趣味・興味プラス挑戦

郷土史、登山、スキーなどを写真と共に書き綴っております

Kennyの歴史探訪:水口岡山城と城下町

2013-11-22 11:57:25 | 城址

   水口宿、水口城下町
全国を見渡しても他とちょっと違うぞ
          三筋の城下町、水口!!

講演会 水口岡山城と城下町を拝聴して
         Kennyの滋賀から情報発信 
      (この日記の掲載期間:11月29日~12月5日)


     甲賀市蔵 水口宿粗絵図・部分 (当日のレジュメ表紙の写真を
拝借)
       町の中に三本の道が走っています(これが大きな特徴の一つです)

現、水口町の生い立ちはこいうこと?

この町は、秀吉と家康が軍事上、重要な拠点として位置付
けたことにより 特に面白い特徴をもった町になった。

  
                秀吉が築いた水口岡山城の古城山

  

ただし、このように簡単に言っているのは決して今回の
講演で先生方がそう仰ったのではありません。水口の町
について初めて専門の先生
方のお話をお聞きしての感想
です。

じっくりと歩いてみたい町です、キーワード;
それは、町に三本の道が並行して走っている(三筋の城
下町
)。その道に沿って両側に町家が広がる。その町人
たちの住居兼店舗である町家と武家屋敷は計画的に配置
されている。また寺社は城下の周囲に置かれています。

その特徴の背景には二つのお城(水口岡山城、水口城)
の存在
があったのです。


       水口岡山城下と水口宿の絵図 (甲賀市教育委員会発行の冊子より)
   赤い文字、矢印は私が追記。 矢印 ↓ の位置は下の写真の場所

三筋の城下町
これが水口岡山城下町の構造上の一つの大きな特徴です。


                                           三筋の辻 
                       真ん中の道が旧東海道だそうです

野洲市(西)の方から街道を東に進んで来るとこの場所に
辿ります。ここで道が3つに
分かれている。 初めてここを
訪れた時は、なんと道の真ん中に家が建っている。住宅地
開発の影響かとそれ程気にもしておりませんでした。

 
                 (甲賀市教育委員会発行の冊子より拝借)  

ところがこれは勘違いだと今回の講座で知りました。秀吉
がこの水口に城を築き、徳川時代になって東海道五十番目
宿場が築かれて、古城山の南に町並みが形成された特
徴的な「三筋町」として発展した宿場だったのです。上の
写真のように、一目でわかる形で残っています。


                   城下の古い町並み

いづれは町をじっくり探索してみようかと。 問屋場跡、本
陣跡、呉服町跡など今も残る三筋の町並みを訪ねることが
できます。 もっとも甲賀市水口町の歴史は古く、伊勢参り
の宿村としても栄え開けてきた町でもあるとのことです。

三筋の城下町は何故?
この解説は講演の中には出てこなかったと思います。別の
資料によりますと、町屋を隙間なく建ち並べ、城下町に侵
入する敵が町屋で視界が遮られ城、大手の虎口(城の門)
を隠す役目も担っていたのではとの事です。

水口岡山城、水口城
今回は、過日の講座の中で「三筋の町」に特に興味を抱き、
その感想日記です。また機会を作り二つのお城について取り
上げようと思いますが、以下は以前に訪問した時の記憶です



                  水口岡山城跡 (古城山山頂)

                         
                水口岡山城の解説(クリックで拡大します)

織豊(信長、秀吉)政権時代の水口の町
天下統一を進めていた秀吉がこの地に軍事上の理由で、天
正13年(1585年)にこの町の大岡山に城を築き、さらに
は山麓を城下町として整備しました。これは家康を意識し
た動きです。秀吉没後天下をとった徳川家康は水口を東海
道の宿駅に指定し、徳川幕府にとって大事な拠点と位置付
け、宿場町として栄えていきます。また徳川三代家光は上
洛時の宿泊施設、水口城(現在も復元の天守を見る)を築
きました。 

 
                  (甲賀市教育委員会発行の冊子より拝借)

       
     写真、情報を引用させて頂いた冊子です
            (甲賀市
の歴史民俗博物館で販売しています)

  今日もご覧くださいましてありがとうございました。

コメント (2)
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Kennyの歴史探訪:文化財修理

2013-11-18 12:45:20 | 長命寺:こけら葺 修理

  屋根「こけら葺葺替え見学
長命寺三重塔 特別見学会に参加して
   今も見学できます  H26年1月下旬まで自由に!
            Kennyの滋賀から情報発信
           (この日記の掲載期間:11月22日~11月28日)


                      長命寺
  朝もやに紅葉、本堂、三仏堂などの「檜皮葺き」屋根が美しいです
                      (11月17日 早朝、見学会の前に撮影)

いい時流ですね、文化財の修理過程が見られる
今姫路城が大修理中で、その様子を見学させています。
それが切っ掛けかどうかは知りませんが、全国で同じよ
うに見学会が行われていると聞きます。

 
   シートに覆われた三重塔        塔内見学ルート入口
                      (11月17日、見学会当日の撮影)

11月17日、長命寺(滋賀県)で貴重な見学をしてきました。
一見の価値があります。だって400年以上も前の桃山期に建
立された(昭和39年に解体修理が行われています)建造物の
普段は見ることの出来ない部分を屋根軒先に設けられた足場か
見せて貰えるんですから。それも屋根葺き職人さんの伝統の
工法で。 今回の葺き替えは49年ぶりだそうです。
   
 
     シートを被る前の塔        命寺の絶景 鐘楼からの定番風景
                (いずれも前回9月に訪問時の撮影)


今回は 特別見学会 ですので工事用足場を登って上の写真にあ
る塔の三層目まで見ることができました。 なお 通常の自由見学
では一層目のみの見学です。

内部はこんな感じでした:11月17日
滋賀県教育委員会はこの日、特別見学会を開いてくれました。
県の専門職員さんの丁寧な解説がありました。 通常の見学で
は現地説明はありません。

以下、画像でその様子を紹介しますが、見学者の内部での撮影
は許されていないため、以下に記載のない画像は現地の案内板、
長命寺発行のパンフレットの写真を引用させて頂きます。


              二層部分の腐食した「
こけら葺き」を剥がす前の様子


     こけら葺屋根がかなり朽ちています (9月に訪問時、私が撮った写真)



こけら(柿)葺き
柿の木材から小割して板を作ります(檜皮葺きは檜木の皮を
使います)。 TVでもよく見かる事ですが、職人さんが口に
竹釘を含み、手早く専用の金槌で板に竹釘を打ち付けてこけ
らを固定します。実際に私もやらせて頂きました。 子供の頃木
でなんでも自分で作った実績がこの場で生きましたよ!


 
 
    専用の金槌(私の撮影)

        
                        材木からこけらを作る工程

           
           
県の専門員さんのこけらの解説(私の撮影)                               

ご参考までに(ウイキペデアより引用)
杮葺(こけらぶき)とは、屋根葺手法の一つで、木材の薄板を用いて
施工する。板葺(いたぶき)の代名詞にも使われる。日本に古来伝わ
る伝統的手法で、多くの文化財の屋根で見ることができる。広義では
板葺の一種であり、板葺は板の厚さにより以下の種類がある。
杮葺(こけらぶき)最も薄い板(杮板)を用いる。板厚は2~3ミリ
メートル。

檜皮葺(ひわだぶき)とは、屋根葺手法の一つで、檜木(ひのき)の
樹皮を用いて施工
する。 日本古来から伝わる伝統的手法で、世界に類
を見ない日本独自の屋根工法である。多くの文化財の屋根で檜皮葺を
見ることができる。

長命寺の三重塔について
国の重要文化財で、桃山期の特徴をもった塔だそうです。
昭和39年に解体修理が行われて、その後49年経ち苔
の繁茂、腐朽が広がったために今回の修理になりました。
その他、詳細は下の写真をクリックしてください。

       
    今回の修理の背景    長命寺および三重塔の沿革

長命寺は重文、滋賀県指定有形文化財の宝庫


                                本堂(重文)


                     
  三仏堂(県指定有形文化財)


                                       鐘楼(重文)


                          本堂前に集合の当日の参加者
 
 
     
腹駐車場から上の石段      琵琶湖岸駐車場から左の場所への石段

このお寺の特徴の一つが808段の石段です。 これを登ればご利
益があると参詣者は頑張って登ってきます。

 
アクセス       
    
    
 お願い:
見学はあくまでも、お寺にお参り出来る(入山)時間、他 皆様
       のご確認(責任)でよろしくお願いします。
     
   今日もご覧くださいましてありがとうございました   

 


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Kennyの、ちょっとやってみるか: 自転車

2013-11-07 09:14:09 | 郷土史

  旧東海道を自転車で
 =東海道横田渡、常夜燈が野洲川に=
       こんな所に近世を物語る橋があった
          そして常夜燈は今も 
    車で移動の時に
は気が付きませんでしたな!
          Kennyの滋賀から情報発信
           (この日記の掲載期間:11月15
日~11月21日)

それらは重要な歴史文化遺産なんです


     常夜燈と今はない横田渡 (現地案内板から)

過日、孫他 自転車を長年の趣味にしている我一家 親子三代
の男どもが連れだって野洲市から旧東海道を水口宿まで走っ
てきました。爺の私もその影響で運動のつもりで時々自転車
に乗っていますので、ゆっくりと走って貰い 何とか完走です。

ところが、すごい発見がありました。 そうだったのか、知らな
かったーです。



                  横田渡があった同じ場所(2013年10月撮影)

東海道横田渡
古から、旅人は東への移動には近江南部では少なくとも二つの
大きな川を渡らなければ旅は出来ませんでした。瀬田川と野洲
川です。前者の橋は瀬田の唐橋、そして今回の話題、野洲川の
その橋は横田橋(渡し)でした瀬田川にも、急がば回れの語源と
言われる
矢橋の渡しがあります。横田渡しとは意味合いは異なるのでしょうが)

ところが、その横田橋は江戸時代には一年中通れる橋ではなくて、
渇水期に土橋が敷設されましたが、それも有事には橋はなくなっ
てしまうことも。従い渡し舟が主になります。そこでこの場所は
横田渡と言われています。江戸時代に、東海道が整備されると重
要な東海道十三渡の一つとされ、幕府の管理下に置かれました
(下の写真に詳細があります)

現在の国道1号線、横田橋はここから少し下流に移されています。


嬉しいお知らせです
この横田渡しに関して、いつもご訪問くださっているこの分野に
精通しておられる方からコメントを頂き、この地(湖南)で江戸時
代にあった天保一揆(天保義民)を主題のあるお芝居の脚本で「野
洲川横田橋河川から船を出す筋書きにした」と。そうだ、この渡し
の直ぐ傍の神社に農民が集合して野洲に陣屋を構える当時の幕府
役人、三上藩 市野茂三郎を攻めます。この時にここから船で渡った
野洲市へはこの神社からは野洲川を渡らなくてはなりません。

そうかー・・、ちひろ様、ありがとうございます。
  私の天保義民(天保一揆)のブログは  ここを

野洲川のこのあたり
資料によると鈴鹿山系(御在所岳)に源流をもつ野洲川を江戸時
代にはこの辺りは横田川と呼んでいました。同じ源流(鈴鹿山系
油日岳)を持つ杣川(そまがわ)と合流する地点でもあり水量の多
いところでもあったようです。瀬田川といい、天竜川などとも同
じで、容易には渡ることが出来なかった川だったんですね。


                 東海道横田渡常夜燈 (現地の解説板から)

横田渡常夜燈
この石灯籠は文政5年(1822年)に建立され、東海道を旅す
る人の道しるべとなったようです。 登山でも、標識やリボン等
があると本当に嬉しく安心できます。街道随一の大きさやそうで、
案内の次男がこれは見ておけと。 水口宿の往時が偲ばれます。


 狭い場所ですがゆっくりと休憩が出来る東屋のある公園になっています

        
          横田渡常夜燈の関連情報は ここを


横田渡、横田渡常夜燈へのアクセス

        

                      周辺地図(拡大します)
   横田渡し、横田常夜燈は地図の酒人にあります 

水口宿の名残

 
       三叉路 真ん中が江戸への道        旧家をレストランに

旧東海道、道中の公園に





歩け歩け、少なくとも自転車で
野洲市内を自転車でよく走り周ります。気持ちのいいもんです。
近江平野です、坂もないので長い時間でも大丈夫、周囲を見渡
しながらゆっくりとペダルをこぎます。  古い歴史を持つ野洲、
お寺が特に多いです、また神社も。  古墳に行きつくこともあり
ます。


地元をもっと知る、歩けば・・

車でないのがもっといいのは、農作業中や道端で仲良しグルー
プと思しき年齢的に相当先輩のおじーちゃん(いやあんまり相手に
してもらえない)、
おばーちん(おばーちゃんとは不思議と気が合う)
の場の昔をお聞きするのがいいんです。  過日は旧野洲川の
ほと
りで弁当を広げていた地元の仲良しさんが堤防決壊で起き
た大洪水の貴重なお話をしてくれました。

         
          
和28年の大洪水

爺の自転車ならではの大発見、勉強をしましたの感想日記でした。

          
              かなり後方から必死に・・のKenny爺

  今日もご覧くださいましてありがとうございました

              ***********

                    写真展開催中

  
              わいわいクラブ写真展 野洲図書館ギャラリー

 
          私、Kennyも2点参加します。お近くにお越しの節には
    どうか
お立ち寄りくださいね、お待ち致しております。
                                                      (Kenny)

 

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Kennyの歴史探訪:北畠具行最期の地を訪ねて

2013-11-02 06:45:40 | 郷土史

 北畠具行最期の地を訪ねて
=南北朝内乱の史跡:中山道柏原宿=
          Kennyの滋賀から情報発信
       (この日記の掲載期間:11月8日~11月14日)
 
           中山道柏原宿                     歌川広重、中山道六十九次柏原宿

南北朝内乱?、北畠具行(ともゆき)
一から辞書を引ないと・・・。南北朝は何回も聞いたことは
あるけど、中身はぱーっとは出て来ません。また元弘の乱
も出てきます、今日の北畠具行のお話にはね・・・。

 
             北畠具行のお墓                              お墓は正面奥にあります

なんで今、北畑具行について?
この元弘の乱も滋賀県は非常に関係が深いものですからいつか
記録しておきたいと思っていまして、今回取り上げました。
実は過日、京極氏の菩提寺、清滝寺徳源院にを訪ねてこのブロ
グで感想文をUPしました。その時に初めて北畠氏について知り
ました。そのお墓が同じく、滋賀県米原市にあります。
でもどうして
ここにお墓が? 
京極氏の菩提寺、清滝寺徳源院 に関する私のブログは ここを

 
   清滝寺の京極氏歴代の宝篋印塔    同、
京極高次(お初さんの旦那)

そこに北畑具行のお墓がある理由をまず
元弘元年(1331)、後醍醐天皇が鎌倉幕府の打倒計画を立てる
と、側近の北畠具行はその主要メンバーの一人とな
りました。
しかし、この計画は失敗し、具行は鎌倉幕府に
捕えられました。
これを元弘の乱と言います。翌元弘2年、
具行は京極高氏(佐々
道誉)によって鎌倉に護送される
こととなったものの、その途
中で幕府から斬首の命令が下
されました。
北畠具行についてはの詳細はここを



              清滝寺にある5代、京極高氏(道誉)の宝篋印塔 


その時

具行の処刑を命じられた高氏は、死に臨んでの具行のりっぱな態
度に感服し、またその才能を惜しんで、柏原宿(清滝寺)に一ヶ月
ほど逗留させました。しかし、高氏の幕府への嘆願も空しく具行は
斬首されることとなり、ともに別れを惜しんだと伝わります。

     
                   お墓の宝篋印塔      現地案内板(拡大します)

そして、具行斬首15年後の貞和三年(1347)、東山道沿いの丸山
に墓(宝篋印塔・ほうきょういんとうが建てられました。建立は道誉
の家臣で、具行を処刑した田児六郎左衛門と伝わります。
       (宝篋印塔
は、墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種で、
         五輪塔とともに、石造の遺品が多い:ウィキィペデアから引用)


アクセス
東海道線JR柏原駅から中山道をゆっくりと散策して現地を辿るの
も趣があります。直行でも歩いて30、40分程で行けます。道順は
駅にパンフレットが完備です。
 
  駅で入手の地図です(拡大します)          道標があります

滋賀県は歴史の宝庫、史跡がなんぼでも
ほんとうにちょっと歩けば文化遺産のその場所に立っている、そん
な滋賀県です。歴史の宝庫と実感、滋賀県生まれ育ちの私も暇を
もて余すことなく相変わらず歴史探訪を続けております。でもメモっ
ておかないと直ぐに忘れるので、ブログに記録しておりまます。

他にも滋賀県には私の住む野洲市にも今日のお話しと同じ類の史跡
があります。
源平合戦、壇ノ浦で敗れ 生き延びた平家の超重要人物
平宗盛、清宗父子が斬首された所で 親子の胴塚が保存されています。 
          その詳細、背景についての私の関連ブログは ここを

滋賀は国宝やお城の数が抜群です
国宝、重文の数は日本で4番目で(東京は各地の特に貴重な宝を集
めて管理、公開する役目で数は一番やそうですが)、東京を別にすれ
ば、京都、奈良に次いで3番目の多さです。また国宝の彦根
城の他、
城跡は1300箇所が確認されており これも全国で1、2番です。そん
な背景から、これからも滋賀から、私だけの記録だけに留まらず、情
報発信をして行きたいと思います。どうか引き続きよろしくお願いします。


   今日もご覧くださいましてありがとうございました


              **********

                      写真展のお知らせです

 

      私、Kennyも2点参加します。お近くにお越しの節には
    どうか
お立ち寄りくださいね、お待ち致しております。
                                                      (Kenny)

       



 

 

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