだけ
でも5基。この日のルートで9基だったか、あるそうです。 
 


                            尾根筋を登っていくと大きな石の重なりが見えてきます


                            古墳、石室です  平たく加工した巨石 花崗岩だそうです

築いた時の盛り土は流されて石室が露出し、このようにして残って
います。

古墳探索のコース: 約4時間(上の写真地図をご覧ください)
駐車場を出発 ー> 不動堂・行者堂 ー> 尾根に入り(その間、幾つ
かの古墳を見て、解説を聞く)
ー> 天山(展望を楽しむ)昼食 ->
下山の尾根で(更に古墳、解説をいただく)。 天山の麓から尾根伝
いに山をぐるりと回り、再び不動堂・行者堂に戻りー> びわ湖学園
ー> 出発点の駐車場に帰りました。

       
                                見晴らしのいい岩場で昼食です

では古墳探索に出発です

古墳群へは、天山への登山道から一旦離れます。そして行者堂や
不動堂のある谷に
出ます。


                                    古墳群への登山口は天山と同じです
    

                               歩き始めて100m位で右に  標識はありません

 
              
       不動堂                                       行者堂

TOPの写真のような古墳が尾根筋に現れます
この天山には30基ほどの古墳があるそうです。6世紀から7世紀
にかけて
のお墓です。その墓は全てが家族墳(家族の古墳)との
事です。つまり先祖
代々とは言わないまでも2,3人はその墓に埋
葬されたそうです。





古墳(お墓)
は誰の?: 権力者、有力者
家族の2,3人が続いてとは言っても時は古墳時代、もう既に権力者、
有力者
が存在する時代です。平民ではなくてその地の有力者(官僚)
のお墓と
考えられます。棺は木製です(石室の中には石棺はみ見当
たらないことからも)。

石棺の場合は古墳の規模も大きく相当上位の権力者です。 また古墳
の形
長方形が特徴で、渡来系(四角のドーム型)ではなく畿内系
お墓だそうです。


                          野洲市の進藤研究員さんの説明に、石室の中をのぞき込む参加者

以下も古墳だと思います
顕著な古墳のところ、3箇所で丁寧な解説がありました。しかし道中
で、その一つひとつは説明員に確認はできません。そこで後日再度
歩いて見てきました。決めては平たい大きな石があること、との事で
したので。







                              
               
                                             

 
          天山の二つの尾根を経て古墳を見、不動堂・行者堂のある参道に帰ってきました

そうだったのか: あとがきに代えて
希望が丘文化公園の周辺の山々を歩いていると、この辺の地質でご
つごつをした岩場
が沢山あります。しかし、それとは違い、どうも人的
に重ねた、また平たい巨石が乗って
いたり、とかなり様子が異なる所
があります。やはりそれは古墳だったのですね。 

例え
ば同公園のあ北尾根に古代峠がありますが、そこに古墳としか
思えないところがあります。
郷土史を研究しておる方る方に聞きまし
たところ、断言は出来ないが(記録も見つかって
いない)との事でした。

しかし今回の古墳群探索で一つの疑問が解けました。
山部会、関係者に感謝します。



           ****************

    以下は、ご参考までに、そして
私の備忘録として・・・

 お断り:   今回の探索での進藤研究員さんのお話と頂いた資料、そして今まで
                に受講した幾つかの講座、資料を参考にちょっと記録してみました。 
                なにせ
ど素人の知識です。聞き違い、勘違いの間違いだらけかもし
                れませんが、素人の日記と お許しを・・・。 また、
下記古墳の変遷に
                付いて、かなり端折って記載してあります。

 

古墳(群)ってなぜあるの? 日本のどこにでもあるんですね
古墳:権力者、有力者のお墓です
それは弥生時代後半に入り、権力者、有力者が生まれてきたこと
です。弥生時代に入りお米、米作が始まりました。 食が安定する
と民は定住することになります。

お米、これはの日本の各時代の権力の基盤でした。弥生時代に入
り、土地、支配地に関わる争いが始まります。そうなると権力者、
有力者が現れます。つまり静かな
ムラからクニが生まれます。それ
が弥生時代後期なんです。また銅・鉄が入り鉄製武器も出現します。

余談ながら、環濠集落(*)と言って、自分の国を外敵の侵入から
守るために周囲に壕・掘りを設けたのもこの頃です。 

 (*)守山市にある下之郷遺跡が有名です。HPはここを

縄文時代からそれまでは狩猟が生活の基盤、みんな仲良くでした。
獲物も分け合っていたんでしょうね。

古墳時代
さて、時代は弥生時代から古墳時代に入ります。つまりクニ(国)
には権力者、有力者が現れてその権威を古墳で誇示する、それが
古墳時代なんです。

では、天山周辺には古墳を築く有力者の集落があったの?
集落の跡、古文書、古跡図にその手がかりがあります。

天山の麓には大山川を境に現在、南桜、北桜という集落があります。
そこには昭和57、61・62年の発掘調査で遺跡が発見されました。

12世紀を中心とした中世集落
の遺跡の更に下層から古墳とみられ
る周溝
7世紀代の集落、弥生土器が発見されています。これらの
中世集落は村(天山等)の前身と考えられるのではと。

また、地元に残る古文書(例えば御上神社文書)に素焼きを生産する
職業集団、蓬莱衆が居住。天山村の住人が徐々に当地に移住し蓬莱
村を形成とあります。

更に、三上山古跡図(御上神社蔵)には天山山麓に観音が、その下に
天山、天山
が描かれています。 

   
                              三上古跡図 御上神社蔵
   「御上神社の歴史と美術」銅鐸博物館 野洲市歴史民俗資料館 編集発行より拝借
                                     白い文字は私、Kennyの追記です

                             
今回 探索の古墳群はこの集落の有力者のお墓に結びつくのではない
でしょうか。 
        
まだまだ資料には情報がありますが、スペースの関係で記載が出来
ません。                
                       
当日頂いた資料、「天山をめぐる歴史」 に詳細があります。 

古墳の衰退
弥生時代、それまでは銅鐸が権威の象徴です。 後期になると、国の
権力者は更に勢力をつけて、その権力の象徴が鏡・古墳となり古墳
の時代
に入りますが、大和朝廷の古墳禁止令(薄葬令)が出ること
により古墳は廃れて行きます。そして火葬になっていきます。

古墳という埋葬施設は
6世紀の初め九州から近畿に入ってきます。早い所では権力者に
よって例えば現在の野洲市にある丸山古墳、甲山古墳などが築
かれます、それから数10年遅れて6世紀中頃に、それぞれ地方
の有力者(官僚クラス)の家族墳(家族の墓)として生まれてきます。
家族の何人かが続いて埋葬されました。

それにしてもあの巨岩をどうやって尾根筋の高い所に運びこんだ
のでしょうね。古墳に限らず、近世のお城でもそうですが、別の興
味を覚えます。

               私の過去のブログ:雪野山古墳
              ↑ ここをクリックしてください

参考資料 
    
(主として) 天山をめぐる歴史  野洲市 文化財保護課   進藤研究員
                                                                                          
   よみがえる弥生のムラ  安土城考古博物館
     弥生時代のムラ       講座のレジュメ: 国立博物館   松本 武彦氏
   縄文の「食」        講座のレジュメ: 滋賀県文化財保護課:
                                                                         鈴木 康二氏
     御上神社の歴史と美術       銅鐸博物館 野洲市歴史民俗資料館  
   


               今日もご覧くださいましてありがとうございました

 


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Kennyの歴史探訪:ちゃんと知りたかった雪野山古墳

2014-06-05 14:37:05 | 古墳

  極めて貴重な雪野山古墳
=日本で唯一、(ゆぎ)が完形で出土=
    雪野山古墳は希な未盗掘でした
   そして、出土した3枚の鏡です!
        Kennyの滋賀から情報発信
                 (この日記の掲載期間:7月11日~7月17日)

こんなにすごい、有名な古墳だったんや!と云うお話です


アンテナを張っておれば~
何年か前に里山気分で雪野山登山をした時にその山頂部が古墳
と知り、その内再度訪ねたいと機会を待っていました。  幸い過日、
竜王町地域振興事業団(でいいのかな?、竜王町教育委員会)主催で当古
墳の探索ハイキングがありましてね、 感動ものでしたよ!

 
                   雪野山、雪野山古墳の航空写真  (当日配布の資料より)             

なんでそんなに有名?:
鏡、靫、その他出土品多種、等々
雪野山古墳の最大の興味、特に考古学者にとっての魅力は、
ある
鏡” が出てきたことです。それは古墳年代もいつの時代
(前期、中期、後期)、また誰の古墳かを探る上で大事
手掛か
りになります。 さらに長大な竪穴式石室であることです。

また
靫が完全な形で発掘されたこと、石製品を含む
数々の出
土品
です。雪野山古墳は古墳時代の研究のメッとなりました。
発掘調査の最初は20年前に遡ります。

数々の出土品 (品数が多いのもこの古墳の特徴)

               

用語           靫(ゆぎ)                 鏡
     弓矢を入れて背に負う矢筒       豪族の権威の象徴
    
                                             (どのような鏡が与えられているか)    

 

雪野山古墳とは
滋賀県近江八幡市、東近江市、竜王町にまたがる標高308.8
m雪野山山頂部にあります。古墳は前方後円墳です。4世紀前
半に作られた古墳と考えられています。 今から1700年も前の
事です。

     

    雪野山古墳: ウィキペデアは ここをクリック してください

雪野山古墳は格式の高い豪族の墓
それは、長大な竪穴式石室にあります。このことは非常に格の高
い埋葬施設を意味するのだそうです。 そして極め付けはです。



この地にこんなすごい古墳が:ある鏡の出土
この古墳から三角縁神獣が三枚も出てきたことが大きな根拠です。
その鏡は邪馬台国の時代に卑弥呼が中国の魏から貰った鏡ではない
かが通説となっています。 たかが鏡、ではないこの代物が・・・次へ


          鏡が出てきた様子                  靫(ゆぎ) 出土の様子   

大和政権とのつながり: なぜこの地に、話は佳境に入ります
その鏡が、邪馬台国から大和政権に受け継がれたというのです。
大和政権にとってはこの地湖東は東方戦略上、交通の要衝、要
にあたる重要な地域だったとの考え方です。 当政権は湖東地域
の豪族とよい関係(貴重なその鏡をこの豪族に与えた)、
を築く必要があ
ったのです。

ここに埋葬された豪族が中央政権(大和政権)と結びついた豪族で
あり、その格式の高さが伺えます。それが滋賀県では一番最初に
築かれたこの地、雪野山古墳の背景です。

 
      埋め戻された古墳             教育委員会専門員さんの解説

大和政権の技術者の伝授
当時近江にこのようなお墓を作る技術はありません。上述の経緯から
石室を作る技術も含め大和政権との繋がりのある、正にこの地域に造
られるべくして造られた有力な古墳だと云えるわけです。


探索ルート

 
                    当日の探索コース                  拡大します

       雪野山古墳ハイキングのHPは ここをクリック してください


                        現地の案内板は新しくなっていました

引用写真:このブログに使用の写真、絵図は、下記から拝借しました
              「雪野山周辺の古墳めぐり」(竜王町教育委員会編) および
        「現地の案内板」

記載内容の参考文献:「古墳時代前期の王墓 (現地で購入の書籍)
(ブログでは参考と云うより私の表現での記述すが、
この書籍の抜粋丸写しです)

 

ついでにこぴっと知っておくか・・
参考書籍(上述)の福永伸哉先生の記述から引用

古墳時代とは:
西暦250年から600年。つまり卑弥呼がお亡くなりになってから
太子が活躍する7世紀の始めまでの約350年の時代。従い、古
時代は大和政権(今は大和朝廷とは云わない)の時代とも云われてい
ます。

嘘をつかないのが遺跡
当書籍で執筆されているお一人、福永伸哉先生は、古事記日本
書記
はある意味事情ありで書いたりする部分があるけれども嘘をつ
かないのが遺跡
だと仰っています。雪野山古が西暦300年前後
であると云ったのは、副葬品、埴輪、焼き物、古墳の造り方、形態な
どから古墳の年代が25年単位くらいで分かるようになったからだと。

    お断り:   前述の書籍の論文を部分的に引用して私が勝手に概要を組み
           てていますので、勘違いや端折り過ぎなどで間違いもあるか

           も思いますがどうか素人の備忘録とお許しください。

                     参考(引用)
の書籍で、各先生方は 「・・・という学説もあるが、与
           えられた講演時間
の関係で、各先生方が取っておられる説でお
           話します」、とい云う文言が随所にあります。


           私の文章で末尾が「です」と断言していますのも、”
・・だそうです ”
           とお読みください。 殆どが引用です。


  雪野山古墳のある雪野山山頂から私達の町、野洲市にある三上山の山頂部がくっきりと
 

       今日もご覧くださいましてありがとうございました

 

 

 

コメント (4)
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Kennyの史跡あるき:立派な古墳

2012-02-29 09:32:23 | 古墳

  野洲市内の有名な古墳群
   =安直(やすのあたい)氏???=

          (この日記の掲載期間:3月23-3月29日)


        前方後円墳:天王山古墳  「桜生(さくらばさま)史跡公園内」

現在の野洲市周辺を治めた豪族
3月初のこのブログで野洲市の発掘調査・現地見学会の感想文を掲載
ましたがその時に研究員さんの説明で当地の豪族「やすうじ」古墳
は、と ”やすうじ ”という言葉が出てきました。日本書紀や古事記から
古代のヤス(現在の野洲、守山市の周辺)には安直(やすのあたい)氏
という古代近江を代表する豪族がいたことがわかっているそうです



      野洲市大岩山の古墳群分布図:この周辺だけでも多くの古墳が
                 (現地案内板)


野洲市内の立派な古墳の存在
自宅の近くに甲山(かぶとやま)古墳天王山(てんおうやま)古墳丸山
(まるやま)古墳三つの規模の大きい古墳があります。いったい誰の、
またなぜ野洲にこのような古墳が? 銅鐸は出土するし、その上古墳
も多いしと、いづれは背景を知りたいと思っていました。その意味で
先の見学会は絶好のチャンスでした。


       桜生史跡公園:三基の古墳を古墳群の公園として整備

こんな資料がありました
過日の見学会がきっかけで早速今度(過去に何度も訪問)は超興味を
もってこれらの古墳を見てきました。なんと現地の資料館に「桜生(さくら
ばさま)
史跡公園」
と云う中学生用の解説書がありました。
これで十分で
す、
先ずは私の知りたい事は全部記載されています。特に許可は得て
おりませんがその資料の内容と現地の案内板を参考に当日私が撮った
写真を合わせて記録してみました。

  
         甲山古墳                  同、内部の石棺

古墳はどうして、誰が
3世紀の中ごろから卑弥呼(邪馬台国の女王)のような王が日本各地に
登場し、王の墓として大きな古墳が造られるようになったと考えられる。
弥生時代は地域社会のつながりが強かったのだが古墳時代になると強
い力を持った王を中心とした社会に変わりヤマト大王を中心に日本の形
が作られる時代に変遷した。野洲市では3世紀の中ごろには冨波古墳が、
また終りには大岩山古墳他が造られたと当資料にあります。

 
   宮山二号古墳:他比小型です            現地資料館

今日見てきた桜生公園にある古墳
史跡公園としてしかっかりと修復が終り気持ちよく見学が出来るように
なった甲山、天王、丸山各古墳は6世紀のはじめから中ごろに造られた
と考えられています。これらの古墳から出土の豪華な品々から安直氏が
ヤマトの大王に仕えていたことがわかるそうです。ところで6世紀は継体
大王が活躍した時代です。

 
     甲山、天王、丸山各古墳の配置図          丸山古墳内部の石棺
          (現地案内板)

郷土史をともかく
このブログを訪問くださっている京都市の茲愉有人(ニックネーム)さん他
郷土史に興味を持つ仲間から京都、大阪、岐阜・・と、ここにも古墳、城跡
がと情報をくれます。滋賀県は歴史の宝庫と云われています(ね)。古代
から・・・。今は滋賀を歩くので精一杯ですがぼつぼつ暖かくなりましたので
先ずは枚方市へ桜見物と合わせてとも思っております。

茲愉有人さんからのコメント
コメント欄に貴重な、詳しい情報を頂きました。合わせてご覧いただければ
幸いです。 茲愉有人さん、ありがとうございました。

参考資料:桜生史跡公園(現地資料館で入手)、現地看板

     今日もご覧くださいましてありがとうございました

コメント (8)
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Kennyの郷土史:野洲市内の遺跡-02

2012-02-27 09:41:28 | 古墳

  遺跡発掘調査報告・現地見学に参加して(野洲市)
     
=古墳の傍に粘土採掘抗もありました=  

                 日記そのー2

     
          (この日記の掲載期間:3月9日ー3月15日)
  
先週の日記の続きです。
過日野洲市教育委員会文化財保護課主催による標題の会が二回に亘って
開催されました。

土器を作る粘土の採掘坑も出てきました 
今回の野洲市の発掘調査では古墳や円筒埴輪、かめなどが出てきました。
そしてさらには古墳の傍から粘土の採掘抗が見つかりました。この地一帯
は広く花崗岩地質です。湖南アルプスなんかもそうですね。それが崩れて
流れたその花崗岩砂が堆積すると
粘土になリ易いのだそうです。粘土採取
場があっても不思議ではないとのことです。

     

            粘土採掘跡(上下の写真)  
      
    
              粘土を採掘後窪んだ穴      

出土品です                                 

       
                    
出土したかめ 
 

   
             
 土器や埴輪の一部

 
             
埴 輪 (馬形、円筒埴輪の部分)


こんな時に発掘される場合が多い
大抵はその土地が造成される場合です。住宅団地、公共施設や工場など
の建設です。工事開始前に必ず調査します。趣旨は文化財保護でしょうね。
そして
前述の都跡や歴史上貴重な史跡で手がかりのある内容物の出土が
期待されての発掘です。

    
     
今回古墳、粘土採掘跡が発掘された現場全景(野洲市)

素人でも簡単に見分けることが出来る場合も
土器や遊具、瓦などは見れば分かるでしょうが、あの穴や溝はどうして見
けるの? を聞きましたが、それはその穴や溝の土の色が違うので素人
にも簡単に
わかるのやそうです。でも熊手やヘラなどの道具でしゃがんで
の作業は腰
や足が痛いことでしょうね。どん百姓出の私にはよくよくわかる
んです。


野洲市にだけ銅鐸が?
野洲市には古墳、銅鐸そしてこのような建物跡が多く発掘されているよう
に思えますが銅鐸以外は特別な事ではないそうです(前述)。質問をしまし
たら隣
りの守山市も草津市も同じとの事でした。それは発掘の頻度、その
時の
発掘の必要性の問題だそうですが、銅鐸がなぜ野洲にだけ出てきた
かは
もう一つ分からないところがあるようです。ただ銅鐸は祭儀で使われる
とい
う位置づけでポイ捨て(私が勝手に使った言葉)が出来ず周辺の集落からも
当の大岩山に埋めたの
ではないかとも考えられるようです。

    
              
出土品を囲んで解説を聞く

それぞれの分野で
城だ古墳だと聞きかじりの体験をさせて貰い、そうなんやーと、もう少し中に
入り込んでいる内に興味が湧いてくる、そんなもんなんだと実感しています。
それとそれぞれの分野で専門の先生方のお話を直に拝聴できることが
ありがたいです。一方、何年にも亘っての地味な研究活動で纏めた成果を
簡単に知識として会得させて頂くことに恐縮もしながらです。30数年穴掘り
をしていますが・・・、と研究員さんの言葉が今も残っています。

お断り*このブログはKenny(野洲市在住)の私的な日記です。

        ここに記載の文言はお話下さったの先生方の内容を私の理解、

       言葉で書き綴りました。聞き違いによる間違いなどもあると思い
      ますが、
素人の日記とご容赦ください。 

         今回の調査報告、現地見学会では学術的に濃い内容のお話
       でしたがここでは私の特に知りたい部分のみ記載しました。
     
     この日記(感想文)の掲載は主催者のご了解を頂いております。

     
         今日もご覧くださいましてありがとうございました。
    

コメント (4)
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