趣味・興味プラス挑戦

郷土史、登山、スキーなどを写真と共に書き綴っております

Kennyのぶらりカメラを提げて:夏祭り

2024-07-29 19:36:30 | 郷土史

夏祭
私の住む町にこんなお祭りが
子供が幼き頃共に浴衣を着て
祭りの雰囲気、夜店の屋台での食べ物、金魚すくい等に
興じたものです


愛宕地蔵祭 (行畑地蔵祭とも言われている)
町を通る旧中山道で行われています


背くらべ地蔵

愛宕地蔵祭は、背くらべ地蔵周辺がお祭り広場



愛宕神社

造り物(つくりもの)
このお祭りの面白さは農機具、仏具、調理用具など
日常品を使って時勢を語る ”造り物” です


当日の最優秀作品
紫式部と石山の秋月
仏具を使用


道路に面した駐車場を使い


木魚、木柾を叩く撥バチ) が見えます



この日、旧中山道は賑やか
やはり屋台がお祭り気分を盛り上げますな~



背後には三上山が
背くらべ地蔵前の十字路 この時は歩行者天国



コロナ禍前は舞台が設けられてバンド演奏他催し物も
今年も自粛かな










造り物はその他多数ありました
今では電気製品やゴルフ用品なども使われています


タイトル:石山寺に居る紫式部
祝い物一式




タイトル、大谷翔平40号目指せ
剣道用具一式



前回掲載のブログ

投稿:2014年7月
ちょうど10年前ですね~
この時は舞台での踊り演奏など、盛りだくさん!
その様子をこの2014年版でご覧ください

備忘録
愛宕地蔵まつりは、背くらべ地蔵周辺でおこなわれています。
行畑地蔵まつりとも呼ばれています。野洲市無形文化財に指定
地蔵まつりでは、造り物が飾られます。造り物とは道具一式
で作品を作る。

調理用品、タワシ、日常用品、仏具、陶器、金物に加え今では
電気器具、ゴルフ用品他スポーツグッズ等々も加わっている

この行畑造り物は
1636年、行畑に村人が移住をした記念に地蔵祭を催したのが
始まり。

お祭りは毎年7月の最終日曜日に開催され、
江戸時代から続く
(滋賀県の行事歳時記より引用:感謝)

・・・・・・・・・・・

行畑地蔵祭 「行畑(ゆきはた)」というのは、
野洲市行畑のことです。「行畑」は、「行合(ゆきあい)」と
「中畑(なかばたけ)」という2つの集落が合体してできました。

「行合」は中山道と朝鮮人街道の分岐する地点にあたり、
昔は大きな街道筋でした。 この大街道で行き来きする人が
行き交う地点という意味で「行合」と名付けられたようです。

「行合」地域の中央には、この地域のシンボル「背くらべ地蔵」
があり、例年、7月下旬には「愛宕地蔵祭り」が開催されます。

 

その昔はこのお祭りにサーカスが来たり、大スクリーンで映画祭り
があったりと子ども達にとっては、夏休みの始まりを告げる
一大イベントでした。

しかし、この祭りの最大の見所は街道筋の民家が窓を開き、
自宅の一間に「造り物」(食器一式の船だとか農機具一式
の馬など)を飾り、皆さんに公開します。
とば義明様のHPより拝借しました:感謝

(7月31日、2024 UP)


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Kennyのぶらりカメラを提げて:そのー2・朽木城跡・興聖寺 探索

2022-11-02 19:32:00 | 郷土史

いい天気に誘われて
実に久しぶりに
琵琶湖の東岸、西岸をドライブ
景色、城跡探訪

そのー2  朽木陣屋(城)跡
滋賀県高島市朽木




本当に久しぶりの城跡探訪、それも一度訪ねて見たかった
朽木城跡です
こんな歴史の旅は自治体などの講座で見学できる場合が殆ど
ところが、
もう三年以上コロナ禍で企画はほぼ中止でしょう~
朽木(滋賀県高島市)ならば故郷に近い場所、
土地感もありで訪ねることに




今も残る土塁の一部だろうか?
他にも
当時の石垣や水堀の一部も残っていることを後で知りました


上下二枚の写真は下記:
朽木陣屋(滋賀県高島市)の見どころ・アクセスなど、お城旅行 …
のHPより拝借しました(感謝)


水堀

朽木氏くつきし)
武家華族だった日本氏族
近江源氏佐々木氏の一流で承久の乱
戦功
(佐々木信綱)で高島郡朽木荘の地頭職を得て
朽木と称するようになる

室町時代には足利将軍家に重用されて奉公衆として
室町幕府に仕える。江戸時代には
丹波国
福知山藩主となり、維新子爵家に列する
(ウイキペディアから部分引用:感謝)

興聖寺(こうしょうじ)
合わせて朽木氏由来のお寺も見学です
興聖寺     
       嘉禎3年(1237年)、朽木村の領主佐々木信綱が、承久の乱
で戦死した一族の供養を願い、道元を招く
寛元元年(1243年)、招きに応じた道元が、越前下向のおり
朽木村に立ち寄り、寺の建立が始まる。
(ウイキペディアより部分引用:感謝)







現地解説版


朽木を訪ねて
故郷に近いとあってもここには初めて旅をした
国道161号線から車で走るのも全く問題なく
当国道から1時間以内で朽木集落に辿れる
ここに記録に認めたたお城跡などの他に

くつき温泉てんくう
朽木オートキャンプ場

この二つは広々としてゆっくりくとくつろげそう!

また朽木スキー場は有名です


かつての朽木宿が栄えた宿場町です。山間の渓谷をぬう
一筋の街道「鯖街道」に位置し、
朽木、いいですな~、これは

季節を選んで家族で再訪したい、が印象でした
やはり秋がいいかな、私としては♪


(11月5日、22 UP)



コメント (2)
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Kennyの郷土史探訪:いも観音・木之本町(滋賀県長浜市)

2021-10-04 20:04:37 | 郷土史

 いも観音
木之本町・滋賀県
Kennyの滋賀から情報発信

令和3年5月~7月に開催の特別陳列を拝観して
村人が田の中に仏像を隠して守り、250年程後に掘り出し
いものように土を洗い落とすと、仏像がこのような姿で



高月観音の里歴史民俗資料館発行の資料拝借
滋賀県長浜市高月町


私の故郷、滋賀県の湖北は観音の里と呼ばれており、国宝の十一面観音像

向源寺(渡岸寺観音堂)は現存する多くの観音像の中でも特に有名である
ところが、この特別展まで当の「いも観音」の存在を知らなかった。
(何故当地に観音が、はまた後日に:白山信仰が関係してるようです)



ここに掲載の観音像の写真
会場館内で私が撮影した写真はありません。全てネット検索
で関連するHPから引用させて頂きました。(感謝)
拝観当日は館内での撮影は許可されておりませんでした。

さて、いも観音とは
安念寺

 多くが平安期の作とされ、信長の(1571年)比叡山焼き討ち
(注)と賤ヶ岳合戦の放火(1583)により、2度焼失したが、
村人たちが田の中に隠して守ったと伝わっており約250年ほど後
の文政年間(江戸時代 1818-1831年の間)にそれらの仏像を村人
が掘り出して洗い清め、仮堂を建てて保存したとのこと。
地中での経年劣化で手足は破損し、多くが朽ち表情も分からない。
 
(注)安念寺はもと天台宗の寺院で七堂伽藍を持つ大寺であった。
  戦国時代、信長により兵火にかかり寺は焼失している。

 



いも観音、名前の由来
いものように土を洗い落としたため、この名が付いたという説。
また、かつて伝染病である疱瘡・天然痘が流行したことから、
高熱や全身に発疹が出、治癒後も皮膚に痕跡が残る(いわゆる、あば
た顔)、その瘡蓋(かさぶた)のことを「いも瘡(がさ)」とも言いました。
仏像表面の荒れから、「いも観音さん」と呼ばれ、皮膚病に効験あり
(身代わり)と信仰されてきた。安念寺のほか、全国には「いも薬師」
「いも地蔵」なども伝わっている。

この観音さんを拝観するには
案念寺
滋賀県長浜市木之本町西黒田
予約が必要です

https://kitabiwako.jp/spot/spot_961

なお、当HPでは拝観中止中となっていますが、10月9日
より再開の予定だそうです。修繕工事は完了も、コロナ禍
が影響しているとの事。拝観は予約時に確認してください
(安念寺保存会代表者に確認済)










参考:写真、史実など
滋賀夕刊

HP:長浜観光協会、びわこの素 DMD、仏像ワンダーランド滋賀
安念寺保存会代表:藤田道明 様
(感謝致します)

・・・・・・・・・・・

時世
(以下は時事ドットの記事の部分引用です)

10月4日就任した岸田総理大臣は、今日(5日)閣議を開催する
など、新しい内閣を本格的にスタートさせました。
岸田総理大臣:「一夜明けて野球でいうならば、プレーボール直後の
緊張感を感じています。緊張感を持ち、しっかりと取り組みを進めて
いきたいと思います」

 閣議では、岸田総理の隣に、茂木外務大臣と、野田少子化担当大臣が
座ります。

 また、総理大臣が海外出張や病気などで、職務の遂行ができない場合の
臨時代理の順序は、1位が松野官房長官、2位が茂木大臣となりました
 各閣僚は、5日午後から、新旧の大臣による業務の引き継ぎを行います。

 6日には副大臣などの人事が決定し、岸田内閣の陣容が固まる方針です。

ところで
いつもなんでしょうが、今回も「3A」とか言うんだそうですね、その
力が多いに働いたようです。これって世界の国々の政界で共通事なんで
すかな。
それとも特に欧米等ではちょっと事情が異なるのでしょうか?
兎も角
しっかりとお願いしたいですね。

コロナ感染者 10月5日、21
滋賀14人、京都19人、大阪176人、東京144人
滋賀県でも18歳の孫たちが昨日(4日)ワクチンの一回目接種を
受けてきました。最悪時に比べれば低い値にはなったが、
この数字
がワクチン接種の効果が主要因であればと願う。

(10月5日、21 UP)


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Kennyのカメラを提げて故郷へ:集福寺集落と賤ヶ岳の合戦

2018-09-14 15:04:36 | 郷土史

                                       集福寺
                          お寺の名前ではありません
                      滋賀県北部にある小さな集落です
           8月半ば、稲は実り、ミンミンゼミが元気に鳴いていました


                  のどかな 集福寺 集落です

滋賀県北部の集落、集福寺
琵琶湖の北端から国道8号線を福井県敦賀市に向かい北上し、JR
近江塩津しおつを過ぎて最初の集落が今日の話題の集福寺です。
本当に長閑、新鮮な空気、自然が一杯残る雰囲気、いいですな~


セミが賑やかに、小川のせせらぎ、稲穂が。また小さな集落にも必ずと言
っていいほど村の鎮守様
があります。この集落のお宮
下塩津神社(しも
しおつじんじゃ
です。

  
     この神社、延喜式にもありちょっと取り上げてみました                    拡大できます
                                                              
 (クリックしてください)


           集福寺、行市山の所在地      (Yahoo 地図から引用)

ところでまたどうしてこの集落を?、目的は?
実はこの小さな集落、集福寺を今から430年前に柴田勝家の軍勢
隊をなして、背後の行市山からそれも夜半に通り過ぎていったのです
            
それは
 賤ヶ岳の合戦 です。
                   (↑ クリックしてください)


                    柴田勝家の武将、佐久間盛政の軍が行市山からこの集福寺を通りました
                           (賤ケ岳山頂にある案内板から)


知る人ぞ知る集福寺。 しかし「賤ヶ岳の合戦」が話題になって
もこの集落の、このお話はまず出てはきません。そこでちょっと
立ち寄って来ましたので紹介したい、が郷土史に興味のある爺
さん
の意図です。 実は、旧伊香郡西浅井町(現長浜市)は私の
故郷なんです。夏の故郷を味わいに帰省の途中 訪ねてきました。



                                佐久間盛政の陣地、行市山  集福寺集落から


もっとも、今それを伺い知るものがこの集落に残っている訳では
ありません。そこに立って見て、思いを馳せる、ロマンですな~。


集福寺をビデオに収めてきました (1分)

                          

当時を語る合戦の舞台に今ある案内板から

            
                            (大岩山に設置の案内板から)


                     行市山 佐久間盛政の砦   (撮影:2006年4月)


                  佐久間盛政の 大岩山(中川清秀)奇襲のルート
                             (同、案内板から)



(備忘録) ところで集福
この集福寺と言う名称、この集落には多くのお寺が存在していたと聞い
たことがあります。 

そしてここからは私の邪推ですが、名残なのか、この集落には何々坊
いう幾つかの山の
名前
が今も残っており、宿坊だったのか。 その谷からは何体もの地蔵さんが出てきます。

坊を調べてみると
、大寺院に属する小院、僧侶の住居(宿坊ですね)とあります。 と言うこと
は、その谷にはお寺があった。 最近ではあるが、利用した宿坊は真言宗、金剛峰寺(高野
山)の末寺で、宿坊であり
お寺でした。 

        今日もご覧くださいましてありがとうございました
                     
(9月15日、18 UP)


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Kennyのそうだったのか:老農とは?

2016-07-22 20:21:52 | 郷土史

                     老農
          大岡利右衛門(1832~1912)
                     (現)滋賀県野洲市比留田出身
                  こんな偉大な人物が野洲市に
                  Kennyの滋賀から情報発信
                (この日記の掲載期間:8月19日~8月25日)


老農(ろうのう)とは
老農は明治時代に活躍した在来農学を研究しこれに自らの体験
を加えて高い農業技術を身につけた農業指導者のことです。 明
治10年代半ば、明治維新政府の勧農政策により農業は大きな
転換を
。  (ウィキペディアより部分引用)

その老農の一人が現・野洲市比留田出身大岡利右衛門です。

     
      大岡利右衛門肖像画 大岡家蔵  (野洲市HPより拝借)

どうして知ったの?
過日、野洲市歴史民俗資料館で特別展と講演があり、鑑賞、拝
聴した次第です。 老農とは、
も、この人物さえ野洲市に居ながら
全く知
りませんでした。


大岡利右衞門と功績
(以下の各項目はウィキペディア、 野洲市HP、当日のレジュメより部分引用)

1832(天保3年)~1912(明治45.大正元年)
野洲郡比留田村(現・野洲市比留田)に生まれ、近代の老農とし
て活躍し、明治29年(1896)に緑綬褒章を受賞しています。

比留田集落は水田の多い農業地域で「大岡、新日光」などの稲
の新品種改良に取り組む他、稲苗の「正条植」や「排水」の奨励
、野菜草花の種子
分与、等々九項目におよぶ農業改良に尽くし
たと、当博物館発行の会報「流水紋」にあります。また比留田地
区以外の地でも農事改良に努めています。


               西村 卓 教授  (同志社大学)    野洲市歴史民俗博物館での講演


老農は各地にいました。
野洲市には大岡利右衛門という老農がいました。そして老農は
その他にも各地にいました。 老農は明治維新後に農業の生産
性向上のために重用されたのです。


老農時代
明治10~20年代です。
この時代の老農は農業で苦労している
達の役に立ちたいという、私利私欲のない人物だったとのこと
です。


                 農作業風景: 四季耕作図屏風・個人蔵・部分  (野洲市HPより拝借)

その時代の三老農
群馬県の船津伝次平、奈良県の中村直三、香川県の奈良専二
3人は明治の三老農と呼ばれ、彼らに次いで福岡県の林遠里、秋
田県の石川理紀之助が知られていました。 
                    


            比留田地区   大岡利右衛門の出身地  8月6日撮影、もう穂が垂れていました 
                                      (写真右上に妙光寺山、三上山が見えています)

このように今、稲はよく実り、首を垂れています。 今日の米作は、
今日の主人公、大岡利右衛門の苦労が実った賜物ともいえるん
でしょうね。


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