趣味・興味プラス挑戦

郷土史、登山、スキーなどを写真と共に書き綴っております

Kennyの、ちょっとやってみるか: 釣り

2013-10-29 09:41:15 | 釣り

 こんな世界もいいもんだ
   =誘われて・・釣りに、孫にです

    (この日記の掲載期間:11月1日 ~11月7日)


           敦賀港 釣公園 (福井県敦賀市)

ここ敦賀市と北海道 苫小牧市を結ぶフェリーが発着する敦賀
港の道路を挟んで防波堤(だと思います)があります。 300mは
あるでしょうか、沖に突き出ています。その防波堤に夜明けを
待たずに大勢の釣り人が糸を垂れています。いかにも太公望
と思しき方、家族連れ、私のようなちょっとやってみようかの
新米さん、みんながそれぞれに楽しいひと時を送っています。

この4,5年敦賀港に毎年
きっかけは孫に誘われて、厳密に言えば、ねだらていやいやの
お付き合いです。彼のおとーさんは会社やそうでその代行です。

  
           ちょっと気取って撮ってみました

でもね、悪くもないんです
正直言って、我 年代(団塊の世代のもう少し前)は結構夜遅く
まで仕事で、家に帰るのも深夜近くにとあんまり自分の子供の
面倒を見たり、成長を実感していないですね。それをやり直す
(体験するが正しい?)機会を与えてくれているような気がします。
結構、喜んでやっています、ハイ。

 
           夜9時頃かな、大きなフェリーが入ってきました

多分ですが苫小牧行のフェリーだと思います。そして午前0時
頃でしたか、出航して行きました。その間車やコンテナの荷役
が整然と行われます。私も3年ほど前に利用しました。右の写
真は新潟沖(たぶんですが)を航行中の一枚です。

まだまだいい事が
釣りって、小さい頃 釣りも少ない遊び(今、そう思うのですが)
の内の大事な一つでした。故郷を出て以来、釣りは趣味でもな
く道具さえ持っていませんでした。 海釣り、別世界でもあり結
構面白いですね。


              オキアミ(エサ)に群がる魚(写真では見づらいですが)

リール竿を使ってはいますが、ここは既に沖(長く海に突き出
防波堤の上
)です。遠くへ投げる必要はなくて真下でも十分です。
 
サビキ釣りなんてね・・・敦賀港釣り公園
ありがたいです。立派な釣り場です。防波堤に転落防止の柵を
囲らして安心して、正に釣り船で沖に出て釣りをしているのと
同じ条件(映画、釣りバカ日誌 と高知県で沖に設置の
筏から一度の体験
でしか知りませんが)
で釣りを楽しむ事が出来ます。 今回も初心者
の私はサビキ釣りです。
 
 収穫です。その日にもよりますが結構釣れます。  一度に四匹も!!

サビキとは
かごに詰めたエサ(小さな甘エビ)をまき散らし魚をおびき寄
せて釣り上げます。一本の糸に何本もの針が仕掛けられている
非常に効率のよい釣りでして、一度に2,3匹も同時に釣れる
ので子供にも、初心者の私にも嬉しい方法です。

 
             サビキの仕掛け たったのこれだけです
たくさんの擬餌針がついています。 先端に重しが付いた餌かご
を付けます。


             山の向こう側が薄っすらと明るいです。 漁火だそうです

サビキ釣りは明け方が勝負
なのかどうか、深夜がいいのか? わからないのですが少なく
とも空が白み始めた頃から8時、9時頃までが投げたら釣れる
の繰り返しで、それを過ぎるとパタット釣れなくなります。
魚(小鯵が主)の朝食時間が終了したのでしょうね。

 
   夕方釣り場の駐車場に入ります       夜間の釣客が多いです

前夜から車中泊で
なもんで、前の晩から現地入りです。既に多くの釣り客が集ま
っています。家族連れも多く、テント泊の家族キャンプです。
夕方からの釣り客も多いです。本当に手軽に釣り場まで行けて、
駐車場も綺麗なトイレも完備、孫とのコミュニケーションも抜
群です。簡単な夕食を作る楽しさもあります。車なのでアルコ
ールも現地到着後です。これがまたいいんですな。

 
    釣り場、隣りの家族連れです         何年か前の釣りで孫娘

バス釣り、次は琵琶湖です
最近、バス釣りを初めて体験しました。これは自宅に近い琵琶
湖、その周辺の河川でも楽しめます。仕掛けも極々簡単で、滋
賀県ではとっても手軽にバス釣りが出来ます。琵琶湖にとって
はちょっと問題の魚ですが。


                 一端の釣り好きに見えなくもないか

その日の成果は
サビキ釣りとは違い、簡単には釣れません。忍耐と釣る執念を
問われるバス釣りでした。今回は成果はゼロでした。でもバス
釣り、そしてここは人が少ないので気楽に投げ釣りの体験(投げ
るのは他の釣り客に引っかけることがあり危険です)が
出来て堪能です。
大海原を眺めるようで琵琶湖もまたいいです。

 
      ボートからの釣り客        仕掛けはたったのこれだけです
                                                       (プラスチック製の疑似餌です)


また駄々をこねてくれれば(まあ、もう今年いっぱいで終わりでしょうな、
小学生
も高学年になったもんな
チャンスがある、爺さんの釣り便りでした。

   今日もご覧くださいましてありがとうございました

                  **********

                     写真展のお知らせです

 

      私、Kennyも2点参加します。お近くにお越しの節に
   はどうか
お立ち寄りくださいね、お待ち致しております。
                                                      (Kenny)

       

 

コメント (5)
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Kennyの郷土史:野洲川の歴史と文化

2013-10-22 13:10:47 | 郷土史

  もう今は近江郎はいない
 新しい野洲川があって本当によかった!
     先の台風18号の野洲川大増
で,
下流だけでは
    なくて
野洲市街地の洪水の危険も防いでくれました
   この増水を機に、元の野洲川南流と北流を見てきました
     いやー、本当にぞっとする、そんな印象でした


        Kennyの滋賀から情報発信
             (この日記の掲載期間:10月25日~10月31日)

先ずは下の写真をご覧ください

      
         
昭和35年の野洲川             同、昭和50年
                  (1960)                                        (1975)

                     
                                現在の野洲川
 真ん中に太い現在の野洲川、両側に元南流・北流の川の跡が見えます
     
 (写真はすべて国土交通省のHPから拝借しました)

そして最近の台風18号の時、緊張しました
 
    現在の野洲川のほんの少し上流の状態です。 台風接近時の大雨で
    (撮影:危険なので、
かなり水が引いた時間です:自宅近く)


 後日です、まだ多め。散歩中の方の位置まで増水しました。改めて水の怖さを

 

    こんな光景、恐ろしいほど!          普段は広い川の中央に流れる程度
      (前方の橋はJR在来線)          (10月30日, 2013 同位置から)
                                               

過日歩いた元の南流・北流です 今回の増水ならどうなる?


      ここは昭和28年の決壊箇所だよ、左の家は最近建ったけど、と
            (南流、守山市洲本町付近)

                        
                         昭和28年の決壊 洲本町交差点
                           (国土交通省のHPより)

撮影当日、上の写真正面に見えるコスモス畑で弁当を広げてい
た当時からここにお住まいのかなり先輩年齢のじーちゃん、ば
ーちゃんは、更に、「この間の18号の時は昔の事があるんで
なー、怖かった」と箸を止めて真剣な表情で語ってくれました、
口からご飯粒を飛ばしならも・・。



    南流のこの箇所、この川幅です100mもない(上の写真と同じ場所)
     (こちらの堤防から見ています。向こうの樹林が反対側の川岸です)


先の18号台風時の水量が下流の南北2本の川で処理が出来るは
ずがないと、ど素人の私の目にも明らかです。その川は曲がりくね
り、広い所や狭い部分があります。 2本の川があってもこれではね
・・・。  一方、新しい川の幅は約330mです。

 
 残る南流、水の流れはない            南流の琵琶湖河口部

           
                            北流の琵琶湖河口部

その野洲川、暴れ川だった

野洲川はかつて、「近江太郎」といわれたほどの暴れ川で、記
録に残るような大災害を何度ももたらしました。しかし、昭和
54年(1979)に
放水路(下流部の新しい野洲川)が竣工して、
今はもう近江太郎はいない安全な川となりました。
    
   洪水の様子(笠原公園の看板から)    竹生橋の親柱を現地に保存(北流)

昭和28年(1953)の洪水、新しい川のきっかけ
河口部周辺集落や農地に人災を含む甚大な被害となりました。
これを機に野洲川の大改修が立案、工事は8年の歳月を掛け
て始まり昭和54年に竣工、2年後に元の南北両流を締切り
ました。  改修工事の詳細は国土交通省のHPで

    
                 南北両流(天井川化しています)と新野洲川の比較
                            (下流、笠原公園の看板の一部)

上流の花崗岩地質から流れ来る土砂の体積、たび重なる洪水
で、その都度堤を積み上げてきた経緯から野洲川は天井川と
なり、それ故 洪水が避けられない川となってしまいました。

野洲川
滋賀県南東部を流れる川。一級河川。 鈴鹿山脈の御在所岳
に源を発してほぼ北西に流れ守山市で琵琶湖に注ぐ。延長
65キロメートル、淀川水系琵琶湖流域の約10%の地域を潤
す県下
最大の河川とのことです。


  上下の写真は同じ橋の上から撮影:上流方向 前方に三上山が見えます

         正面が琵琶湖で、野洲川の河口部です 上下共現野洲川です
                 (兎にも角にも広くて全てが大きいです)

服部遺跡
流域は広大な三角州が形成されています。新しい野洲川はそ
の中央に掘削されました。その時、守山市で発見された服部遺
跡は、弥生から平安期に及ぶ大集落遺跡だそうです。

     
       発掘された銅印模型           解説板(拡大します)
(守山市埋蔵文化センター敷地内:実物は今、野洲市民俗博物館で展示中)

参考資料: 国土交通省のHP、野洲市民俗博物館の企画展
        案内(野洲市のHP)
を参考に私の理解と言葉
        で記載しました。

お知らせ:秋季企画展「野洲川の歴史と文化」開催中
資料や展示物、ビデオが用意され野洲川の歴史を知る事が出来ます。
   会場:野洲市歴史民俗博物館 
   会期:平成25年10月5日~11月24日
    (この間に休館日があります。詳しくは当館のHPで
 日本一大きな銅鐸の里帰り展と合わせてご覧頂けます

以下、写真資料です


        3.5mの段差を作っています 右端は魚の遡上水路
地形は琵琶湖に向い下がっていますが、野洲川の流れが急に
なることを防ぐ為の工夫です。また魚にも配慮されています。



            現野洲川から見た元南流は遠く離れています
野洲川元南北両流の間は日本最大の湖成三角州を形成して
います。その三角州の中に現野洲川を引きました。



  現在の野洲川、大きいです。草木が倒れています、台風18号の爪跡です


  元の北流の一か所を住宅地に開発中 前方の樹木の位置が堤防だった

また、別の川跡では農地、公園やグランドゴルフ場などに整
備されていました。一方、残っている流れのない元の川では、
地元のあるご婦人は 少しの流れを作って欲しい。溜まった水
が綺麗
であればいいのだが、と。(濁っていました)


   三上山山頂付近から見た新しい野洲川 正面に琵琶湖、背後に比良山系 
                  空気が澄んで実にすっきりした風景です

       ご参考:新野洲川(放水路)の背景  
              
     笠原公園の解説板から(拡大してご覧ください)

      今日もご覧くださいましてありがとうございました

コメント (4)
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Kennyの歴史探訪:銅鐸の町、野洲市

2013-10-15 11:02:25 | 銅鐸:野洲市

 日本一大きな銅鐸が、今
    野洲市に里帰りしています
130年前に野洲で発見、東京国立博物館で常設展示品
             Kennyの滋賀から情報発信

 その野洲市出身の銅鐸がこの度里帰りし、市内にある銅鐸
   博物館で鑑賞出来ます。11月24日まで展示しています
           (この日記の掲載期間:10月18日~10月24日)

   
                               
展示会場で購入の冊子

この冊子では銅鐸の発見から今回の里帰り、展示の経緯について。
また野洲市で発見された全部で24口(口:入手の冊子はではなく
記載)
の銅鐸についてたくさんの写真入りで解説されています。銅鐸
って 用途はなんだった? も記載があります。

本物を見たいよー、だからと言って東京までは行けないものね・・・
銅鐸博物館開設25周年記念行事にあたり、貸出しに慎重(なんでし
ょうね)な東京国立博物館に通い、ここ野洲に里帰りさせて頂いた関
係者の皆様に敬意を表したいです。今回正直云って、見た目では
銅鐸博物館に常設の複製品と全く区別が付きませんが、こういう事
に興味のある者にとっては拘りがあるんですね。 これを機会に東京
(勿論重要な理由あっ
ての事ながら)移っている各地の文化遺産の本物
をそれぞれの地元にどんどんと気軽に貸出して貰い、もっと簡単
に直に見ることが出来る
切っ掛けになればと思う一人です。 



             展示会場の銅鐸博物館 (野洲市歴史民俗博物館)

130年前にこの地で銅鐸が
明治14年(1881)8月、滋賀県野洲市小篠原字大岩山(現在の地名)
14口の銅鐸が当時山遊びをしていた地元の少年達によって発
見さ
れました。この内の2口を現在の東京国立博物館が購入し(当時
の額で40円)
残りは地
元に残りました。その一口が今回里帰りしました、
今までに日本の国内で発
見された銅鐸の内、一番大きな銅鐸です。

 
  発見当時の様子の絵              展示会場の様子
  (上述の冊子より)            (毎日新聞朝刊の切り抜き)
                     
 (注:見学者の展示会場での撮影は出来ません)

銅鐸が発掘された場所はどこ? 
銅鐸が発見されたその場所(丘陵地)は土砂採取工事で削られ、
一部はもう残っていません。 国道8号線、新幹線、JRの電車基
地などの整備で
の採取です。下の絵図をご覧ください。その跡は
今は工場になっています。 今回の公開を機にその謎(どこなの?)
が解けました。



  24口の銅鐸が発見された場所はこのあたりのようです(私の推定です)
    (会場で頂いた周辺地図の一部に私が赤い文字などを書き入れました)


  中央の垣根の向こう、工場のあたりに丘陵が(博物館建物横から撮影)

銅鐸が見つかった丘陵地は銅鐸博物館の裏側、上の写真にある
垣根の向こう側の、現在の工場敷地にあったとのことです。下に掲
げた写真の場所に石碑、「銅鐸出土跡」があるのでその背後の山
かと。しかし講座や頂く資料などからどうもそうではなさそうだと、長
く疑問に
思っていました。 その丘陵の一部がなくなっていたとはね。


  「銅鐸出土跡」の石碑は本来は工場の中?、でも今は私有地だから・・・

その土砂採取工事で新たに10口の銅鐸を発見
昭和37年(1962)当の採取工事中に新たに10口の銅鐸が発見され、
明治時代の数と合わせて計24口の銅鐸がこの野洲の地から発掘さ
れた口数となりました。

これは島根県
加茂岩倉遺跡で平成8年から9年(1996~1997)
の2年間に39口が見つかるまでは、一か所から出土の数としては
国内最多でした。
 
        銅鐸発見現場            野洲市歴史民俗博物館編集発行        
(島根県管理の加茂岩倉遺跡HPより)
   加茂岩倉遺跡のHP

銅鐸は埋納、しかも入れ子埋納もありました
これらの銅鐸は無造作に捨てられて土に埋まったのではなくて
銅鐸の多くは、大きなものの中に小さなものを入れた入れ子の状
態で発見されて
います。銅鐸を埋めるまえに、人為的に中に砂を
押し込んだ可能性があることも確認されています。この入れ子は、
陰と陽、新と旧、などいろいろ言われていますが、弥生人のものの
考え方、自然観にかかわっているものかもしれないとのことです。

  
        銅鐸発見現場           野洲市歴史民俗博物館編集        
  同、島根県加茂岩倉遺跡HPより        「
大岩山出土銅鐸図録」より
               
このように銅鐸を「入れ子」にして埋納した例は滋賀県野洲市大岩
山銅鐸を始めとして、これまでにもいくつか知られていました。
   (この項の解説文の大部分は島根県の加茂岩倉遺跡のHPから引用)


ところで、銅鐸って何に使ったの?
半世紀以上も前、私、小学生だったか中学生だったか、先生は そ
の用途は謎だと仰ったのを鮮明に覚えています。 実際に今も諸説
あって断定はしていないようです。中には銅鐸を熱して中に液体物
を入れ、温めてと真面目な説もあるとか・・・。

前掲の冊子では弥生時代の祭器でカネと説明しています。また別
の同館発行のパンフレットでは「カネではあったが、やがて大型化、
装飾化して鳴らすのもから見るへと変化、今回展示の134.7cm
重量45.47kgの
巨大な銅鐸がどのように使われたかは多くの
謎を秘めているとの解説です。

いづれにしても銅鐸を叩いて鳴らした痕跡ははっきりとしているそう
で、この点では今までの講演、開いた文献でも一致しているようです。

          
                     鏡 (ウィキペデアより拝借)

やがて銅鐸の時代は終わります
そのころ社会は大きく変化していきます。支配者の誕生です。支配者
と支配される者が社会に存在し、支配者は権力を世に示すという力が
働き、それまで村人達が祭器に使ってきた
銅鐸ではなくてを支配者
のための祭りでは利用するようになり、銅鐸(邪魔になり)は消えていっ
たとのことです。 そして時代は古墳時代へと移っていきます。(銅鐸博
物館の説明パネルを参考に私の理解、言葉
で記載)


                         会期と休館日 
 (なお、祭日は開館ですがその翌日は休館との事です、詳細は当館へ)
 
       銅鐸博物館(野洲市歴史民俗博物館)のHP

アクセス
JR野洲駅南口発バス、「希望が丘西ゲート方面行」で銅鐸博物館前
下車、または「三井アウトレット方面行」で辻町下車、5分です。
車でのお越しの方は下に掲げた地図をご覧ください。

             
                           周辺地図です
          (クリックの上拡大してご覧ください)

お断り:
ここに記載の内容は、これまでに拝聴した当館の講座、頂いた資料、ネット
      検索などで得た情報を私の理解で記載してあります。聞き違いや勘違い
          で間違いがあるかもしれませんが、どうか素人の趣味故、お許しください。

       今日もご覧くださいましてありがとうございました

 





        

 

コメント (2)
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Kennyの歴史探訪取材日記:2013年度の表紙と目次

2013-10-02 10:49:00 | ブロガー:滋賀県の企画

「滋賀県のいいところ」紹介
このページは今年(H.25)訪問の5市町
     全記事への窓口(目次)
です
    滋賀県教育委員会文化財保護課の企画
      ブロガーとして参加させて頂きました


                  瀬田川    
     

         滋賀県のこの企画の趣旨
滋賀県の事をもっと、もっと知っていただこう、を趣旨に
ロガーにも
一役買って貰い情報発信していこう、がこの企画
の趣旨です。
私達、滋賀県教育委員会文化財保護課に選んで
頂いたブロガーの情報が、 そうか 
いっぺん滋賀に行ってみ
るか
、とか
滋賀にお越しの節に何かのお役にたてればと願っ
ております。

   今年6月から探訪と取材をしてきました情報は
  以下の
ところ(ここを)からアクセスして頂けます

    これまでに 高島市(A)、日野町(B)、余呉町(C)、
    近江八幡市D)、大津市(E)の各市、町を訪問
    してきました。

 各市町の特集をご訪問いただくには、それぞれの特集に表紙と目次
 を設けておりますので下の(ここを)
クリックしてご一覧くださいます
   ようお願いします。


             高島市(A)  ここを

              日野町(B)  ここを

             余呉町(C) ここを

                          近江八幡市(D) ここを

            大津市(E) ここを 
  

   では、滋賀県のいいところ(近江の歴史探訪)を覗いてみてください。
           どうかよろしくお願いします          
            

      ご訪問くださいましてありがとうございます 

     


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