趣味・興味プラス挑戦

郷土史、登山、スキーなどを写真と共に書き綴っております

Kennyの歴史探訪:安土城下町と安土街道

2013-08-15 15:28:02 | 安土城址

安土城下町と安土街道を歩いて
=現在の城(址)から一歩外に出てみると=
   数々の遺跡、今も残る神社仏閣が
      Kennyの滋賀から情報発信

          
         (この日記の掲載期間:8月23日~8月29日)

この記事の後に、今開催の写真展の情報も掲載しています
        合わせてご覧頂ければ嬉しいです

現在の城(址)から外に出て
黄金色の天主に代表される安土城、ちょっと安土城を見てこよう
か、と訪れるのは、1989年から2009年に亘って発掘調査され、
本丸に続く大手道や秀吉の屋敷跡などが整備された現在私達が
見る安土城址です。

        
              発掘復元整備された大手道 2011年撮影
                (両サイドに秀吉など家臣の屋敷跡があります)

私が35年前にこの山に登った(当時は狭い登山道があり、天主へ)
この大手道は土の中に埋まっていました(のでしょうね)。 当時、
山道はこの埋まった大手道の上にあったのかな?
            



      観音寺城の繖山(きぬがさやま・右の山) 安土城の山(左)

地元安土町のガイドと県の専門職の皆様のご案内で
ところがなんと云っても天下統一の象徴、信長の見せる城、権
威を誇る城、信長の安土城下町は楽市楽座まで築いた一大都
市であった訳で、その繁栄は短い期間ではあったとしても、立派
に今に伝える街道、遺跡、神社仏閣などから伺い知れます。もっ
とも私の思いは、更に多くの遺跡が発掘され(眠っているのでは
と・・・)現在に伝えて頂ければと贅沢なことを考えています。


 今回の探索ルート図 (滋賀県教育委員会文化財保護課発行)

                                    
                        (同地図、クリックで拡大します)

こんなところを見てきました(上に地図)
浄厳院
(じょうごういん)、沙沙貴神社(ささきじんじしゃ)、安土街道、
寺内浜
(じないはま)、常楽寺湊(じょうらくじみなと)木村城跡、
浄楽寺の湧水池
惣構どて(そうがまえどて)、貞安(ていあん)。 

以下、当日のレジュメを参考に、また現地案内板を引用させて
頂くなどで、それぞれの概要を私の言葉で記録しました。

 浄厳院

                                浄厳院


                                  現地案内板
        
             寺宝 当寺のパンフレットから
                

沙沙貴神社
中世近江を支配した近江源氏佐々木氏の氏神として知られて
います。天正9年(1581)に信長から雁、鶴を与えられた返礼に、
町人たちがこの神社で能を催したことが「信長公記」に記されて
います。境内には佐々木氏ゆかりの石造物が多く残されています。
山道に建つ灯篭は丸亀京極家から寄進されたものです。また、
日露戦争で活躍した乃木希典(のぎまれすけ)が寄進した石灯籠と、
自身で植えたとされる松の木があります。


                                     乃木希典の言葉の碑

 
 乃木希典が寄進した石灯籠    丸亀京極家から寄進された石
灯篭        

 
境内の なんじゃもんじゃの木    上の写真:2009年5月当神社で撮影   
(花)が有名です 

安土街道 


信長の妻子を避難させた時に使った道

常楽寺の集落から蒲生郡条里に沿って南に延びる街道です。きぬが
さ山と竜石山の間が南腰越峠で、ここからさらに八日市へと至ります。
本能寺の変の時、蒲生賢秀(ひでただ)が息子の氏郷をこの峠まで呼
び寄せて妻子共に日野へと向かいました。

寺内浜

          石垣が船入状に積まれています
寺内浜は琵琶湖の西の湖に接するあたりを指します。詳細は解明
されていないようですが、常楽寺湊のすぐそばにあることからその湊
の一部であった可能性もあるとのことです。


常楽寺湊


                       流通の要所として重要な湊でした
               (解説される滋賀県文化財保護課、松下浩先生)


中世から近世にかけて、近江湖東地域の物資、流通の要所として重
要な役割を果たしてきました。信長が安土に城を築いた理由のひとつ
として、この常楽寺湊を城下町に取り組む意図があったとの解説でし
た。 以降、鉄道の開通まで機能していました。

常楽寺の湧水地


                        音堂 (おとんど)

この付近は、伏流水となった愛知川の水が湧水する場所の一つと
なっています。中でも梅の川と呼ばれる湧水は茶人として有名な
井夕庵
がこの湧水を使ってたびたび茶を点て信長に献上したと言わ
れています。


                             梅の川

惣構どて
現在は、土手の痕跡は全くありません。江戸時代の絵図に「惣講どて」
が描かれているそうです。また別の古文書にも書かれていると。


           安土町公民館の南側付近にその場所が

この土手がどうしたの? なんですが、実は安土城下町の内部構造
考える手がかりになるんだそうです。 城下町の二つの見方であり、
一つは、近世城下町的(江戸期的)な捉え方で土手の内外による住み
分けの始まりが見られる。 もう一つは戦国時代(信長の頃)の土手を
挟んで領主の権利が強く及ぶ内側と、そうでない外側と考えられると
のことです。これはもう超専門分野でのお話で、私自身もよく理解は
出来ておりません。


                         当日の受付風景 JR安土駅

年間を通して毎月のようにこのような歴史探訪を催して下さいます。
この日も参加者が多く二班に分かれて探索し、主として滋賀県教育
委員会文化財保護課の仲川 靖先生、松下 浩先生が詳しく解説
されました。

    
     今日もご覧くださいましてありがとうございました

         ***************

         写真展のお知らせ

              八田正文デジカメ教室
                 4教室合同写真展「滋賀を撮る」

       会期:8月27日(火)~9月1日(日)
             9時30分から17時(入場は16時30分まで)

                場所:滋賀県立近代美術館ギャラリー
                               (入場無料)
                   
               詳細です
           
   



                77名の生徒の作品が並ぶ美術館ギャラリー


                 熱心に作品を鑑賞される来客者


            作品を評価、生徒に指導される八田正文先生(中央)

              私、Kennyも2作品参加させて頂きました 

                 会場には  8月28日 午後

                 8月30日 午後

                 9月 1日 午後

                 いる予定です       
               
                    
                  ご来館頂ければ大変嬉しいです

                            (ブログ管理者:Kenny)




 

 

 

 

 


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Kennyの郷土史:信長の大船と安土城

2012-09-03 19:06:20 | 安土城址

信長の琵琶湖戦略と大船
 =大船から安土城天主そして= 
    県主催の歴史講座を受講して
      
(この日記の掲載: 9月7日~9月13日)

またまたこれは一体なんですんや、このタイトルは?
これは滋賀県が主催されている近江を舞台にした歴史、文化全般
にわたる連続講座(多岐にわたり頻繁に開催して下さいます)のレ
ジュメのタイトル、当日の講座の内容です。


       信長が建造した大船 イメージ復元模型
 安土城考古、長浜城歴史両博物館編、「琵琶湖の船が結ぶ絆」より引用

今日は信長が神になろうとしたお話です
講師先生のお話を私なりの理解で短くまとめると、戦国時代の、そし
て信長のお話です。当時は周囲の大名と同盟を結んだり裏切りを繰
り返して領土を拡大していく時代です。その戦いに勝利して信長は室
町幕府を倒し強力な中央政権(織田政権)を確立。さらに右近衛大将
(征夷大将軍に匹敵する官職で武家では武門の棟梁のみに許される)に叙任し勢
力を伸ばしていきます。おおよそ天下を牛耳って更にその上の権威を
求める信長、しかし乗り越えられない権威、それは天皇。(一部ウキペデア
より抜粋引用)

それも天皇と同格以上でないとお気にめさない
それをも乗り越える権威は天皇と同格以上の神になることだと当時の
宗教思想を集大成し突っ走ります。それは東国の軍事的脅威(武田氏)
がほぼ払拭された段階から信長は権威の誇示に傾注したことを意味
します。

 
              同書、「琵琶湖の船が結ぶ絆」より引用

その権威の誇示、どうやって・・・、
琵琶湖に大船を浮かべます。そしてその船を突如解体して安土城
の築城へと進んで行きます。その城は石垣造りの元祖です。そして
天主には障壁画を。船(元々目的は軍艦です)、城(同、要塞です)、
天主は神殿?(元々はてんしゅは天守であり城を守る為の司令塔
です)、信長の造るもの、やることはどうもあやしいぞー??

 
        同上引用 浮かぶまさに箱船の大船

怪しい?
大船、
元亀4年(1573)に岡部又衛門に命じて巨大船の建造を命
じます。ところがその船は45日で完成させています。それも箱型で
ありしかも櫓らしいが大屋根がありと見るからに船としては不安定な
代物、水に浮く建物です。ところがこの大船は安土城完成の前に
解体してしまいます。同じく岡部又衛門に命じて建てた安土城、あの
金ピカでしかも城内は外から丸見えで且つ直線の大手道を無防備
にも何か所かの枡形虎口を隔て堂々と築きます。城外からはやたら
石垣(必ずしも石垣が土塁比、防衛に優れてはいない)が目立ちます。
天皇を迎える本丸(清涼殿と相似形)は天主より一段下にあります。

 
   天皇を迎える本丸が天主の一段下 (講座でのスクリーン資料)

 参考:安土城の大手道、扇形の石垣に関する日記(そのページ)

権威の誇示が目的で戦術的評価はゼロ
建造の大船は港湾設備がなければ機能せず、せいぜい定点間の物
資、兵を運ぶ程度。安土城は上述の通りで無防備。安土城がその後
の城郭の先駆となり以降は石垣が城のシンボルではあるが、石垣で
はなくて軍事目的の強固な土塁の城の例はいくつでも存在する。

 (参考)
 
   難攻な土塁の例(そのページ玄蕃尾城)この城には石垣はない

     玄蕃尾城の土塁 
  

   安土城
     
     
直線の大手道       枡形虎口          石垣
       
       
(これら小サイズの写真はクリックで拡大します。以下同じ)

    
   小谷城にも明らかに権威を誇示する石垣が

    
                               

 
 天皇を迎える前に本丸部分をを有料で民に見学させた(同スクリーンから)

ならば信長はこれら評価ゼロをなんの目的にしたの?
大船
は信長の力を視覚的に誇示し、これを見た者を承状させるため。
安土城は大船を上回る視覚的装置でありこれにより大船は必要なく
なった(安土城と大船の二つはいらない)。石垣はその他の金箔瓦
絢爛豪華な装飾と同様権力の誇示以外の何物でもないとわけです。

         
            金箔瓦       障壁画

 
     信長の大船がなんと大きいことか (同、スクリーン資料から)

信長は神になろうとした、なぜ? 
天皇
は農耕神、すなわち人間が生きていくために重要な要素の神です。
そこで信長は農耕を可能にする水、太陽を命の元として神威の身に纏う
天皇と同格以上の神になる必要があったのです。

       
  当時、安土城の下は琵琶湖(左)、と現在の田園風景
       
    (同、スクリーン資料から)

信長と信玄:秋季特別展
信長の統治戦略として自己神格化、その流れは大船の建造ー安土
城築城ー天皇行幸で完成する。そのエポック毎に信長と武田氏の抗
争があったと大沼氏は語られます。秋の当博物館での特別展でこの
辺を紹介されます

お断り:今日の日記は、
今日の講師は大沼芳幸氏(安土考古博物館副館長)です。織田信長
は自身の権威誇示の為に「城に石垣」を、同誇示に「二つは要らない」
自らが「神になる」ことに注力したのでは? と私なりに講師先生のお話
を理解して日記にしました。

    
     塩津浜歴史研究会編      上述の両博物館編

大沼先生のお話、意図を間違ってお聞きしているかも知れませんが、
あくまでも私的ないちブロガーのロマンとお許しください。それほど目か
らウロコの面白いお話でした。特に先生はこれが私の持論だと一般解
説的なお話ではないのがとってもよくあっという間の一時間30分でした。

まだまだ盛沢山の事例(信長公記に記載の関連個所。信長がなろうと
した薬師如来的な神。甲斐、駿河を手に入れまた富士山をも手に
入れた、などなど
)のお話がありましたがまた機会を見て紹介します。

この記事の記載については主催者のご了解を頂いております。

     今日もご覧くださいましてありがとうございました

        *************

             情報提供です
   
          秋季特別展: 信長X信玄  
            =戦国のうねりの中で=

                    
会場:安土城考古博物館      
                             会期:10月6日~11月11日
                   詳細は主催者にご確認ください
                                
                               
                                 安土城考古博物館
                  (拡大します)
            



 

コメント (6)
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Kennyの歴史を訪ねて:信長の館

2011-10-30 07:44:28 | 安土城址

       安土城の内部
 =発掘調査報告を拝聴して=
         
    
この日記の掲載期間:11月4日ー11月10日

今「信長の館」が面白いです
徳川家康を安土城に招いた時の饗応の献立(立派なお膳に盛ら
れて)が「信長の館」に展示されています。これは信長公記
(しんちょうこうき)に記録された記述に基づき再現されたものです。
       (当日記下段に関連記述、写真があります)


          実物大復元の6層、7層部分

また、安土城の六層、七層目が実物大で復元されているのは
有名ですが、これもその信長公記の記録からとの
とのことです。

信長の館内には圧倒されます
真中にこの天主部分。周囲には関連する資料。撮影も個人の使用
なら許されています。
これが嬉しいです。これまでも見学しましたが
知りませんでした。よく博物館には足を運びますが、先ずなんでも
かんでも禁止、キンシですね。まあ愚痴ではありますが・・・。

       
           解説される講師の松下 浩氏

安土城は見せる城
過日、安土文芸の郷・安土城天主信長の館主催のセミナが開催
されました。講師は松下 浩氏(滋賀県文化財保護課の研究員
さん)です。いつも淡海の城友の会でお話をしてくださりこの分野
で有名な先生
です。安土城については長く発掘調査に関わって来ら
れました。

城の役目:変遷
安土城はもう完全に日常生活の空間になっています。それも街道
沿いに、よく目立つ場所に。元々のお城はその全く逆で、「難攻不落」
が城の絶対条件です。背景には信長の自信と権威の誇示にあるとの
お話でした

当日のセミナでは地階から最上階の七層までを信長公記に基づき
丁寧に解説されました。配布の資料から 七層部 だけその信長公記
の記載部分を、またさらに抜粋して紹介します。

 
             六層部                   七層部


「三間四角 御座敷の内 皆金 外側金 四方の内柱に上り龍・下り
竜 天井 天人御影向の所 座敷の内 三皇・五帝・孔十哲・商山
四皓・ 七賢火打ち・ほうちゃく(宝鐸)」 

兎に角、写真の通り内外、金ピカです。

家康を持て成す:本膳料理
天正10年5月15日から19日まで安土に滞在。明智光秀が饗応
しました。勿論全てを食べるのではないでしょうが朝食からしても、
ものすごい分量(お膳の数)です。献立は「続群書類従」にあるとの
ことです。ところが信長からやり過ぎと叱咤され、その辺から関係が
おかしくなったとも・・・・。(この辺の詳細は下の説明板の写真にあります)

         
            お膳の一つ(再現模型)


           徳川家康饗応と本膳料理の解説版

「伝」とは云えどうして城内のそこを秀吉邸としたの?
安土城址を歩くと秀吉や利家邸と 「伝」 を標識の頭に付けて
ここがそうだ、とあります。どうして分かるの?と長く悩んでおり
ました。 今回のセミナで恥を忍んで質問しました。

      
          内藤 昌氏による復元模型

講師先生の解説は納得の行くものでした。 あくまでも推定で、正しく
ないかも知れない。ただ江戸時代に作成の絵図が残っている。それは
大きな手掛かりとなっている。発掘調査では秀吉、利家邸跡から数々
の土器類が出土、裏付けと取れる資料だと。

ご参考:
1.信長公記とは:ウキペディアから抜粋
(しんちょうこうき または のぶながこうき)は、安土桃山時代の戦国大名
である織田信長の
一代記で、著者は信長旧臣、太田牛一。信長の幼少
時代から足利義昭を奉じて上洛した1568年(永禄11年)までを首巻とし、
上洛から本能寺の変が起きた1582年(天正10年)までの記録が全16
巻(16冊)にまとめられている。同時代の刊本はなく写本のみで伝存する。 
「安土記」とも呼ばれる。

2.次回のセミナ:
主催: 安土文芸の郷・安土城天主信長の館 
テーマー: 信長の家康饗応膳の復元について
日時: 11月19日(土) 13:30~

会場:セミナリヨ(安土町)
申込が必要です
セミナに参加の場合は日時他、必ずご確認ください。
 
       電話:0748 46 6512
             HP:  信長の館 で検索出来ます

お断り:
この日記の掲載、記載内容は主催者および講師の許可を戴いております。
掲載の写真は全て当日館内で撮影したものです。
また記載内容に私の聞き違い等で間違いがあるかもしれませんが素人の
日記とお許しください。

     今日もご覧くださいましてありがとうございました

コメント (2)
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Kennyの城址歩き、安土城: そのー3

2011-03-08 18:49:37 | 安土城址

  安土城、そうだったのかー!
   =長谷川博美先生と歩く山城=
   ー安土城を見学して:日記そのー3、最終回

           (この日記の掲載期間:3月18日3月24日

安土城に関する書物を何冊も読んだわけではありませんが、教科書
にも今まで読んだ本屋さんで簡単に手に入る書籍にも多分書かれて
いないのではと思ってしまう長谷川先生のお話に圧倒され、こんな
日記を書くことになりました。今の時期、本来ならスキー場や雪の風景
のことを書いているところですが、その予定を変えて日記そのー3
を書いています。
    

         安土山(あづちやま:標高189m)

安土城は信長以前から有った
「信長公記」(しんちょうこうき)には元亀元年5月12日に「安土城に中川
八朗飢右衛門楯籠る」とあるので中川重政が安土城に確実に在城した
ことが確認される、と当日先生から頂いたレジュメにあります。その城は
安土城の近代の城「織豊系城郭」とは違い中世城郭であったと推定され
るが、それを知る手がかりは今のところないそうです。

安土山には元々お城が有ったのだ!
そうだったんかー、てっきり信長がここを切り開いて造ろうと始めて城を
築いた山とばかり思っていました。

 信長公記(しんちょうこうき または のぶながこうき)は、近世の記録資料。
 安土桃山時代の戦国大名である織田信長の一代記で、著者は信長旧臣
 の太田牛一。 江戸時代初期に原本が成立 (ウキペデアより引用)


 
  ウインゲの木版画 (レジ
ュメから)         その版画にある現場

この場所、本当に一致します (三の丸付近)
ウインゲの木版画
という物が有るのだ
そうです。その版画にある建物
の場所に連れて行って戴きました。三の丸の近くです。バチカンに献上
された屏風絵の部分模写と考えられているが、この模写の描写は安土城
のどの部分なのか研究者の見解がないそうです。
実際城跡を詳細に観察
している人間には一目見ただけでどの部分の描写なのか理解出来ると
思う、として先生はこの場所を特定されておられます。

実際
に観て版画に収められた訳だからこの建物は実在したのものです。
現場は石垣しか残っていませんが、版画にある石垣と現場を見比べると、
櫓台が有った右の石垣の石が版画も現場も右の石の方が大きいのが
分かります。
また中央部の入口の石段も完全に一致します。まさに当時
の安土城の
建物の前に立っているようで感動ものでした。

      
           礎石に残る焼きついた柱の跡
        
   (過去の見学会で解説を受けた時の写真)

カステラ食って・・・・
安土城築城にあたり信長は高度な測量器具を、それは宣教師から入手
したのであろうか? 信長は宣教師から贈られたカステラを食っていた
んだから、コンパスなど高度な器具など十分手に入っただろうね、との
先生のお話しに納得です。

城の見学料徴収、天正時代に??
「信長は安土城の見学料も徴収する経済的にシビアな側面も伺わせる。
これはもはや安土城が隠れて籠城する山岳の中世城郭ではなく信長が
もたらした天正の治世の到来を高々と宣言する宣伝塔と言えよう」とは
先生のレジュメそのままを引用させていただきました。ちなみに、信長の
血液型がA型やそうで、結構金銭的には細かかったとか・・・・。
 
       
          天主の火災熱で入った石垣のヒビ
        
   (同、過去の見学会で解説を受けた)

今回の安土城現地見学会に参加して
長谷川博美先生との出合い、
長谷川先生と安土城址を歩くと銘を打って見学日記を三回書きました。
先生にお会いしたのは今回で3回目です。昨年の秋の事、所属の「淡
海の城友の会」からこんな見学会がるよと連絡を戴きその企画に参加
して初めて先生にお会いする機会に恵まれました。
    
   
  先生ご自身が発見された多賀にある城址を先生の案内で見学する参加者

先生は正に現場主義 (でいいのかな?Kennyの印象)
回数を重ねる毎に先生の研究(現地調査他)成果からのお話しのすごさ
に圧倒され、また溜まっていました疑問や知りたいことが、一つひとつ
解決していくのがとっても嬉しいことです。 調査、研究はまさに修行の
苦難(新しい城址発見には道なき山道を)
を伴うものだと思います。
そんなご努力、執念からのお話しをこんなに楽をして聞かさせて戴き、
またこのように楽をして体験や日記にさせて頂いて申し訳けない気が致
します。しっかりと記録に留めてまた機会毎に私の友人知人に先生の
お話として伝えて行きたいと思います。 

改めて長谷川博美先生に深く感謝致します。

また今回の企画に参加させていただき主催者、事務局の皆様に
厚くお礼申し上げます。

*茲愉有人さんが
    
関連情報を寄せてくださいました。 コメント欄更に詳しい史実が       
        あります。
合わせてご一読いただければ幸いです。(3月21日)
           

(当日記の掲載に関して、主催者、講師先生のご了解を頂いております)

   この3回に分けて書いた安土城址の
日記を最後まで
   ご覧ください
ましてありがとうございました。

********

情報です: 私は主催者とは全く縁のない一般参加者ですが、日記
        に書きましたように今までに経験のない先生のユニーク
        なお話しと企画なのでご参考までにお知らせします。

        以後の城址歩きや講演の情報は下記のHPに案内があります

       長谷川博美先生のHP: 長谷川博美郭日記

                 http://h-hasegawa.jimdo.com/

       ウッディパル余呉のHP

          http://woodypal.jp/

 

コメント (4)
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Kennyの城址歩き:安土城址、そのー02

2011-03-05 16:37:49 | 安土城址

 安土城址見学で学んだ新しい事実

      =長谷川博美先生と歩く山城=
              ー安土城址見学日記その2ー

         
   (日記その2の掲載期間:3月11日本日17日

私のブログをいつも訪ねてくださっています茲愉有人さんからこの
テーマー
に関する情報を寄せてくださいました。当ブログのコメント
欄も合わせてご一読いただければ幸いです。茲愉有人さんありが
とうございます。


先週の日記で、まさに目からウロコと書かせていただきましたが、今週も
もう一度この話題を取上げて新しく知った事実を書いてみたいと思います。

長谷川先生のお話しを振り返ります:

 
          安土城天主イメージ図(安土町、観光パンフレットより)

     
      大手道が90度左に折れるこの場所から真上に天主
      が上にある
イメージ図のように見えたのでしょうね

前回の日記で触れましたが長谷川先生は次のようにご指摘になります。
それは大手道が90度左に折れるこの場所に展望位置がくるように定礎
を置き定礎、天主中心部さらに真北が一直線上に並ぶように城が構築さ
れたとのことです。

つまりこの天主は東西南北に向いていることになります。これは「信長
の棺」の著者、加藤廣先生のご見解とも完全に一致します(Kennyの見解)
(上に掲載の
イメージ図は城が立体的に見えるよう右方向より描かれています

  
      お城の表広場から見える石垣:これは当時のものです

今日は
石垣や石段のお話です:
織豊系城郭(織田・豊臣)と言ってこの時代からお城に本格的に石垣や
屋根に瓦を使い、特に権威の象徴を意識した城へと、つまり近世の城
へと変遷して行きます。

     
       これは当時のままの石垣だよと説明される先生

この石垣の石は本物?
本物の石?との質問には笑いが起こります。勿論石は本物の石ですが、
その意味は修復したお城址の石垣は当時の物か復元のために新しく
調達して積みあげた石垣かがとっても気になります。安土城址でも先生
に盛んに ”これは当時の石垣ですか?”と質問が飛びます。安土城は
廃城の運命にありましたので近くの八幡山城や彦根城築城時、抜き石と
言って持ち去られています。 でもまだまだかなり当時の物が残っていま
す。

   
               現地見学会参加者と長谷川先生
    
この見学会は余呉町のケ岳城郭フォーラム実行委員会の主催です。
           参加者の殆んどの方々は余呉町の皆様です。背後に送迎用のウッデー
     パル余呉(事務局)のバスが見えます。 

伊香郡(現長浜市)からも多くの普請人足が:
伊香郡(旧名でお許しください)は私のふるさとです。先生のお話では
「武功夜話」に記述があり、その旧伊香郡余呉町の中河内、今市、川並、
茶屋、小原、一、柳ケ瀬、国安、池原、天神、中郷、丹生他から
360人の
人足がなんと安土城本丸の普請現場に投入されているようだとのことです。
              
    
  
        秀吉邸であったと言われている敷地の石垣
 
   写真の右上は櫓台です。秀吉邸とは少し方向をずらして櫓台(守備隊)が
    設計されています。これは侵入してくる敵を有効的に狙える方向に向けて
    あるとの事です。 この石垣も当時のまま残っています。

今回の企画の参加者の殆んどがその余呉町の皆様です。普請人足には
その他にも木ノ本、西浅井、海津などからの名前も上がっているそうです。

      
       天主への最後の階段に越前笏谷石

越前笏谷石(しゃくだにいし):
この城に笏谷石も使われていたとは聞いていましたが、今回その
場所がわかりました。そこは天主に上がる最後の石段にありました。
兎に角当時は全国から石垣職人が集めれて短期に仕上げる天下普請
です。滋賀では他に穴太積み職人も動員されており今もしかりと
その石垣が残っています。

  
       越前笏谷石使用の石段拡大写真
       

石段には石仏や墓石も:
これはもう良く知られたことです。大手道には石仏が、黒金門手前の石段
には墓石を見ることが出来ます。その石仏には観光客がお賽銭を置いて
います。これには流石の信長さんはどう思っておられるか? ただ二説

あり、短期工事で石材が足らずかき集めた(石仏も資源の再利用説)。
または神仏不信仰の信長の指示によるものとも・・・。(Kennyの見解)

              
                          石段に多く見る石仏

 (当日記の掲載に関して、主催者、講師先生のご了解を頂いております)


日記の余白がなくなってしまいました:
安土城目からウロコの第一回目の日記、そしてこの二回目の日記も
先生のお話しを私なり
の言葉で記載しましたが大きな間違いがなけ
ればいいのですが・・・。


まだもう少し記録しておきたい面白い史実を長谷川先生から教わり
ました。出来れば引き続き次週に後一回、へーそうなんやーという
お話しを日記にまとめたいと思います。
   


   今日もご覧くださいましてありがとうございました。

この見学会:
師:  長谷川博美先生 滋賀民俗学会理事 
             近江中世城郭調査委員会会長

             他、各研究会の会長として研究と指導
             HP:
長谷川博美城郭日記
                 
http://h-hasegawa.jimdo.com/


主催者:  賎ケ岳フォーラム実行委員会                   

事務局: ウッデーパル余呉  
             HP: ウッデーパル余呉  
               http://woodypal.jp/

          この施設は古戦場、賤ケ岳や近年ではわかさぎ
     釣りでも有名な鏡湖、余呉湖にも近い四季を通じ
         て楽しめるルゾート地です。

  

コメント (6)
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