趣味・興味プラス挑戦

郷土史、登山、スキーなどを写真と共に書き綴っております

Kennyの釣り日誌

2012-09-25 12:23:09 | 釣り

ちょっと楽しむにはいいです、釣り
=孫と一緒に遊べる時期を終える少し寂しい爺の日記=
  
       (この日記の掲載期間:9月28日~10月4日)



       小雨が降る 「
鞠山釣り公園」 ぎっしりの釣り人

前の晩から出かけてきました、鞠山釣り公園(敦賀新港)
孫と云う歌があります、兎に角可愛いもんです。ところがそやから云う
てもせいぜい小学校4,5年生位までしか私達爺ちゃんには付き合っ
てはもらえません。 これまでのようには・・・。ちょっとだけ寂しいな。

もう孫も独り立ち
今まではパパママが多忙で代行なんでしょうが(いや代行です、パパママ
がいいに決まってます!)、
とにかく意のままに付いてきました。乗り気で
なければチャリンちゃりんと日頃なかなか買って貰えない物をちらつ
かせてね、しかし・・・、今回は孫は一人の参加です。バスケじゃなん
やで付き合えないと・・。 そうかーぁ、もうぼちぼち孫とのお遊びは
終わりになってきましたなー。メールで、今回はごめんね行けないの
と携帯メールでっせー。


    この写真は晴れた朝、昨年の風景、正面に西方ケ岳(764m)

ちょこっと楽しんで ”来ました”、子供が喜ぶサビキ釣り
サビキ釣り
が毎回よくつれる釣りなのかどうかは通ではないのでわか
らないのですが、だいたいは結構釣れ小あじが殆どです。それでいい
んです、孫はどんどん釣れて大喜び。私はその日の昼、晩は小あじの
料理で好物をご褒美でたんと頂けます。それがたまりませんな最高です、
なんせ魚はとれたてです。
  
     三尾かかってきました           釣りを初めて10分後

サビキ?
手元の釣り入門書では、釣りの初心者に最適な釣り方。特長はマキエ
カゴとサビキバリ。サビキバリとは餌に似せて作った疑餌バリのこと。
カゴにマキ
エを入れて投入すると海中に煙幕を作り集まってきた魚は
エサと間違って疑餌バリに食いつくとありまして、全くその通り私のよう
な初心者にも簡単に楽しめます。


    釣竿以外にたったこれだけ(つりバリと餌カゴ)でOK

成果は!
孫は大喜びで堪能、バケツとは云わないまでも洗面器に一杯の小あじ
です。前の晩から出かけて駐車場でキャンプよろしく簡単な晩飯、少し
夜の海辺、港、釣り場を散歩して早朝に備え就寝。今回は二人なので
ワゴン車の後部物置で十分の広さ。それ以上の人数だと持参のテント
になります。前の晩に出掛るのは釣りは朝が早いからとその方が楽し
いです。キャンプと釣りの両方、それも海が珍しい滋賀県人なもんで。

     
      餌の煙幕に群がる小あじなど (写真は画像処理)

     
         おや? ハリが口ではない 背中に・・・?

そうなんです、魚が群がって激しく動くために針にひっかかって上がる
場合もかなりの頻度で起こります。でもこれも釣りですよね・・・・


釣り用具は簡単です
リール竿の糸に6個の釣バリが付いた糸を結んで先端に餌カゴ(重り
兼)を付けるだけです。カゴに入れる餌はオキアミ(形はエビみたいで
すがそうではないようです)で冷凍にした塊りが釣り具屋さんに売って
います。竿はこの釣り場では琵琶湖のバス釣り用の短い竿でOK。
釣り場は防波堤で真下に魚がうようよしています。

    
        幼児の釣人、パパの手ほどきを受けて

投げ入れれば釣れます
早朝の内はお魚の食事タイムなんでしょうね、そんな感じで10分もす
れば写真の通りです。ただ日によっては全く釣れません。その辺を
小さな子供には説得しておかないと駄々をこねられることになります。

なんやかんやで6時前から9時頃まで
野洲市から敦賀市の釣り場まで車で1時間30分、手軽でしかも近く、
しっかりと釣りを堪能して帰路につきました。ここでの釣りはそれぞれ
の楽しみ方があります。まだまだ釣りを続ける方、我々が釣りを始める
頃に帰って行く方(夜釣りの人)、夕方のみ楽しむ方達です。さて、私、こ
れからは・・・・、釣り仲間と、こうなると今度は趣味の世界、大げさに・・。
 
  
     二基のガントリークレイン(コンテナの荷役)が稼働:敦賀港

            
釣公園の風景 写真集
            
(写真はクリックで拡大します)
     
      夜の海         大物を狙う通      夜釣りを終えて

    
  
     北海道へのフェリ             TAKE FIVE         イカ釣船の明かり
    
2年前にはこのフェリーで苫小牧港に渡り北海道の山々を歩きました。

     今日もご覧くださいましてありがとうございました

          次回は近江の一向一揆に纏わる舞台となった地を歩いて
        の
日記です。 どうか皆様のご訪問をお待ち致しております




 

 

 

 

 

 





 

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Kennyの郷土史:琵琶湖湖底遺跡

2012-09-16 14:12:06 | 郷土史

琵琶湖の底に遺跡がいっぱい
=その一つ葛籠尾崎湖底遺跡のお話= 
      県主催の歴史講座を受講して
        (この日記の掲載: 9月21日~9月27日)

世界的に見ても稀で琵琶湖の個性とか

 
   葛籠尾崎(つづらおざき)、左に竹生島       琵琶湖北端の赤い点が
                                    葛籠尾崎遺跡

  滋賀県文化財学習シート
滋賀県教育委員会事務局文化財保護課より)

私の故郷、葛籠尾崎:湖底から完形の土器が
葛籠尾崎(つづらおざき)、半島です。私kennyがその近くの塩津(現在
の長浜市西浅井町)に住んでいた時、その湖底に古い土器が一杯
埋まっているとぼんやりとは聞いていました。もっとも近くの賎ケ岳
合戦の方が地元ではもっと有名で誰でも知っている話題です。どうし
て? いずれ調べてみたいと思っていました。 


                    葛籠尾崎湖底遺跡出土土器
        写真:「水中考古学の世界」安土城考古博物館編より拝借

                                   
                                             土器出土箇所
                      (同学習シートより)

連続講座(滋賀県主催)で!
塩津を離れて以来何かの機会毎にぼつぼつと思っていましたがあり
がたいことです、期せずして過日滋賀県主催の講座でお話がありまし
た。講師は今回も大沼芳幸氏(前回は信長と大船について)
安土城考
古博物館副館長です。


                   (同書より拝借)

葛籠尾崎の湖底から縄文~平安時代の土器、漁師の網に・・
地元の湖の遺跡です。ぜひ知っておきたいです。さて発見された土器
はなんと縄文時代から平安時代だそうです。特徴を箇条書きします。

  ・水深数4m~70mに存在 ・大正13年に地元漁師の網に
  掛かってきた ・
土器の多くが完形(割れていない) ・口を上
  に向けて沈んでいる ・土器
に湖成鉄が付着している、など
   です。

さて、なぜ?、一番知りたいこと
大沼先生の私見は、難破説と祭祀の複合です。


                     (同書より拝借)

それは、
  ・地元では船の難所と怖れらていた ・丸木船の航行能力では荒
   波に弱い ・ところがその場所は琵琶湖航路の重要部分 ・危険
   なところゆえ航行安全への祈りがあったはずでこれを示唆する
   ように生活には役に立たない(捧げ物
土器が存在

その他の説
  ・地すべりによる湖中への落下 ・地震による遺跡の陥没 ・地震
   による遺跡の地すべり ・河川運搬説 ・水葬説 ・集積物廃棄
   説です。


            (同書より拝借)
当地には鉄穴(じんつぼ)遺跡があり、鉄生産にかかわる遺跡の可能
性も指摘されてきたそうです。


琵琶湖は運河
昭和初期まで、つまり現在の国道8号線や鉄道の普及までは琵琶湖
は日本で一番重要な運河として機能したことは明らかです。このブログ
でも取り上げた丸子船、塩津港、琵琶湖の津波で航行の安全を祈願
する神社が押し流されたなどの事実が証明します(この項はKenny)

 
 当日配布の資料(遺跡分布図)     葛籠尾崎、竹生島、塩津湖(同書より)

今回の講座では:琵琶湖には100カ所を超える湖底遺跡が
琵琶湖全般の湖底遺跡が対象でした。ただここではKennyの興味で
葛籠尾崎を取り上げました。お話では粟津湖底、唐橋遺跡、針江(高島
市)などなどの紹介がありました。詳細は「水中考古学の世界」 びわこ
湖底の遺跡を掘る にあります。(安土城考古博物館編)

 
       先に紹介の書物          湖底調査のご苦労、大沼先生も・・・

お礼とお詫び:
講師の大沼先生のお話を聞き違いや勘違いで日記を書いているかも
しれませんがどうか素人の趣味とお許しください。また今回は掲載写真
の全てを関係機関の書物からお借りしました。葛籠尾崎湖底遺跡の
詳細は上述の書籍や滋賀県文化財学習シートなどをご覧ください。


なお、当日記で本件を取り上げることについては主催者の承諾を頂い
ております。

      今日もご覧くださいましてありがとうございました。




 

 

 

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Kennyの旅日記:鵜飼

2012-09-12 21:29:41 | 

一度は見たいと思っていた鵜飼
  =宇治川の鵜飼、目の前で匠と鵜が= 
        
               (この日記の掲載期間:9月14日~9月20日)



      
JR宇治駅集合
こんな近くでやっているとは知らずでした。京都では他に嵐山でも
鵜飼を楽しむことが出来るんやそうです。メンバーは写真仲間の
集まりで、鵜飼を撮りに行こうが今回の目的です。さー、行くでー
のお声はカメラの大先輩で日が落ちて以降の写真作品では年齢
だけではなくて絶対に超すことが不可能と仲間内で評判のHAR
おとーさんです。感謝かんしゃ!


島喜撰橋畔の船溜まり
宇治公園の中にある島喜撰橋畔、まだ日は高いです。ゆっくりと
散策からその日が始まります。駅からの道中は流石
に京都、古
い宇治の町並みがこれから楽しむ伝統文化見物の雰囲気を醸し
出してくれます。やたらた紫式部の像や旗竿、提灯が目立ちます。
どうやら
宇治十帖と云うそうですが源氏物語の第45帖から54帖
までは主な舞台が宇治であるためのようです。

  

世界遺産に登録の平等院の横を通って行きます。お茶処です。
お菓子やアイスもグリーン色、この町のカラーかと思うほどです。

やがて日も落ちて
船に乗り込みます。篝火を吊した船、鵜、鵜匠の出番を待ちます
が舞台の周辺には火が入り川にその美しい明かりが映えます。
そしてゆっくりと主役が近づいてきました。これだ、これがテレビ
なんかで見ていた鵜飼なんだと!

 

船を貸切りにする訳、手が届くところの妙技にわいわい!
フラッシュが光らん、シャッターが切れん、ピントが決まらん・・・、
どないすんのやー、ワイワイガヤガヤ、全員60歳はとっくに超え
ていますが騒ぎまくり、船の中を動き回ります。勿論私、Kenny
もその大騒ぎの一人、花火でさえ撮ったことがありません。

あらかじめ得ていた知識通りには行きません。そりゃー同じ船に
他のお客さんがおられたらえらいことになっているはずです。他
の船も盛り上がっていますが、鵜、鵜匠の妙技に関してのもの
です。流石は長老様、経験の差ですねお蔭さまで遠慮のう秀作
が狙え・・。一方船頭さん、船から落ちんといてやーとニヤニヤ。

 
 感動の余韻にひたり提灯が並ぶ小道を当然ながら二次会に向かいます

後は映像でご一緒に
初めて観る鵜飼の実演、私は途中からカメラを膝の上に置いて
人間、鳥そして篝火の共演を楽しみました。作品は次回に再挑
戦と云うことにしまして(みえみえ)、そんな映像で申し訳けありま
せんが・・。今日の鵜匠さんはお若い女性でしたが、最近は結構
多いそうですね、声も良く通りだみ声よりはよろしいでー、歓迎 
楽しい1時間でした。


 

         以下の小サイズ写真はクリックで拡大します

    

    
                                                           お腹をすかせて
                                                                       出番を待つ鵜

友人の作品
今回一緒に参加のKUCさんがこれもご趣味の俳句を付けて写真
作品を届けて下さいました。彼の俳号は 徹子 さんです。KUCさん
ありがとうございます。


       

        鵜を掲ぐ女鵜匠の笑顔かな(徹)
                         
ご参考までに: ウキペヂアから抜粋引用

日本の鵜飼は、岐阜県、愛知県、京都府、愛媛県、大分県、
福岡県、など11府県、13箇所で行われている伝統的な漁法
である。
岐阜市ならびに関市の長良川河畔における鵜飼は、
宮内庁式部職である鵜匠によって行われている。
鵜飼漁をす
る人を鵜使いまたは鵜匠(うしょう・うじょう)と呼ぶ。その装束
は風折烏帽子、漁服、胸あて、腰蓑を身に着ける


     
        鵜飼の解説:現地の観光パンフレットのコピー
          鵜の写真はウキペデアより拝借

      今日もご覧くださいましてありがとうございました

                次回の日記は琵琶湖湖底遺跡のお話です
            どうかこれからもご訪問く
ださいますようお願いいたします

 

 



コメント (8)
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Kennyの郷土史:信長の大船と安土城

2012-09-03 19:06:20 | 安土城址

信長の琵琶湖戦略と大船
 =大船から安土城天主そして= 
    県主催の歴史講座を受講して
      
(この日記の掲載: 9月7日~9月13日)

またまたこれは一体なんですんや、このタイトルは?
これは滋賀県が主催されている近江を舞台にした歴史、文化全般
にわたる連続講座(多岐にわたり頻繁に開催して下さいます)のレ
ジュメのタイトル、当日の講座の内容です。


       信長が建造した大船 イメージ復元模型
 安土城考古、長浜城歴史両博物館編、「琵琶湖の船が結ぶ絆」より引用

今日は信長が神になろうとしたお話です
講師先生のお話を私なりの理解で短くまとめると、戦国時代の、そし
て信長のお話です。当時は周囲の大名と同盟を結んだり裏切りを繰
り返して領土を拡大していく時代です。その戦いに勝利して信長は室
町幕府を倒し強力な中央政権(織田政権)を確立。さらに右近衛大将
(征夷大将軍に匹敵する官職で武家では武門の棟梁のみに許される)に叙任し勢
力を伸ばしていきます。おおよそ天下を牛耳って更にその上の権威を
求める信長、しかし乗り越えられない権威、それは天皇。(一部ウキペデア
より抜粋引用)

それも天皇と同格以上でないとお気にめさない
それをも乗り越える権威は天皇と同格以上の神になることだと当時の
宗教思想を集大成し突っ走ります。それは東国の軍事的脅威(武田氏)
がほぼ払拭された段階から信長は権威の誇示に傾注したことを意味
します。

 
              同書、「琵琶湖の船が結ぶ絆」より引用

その権威の誇示、どうやって・・・、
琵琶湖に大船を浮かべます。そしてその船を突如解体して安土城
の築城へと進んで行きます。その城は石垣造りの元祖です。そして
天主には障壁画を。船(元々目的は軍艦です)、城(同、要塞です)、
天主は神殿?(元々はてんしゅは天守であり城を守る為の司令塔
です)、信長の造るもの、やることはどうもあやしいぞー??

 
        同上引用 浮かぶまさに箱船の大船

怪しい?
大船、
元亀4年(1573)に岡部又衛門に命じて巨大船の建造を命
じます。ところがその船は45日で完成させています。それも箱型で
ありしかも櫓らしいが大屋根がありと見るからに船としては不安定な
代物、水に浮く建物です。ところがこの大船は安土城完成の前に
解体してしまいます。同じく岡部又衛門に命じて建てた安土城、あの
金ピカでしかも城内は外から丸見えで且つ直線の大手道を無防備
にも何か所かの枡形虎口を隔て堂々と築きます。城外からはやたら
石垣(必ずしも石垣が土塁比、防衛に優れてはいない)が目立ちます。
天皇を迎える本丸(清涼殿と相似形)は天主より一段下にあります。

 
   天皇を迎える本丸が天主の一段下 (講座でのスクリーン資料)

 参考:安土城の大手道、扇形の石垣に関する日記(そのページ)

権威の誇示が目的で戦術的評価はゼロ
建造の大船は港湾設備がなければ機能せず、せいぜい定点間の物
資、兵を運ぶ程度。安土城は上述の通りで無防備。安土城がその後
の城郭の先駆となり以降は石垣が城のシンボルではあるが、石垣で
はなくて軍事目的の強固な土塁の城の例はいくつでも存在する。

 (参考)
 
   難攻な土塁の例(そのページ玄蕃尾城)この城には石垣はない

     玄蕃尾城の土塁 
  

   安土城
     
     
直線の大手道       枡形虎口          石垣
       
       
(これら小サイズの写真はクリックで拡大します。以下同じ)

    
   小谷城にも明らかに権威を誇示する石垣が

    
                               

 
 天皇を迎える前に本丸部分をを有料で民に見学させた(同スクリーンから)

ならば信長はこれら評価ゼロをなんの目的にしたの?
大船
は信長の力を視覚的に誇示し、これを見た者を承状させるため。
安土城は大船を上回る視覚的装置でありこれにより大船は必要なく
なった(安土城と大船の二つはいらない)。石垣はその他の金箔瓦
絢爛豪華な装飾と同様権力の誇示以外の何物でもないとわけです。

         
            金箔瓦       障壁画

 
     信長の大船がなんと大きいことか (同、スクリーン資料から)

信長は神になろうとした、なぜ? 
天皇
は農耕神、すなわち人間が生きていくために重要な要素の神です。
そこで信長は農耕を可能にする水、太陽を命の元として神威の身に纏う
天皇と同格以上の神になる必要があったのです。

       
  当時、安土城の下は琵琶湖(左)、と現在の田園風景
       
    (同、スクリーン資料から)

信長と信玄:秋季特別展
信長の統治戦略として自己神格化、その流れは大船の建造ー安土
城築城ー天皇行幸で完成する。そのエポック毎に信長と武田氏の抗
争があったと大沼氏は語られます。秋の当博物館での特別展でこの
辺を紹介されます

お断り:今日の日記は、
今日の講師は大沼芳幸氏(安土考古博物館副館長)です。織田信長
は自身の権威誇示の為に「城に石垣」を、同誇示に「二つは要らない」
自らが「神になる」ことに注力したのでは? と私なりに講師先生のお話
を理解して日記にしました。

    
     塩津浜歴史研究会編      上述の両博物館編

大沼先生のお話、意図を間違ってお聞きしているかも知れませんが、
あくまでも私的ないちブロガーのロマンとお許しください。それほど目か
らウロコの面白いお話でした。特に先生はこれが私の持論だと一般解
説的なお話ではないのがとってもよくあっという間の一時間30分でした。

まだまだ盛沢山の事例(信長公記に記載の関連個所。信長がなろうと
した薬師如来的な神。甲斐、駿河を手に入れまた富士山をも手に
入れた、などなど
)のお話がありましたがまた機会を見て紹介します。

この記事の記載については主催者のご了解を頂いております。

     今日もご覧くださいましてありがとうございました

        *************

             情報提供です
   
          秋季特別展: 信長X信玄  
            =戦国のうねりの中で=

                    
会場:安土城考古博物館      
                             会期:10月6日~11月11日
                   詳細は主催者にご確認ください
                                
                               
                                 安土城考古博物館
                  (拡大します)
            



 

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