趣味・興味プラス挑戦

郷土史、登山、スキーなどを写真と共に書き綴っております

Kennyの三上山便り:山の中からこんな風景

2014-06-06 19:00:30 | 三上山

  三上山、山の中からこんな景色
 この時期、お花はないのかな? 登山道では見かけないです
  それなら こんな景色、でもこんな光景も・・

           (この日記の掲載期間:7月18日~7月24日)

三上山は滋賀のどこからでも
火山のような三角錐の山、三上山。 近江富士の愛称でも呼ばれて
おり、名神高速道や新幹線からもよく目立つところから、車窓から見
たよ、一度登りたくってさー、と発音される皆様、そやさかいなー、
関西圏の方々、他
多くの登山者がお見えになります。私達、三上山
仲間
も遠くからのお客様に
見どころの情報提供をすることもあります。


            三上山(近江富士) 琵琶湖東岸(守山市今浜)より撮影

でも、火山ではなく大きな岩が積み重なったような山で山頂までの上半
分はしっかりと岩を掴んで登る、結構高峰の登山気分が出来る山です。

 

432mの独立峰でもあり滋賀県の広い範囲で頂を見る事が出来ます。

  今日は最近気に入った、気になった、困った、そんな姿を

麦秋
滋賀県は近江米で有名です。 春先、三上山周辺は水の都の風景から
始まります。 ところが近年(といってもいつ頃かは定かではないが)、麦の栽培
もごく普通の春の風景です。 麦秋とはうまく云ったもんですね。


    2010年(H.22)5月撮影  あれ? 麦畑の形跡がない!全部水びたし・・・
  (田植えの頃、水田部分だけ水が入り、麦畑の部分はまだ麦秋のままだったような?)

麦は刈られて水田に模様替えした直後かな? それとも当時麦はなかった?


                                 撮影:6月4日、2014
                       
          定点観察 (上下の写真は同じ位置から撮影)
                                        


                             撮影:7月17日、2014

麦畑だったところは褐色のまま。休耕? ちょっと気になりますな。 でー、
麦秋を演出した跡はどうなんてんのかと、上の写真の真ん中の一筋の
田んぼ道から見てきました。

その麦畑、そこは大豆畑に変わっていました。 土手を隔てて水の都だっ
たところには稲が青々と育っていました。 ちょっとしつこい拘りでした 



    写真の下部は田んぼ 稲が青々と。 上部は大豆畑

上の麦秋、山のどの辺から撮ったん? 
上の風景写真は、そうやなー、まあ8合目に相当でしょうか、大きな
岩に身を寄せて撮りました。 山麓からもよく見える岩です。



 
  国道8号線からも山頂部に見える岩          その一つ登山道にある岩

三上山は兎に角大きな岩の重なった山です。その岩の一部は麓、国道
8号線からも見えます。麦秋の項の写真はその一つ、登山道にある岩
(上の写真の矢印)から見下ろした風景です。

ならば、うらじろ があります・・お花は見当たらない
この時期、登山道からは色鮮やかなお花は目に入りません。 この山は
お花の山とも語られているのですが。 そのぶん、うらじろが頑張ってい
ます。 三上山はうらじろの群生地帯で、全山山頂付近までうらじろでぎ
っしり覆われています。



       ところで、うらじろの葉っぱは何年で役目を終えるの?


                      
                   新旧交代ですな

登山道沿いでは上下の写真のように混在して見えます。 山の斜面で
は枯れた葉っぱ見えないがどうやら緑の葉っぱの下に隠れているよう
です。
                      




                                   春先のうらじろ の赤ちゃん


登山道の両側が うらじろ 。 これ演出やおまへんでー、でもお見かけしたような

         
今日、7月21日、この白いお花を登山道の遠くで見つけました(望遠撮影です)

登山道、結構急登です(迂回コースもあります、ご安心を)
この登山道は花緑(かりょく)公園側登山道です。 直登コース(健脚)と
迂回コースが整備されています。 

        
       直登コース、かなりの急坂です。  山好きはこちらを  
          
(カメラ仲間へ: 前上がり、まあまあの感じが出ました)


                             雨後の登山道

気になるんよなー、いつも通う道で


  地球誕生から今日までここで挟まり立ちしてんの? (登山道の5合目相当)
三上山は地球誕生時のカルデラの一部が残った、残丘と言われてい
ます
現在の三上山はその後の地殻変動を経て今日の雄姿を見せて
います。でもこの巨岩、
落ちんといてや、この下も登山道なんやから、
頼んます。  (末尾に関連情報があります)

お友達の石灯籠


                               撮影:6月3日、2014

写真仲間の一人がなんでこんな石灯籠をいつも撮ってるんや? と。
なんでってーぇ、それはな、年間何十回も傍を通っているうちになん
か親しみを感じるもんなんよ。灯篭を眺めていると 綺麗な光が当た
ったり、若々しい草を纏ったり、雪帽綿子を被ったりとね。 登山口、
妙見堂跡の石段沿いにあります。


                              撮影:7月17日、2014

木漏れ日の登山道が急に開けて


         花緑公園登山ルート  一か所ぱっと開けています


                    これなんです

他にもこれほどではないにしても、何か所もこのような光景が登山道
で目に入ります。 三上山は岩が重なってと冒頭で表現しましたが、
表面の土が風雨に流されて特に大木は立っていることが出来ずに
あっちこっちで傾いていたり、すっかり倒れています。しっかりと根が
張れないんですね。中には太い根っ子が巨岩に絡み、しがみ付いて
いるものもあります。


                    ぽっかりと空(ここはこの空の字で)いています


                 こんな光景も、寄りかかった右の木は枯れています

三上山誕生について
火山活動のマグマの貫入によって古い地層が熱変成を受け、堅く緻密
になった岩体(接触変成岩)になったものといわれているそう
です。今か
ら8000万年くらい前、現在の地名でいえば、彦根、沖島、近江八幡、野
洲、永源寺を結んだ円形の大カルデラがあったのではないかといわれて
います。 

この三上山誕生については三上山を撮って40数年、八田正文先生
教えて戴きました。
 

       今日もご覧くださいましてありがとうございました

コメント (2)
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Kennyの歴史探訪:ちゃんと知りたかった雪野山古墳

2014-06-05 14:37:05 | 古墳

  極めて貴重な雪野山古墳
=日本で唯一、(ゆぎ)が完形で出土=
    雪野山古墳は希な未盗掘でした
   そして、出土した3枚の鏡です!
        Kennyの滋賀から情報発信
                 (この日記の掲載期間:7月11日~7月17日)

こんなにすごい、有名な古墳だったんや!と云うお話です


アンテナを張っておれば~
何年か前に里山気分で雪野山登山をした時にその山頂部が古墳
と知り、その内再度訪ねたいと機会を待っていました。  幸い過日、
竜王町地域振興事業団(でいいのかな?、竜王町教育委員会)主催で当古
墳の探索ハイキングがありましてね、 感動ものでしたよ!

 
                   雪野山、雪野山古墳の航空写真  (当日配布の資料より)             

なんでそんなに有名?:
鏡、靫、その他出土品多種、等々
雪野山古墳の最大の興味、特に考古学者にとっての魅力は、
ある
鏡” が出てきたことです。それは古墳年代もいつの時代
(前期、中期、後期)、また誰の古墳かを探る上で大事
手掛か
りになります。 さらに長大な竪穴式石室であることです。

また
靫が完全な形で発掘されたこと、石製品を含む
数々の出
土品
です。雪野山古墳は古墳時代の研究のメッとなりました。
発掘調査の最初は20年前に遡ります。

数々の出土品 (品数が多いのもこの古墳の特徴)

               

用語           靫(ゆぎ)                 鏡
     弓矢を入れて背に負う矢筒       豪族の権威の象徴
    
                                             (どのような鏡が与えられているか)    

 

雪野山古墳とは
滋賀県近江八幡市、東近江市、竜王町にまたがる標高308.8
m雪野山山頂部にあります。古墳は前方後円墳です。4世紀前
半に作られた古墳と考えられています。 今から1700年も前の
事です。

     

    雪野山古墳: ウィキペデアは ここをクリック してください

雪野山古墳は格式の高い豪族の墓
それは、長大な竪穴式石室にあります。このことは非常に格の高
い埋葬施設を意味するのだそうです。 そして極め付けはです。



この地にこんなすごい古墳が:ある鏡の出土
この古墳から三角縁神獣が三枚も出てきたことが大きな根拠です。
その鏡は邪馬台国の時代に卑弥呼が中国の魏から貰った鏡ではない
かが通説となっています。 たかが鏡、ではないこの代物が・・・次へ


          鏡が出てきた様子                  靫(ゆぎ) 出土の様子   

大和政権とのつながり: なぜこの地に、話は佳境に入ります
その鏡が、邪馬台国から大和政権に受け継がれたというのです。
大和政権にとってはこの地湖東は東方戦略上、交通の要衝、要
にあたる重要な地域だったとの考え方です。 当政権は湖東地域
の豪族とよい関係(貴重なその鏡をこの豪族に与えた)、
を築く必要があ
ったのです。

ここに埋葬された豪族が中央政権(大和政権)と結びついた豪族で
あり、その格式の高さが伺えます。それが滋賀県では一番最初に
築かれたこの地、雪野山古墳の背景です。

 
      埋め戻された古墳             教育委員会専門員さんの解説

大和政権の技術者の伝授
当時近江にこのようなお墓を作る技術はありません。上述の経緯から
石室を作る技術も含め大和政権との繋がりのある、正にこの地域に造
られるべくして造られた有力な古墳だと云えるわけです。


探索ルート

 
                    当日の探索コース                  拡大します

       雪野山古墳ハイキングのHPは ここをクリック してください


                        現地の案内板は新しくなっていました

引用写真:このブログに使用の写真、絵図は、下記から拝借しました
              「雪野山周辺の古墳めぐり」(竜王町教育委員会編) および
        「現地の案内板」

記載内容の参考文献:「古墳時代前期の王墓 (現地で購入の書籍)
(ブログでは参考と云うより私の表現での記述すが、
この書籍の抜粋丸写しです)

 

ついでにこぴっと知っておくか・・
参考書籍(上述)の福永伸哉先生の記述から引用

古墳時代とは:
西暦250年から600年。つまり卑弥呼がお亡くなりになってから
太子が活躍する7世紀の始めまでの約350年の時代。従い、古
時代は大和政権(今は大和朝廷とは云わない)の時代とも云われてい
ます。

嘘をつかないのが遺跡
当書籍で執筆されているお一人、福永伸哉先生は、古事記日本
書記
はある意味事情ありで書いたりする部分があるけれども嘘をつ
かないのが遺跡
だと仰っています。雪野山古が西暦300年前後
であると云ったのは、副葬品、埴輪、焼き物、古墳の造り方、形態な
どから古墳の年代が25年単位くらいで分かるようになったからだと。

    お断り:   前述の書籍の論文を部分的に引用して私が勝手に概要を組み
           てていますので、勘違いや端折り過ぎなどで間違いもあるか

           も思いますがどうか素人の備忘録とお許しください。

                     参考(引用)
の書籍で、各先生方は 「・・・という学説もあるが、与
           えられた講演時間
の関係で、各先生方が取っておられる説でお
           話します」、とい云う文言が随所にあります。


           私の文章で末尾が「です」と断言していますのも、”
・・だそうです ”
           とお読みください。 殆どが引用です。


  雪野山古墳のある雪野山山頂から私達の町、野洲市にある三上山の山頂部がくっきりと
 

       今日もご覧くださいましてありがとうございました

 

 

 

コメント (4)
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Kennyの苦手:お花便り

2014-06-05 14:28:02 | 花便り

   あじさいがきれいですね
ところが私お花は苦手、被写体としての花、花の名前を
覚えるのも。登山にはお花はつきものなんですが。でも
そんな
ことではあかんので今日はお花に挑戦です。
           (この日記の掲載期間:7月4日〜7月10日)

友からはこんな声も聞こえます
あんさんのブログ、城跡、
信長、朝鮮人街道もまあかまわ
んけど
ココナッツミルクの話の方がもっとええよ(最近取り上げ
た私のブログのこと)。
あるいは
雲ノ平に行くんやろ、話し聞かし
てや、と。 つまり文系ばっかりやってんと、好きな山もの
の話題も提供しなはれ、です。例年ならば今の時期、10月
までは大好きな山の便りが多いのですが、今年はねぇ・・・。


    
                     2012年10月 笠ケ岳への尾根
            いいなー、いいな~~、もう  、でも今シーズンは絶望


やまーぁ、ハイ松褐色の岩肌
もうたまりまへんな、この高峰の景色。3000m級、事情有りでか
れこれもう一
年は近づいていません。でもね、野洲市には上山
があります。そこへ行けば三上山仲間と会える、そして一
緒に登
山が出来ますんで、まあ寂しくはありません。ありがとう、三上山! 

  
       日本でも有名な古墳、雪野山山頂からみた三上山
             
  (当古墳がなぜそんな有名?は近々UPします)

来年の今頃は雲ノ平を膏薬なしでしゃきっとして歩いてみ
せようではないか
!” ん? どっかのBS山番組, あの低音
 のおじさんのセリフ・・・。  (私、実はどてんー、イテテーでして 

でー、登山編に代わってお花に挑戦ですーぅ

芦刈園 (守山市) 

   
  
        おっ、ええやん、絵になってる、と 我々はシャッターを

ここはあじさい公園ともいわれており、広い公園内がとっても華や
かでした(6月25日)。





その日はもう昼下がり、おまけに空梅雨でほとんどのお花は元気
がありません。木立ちの中にふりそそぐ木漏れ日のアジサイを選
んでみました。



           芦刈園のHPは ここをクリック してください



花緑公園・植物園のバラ(野洲市)

       
             四季に亘りお花、珍しい植物がいっぱいの植物園 

私よりも年齢的にうんと大先輩のおばーちゃんをお連れしてのバラ
鑑賞ですね。 ちょっと微笑ましい雰囲気、光景を追って。




 

三上山はウラジロ群生のお山です

   
          両側をウラジロに囲まれた登山道  三上山

三上山はウラジロの群生地です。今は綺麗な緑が木洩れ日を受
けて
一層輝きます。



 

 我が家のゴーヤ、琉球アサガオ カーテン

       

アサガオは今年で3回目、ゴーヤは初めての挑戦です、といって
も家人が。
私はゴーヤはちょっと・・・、でも食べさせられるんやろ
うな。 私は とる
のは写真だけでいいんですが。


       今年の木の芽の役目を終えて・・・。 朝 夜半からの雨に美しく


                        ケイトウ でしょうな、庭に これも家人が

 

        今日もご覧くださいましてありがとうございました

 

 

コメント (6)
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Kennyの歴史探訪:朝鮮通信使

2014-06-05 14:21:36 | 朝鮮通信使

  朝鮮通信使、近江編 
   
近江を豪華絢爛、列をなして
    朝鮮人街道 & 雨森芳洲
  Kennyのそうやったんや(◎_◎)/

 郷司 泰仁先生(香雪美術館)、ありがとうございます

      Kennyの滋賀から情報発信
     
(この日記の掲載期間:6月27日~7月3日)


                        郷司 泰仁先生(神戸市 香雪美術館)
        
ちゃんと知りたかった朝鮮通信使
野洲市歴史民俗博物館、
通称 銅鐸博物館で有難い講演があり
ました。 講師は神戸市の香雪美術館、郷司 泰仁先生です。
今までも機会はありましたが、今回ほど表題に絞った初心者にも
分り易いお話は初めてです。 目からウロコの講演でした。

 
              朝鮮通信使図                          上の写真拡大します
                                                          (写真の上をクリックしてください)

             
朝鮮人街道って滋賀にはありますよね
野洲市
で中山道から分れて彦根市の鳥居本で再度合流する道
で、約41.2km
あります。近世の脇街道である彦根道(ひこねみ
ち)、京道(きょうみち)および八幡道(はちまんみち)の異名です。

             
        標石  左八幡道 右中山道(蓮照寺境内に保存) 私の撮影

中山道が安土城下を経由しないため、織田信長が岐阜城から安
土城を経由して京都に向かう道として整備しました。


        左 八幡道(朝鮮人街道) 右 中山道   私の撮影

上の標石は元々前方の家の付近にあったそうですが洪水で流さ
れて、発見後今の所(近くの蓮照寺境内)に移されました。


徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利した後、佐和山より永原に至り
上洛凱旋する際この道を通り秀忠もこの道を用いて永原に逗
留し軍が整うのを待ち上洛した。このため縁起が良い道と認識
されます(以上、一部はウィキペディアからも抜粋引用)

                 
                  中山道・朝鮮人街道 の分岐の標識  私の撮影


      彦根市鳥居本で中山道と合流 鳥居本の標石 
  (過去の野洲市歴史民俗博物館友の会、講演会の私が保存記録より)


         情報 更に詳しく、の:
   朝鮮人街道に関しては ここをクリック   してください
   朝鮮通信使に関しては ここをクリック してください          

将軍以外では唯一朝鮮通信使の通行が認められていたため
、この道は『朝鮮人街道』と通称されるようになりました。(後述)

この道を通った朝鮮通信使とは?
江戸時代、慶長12年(1607)から文政8年(1811)までに12
回、李氏朝鮮国から日本に送られてきた使節団です。

 
             朝鮮通信使の行程                      拡大します
  (許可のもと、スクリーンを撮影し、私が赤で文字を入れました)

以下超硬い出張レポートですな、忘備録なもんで、ごめんね

使節団の目的:
日本側(徳川幕府):
朝鮮通信使を招くことにより
①徳川将軍家の諸大名への権威誇示
②中国(清)の情報を得る
③朝鮮貿易の振興
④同使節の接待により各大名の財政の負担を増やす
 (武力増強などへの資金を押さえることが可)

 
          京都への川舟の様子か  幕府の役人も見えます    拡大します
             (天和度朝鮮通信使上判事第一船図)

      この絵図の関する情報は ここをクリック してください


朝鮮側の目的

①日本を探索(土地、町の記録、絵図)
②朝鮮の背後にいる中国に対する外交姿勢
③貿易の振興
④日本の文化を導入
⑤家康に敵意がないかの探りも:過去の秀吉の影響


     日本の風景を絵師に記録をさせた 下は富士山

通信使のメンバー:
少ない時(文化度)で328名、多い時(慶長度)で504名。そこ
に日本の対馬藩(受け入れ担当)の人数がプラス。正使から通訳、
記録など文才のある者や画員、医員、馬術の達人、馬の世話人、
奏楽師、料理人、操船人、進物、などなど・・、随行人が他にも
(スペースの関係で端折りました)。もっとも全員が江戸まで行くこと
はないそうです。

 
 近江でのルート 野洲からは朝鮮人街道へ(赤い文字・線) 拡大します
    (許可のもとスクリーンを撮影し、私が赤で文字を入れました)

近江のルート:
京都を出発後、大津ー草津(から中山道)-野洲ー近江八幡ー
安土ー彦根ー鳥居本(再度中山道)-摺鉢峠ー番場ー醒井ー
柏原ー岐阜

どうして中山道ではなく朝鮮人街道を通った?
先生は詳しいことは答えられないとしながらも、なにせ国賓です。
信長や家康だけが通る事を許された街道を最大級のもてなし
一つとして選んだのだろうと。 そういう事だったんだ!


              この望湖堂のある摺針峠も通っています


おもてなしの膳(過去の当歴史民俗博物館友の会での私が保存の講演記録から)

雨森芳洲が大貢献:
滋賀県長浜市高月町雨森
の出身です。現地には芳洲庵があり資
料が揃っています。木下塾で新井白石らと同じ時期に学び、幕府か
ら対馬藩に派遣、江戸藩邸に任官。来訪時には受け入れに従事、
二度、通信使の真文役(通訳兼書記のような役)を務めてい
ます。新井白石は使節団の費用に手を掛けますが、失脚後、元に
戻して朝鮮外交など善隣友好外交の重要性を説きます。

いますなー、滋賀県には多くの歴史を作った人物が・・・・。


                          1幅 高月・芳洲会

 情報、更に詳しくの:
 雨森芳洲庵については ここをクリック して下さい

誠信の交わり:
郷司先生は中世だったか、近世だったか美術の専門家で、このよ
うな角度から通信使の様子も紹介されました。


            通過する通信使と交流する道端の住民?文人?

通信使の宿泊所や休憩所には、日本人の文人たちが面接を求め、
筆談唱和などによって交歓が行われた。通信使側は三使(正使、
副使、従事官)、堂上官(通訳官)、製述官、書記、写字官などが
対応した。

もっと詳しく
手元に当日配布のレジュメがあります。まだまだ情報満載です。
これほど親切なレジュメはあまり見かけません。講演でもこれでも
か、これでもか!と パワーポイントも使い情報を提供されました。

今日の日記には私が先ずは知りたかった内容につき、取り上げ
ました

感謝します
郷司 泰仁先生、そして年間を通してこのような催物を企画して下
さる、野洲市歴史民俗博物館友の会(私、Kennyも会員です)に
感謝します。なお、この日記の掲載に付いては両者のご了解を頂
いております。 

使わせていただいた絵図は郷司先生のお許をいただき、スクリー
ンに映された資料を撮影させていただきました。 出典はそれぞれ
の絵図にあります。


     講演会場の野洲市歴史民俗博物館(銅鐸博物館)  2013年秋の撮影

お断り
聞き違い、勘違いで間違いが多々あると思いますがどうか
ど素人
の講演メモとご容赦ください。

  今日もご覧くださいましてありがとうございました


  

 

 

 

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Kennyの国際交流:インドネシア料理に挑戦

2014-06-05 14:21:21 | ちょっとした話題

  インドネシア料理に挑戦
   =ココナッツミルクをたっぷり=
   どちらかと云えば屋台で戴く料理だそうです
     野洲市国際協会、会員さんの直伝で
        
 Kennyの興味プラス挑戦 & 発信
            (この日記の掲載期間:6月20日~6月26日)

         
           インドネシア国旗

国際交流会ではこんな催しも
私、Kennyは7年前に暇になるのが嫌なのと、
もう使わなくなる
もどきレベル英語がガンモドキ(意味不明? ガンモドキに失礼か?)
になるのがもっと嫌で、当交流会のお世話になりました。なんと
毎年嬉しいことに、いろんなイベントを開催されます。その中に
珍しい料理の紹介、外国編があります。


   出来上りの写真で今日の料理の解説です    頼もしいー ガルーさん!
         
今回は当会員のガルーさんの直伝です
ガルーさん
はご縁あって日本に住まれてもう13年、すっかりと日
本に、そして野洲市での生活を満喫されています。お互い中退組
ですがギター教室でもご一緒させて頂き、皆で結構楽しくやり
ました。とっても明るく気軽に話しかけてくださる、私よりも相当お
若い奥様です。


        そして料理の手順を手際よく  戴いた手製のレシピを真剣に
                
挑戦した料理は4品とかき氷        

 
ミーアヤーム (チキンの甘辛かけ麺)  ガドガド (ピーナッツドレッシングのサラダ)   

 
 ウインコ (ココナッツのおやき)                ランダム (肉カレー)

           
      エスチャンブルー (インドネシアのかき氷)   ランダムのレシピ
                                                                 (クリックで拡大します)

ココナッツミルク! なしでは料理は成り立たない?
実は私の今日の一番の興味はココナッツミルク(以後、これ)でした。
インドネシアはもとより、南国では本当にこれは大事な食材なん
ですね。 料理にお菓子にと。 

 
      ほんにこりゃーミルクやんか      紙パックでも売っています

失礼してちょっとぺろりと舐めてみました。 なかなかいいやない
ですか!! 隠し味に? ほんのりと甘く、まろやかな味が・・

さて料理開始


      ベテラン主婦さまもインドネシア料理となればちょっとレシピで確認も


                      私達男性も数人参加です

配布のレシピとにらめっこ、材料を刻むところから開始です。
”ガルーさん、こんでいいの?”  なんてでき具合を見て貰いな
がら進行していきます。 私、Kennyも女性陣の補佐役に留まら
ず、包丁も器用にさばき(自分でいうのもなんですが、結構やりますよ)、
鍋をかき混ぜ、洗い物もしっかりやりました。

お米を使った料理、お菓子、& インドネシアの紹介です


       作った料理の試食の後、ガル-先生のお話と生徒の交流です

インドネシアと日本、似通ったところもありましょうが、文化、習慣
は違って当然です。 ”主食はお米です” と。 でもお米は日本と
同じように頂くこともあれば、料理やお菓子の食材として日常は
使われるとのことです。暖かい国だから年間何度も収穫できるの
もいいですね。

 
                    ココナッツの木と実

庭に、山に行けば簡単に手に入ります。自身でココナッツ
ミルクに加工もしますが、お店でも加工品が売っているそ
うです。
       ココナッツについては ここをクリック してください

こんな和気藹々の料理教室でした。勿論会員でなくても色
んな行事に参加できます。 野洲市国際協会にお問い合わ
せください。

今回この日記を取り上げましたのは
日本には、滋賀県には多くの外国からいらっした方がおられ
ます。 永住、滞在期間もいろいろでしょうが、私達の日本で
素晴らしい思い出を作って頂きたいと願っています。ガルー
さんはこのように日本の、周辺の住民と積極的に交流されて
日本にすっかり馴染んでおられます。 その一部を紹介した
いと思いました。

なお、
このブログは私、Kenny個人が管理するブログで当協会
のブログではありません。 今回の日記の掲載に関しては
協会、ガルーさん両者の許可を頂いておりおります。

先日(18日)の朝刊に 「インドネシア ビサ免除」 の記事
がありました。 両国の信頼関係からくる決定です。 ガルー
さんはそのお国の出身です。

  インドネシアについては ここをクリック してください

     私がこのブログで前回取り上げた当国際協会のイベント
                  ここを クリックしてください

  今日もご覧くださいましてありがとうございました

 

 

コメント (6)
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