勝敗は城の規模、堅固さとは関係ない
=長谷川先生と歩く柴田勝家の陣城:玄番尾城=
実に綺麗、見事に管理保存された城址で、始めての方にはお薦めです
(この日記の掲載期間:6月17日ー6月23日)
主要な門の跡がこれだけしっかりと残っています
玄蕃尾城(げんばおじょう)とは:
「羽柴秀吉と雌雄を決する場所、あるいは領国越前を羽柴勢力から防衛
する為に強力な防衛拠点を築いた」と長谷川博美先生は解説されてい
ます。柴田勝家が置いた陣城(本陣)が玄蕃尾城です。滋賀県と福井県
との県境、余呉町柳ケ瀬の北西、内中尾山にあり、尾根伝いには他にも
強力な砦(行市山の佐久間盛政の砦他)を築いて羽柴秀吉との長期戦に
備えました。地元では遺跡名称の玄蕃尾城でこの城址を呼ぶ事の方が
多いようです。
幾重にも走る土塁の中を見学する参加者
土塁:敵の曲輪(主郭などのある区域)への進入を防ぐ盛土の囲い
今日の日記のキーワード
なにせ目を見張る現場、そして長谷川先生のこれでもか、これでもか
の目からウロコのご案内にその全てをここに書ききれないんです・・・。
私はこの日記の公開が終わったら、追記をして教わった全てを記録し
ておこうと思っています。 そこで、今日の感想文は以下の通りです。
見学し易い現場
お聞きするところ、定期的に草刈や掃除をされているとのことで、夏場
で普通ならば草木が生い茂るところ、いつでも城址の様子が一目瞭然、
見学し易いように配慮されていることです。当日も本当にびっくりしました。
今まで訪ねた城址ではなかったんではと思います。なお、この清掃の
本来は、勝家を崇めて福井市(の皆様でいいのかな?)挙げての取組み
だそうです。
堀切の前で:雑木もなく綺麗に整備されています
なぜこんな不便な(?)ところに?
なぜ越前の関門と言える刀禰(とね)坂ではなく内中尾山に城を築いた
かと途中のバスの中で先生が参加者に意地悪く(笑)課題を与えます。
その疑問はこの玄蕃尾城の本丸跡に立って初めて理解が出来ました。
羽柴秀吉の本陣木之本と田上山(県立伊香高校の裏山)を明確に視認
する事が出来るのです。勿論勝家が開削した北国道(現国道365号、
北国街道)が下に開通していた事も見逃せないとのことです。
本丸から羽柴勢本陣のある木之本、田上山が見通せる
それにしても堅固な守備体制
軽いリュックの見学者でさえ容易には登れない(他の城ではそうでもない
ような?)深くて急な堀切。それも長くて幾筋も切られておりまた、土塁は
高く幾重にも積まれています。兎に角これほど大規模な、もうこれは本陣、
陣城というより居城と言った方がふさわしい規模であると素人の私の感想
です。先生はこんな城を持って戦いに敗れるとは本来は考えられない
よね、と仰います。 当時の合戦はその殆んどが裏切り、寝返りで勝敗が
分かれたと勝手に解釈しておりますが、勝家の敗戦もそこに理由があった
のかな? この城も使用期間が1年にも満たなかったと「近江の山城」
サンライズ出版、に書かれています。
堀切が二重に儲けられています
どうしてこんな大土木工事が:刀狩
重機のない時代です。しかしそこは大国越前ゆえの大量人員が可能です。
興味深いお話しは刀狩で農具として農民に還元。鋤鍬(すき、くわ)の
土木工具が充実していたからだと先生のお話しです。 この刀狩は秀吉
よりも勝家の方が早く実施していたとの事です。
深い掘切の底に立つ見学者
見事に残る城址
噂には聞いておりましたが、さほどお城址なんぞに興味がないと言う方々
でも、ほー、これがNHKの大河ドラマ、「江」の時代のお城の跡かと目を
見張るであろうと思われる見学場所です。今まで見てきた城址の中で
一番分かりやすいことは間違いないと思います。
先生のレジュメの一部 同、想像上の建物を入れた縄張り図
(両資料共、掲載については長谷川博美先生の許可を頂いております)
長谷川先生のレジュメ、縄張り図
今、このレジュメを手元に置いて日記を書いています。長谷川先生の
レジュメは普段よくセミナーなんかで頂く言葉を羅列した物ではなくて、
家に帰ってから読んでも分かるまさに教科書そのものです。聞き漏らして
も大丈夫なんです。それと今回は推定される建物入りの縄張り図も用意
されていました。これは助かります。正に歴史のロマン、あの髭ぼうぼうの
勝家さんが、ようこそと迎えてくださっているような有意義な城址見学会
でした。
主催:ウッデーパル・城郭フォーラム
事務局:ウッデイパル余呉 http://woodypal.jp/
講師:長谷川博美先生 http://h-hasegawa.jimdo.com/
城址へのアクセス:「玄蕃尾城」で検索できます。車以外では
ちょっと不便かも・・、鈴(熊よけ)もお忘れなく
今日もご覧くださいましてありがとうございました