祝 古文書「菅浦文書」国宝 に指定
滋賀県長浜市西浅井町菅浦
Kennyの滋賀から情報発信
我が故郷からまた国宝が!
旧伊香郡(西浅井町、余呉町、木之本町、高月町)からまた国宝が出ました。
高月町には 国宝十一面観音(渡岸寺)があります。滋賀県内では1966年
以来52年ぶり。 県内の国宝は計56件となったそうですね。
琵琶湖から見た菅浦集落
さて、今回の古文書「菅浦文書」とは
西浅井町菅浦に伝わる鎌倉時代から江戸時代にかけての古文書だそう
です。
菅浦の所在地図
ぼちぼち、ね
指定を受けたのは、菅浦文書千二百八十一通と、菅浦与大浦下庄堺絵図
(すがうらとおおうらしものしょうさかいえず)一幅。
それって、一体なに?
菅浦文書とは、惣(そう)と呼ばれる中世の村人による自治組織が書き
残した集落の共有文書群の事です。集落運営の規則を定めた村掟(むら
おきて)や、田地をめぐる隣村との争いを村人が記録した合戦記などを
言います。
菅浦惣庄合戦注記 (拝借:現地資料館の展示資料)
菅浦文書のうち絵図は、
南北朝時代に、菅浦が、隣り合う大浦と両者のほぼ中間にある田畑の
所有権を巡って争った際、菅浦が自分たちの正当性を主張するために
描かれたとされています。
菅浦与大浦下庄堺絵図 (拝借:長浜市HP掲載資料)
絵図の右上部に赤い線を引き、この位置までが菅浦の地だと強調して
あります。
現地資料館
ところで、この文書がなぜ国宝に? こんな小さな集落の・・
それは、村人、庶民が書いた記録文書であることが重要文化財
から格上げされ 国宝指定となった大きな要因です。
全国津々浦々、古文書は数々発見されますがそれらは、偉い方、
その道に通じた方が書き残した古文書です。
この項は義姉(歴史にも精通)がブログを見て、連絡をくれました。
お蔭で菅浦文書の価値が国宝である理由が理解できました。
今回話題の 古文書、絵図の概要は以上のようです
菅浦はこんな所です
現地案内板
では、菅浦の様子です。なんと言っても四足門ですね。
四足門
(注)掲載の菅浦集落の全ての写真は2013年の撮影です。
東と西の入口に茅葺きのその門があります。4脚で、中世から明治維新
まで集落の四方の入り口にあったことから四足門と呼ばれており村の出
入り口にある事で検札が行われていたと言われています。
このように岩石の重みで門を支えています
外敵侵入など、非常時にはこの門を倒して道を塞ぎ防衛したと、確か
2013年の講座で教わったように記憶しています。
他にこれらは村の内と外を分ける役目をはたしていた。中世の村人は、
山の中には悪い病気や人を不幸にする神々が住んでいると信じていた。
それらが村の中に入ってくることをたいへん恐れ、この門で防ごうと
していた、とあります。(長浜市HPの記載を引用)
須賀神社
淳仁天皇菩提寺跡
淳仁天皇、須賀神社
奈良時代の話、恵美押勝の乱 が元で皇位を奪われた第47代淳仁天皇
は淡路国(淡路島)へ流されたというのが伝承です。
一方、淳仁天皇は淡路国ではなく淡海(滋賀)に流され、菅浦で廃帝
となった天皇をお守りしてきたと今も語り継がれ、集落の西に建つ
須賀神社は淳仁天皇の御陵とも云われています。
その他にも
浅井長政 由緒の安相寺
万葉集
長浜市のHP:菅浦文書
クリックしてください
お断り:このブログは国宝指定のお祝いを目的にUPしました。
記載内容は過去の講座の記録、びわこ放送定時ニュース、
京都新聞他の記事を引用して書かせて頂きましたが聞き
違い、勘違いなどで間違いがあるかもしれませんが、素
人の挑戦とお許しくださいますようお願い申し上げます。
(参考資料)びわこ放送定時ニュース、京都新聞滋賀版、ウィキペディア、
LINEトラベルHP、長浜市HP
今日もご覧くださいましてありがとうございました
(2018年11月1日UP)