水口宿、水口城下町
全国を見渡しても他とちょっと違うぞ
三筋の城下町、水口!!
講演会 水口岡山城と城下町を拝聴して
Kennyの滋賀から情報発信
(この日記の掲載期間:11月29日~12月5日)
甲賀市蔵 水口宿粗絵図・部分 (当日のレジュメ表紙の写真を拝借)
町の中に三本の道が走っています(これが大きな特徴の一つです)
現、水口町の生い立ちはこいうこと?
この町は、秀吉と家康が軍事上、重要な拠点として位置付
けたことにより 特に面白い特徴をもった町になった。
秀吉が築いた水口岡山城の古城山
ただし、このように簡単に言っているのは決して今回の
講演で先生方がそう仰ったのではありません。水口の町
について初めて専門の先生方のお話をお聞きしての感想
です。
じっくりと歩いてみたい町です、キーワード;
それは、町に三本の道が並行して走っている(三筋の城
下町)。その道に沿って両側に町家が広がる。その町人
たちの住居兼店舗である町家と武家屋敷は計画的に配置
されている。また寺社は城下の周囲に置かれています。
その特徴の背景には二つのお城(水口岡山城、水口城)
の存在があったのです。
水口岡山城下と水口宿の絵図 (甲賀市教育委員会発行の冊子より)
赤い文字、矢印は私が追記。 矢印 ↓ の位置は下の写真の場所
三筋の城下町
これが水口岡山城下町の構造上の一つの大きな特徴です。
三筋の辻
真ん中の道が旧東海道だそうです
野洲市(西)の方から街道を東に進んで来るとこの場所に
辿ります。ここで道が3つに分かれている。 初めてここを
訪れた時は、なんと道の真ん中に家が建っている。住宅地
開発の影響かとそれ程気にもしておりませんでした。
(甲賀市教育委員会発行の冊子より拝借)
ところがこれは勘違いだと今回の講座で知りました。秀吉
がこの水口に城を築き、徳川時代になって東海道五十番目
の宿場町が築かれて、古城山の南に町並みが形成された特
徴的な「三筋町」として発展した宿場だったのです。上の
写真のように、一目でわかる形で残っています。
城下の古い町並み
いづれは町をじっくり探索してみようかと。 問屋場跡、本
陣跡、呉服町跡など今も残る三筋の町並みを訪ねることが
できます。 もっとも甲賀市水口町の歴史は古く、伊勢参り
の宿村としても栄え開けてきた町でもあるとのことです。
三筋の城下町は何故?
この解説は講演の中には出てこなかったと思います。別の
資料によりますと、町屋を隙間なく建ち並べ、城下町に侵
入する敵が町屋で視界が遮られ城、大手の虎口(城の門)
を隠す役目も担っていたのではとの事です。
水口岡山城、水口城
今回は、過日の講座の中で「三筋の町」に特に興味を抱き、
その感想日記です。また機会を作り二つのお城について取り
上げようと思いますが、以下は以前に訪問した時の記憶です。
水口岡山城跡 (古城山山頂)
水口岡山城の解説(クリックで拡大します)
織豊(信長、秀吉)政権時代の水口の町
天下統一を進めていた秀吉がこの地に軍事上の理由で、天
正13年(1585年)にこの町の大岡山に城を築き、さらに
は山麓を城下町として整備しました。これは家康を意識し
た動きです。秀吉没後天下をとった徳川家康は水口を東海
道の宿駅に指定し、徳川幕府にとって大事な拠点と位置付
け、宿場町として栄えていきます。また徳川三代家光は上
洛時の宿泊施設、水口城(現在も復元の天守を見る)を築
きました。
(甲賀市教育委員会発行の冊子より拝借)
写真、情報を引用させて頂いた冊子です
(甲賀市の歴史民俗博物館で販売しています)
今日もご覧くださいましてありがとうございました。