趣味・興味プラス挑戦

郷土史、登山、スキーなどを写真と共に書き綴っております

Kennyの歴史探訪取材日記:余呉湖から高時川上流域-01

2013-08-21 07:57:41 | ブロガー:滋賀県の企画

余呉湖周辺から高時川上流域
  を訪ねて
 滋賀県長浜市余呉町
             第一部 (全3部)

   第一部は余呉湖周辺の伝説です

JR余呉駅から出発です
やって来ました、滋賀県の最北の町、余呉町です。隣りは福井県です。
戦国時代風に言えば、近江から越前の国境の町で、当時のメイン街道
北国街道が町の中心を走っています。長閑です。駅前の駐車場は無料
です。すぐ横は田んぼ、ちょっと先に目をやれば余呉湖の湖面が光って
います。更にその先には賤ヶ岳(古戦場)が見えています。私は今、その
昔、羽柴秀吉と柴田勝家が争った戦場のその正にまん真ん中に立って
おります。


            余呉湖の一角にある案内板  (撮影 2007年10月)

で、この一部では、戦国物の無粋な類のお話ではなく、余呉湖周辺
に伝わる伝説、ロマンを味わいに
探索をします。


          JR北陸線、余呉駅     駅前の広い駐車場は無料でーす

天女衣掛けの柳

むかし、余呉湖のほとりに伊香刀美いかとみ)という男が住んでいた。
桐畑太夫とする伝説もある:慶長17年 1612年の説)。男はある日、
湖畔に8人の
天女が舞い降り、水浴びするのを見つけた。その美しさ
に心惹かれた男が柳の木に掛けてあった羽衣ひとつを隠したので、一
番年下の天女(不運やなー)は天に帰れず、しかたなく男の妻となって子
を生んだ。 この後登場の菊石姫がその一人です。


                        天女衣掛けの柳

それから3年後、唐櫃にしまってあった羽衣を見つけた妻は、これを身
にまとって天にのぼり、姿を消してしまったという。なお、菅原道真がそ
の子であると伝える説もあります(後述)
。 

ところで、衣を掛けた木がこの余呉は柳、他の二か所は(後述)は松
の木
やそうです。ここの柳はしだれ柳とは違いますでしょう、アカメヤ
ナギ
と云って枝がだらりとはならない品種です。

場所は、JR余呉駅から余呉湖に向かって徒歩 4
,5分、すぐそこです。


                               現地の案内板

天女の銅像
余呉の天女伝説は日本最古の羽衣伝説の一つ。
天女の像が湖の近
くに建てられている。 ここ余呉湖の伝説、静岡県静岡市清水区の三保
松原に残る伝説、京都府京丹後市峰山町に伝わる伝説など、天女の
羽衣伝説は日本各地に残っている。一般的には①「羽衣をまとった天女
が降り立つ」②「天女に恋をする男が登場する」というのがどの物語にも
共通していることである。 場所は天女衣掛け柳
から100m位かな、の
所です。



                   天女像   後方は天女衣掛け柳

桐畑太夫屋敷前
昔、湖辺の村・川並に桐畑太夫という漁師がいた。あるとき、芳しい香り
にひかれるまま、一本の柳に歩み寄ると、色鮮やかなうすものが掛かっ
ている。うすものを取った太夫が振り返ると、美女がいて「私は天国の者。
余呉の湖の美景に憧れて年に一度、水浴びをしています。どうか羽衣を
返してください。」と懇願した。が、太夫は羽衣を隠して返さない。争った
果てに美女は天に帰ることを諦めて、太夫の妻になった、と・・・。先述は
伊香刀美説、ここでは桐畑太夫説を紹介しています。


       桐畑太夫屋敷があったとされるところ:正面の三角の木のあたり

      余呉湖を目前に見下ろせる山手にあります

ところで、この羽衣伝説は「帝王編年記」 養老7年(723)伊香刀美と
天女をめぐる白鳥伝説を伝える余呉郷南の伊香の小江は当余呉湖と
考えられていることから来ているそうです。

蛇の目玉石
桐畑太夫は余呉湖より二丁余り西、桐畑口というところに住んでいました。
都からの落人だそうです。やがて
太夫最愛の一人の女の子が生まれまし
た。
菊石姫です。ところが7、8歳になると次第に蛇体の姿となったので、
太夫も家に置いておくものではないと、屋敷から一丁余り東北の屋賀原と
いうところに仮家を建て、捨て置きました。

     
                            蛇の目玉石
     

この伝説、ちょっと長い文書ですが引き続きを・・、

食物も与えられなかったので、菊石姫のお守係の下女が憐み、自分の食
物を与えて養育していました。
18歳になると菊石姫は、ここにもいられない
と、ついに湖水に入ったのです。


そのとき、片目を引き抜き、「龍の目玉は宝や金では求め難いもの。大切
にしなさい。」と長く養育してもらったお礼として下女に与えました。
形見の
品として大切にしていた目玉だったが、やはり病を治すのによく効き、
その
他にもいろいろ不思議なことがありました。 

このことが上の人の耳に達し、差し出すように命じられました。
下女は仕方
がなく差し出しましたが、龍の目は両眼とも持参せよとのご上意で、片目し
かない訳を話しても追及は続きました

耐えられなくなった下女は、湖の西、新羅の森から「菊石姫、菊石姫」と呼
びました。
するとにわかに湖水が波立ち、水を左右に分けて乱れた髪がや
って来ました。
下女は「両眼を差し出せねば、火責め水責めにあう。」と訴
えた。
菊石姫は「養育の恩は深い。自分は両目を失っても命の別状ない。

しかし、盲目となったら時刻を知ることはできないから、湖水の四方にお堂
を建て、時を知らせる鐘をついてくれと、太夫に伝えてください」 といって
目玉を抜き、石に投げつけました。
目玉のあとが石に鮮やかについた。こ
の石を名付けて「目玉石」といいます。 石の裏(湖)側です。

蛇の枕石
目玉石の近くの湖中に長さ3尺横1尺ばかりの石があり、これを枕に菊石
姫はしばし休みました。
「これからは私を呼んではなりません。もし会いたく
なったらこの石を見なさい」 そういって湖中に消えていきました。
この石を
「蛇の枕石」と呼んでいます。 湖岸から覗き込みます。


                        蛇の枕石             

両眼を地頭に差し出した下女は助かったが、菊石姫の母はこのことを聞
いてから病の床につき、ほどなくしてなくなりました。
それからは太夫も病
弱になって、菊石姫のことを案じ、湖畔の7つの森にお堂を建てて、時の
鐘をつかせました。
菊石姫が盲目となってより、水青く晴天の日でも底が
見えなくなったといいます。

ところで、この菊石姫は天女と太夫に生まれた一人で、この伝説もやはり
天女伝説と関係します。もう一人の男の子は後の菅原道真と言い伝えら
れています。


                      鳥帽子岩・お膳岩

鳥帽子岩・お膳岩

余呉湖放水隧道(第2部で触れます)の近くにあります。 鳥帽子岩・お膳
岩、この岩を北側から見ると烏帽子に見える ことから烏帽子岩の名
で親しまれていますが、男岩・女岩の2つの岩がひとつに重なって い
るところから、『結びの岩』とも呼ばれています


 
             烏帽子岩                    お膳岩

また、菅原道真が烏帽子を掛けた岩、供え物を載せたと伝わる岩とも
伝承されています。

引用させて頂いたHP,ブログ
探索地の説明については当日配布の資料を参考に、そしてその殆どを
下記各団体HPにあります記事から引用させて頂きました。 
奥びわ湖観光協会 余呉支部            
http://yogokanko.jp/node/60 

滋賀の文化魅力再発見
http://mizutakara.shigabunka.net/e808392.html

これらの地の探索
余呉湖の周囲は6Kmです。ここまで記載した観光箇所はすべて余呉湖
周辺にあります。また、第二部でUPの余呉湖送水、放水隧道も同様です。
JR余呉駅からぐるりと一周をレンタルの自転車で、または歩いてみるのも
選択肢の一つかと思います。


        余呉湖の西側半分は自家用車一台が通れる狭い道です

なお、車での移動は、特に余呉湖の西側は車、一台の道幅の箇所
何か所もあります。カーブではスピードを落とし、すれ違いスペースを利
用して譲り合い、安全運転をしてくださいね。

******
 
                           第二部に続く・・・

さてこの次の第二部は「余呉湖の今と昔」です。 ご訪問いただければ
幸いです。 ありがとうございました。
                                                (ブログ管理者、Kenny)


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Kennyの山歩き:御嶽山

2013-08-20 20:50:56 | 登山・ハイキング

 恋い焦れし森林限界、這松・岩場
=3067m、御嶽山・剣ヶ峰で涼んできました=
 
        なんせ、この夏大気不安定で
    山は荒れ、
3000m級を延期してましたんで
 
          (この日記の掲載期間:8月30日~9月5日)


        この景色、この雰囲気に触れたくって・・・・!  

夏山高峰の絶景、這松の緑 荒々しい岩
どうやった? が7月に入り、その1か月の山仲間と最初に交わす
言葉。ところが今シーズンは意味が違います。山は荒れていなか
ったか、が最大の関心事です。やはりほぼ100%が天気に関して
は答えは、大雨、雷、様子見で待機したなどと報告は芳しくありま
せん。

至福、まさにその時


        這松と岩場の中を歩く、これだ、これです、森林限界の世界!

私は登山歴は17年とは云え、技術は未熟故、無理はせず機会を
待つ派です。 時間は自由になる身、これが一番の強みです。

そんなことで、少し天気も安定してきた最近やっと3000mの空気、
景色を堪能してきました。 先ずは近場の御嶽山です。

前日の深夜は:満天の星



 空です (注) 画像処理をしましたらこんな絵が現れました。多分お星さまだと・・
 
前日深夜に登山口に到着、ところが、寝るのは勿体ない満天の星でした。
実際もこの写真のような空でした。ただ全てAUTOで、コンパクトカメラで
の撮影です。明るさをPCで上げて現れたのがこの写真で、実像がどうか
は自信はありません。 ノイズでしょうかな? 


  快晴の早朝、御嶽山に朝日が注ぎます (田の原登山口駐車場から)

午前中が勝負とみて、山の天気
天気はやや安定してきたとは云え、当日は午前中のピストンがよかろう
と決めて前日の深夜に田の原登山口まで移動し車中泊です。予想的中、
出発の午前6時から11時頃までは快晴でしたが・・・。


 午前6時田の原登山口(既にここは7合目)出発、正面に御嶽山が綺麗です

田の原登山口からスタート
昨晩はこれもまた絶対に見送れない満天の星を楽しんで、多少の寝
不足ながら清々しい青空の朝です。夜中、車中泊も全く寒くはありま
せんでした。 

     
          駐車場にある大きな清潔な手洗いが嬉しいです(田の原)

午前中の往復と決めていますので、お粥とクッキー、コーヒで手抜き
の朝食を済ませて出発です。もう大勢の登山者です。 なんと言って
もエヤコンでは味わえないこの快敵さ、天気も味方です。この登山口
(7合目)で標高は
2180mです。


      朝には太陽に映えていた山頂もお昼の12時にはこの通り

判断、午前中の往復、しつっこく・・・、
王滝頂上を経由して3時間20分で剣ヶ峰(3067m)に登頂です。
景色を眺めて留まること40分、10時過ぎ、ぼつぼつ下山になって、
下界からガスがかかり始めます。更に下山、8合目からは途中さほ
ど気になることはなかったとしても、それは下山だからで、これから
登るとなるとちょっと嫌な雰囲気です。もう山頂はすっかりガスに閉
ざされています。

山は午前中だ、を今年の特に異常気象故に一層実感した登山でし
た。もっとも予報されていた雷は、御嶽を離れて以降は分らないとし
ても滞在中はありませんでした。


                  大勢の登山者です

いつもとはちょっと違う・・、足が重い
いつものように一歩一歩小幅で、大きい段差を避けてゆっくりと登って
行きます。 この登り方を覚えて以降息が上がる程の辛さがなくなり、
今回も途中で水分補給や体温調整、ちょっと足を休める程度の休憩を
取って歩きましたが、歳か、さすがは久しぶりの3000m、気圧の関係
か、休憩回数を少し多めに取りました。ところで、登山口のまだ緩やか
な上りでかなりのスピードで追い越していかれた登山グループの何組か
を途中で今度は追い越していきました。 ゆっくり、ゆっくりがいいよ。


           出発から1時間、二つ目のお堂です         


      憧れの登山道風景  しかし岩場です、膝に負担がかかります

ところで、この山はガスっていたら何処にでも迷い込んでしまいそうな
登山道です。その時は張ってあるロープや岩場の踏み跡を探りなが
ら登山するのでしょうか? 私は早めに中止、引き返えしますが・・・。

 
         九合目、でもここからがまたまだ急登で最後の正念場です


              王滝山頂(2936m)です  ここまで2時間40分


       剣ヶ峰がすぐそこに:王滝山頂から更に30分の登山です

剣ヶ峰(最高峰)
王滝山頂で一息ついて3067mの剣ヶ峰へあと30分の登りです。   
景色が一変します。  最後に噴火した所かな、不毛に近く、硫黄の
匂いも微かに漂っています。 遠くに不気味な蒸気も立ち上っていま
す。    


        剣ヶ峰山頂です(3067m)  田の原から約3時間20分でした


                      三の池(ですね?)、火口湖です


           一の池 (ですね?、水はないけど) 周囲はお鉢めぐりとか

ちょっと目に入った御嶽山のお花です

 

 

                    

這松、岩場 
何度か来ている御嶽山。この田の原からのコースも二度目です。
でも今回はまた違った御嶽を味わうことができました。冒頭に書
いた通り、通年よりも1か月以上遅い日本アルプスの登山です。
受ける喜び、刺激がよけいに強かったんだと思います。堪能でき
ました。這松の緑だけが作る高峰の峰々、それが今回は青空に
映えていました。 そして 岩場、ガレ場もしかりと踏んきました。

三上山、三上山仲間
日ごろ地元、滋賀県野洲市の三上山(近江富士)で山登りをして
いるからこそ、この歳になっても3000m級を楽しいと言えるんだ
と、嬉しくなります。それは三上山に行けば
仲間の皆さんがおられ
るから今日も登ろうと長続きして、いつの間にかちょっとは
足腰が
強くなったんです。三上山、そして仲間の皆さんに感謝です。さー、
早く仲間のみんなと御嶽山 談義がしたいな!

     今日もご覧くださいましてありがとうございました 


                     ***************

 
         近江水の宝、探訪のお知らせ

  鏡湖の天女羽衣伝説を専門の先生、地元ガイドさんのご案内で
  探訪してみませんか。 滋賀県のもう一つの湖、余呉湖 周辺です。 

         開催日: 9月14日(土曜日)
             集  合: JR北陸線 余呉駅
             主  催: 滋賀県教育委員会
                奥びわこ湖観光協会

         申し込みが必要です。 その方法、集合時間など
 
    詳細は下の写真の上をクリックしてください

                       
                  資料ー01      資料ー02
 
      余呉湖 (賤ヶ岳山頂から)             
 天女像

     主催者への申し込み、ご確認の上ご参加くださいね。
                 (ブログ管理者:Kenny)


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Kennyの歴史探訪:安土城下町と安土街道

2013-08-15 15:28:02 | 安土城址

安土城下町と安土街道を歩いて
=現在の城(址)から一歩外に出てみると=
   数々の遺跡、今も残る神社仏閣が
      Kennyの滋賀から情報発信

          
         (この日記の掲載期間:8月23日~8月29日)

この記事の後に、今開催の写真展の情報も掲載しています
        合わせてご覧頂ければ嬉しいです

現在の城(址)から外に出て
黄金色の天主に代表される安土城、ちょっと安土城を見てこよう
か、と訪れるのは、1989年から2009年に亘って発掘調査され、
本丸に続く大手道や秀吉の屋敷跡などが整備された現在私達が
見る安土城址です。

        
              発掘復元整備された大手道 2011年撮影
                (両サイドに秀吉など家臣の屋敷跡があります)

私が35年前にこの山に登った(当時は狭い登山道があり、天主へ)
この大手道は土の中に埋まっていました(のでしょうね)。 当時、
山道はこの埋まった大手道の上にあったのかな?
            



      観音寺城の繖山(きぬがさやま・右の山) 安土城の山(左)

地元安土町のガイドと県の専門職の皆様のご案内で
ところがなんと云っても天下統一の象徴、信長の見せる城、権
威を誇る城、信長の安土城下町は楽市楽座まで築いた一大都
市であった訳で、その繁栄は短い期間ではあったとしても、立派
に今に伝える街道、遺跡、神社仏閣などから伺い知れます。もっ
とも私の思いは、更に多くの遺跡が発掘され(眠っているのでは
と・・・)現在に伝えて頂ければと贅沢なことを考えています。


 今回の探索ルート図 (滋賀県教育委員会文化財保護課発行)

                                    
                        (同地図、クリックで拡大します)

こんなところを見てきました(上に地図)
浄厳院
(じょうごういん)、沙沙貴神社(ささきじんじしゃ)、安土街道、
寺内浜
(じないはま)、常楽寺湊(じょうらくじみなと)木村城跡、
浄楽寺の湧水池
惣構どて(そうがまえどて)、貞安(ていあん)。 

以下、当日のレジュメを参考に、また現地案内板を引用させて
頂くなどで、それぞれの概要を私の言葉で記録しました。

 浄厳院

                                浄厳院


                                  現地案内板
        
             寺宝 当寺のパンフレットから
                

沙沙貴神社
中世近江を支配した近江源氏佐々木氏の氏神として知られて
います。天正9年(1581)に信長から雁、鶴を与えられた返礼に、
町人たちがこの神社で能を催したことが「信長公記」に記されて
います。境内には佐々木氏ゆかりの石造物が多く残されています。
山道に建つ灯篭は丸亀京極家から寄進されたものです。また、
日露戦争で活躍した乃木希典(のぎまれすけ)が寄進した石灯籠と、
自身で植えたとされる松の木があります。


                                     乃木希典の言葉の碑

 
 乃木希典が寄進した石灯籠    丸亀京極家から寄進された石
灯篭        

 
境内の なんじゃもんじゃの木    上の写真:2009年5月当神社で撮影   
(花)が有名です 

安土街道 


信長の妻子を避難させた時に使った道

常楽寺の集落から蒲生郡条里に沿って南に延びる街道です。きぬが
さ山と竜石山の間が南腰越峠で、ここからさらに八日市へと至ります。
本能寺の変の時、蒲生賢秀(ひでただ)が息子の氏郷をこの峠まで呼
び寄せて妻子共に日野へと向かいました。

寺内浜

          石垣が船入状に積まれています
寺内浜は琵琶湖の西の湖に接するあたりを指します。詳細は解明
されていないようですが、常楽寺湊のすぐそばにあることからその湊
の一部であった可能性もあるとのことです。


常楽寺湊


                       流通の要所として重要な湊でした
               (解説される滋賀県文化財保護課、松下浩先生)


中世から近世にかけて、近江湖東地域の物資、流通の要所として重
要な役割を果たしてきました。信長が安土に城を築いた理由のひとつ
として、この常楽寺湊を城下町に取り組む意図があったとの解説でし
た。 以降、鉄道の開通まで機能していました。

常楽寺の湧水地


                        音堂 (おとんど)

この付近は、伏流水となった愛知川の水が湧水する場所の一つと
なっています。中でも梅の川と呼ばれる湧水は茶人として有名な
井夕庵
がこの湧水を使ってたびたび茶を点て信長に献上したと言わ
れています。


                             梅の川

惣構どて
現在は、土手の痕跡は全くありません。江戸時代の絵図に「惣講どて」
が描かれているそうです。また別の古文書にも書かれていると。


           安土町公民館の南側付近にその場所が

この土手がどうしたの? なんですが、実は安土城下町の内部構造
考える手がかりになるんだそうです。 城下町の二つの見方であり、
一つは、近世城下町的(江戸期的)な捉え方で土手の内外による住み
分けの始まりが見られる。 もう一つは戦国時代(信長の頃)の土手を
挟んで領主の権利が強く及ぶ内側と、そうでない外側と考えられると
のことです。これはもう超専門分野でのお話で、私自身もよく理解は
出来ておりません。


                         当日の受付風景 JR安土駅

年間を通して毎月のようにこのような歴史探訪を催して下さいます。
この日も参加者が多く二班に分かれて探索し、主として滋賀県教育
委員会文化財保護課の仲川 靖先生、松下 浩先生が詳しく解説
されました。

    
     今日もご覧くださいましてありがとうございました

         ***************

         写真展のお知らせ

              八田正文デジカメ教室
                 4教室合同写真展「滋賀を撮る」

       会期:8月27日(火)~9月1日(日)
             9時30分から17時(入場は16時30分まで)

                場所:滋賀県立近代美術館ギャラリー
                               (入場無料)
                   
               詳細です
           
   



                77名の生徒の作品が並ぶ美術館ギャラリー


                 熱心に作品を鑑賞される来客者


            作品を評価、生徒に指導される八田正文先生(中央)

              私、Kennyも2作品参加させて頂きました 

                 会場には  8月28日 午後

                 8月30日 午後

                 9月 1日 午後

                 いる予定です       
               
                    
                  ご来館頂ければ大変嬉しいです

                            (ブログ管理者:Kenny)




 

 

 

 

 


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Kennyの山歩き:阿星山(滋賀県)

2013-08-10 20:34:35 | 登山・ハイキング

 気になっていた山、阿星山(693m)
   =金勝山アルプスの東端に凛として=
               麓には国宝の二つのお寺も
         Kennyの滋賀から情報発信

          (この日記の掲載期間:
8月16日~8月22日)

 
         三上山山頂から望む 阿星山693m、金勝山604m、竜王山、鶏冠山
                    (三上山からは真南の方角。 琵琶湖は写真の右・西方向)


いつも三上山から眺めて、いつかはと・・
阿星山(あぼしやま)に登ってきました。 この山は、滋賀県南部の湖南市、
甲賀市、栗東市との境に位置しており、
三上山からは金勝こんぜアル
プス
という言葉があるのか?)の東端に見えています。金勝山という山はない
がアルプス状に繋がる
)の一番高いところが604mなので、この阿星山は本
当に空高く堂々とそびえています。その更に東隣りには飯道山(664m)
あります。


                      阿星山山頂 (693m)


      登山口から40分、 電波塔が見えてきます。 もうそこが山頂です。 

麓には国宝のお寺が
麓には湖南三山阿星山(お寺の名称はあせいざんと読む)常楽寺阿星山
長寿寺があり、山岳信仰で隆盛を誇る時代を伺い知る事が出来ます。共
に国宝の指定を受けており 前者は本堂が、後者は三重の塔が国宝です
(後述)


登山は長寿寺から出発
山門前を左に折れると林道です。5分程のドライブで登山口の駐車場が見
えてきます。ここからいよいよ本格登山開始です。 暫くは林道を歩きます。
林道から入る登山道は実にきれいに整備されています。ただ材木を並べ
た階段が一部を除き頂上まで続きます。


                          駐車場


         駐車場の角が登山口への林道です 熊出没注意の看板も


  
     林道から登山道に入ります(看板があります) 駐車場からここまで3分

展望は
道中、そして山頂は木立の間から多少下界が見える程度で、里山ではよく
あること、これは仕方がありません。山頂には立派な電波塔、これも里山の
風物詩ですね。でも心配ご無用です、山頂から5分程下り返すと、ちゃんと
展望の素晴らしい所があります。
高いところから琵琶湖の南部をしっかり見
渡すことができます。道中に あじさいの丘、展望の峰 という東屋の展望
台がありますが、設置当初はしっかりと役目を果たしたのでしょうが、樹木も
日数と共に大きく育っていきます。 今ではその木が前を遮ります・・・。
 

    阿星山登山道途中の展望ポイントから湖南の展望が、三上山も!


         参考:金勝山から見た湖南(2010年8月撮影)

展望ポイントからは私達、野洲市民が特に愛する三上山が、箱庭の
ように綺麗に、可愛く見えます。この風景は金勝アルプスから登山者
への最大のプレセントと私は勝手に思っていまして、友人を案内した
時には必ずこの景色が見えるポイントに立ちます。金勝山ではその
ポイントに車で行けます。 この通り絶景ですよ!


                素晴らしい展望ポイントの入口表示版


 阿星山、金勝山のビユーポイント(中央のギザギザ印)、竜王山、鶏冠山の位置関係

駐車場から山頂まで、約40分
約40分で山頂です。登山道はよく整備されていますが、階段が結構続きます。
たぶんこの地は花崗岩質なんだと思います。この階段がないと横滑りして歩
きにくいところがあります。そのうちこの道は崩れて別の所に代わるだろうと
思われるところが何か所もありました。


                       崩れ易い地質故の階段です

登山後は湖南三山、国宝のお寺見学です
湖南三山とは阿星山(あせいざん)・常楽寺(西寺とも)と同・長寿寺(東寺
とも)、
そして岩根山
善水寺です。共に天台宗のお寺です。今回は隣り
合わせにあります
常楽寺と長寿寺を見てきました。

  
     長寿寺 三重塔         国宝      常楽寺 本堂 
      
あとがき
阿星山
は有名な山なんですが、遠くから見ていると標高も高くて結構登山

にはやっかいな山だと思っていました。真剣に探した訳ではないのですが
情報も少なく、後回しになっていました。しかし、実にわかりり易い、車で登
口まで行くのであれば簡単に登れます。 勿論山の装備は必要です。
また熊出没注意の看板もありました。 鈴などは必携です、念のため。


    今日もご覧くださいましてありがとうございました

          ***************

             写真展のお知らせ
              八田正文デジカメ教室
                 4教室合同写真展「滋賀を撮る」

       会期:8月27日(火)~9月1日(日)
             9時30分から17時(入場は16時30分まで)

                場所:滋賀県立近代美術館ギャラリー
                               (入場無料)
                   
               詳細です
           
   

 


        私、Kennyも2作品参加させて頂きます 

                 会場には  8月28日 午後

                 8月30日 終日

                 9月 1日 午後

                 いる予定です       
               
                    
                  ご来館頂ければ大変嬉しいです

                            (ブログ管理者:Kenny)




 

 


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Kennyの郷土史:浅井三代の終焉

2013-08-04 15:04:46 | 郷土史

 440年前の、最後の数日を追体験してきました
   
=浅井氏の滅亡、落城前後:小谷城=
          Kennyの滋賀から情報発信

              (この日記の掲載期間:8月9日~8月15日)

  もう何度も見てきたはずが・・、まだこんな大事な話が!
                         水の手道


        「
小谷城址保勝会」 の皆様に現地を案内頂きました

           
”水の手道” から夜襲を掛けた
それは 水の手道(後で説明)こんな名前の道、それも小谷城にとっては大
切な水を運ぶ道があったんですね。しかし、その道 が浅井氏の滅亡に繋
がる近道になったとはね! 実は、木下藤吉郎(秀吉)が急坂のこの道を
夜襲して京極丸に攻め入り、先ずは小丸に楯籠る久政(二代目)を自害さ
せます。天正元年8月27日でした。そして次の項、その日、9月1日です。

 

 
 

天正元年(1573)9月1日
この日は信長自身が京極丸に取り上がり、本丸に楯籠もる長政を攻めた
て自害させた日とされています。ここに北近江に三代の繁栄をほこった
井氏
は滅亡したのです。それは滋賀県長浜市小谷郡上の地に今も観光客
の絶えない小谷城を舞台に展開しました。


      木下藤吉郎秀吉)が浅井攻めに使ったとされる「水の手道」
(この絵図は現地の案内板です:水の手道の赤い線は私の想像で書き加えました)



 北村圭弘先生:浅井氏の信長反覆から滅亡までの歴史的背景を講義

この小谷城先鋒の秀吉、信長の止めの攻略は、
時は既に、山本山に陣取る阿閉淡路守の信長に味方(裏切り)、焼
尾砦の浅見対馬守の信長への味方(同)、等々と牙城は実にもろく
も崩れ落ち、浅井氏は人数も手薄に、また私の故郷、塩津(しおつ
を含め、江北の適地は焼け野原となっていました。 もう信長の攻撃
し放題
の様相です。

 
 北村先生は、「信長公記」 の関連箇所を取り上げて易しく解説下さいました  
                (当日の映像資料から)

そうか、浅井氏は、こんな運命を、こんな最後を・・・
またもこんな有りがたい講座、現地見学会がありました。主催は、小谷城
戦国歴史博物館、小谷城址保勝会です。小谷城についてはもう何回も
見てきたし、お話も沢山聞いてきたのでこれ以上はもうないかと高を括っ
ておりましたが、今回の講座は 浅井氏滅亡経緯の生々しい実態を伺い知
るありがたい機会となりました。

北村先生の資料から浅井氏滅亡の経緯を

今日のお話の全てはスペースがなくて記載することが出来ません。そこで
詳報を省略して北村先生の当日のレジュメからそのまま引用させて頂きま
す。 先生はこの滅亡へと辿る前の元亀元年、元亀2年を「最後の輝き」
捉えてお話
を開始され、長政の自害、そして助命を聞き入れず、信長によ
る万福丸の磔刑(たっけい)を持って浅井氏の完全なる滅亡として講義を締
めくくられました。

北村圭弘先生
滋賀県商工観光労働部、(併任) 教育委員会事務局文化財保護課 

     
                       当日の映像資料

以下引用、
                    



上の 3.の大嶽(おおづく)
落城から小谷城の落城が一気に始まります。

補足情報
水の手道は
急斜面、道は不確かで、案内がなければ個人では絶対に進む
ことは出来ません。秀吉が夜襲を掛けた時も、兵は具足をぬ脱ぎ捨てて
急登したと記録が残っているそうです。暑い時期、少しでも身軽になって坂
を登っていったのですね。清水谷(きよみずだに)から取り付きまでは辿れても
その先は、危険なため普段は進入禁止となっています。

          
 
      水の手道途中の井筒跡(井戸) 道中道なき急坂道です

小谷城の地図の大サイズを念のため添付します
 
    
 
      拡大してご覧ください


信長公記
信長公記(しんちょうこうき または のぶながこうき)は織田信長の一代記。
著者は信長旧臣の太田牛一。江戸時代初期に原本が成立。信長
の幼少時代から信長が足利義昭を奉じて上洛した1568年(永禄
11年)までを首巻とし、上洛から本能寺の変が起きた1582年(天
正10年)までの記録が全16巻(16冊)にまとめられている。
 (ウィキペデアより抜粋引用)

 
  清水谷道 両側には家臣の屋敷跡が   小谷城から見た虎御前山(信長陣地)


 
                           清水谷道沿の家臣の屋敷跡にある案内板



あとがき
北村圭弘先生、現地ガイドの皆様のお話を基に日記としてまとめて
みました。しかし聞き違いなどによる間違いは多々あると思います
が、どうか素人故、ご容赦ください。

記事、資料および講義内容の当ブログでの掲載は主催者、北村
先生のご了解を頂いております。

まだまだ貴重な情報を頂きましたが、またいづれかの機会に発信
したいと思います。

    今日もご覧くださいましてありがとうございます

 


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