趣味・興味プラス挑戦

郷土史、登山、スキーなどを写真と共に書き綴っております

Kennyの郷土史:観音寺城跡

2013-03-28 19:17:17 | 城址

 観音寺城、安土城を凌ぐ?
なんとこの城、至る所石垣、また石垣
    4年間の再調査で新しい発見です
    ♪ Kennyの滋賀から情報発信 ♪

      (この日記の掲載期間:4月5日~4月11日)


        400百年以上も前に積まれた巨大な石垣
                (伝池田丸から下ったところの大石垣)

観音寺城跡の探索
今回の探索もいつものように滋賀県の専門員さん
のご案内で私、Kennyはこれで3度目の訪問です。

兎に角 城のある繖山(きぬがさやま)一帯、至ると
ころ
に石垣があります。中には高さ7mを超える巨
大な石垣が何か所もありしっかりと残っていました。
これではとても外敵も侵入は出来ないです。これは
もうかなりの感動ものでした。


   この日も大勢の歴史探索愛好家が集まりました

平成20年度から4年間に亘り実施された何度目か
の発掘調査によって新たな石垣も沢山発見されて
観音寺城の実像が更に明らかになりつつあるとのこ
とです。

こんな具合でした
今回の探索はこの4年で見つかった(さらに調査を進め
の意)石垣を主として案内して頂きました。私も3回
目の探索で初めて見る大規模な石垣ばかりで、この
城は安土城をも凌ぐと云われる堅固な城、要塞であ
ったんだと実感しました。



  下部に段を付た非常に珍しい石垣が発見されました
       
  (おおよそ伝平井丸の近くです)

講師の計らいで(希望者は)ちょっと険しい道なき道を藪
漕ぎをしながら下り 最近発見された珍しい作りの上の
写真に見る石垣を見てきました。石垣の下方に段が入
っています。


見てきた幾つかの石垣、その他

 
    城山を登り始めてそろそろ石垣が見えてきます

 
この長くて高い石垣(左)     城内では一番大きな石を使用

 
         崩れしままに、何百年もの歴史そのままです

 
     地下通路跡?                         矢穴

ありました! 先に習った矢穴、このお城では石垣の
殆どはこの山の中にあった石が使われているそうです。
そう云えば、周囲には大きな岩が山肌から露出してい
ます。 (矢穴:石を割る時にクサビを入れる為に空けた穴)

以下の説明文は:ご参考までに
滋賀県教育委員会文化財保護課の専門員さんが4年
に亘り発掘調査された調査結果を正確に情報発信す
る為
に以下の文章は当日配布されたレジュメをそのま
ま引用させて頂きます。(中略や一部表現は変えています)

平成20年から4年間の発掘調査
観音寺城は中世近江を支配した守護佐々木六角氏の
居城です。標高432mの繖山(きぬがさやま)一帯に郭
が広がる大城郭で、安土城以前の城としては例外的に
石垣を多用しているのが大きな特徴です。

      
観音寺城の縄張り図(各屋敷の配置図)       拡大出来ます
                     (地図の上でクリックしてください)     
            
今回の探訪は石垣に注目

この探訪では、専門職員の案内で現地に残された観音
寺城の遺構を訪ねます。観音寺城の特徴である石垣に
注目し、城内各所の石垣の様相を見学します。

なんといってもこれだけの石垣群を見せられたら これは
もう観音寺城の往時の姿や、中世近江を支配した佐々
木六角氏の隆盛を疑う分けにはいきません。(この部分は
Kennyの印象です)


                 伝布施淡路丸

上の写真の郭は本丸跡であってもいいほどの広さと
石垣、土塁構造だと専門員さんの解説です。しかしそ
の本丸は山の深い土塁を兼ねた尾根伝い伝伊庭丸、
伝三国丸とにさらに西に進んだところにありました。
(この部分もKennyの理解です)

今回の特徴 (上に地図があります
21年度には郭の森林伐採によって新たな見学場所が
加わりました。
伝本丸跡・伝平井丸跡・伝池田丸跡は、
繖山の南西尾根筋に展開する中心郭群で、建物礎石
のほか、下方に広がる郭群が見学できるようになりまし
た。
北端の尾根筋にある大土塁跡には、南側に大見付・
伝馬場丸・伝伊庭丸・伝三井丸・伝馬淵丸といった郭群
が並ぶ。


      北端の尾根筋 大土塁の上を歩いています


 複雑な虎口で、石垣を後で継ぎ足したようだとか (本丸)

繖山山頂から東に延びる尾根筋の東端の郭群にある伝
布施淡路丸跡・伝目賀田丸跡は、六角氏の家臣の布施・
目賀田氏の屋敷跡といわれているが、 その位置から見
て、観音寺城の東端を防御する役割を担ったものと考え
られる。

観音寺城跡に関するKennyの過去のブログは ここを

独り言:お礼の言葉に代えて
石垣見たとてなに嬉しかろー♪  竹田の子守唄ではないですが、
退職して暇になっても困るなーと。湖北への帰省時、安土城跡の
ところで冒頭の写真にあるようなるリュックを背負った集団に出会
い、この探索の存在を知り、もう3年になります。 

今私はそのリュックを背負って集団の中にいます。県や市、町の
自治体でこのような催しを開いてくださり大変感謝しています。
元々、郷土史でもと思っていましたので有り難い機会に恵まれま
した。私のブログもどうしても探索日記が多くなります。たくさんの
訪問者をお迎えしています。ありがたく、厚くお礼申しあげます。

 今日もご覧くださいましてありがとうございます
 

コメント (4)
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Kennyの山便り:三上山

2013-03-21 19:12:47 | 三上山

ちょっと気がかり、しかし・・・
 =大変だわ、三上山の大木は=
     (この日記の掲載期間:3月29日~4月4日、2013)

 三上山の生い立ちに付いて下段に追記を致しました(4月2日)



                           小堤城山山頂から見た三上山
               手前は希望が丘文化公園西口ゲート付近
です。 

三上山で気になることが
山歩きが大好きな者が極く自然に友達となった三上山
仲間
と登山道を歩いていて このところ大変気になること
あります。幾つかあるんですが、その一番の気がかり
は 樹齢何年かの大木が何本か根こそぎ倒れているか、
傾いていることです。 中には最近倒れた木もあります。
(下の写真)



              根本が浮き上がって倒れています

可愛そうな大木
見てください この根っこ(下の写真)。本来は土の中が居場
所の筈ですが、被っていた土が何年もの間に流されて根
っこが地表にむき出しになり
また地下には十分な土の層
がないらしくてこんなことになりました。この巨岩はその一
部が地表に顔を出しているんだけなんで
しょうね。周りは
岩だらけで根を張れないんだ。

         
 
                  大きな岩にしがみ付くように・・・


この三上山の生い立ち
三上山のある一帯は長い時間をかけて浸食され続けて
来ました。そんな環境の中で三上山だけは生き残りあの
富士山のような山容で私達を受け入れてくれています。

この山は残丘と呼ばれる分類(文献から)で、何万年 何百
万年の間の自然の浸食に耐えて432mの標高で今日も
残っているとのことです。

八田正文先生から教えて頂きました(4月2日追記)
先生はもう40年、三上山を撮り続けておられます。私は
先生の写真教室にお世話になり5年になります。先生が
このブログをご覧くださり、その上メールを下さいました。


 この岩 下から15mは十分あると思います、いやもっとあるか。
   
写真は岩の上半分だけが写っています。 さらに地下にも・・

そうなんや!だから三上山は大小多くの岩から成る山
なんですね。表登山道の山頂に近い所からは大きな岩
の間を縫うように登ります。 すごいですよ。


三上山の生い立ちに付き以下に引用させて頂きます 

「今から8000万年くらい前、現在の地名でいえば、彦根、
沖島、近江八幡、野洲、永源寺を結んだ円形の大カルデ
ラがあったのではないかといわれています。現在の三上
山は、その火山活動のマグマの貫入によって古い地層が
熱変成を受け、堅く緻密になった岩体になったものとい
われているそうです。

私は、岩石のことは全く分かりませんのですべて受け売り
ですが、いわゆる普通の地層が、マグマなどに触れるとそ
の熱で固い岩石(接触変成岩)に変わるのだそうです」

八田正文先生に深く感謝致します。


           ほとんどの木は山側に向かって倒れていきます

浮き上がる根っこ
三上山は周辺の山や丘、湖南アルプスの土に比べて粘り
あり少し違うように素人ながら思います。それと巨岩が集ま
った山、
これが三上山が生き残ってきた背景(残丘)ではな
いかと勝手な推定です。

しかしそれでもこの条件では樹木は根を深くはることが出来
ず、大きくなるに従いその重みに耐えきれずに倒れていくよ
うです。

 
                    傾く木、その根っこは浮き上っています  

 
      湖南アルプスの山肌          指でも削れる地質

木が育たない?
滋賀県南部の湖南アルプスは禿山で有名です。大津市内
から見ても地肌が目立ちます。これは花崗岩質の土壌が
流され易くて樹木が十分成長出来ないことも一因と聞いて
います。古代からの寺院建立で木が切り出されてとも語り
継がれてはいますが・・。

 まさか三上山がこんな事にはならないのでしょうが。

 
              寂しいです、山の中

  
となるとただ倒れていくのを・・・
三上山は大きな岩の塊りで出来ているのではと思うくらい
岩がごつごつとした山です。倒木は特に東側(裏登山道の斜
面)
の山頂に近い斜面が顕著です。今年も台風シーズン
になると、と思うと空しい思いに駆られます。 しかしどう
しょうもない・・・。

幾つか気になる事が
と上で書きましたが、こんなこともあります。それは山の中
の小さな樹木やシダ、草が私が回数を歩くようになったこの
5年の間でもかなり少なくなっているように思います。山の
地肌がよく見える、鹿が山の草を食べ尽くしたように山の向
こうまで見渡せるようになっています。この山に鹿はいません。
いづれかの機会にこのことも記録しておこうと思います。

最近の山頂からの景色です


     黄砂です この方向にある比叡山も全く見えません


       比良山系、蓬莱山 びわ湖バレースキー場です


    今日もご訪問いただきありがとうございます

                            **********************

         

                              写真展開催中

           場所:野洲図書館
          期間:3月29日~4月4日
           但し、4月1日(月)休館

                            
         写真展の趣旨 (クリックで拡大します)

         
                      会場:
私、Kennyも3点出展しています
                                       
                                       

コメント (12)
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Kennyの歴史探訪:塩津港

2013-03-11 20:53:16 | 塩津港、神社遺跡

私の故郷は古代からの重要港
        塩津(しおつ)港

 =今もその遺跡から宝物がざくざくと=

  
木簡、神社跡から津波の痕跡、港は埋め立て
          ♪ Kennyの滋賀から情報発信 ♪
      
(この日記の掲載期間:3月22日~3月28日、2013)

お願いです・・・・
冒頭からすんません m(-o-)m です、
どうか私の生まれ故郷  しおつ と呼(読)ん
でくださいね。 と濁らんのです。 この場を利用して
のお願いです。

過日は滋賀県南部のあるJR駅のアナウンスで「次に入ります 
のは おうみしおづ行きです」 ときましたね。このように間違っ
て記憶されている方が大変多いよう
です。湖西の海津や今津
なもんでね。 滋賀県
甲賀市も こうかではないん
です。 甲賀市の皆
さん これって本当に嫌ですよね (プンプン!)


  塩津港 発掘調査について講演される 横田洋三講師

さて本論です

その塩津(しおつ)港って?
私の故郷、塩津(元塩津村:現滋賀県長浜市西浅井町
で半世紀ほど前は ひとつの村でした
は古代から湖上
輸送における主要港(物流拠点)の地で琵琶湖の
最北にあり 塩津港は最大の港でした。

最大と云うのは船の数です。船の名前は丸子船
です。この度 滋賀県文化財保護課主催の歴史探
索講座で塩津港、その他 県内の遺跡発掘調査結
果発表会がありました。このブログでは私の最大
の関心事である塩津を取り上げます。(塩津港の
場所は下段に地図を添付しました)

     塩津港に関する過去の私(Kenny)の
            ブログはここを 

       そのー1 (琵琶湖にも津波、神社跡に痕跡が)
        そのー2 (丸子船、他)

                                             
 
        現場 発掘場所を矢板で囲み  左は国道8号線

   このページに掲げる写真は講座当日スクリーンで使用
     された映像資料を私、Kennyが撮影し
講師の横田洋三
     先生の許可を頂き掲載しております。 以下同様です。



      塩津港の航空写真 今回の発掘現場(右下 赤い

塩津港は埋め立てだった
もっともこれは周知の史実なのでしょうが、地元
出の私にとっては初めて知ったことでして、埋め
立てなんかしなくても港くらいいくらでも造れる土
地があるやな
いか、と。ところがちゃんと理由が
ありました。 それも平安時代に遡ります。

               ・・・・・・・・・・
         新資料入手につき追記:2021年8月

                                                塩津港、港町の様子(12世紀)

      

      
              港岸壁の西側 神社跡
           神社跡:中央の横線状溝、長方形の個所



      
       (上4点:滋賀県文化財保護協会主催の講座配布資料より)

  
               上下:2021年5月 撮影
  
                   港の岸壁跡の個所
         塩津港、発掘調査箇所:現在はバイパスの橋が架かる

         (以下の資料:財団法人 電源地域振興センターより)
     
            琵琶湖運河計画                 
                             この画面をクリックし
                           拡大してご覧ください
                          
                 ・・・・・・・・
          
    
         説明パネル             同、クリックで拡大

塩津港の今回の発掘地点が埋め立て地であっ
たこと。その理由、埋め立ての構造、出土品な
どは上のパネルに詳細があります。 パネル写
真はクリックで拡大出来ます。 ご一読下さい。
琵琶湖の水面は平安時代よりも上昇にしてい
るんですね。

写真と絵図で
私、Kennyの下手な講釈ではなくて、講師横田
洋三
(県、文化財保護協会)の許可を頂きまし
たので、以下も先生が管理の写真と絵図でその
様子を紹介します。実に見事な資料で理解し易
いです。

 
今は湖の底、発掘調査で解明された説明絵図  同拡大します

埋め立ての方法は
 
まず埋め立てる範囲に杭を打ちその杭を細い木
で杭を縫う
ように壁を作ります。底に木の枝を敷
き詰めます。石や土を盛っていきますが当時もや
はりゴミを捨てるように使っています。いろんなガ
ラクタが出てきます。お箸なんかも大量に。 その
中には札付木簡も。 


         
       出土の杭、絡ませた木々 石、土


            埋め立て範囲の杭、盛った石、土の概念図


      上の構造概念図で見る現場の写真 

 
大きな甕(かめ) 油を保存か?          井戸も発掘

常滑焼の大きな甕が埋め込まれてありました。当時
は液体物はこのような甕が使われていたそうです。
更に井戸が見つかりました。淡水湖なのになぜ井戸
が なのですが当時もゴミで埋めたてられるなど 水質
に理由があったのではと。

 
            発掘された札付木簡

この札付木簡 (税物などの荷に送り状として付けた荷札)
の裏側には米十石の代わりに栗毛の雌馬一頭を収
めますと書かれていました。 表には皇后宮御封米
と。サイズは78mmx4mm 杉材です。


今塩津港は
港として残ってはいますが、漁業に使われる程度と
理解しています。明治
に入って17年頃には国道と
国鉄(現JR)の普及で湖上輸送はその役目を
終え
ました。 輸送手段の丸子船も現存する船は博物館
丸子船の)と国道8線沿いの水の駅
展示の
二艘のみと聞き及んでいます。水の駅の丸子船は
店舗に向かって右
端の一角にあります。

     
     当 水の駅に展示の本物の丸子船 (Kenny撮影)

    
    塩津港から見た琵琶湖最北端(Kenny撮影)

     
    このように湾になっており、当時としても良港だった
    でしょうね。 鏡面の日が多いです。 国道8号線沿。 
    JR近江塩津駅から約3km。


この講座で:感謝

滋賀県文化財保護協会の横田洋三専門研究員
はこの塩津港
遺跡の発掘調査に携わってこられ
て私、kennyは先生の
講座を拝聴するのは今回
で三回目です。いつの講座でも貴重な資料を
準備
され 大変丁寧な解説に感動しております。

今回は埋め立て
が何度も繰り返えされている事を
突き止められて その解説の為
に上部から掘って
調査していきますが、私達への解説には一番底
から順番に絵図と実際の現場写真を照らし合
わせて
資料を用意し(上に掲載の資料はその一部です)
会場の受講者に分かりやすくお話くださいました。

郷土史愛好家はもとより、地元 塩津生まれ育ちの
私にとって特
に感慨無量の一日となりました。 

今日もご訪問下さいましてありがとうございます。


コメント (8)
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Kennyの歴史探索:観音の里(旧伊香郡)

2013-03-06 11:38:20 | 高月の観音:その背景

 湖北には沢山の観音像があります
=でもなんでなやろう?が一気に解消です= 
   Kennyの滋賀から情報発信 ♪
        
(この日記の掲載は3月15日~3月21日)

観音の里:旧伊香郡 (現 滋賀県長浜市の北部)
私、Kennyは長年 「なんで湖北には十一面観音像
がこんなに沢山あるんやろうか
と疑問に思っていま
した。なんせ私、地元の出で
すんで、聞かれたらどう
すんの!でしたんや。 当日は嬉しい講座でした。
         


         講演される北村圭弘講師(滋賀県文化財保護課)

滋賀県文化財保護課の研究員さんが
過日、滋賀県長浜市高月町で「近江歴史探訪」の講
座が開催されました。県文化財保護課の北村圭弘
研究員さんが講師としてお話くださいました。講演内
容は多岐に亘っていましたが、スペースの関係でここ
では私にとって念願のテーマ、この観音像に関する点
だけ取り上げて記録しておきたいと思います。

ところが当日のご講演
の私の聞きかじりではとても文
章にはできませんので、当日のレジュメと昨年開催の
特別展 湖北の観音の案内文(長浜市長浜城歴史博物館
発行)から
引用させて頂きます。(部分引用にKennyの加筆

            
            国宝 十一面観音(渡岸寺・高月町)
                 
   (写真:ウキペデアより引用)
   湖北の観音像 関連情報は ここを (上記特別展から)

(追記)この十一面観音は、泰澄 が刻んで修法をいとなんだ
と滋賀県教育委員会文化財保護課出版の「湖北の祈りとそ
かたちと」云う書物に記載があります。(泰澄は下段に)

             

仏教文化の伝来と観音像
約1300年前の仏教文化の伝来により「湖北地方は
観音菩薩像
が多く分布し今なおこの地に伝えられて
います。旧伊香郡地域の仏教文化財は奈良・平安
代にさかのぼるものが多く、十一面観音、聖観音、千
手観音、馬頭観音など多種の観音像が存在します。
この地域はかつて東にそびえる己高山(こだかみやま・
923m
)を中心として繁栄した仏教文化圏に属してい

ました。

   
    向源寺(渡岸寺観音堂)・滋賀県長浜市高月町

乙高山は修業の山
天台宗の法眼春全によって記された『己高山縁起
(鶏足寺蔵)によると「この山は近江国の鬼門にあたり、
いにしえより修行場であった。
またここに行基が訪
れて仏像を刻んで寺を建て、泰澄白山を開山:Kenny
の理解
が修行場とし、後に最澄が訪れ「“白山白翁”
と名乗る老人の勧めによって再興した」 とあります。


             当日の映像資料
  
(スクリーンに映された映像を撮影しました。以下同じ))
    
ここに観音像の存在理由が
つまり、近江国の鬼門として古代より霊山と崇めら
れてきた己高山は、交通の要所にもあたることから、
奈良時代には中央仏教と並んで北陸白山十一面
観音信仰の流入
があり、さらに平安期に至っては

比叡山天台勢力の影響を強く受け、これらの習合
文化圏として観音信仰を基調とする独自の仏教文
化を構築したことが窺われます。


           当日の映像資料

   (以下参考までに上述の案内文の続きを記載)
しかし平安時代以降、天台宗傘下として己高山を中心に栄
えた湖北の寺々は、室町期頃には弱体化し、かわって浄土・
曹洞・一向(浄土真)宗・時宗らのいわゆる新仏教が、自治
能力を高めていった農民勢力の台頭に併せて勢力を伸ばし
ていき、また己高山寺院は真言宗との結び付きを深めてい
ったようです。
各集落に伝わる観音をはじめとする仏たちは、
村全体の信仰の象徴(氏仏)として、江戸時代を経て、今の
住民に引き継がれてきました。

   
               己高山

            (同、引き続き)
村々にあった天台寺院の多くは次第に衰退して無住・廃寺
化し、そこに残された尊像たちは、宗派・宗旨の枠を越
えて、
村の守り本尊として民衆に守られていきました。中近
世にお
いては、神と仏は一体であり、氏神ならぬ「氏仏」とい
う考え
があったことによります。また戦国時代には、湖北は
幾度も
戦乱の舞台となりましたが、その度ごとに民衆は、仏
たちを
身を挺して守ってきたというエピソードも事欠きません。


ほっとしました
過去に誰かから「白山の僧の修業
の場が伊香郡
にあり 修業僧が仏像を彫って祀ったと聞いて
いま
すよ」と。

今回の講座でさらに詳細を学ぶことが出来ました。
ほっとしております。実は過去に私の兄にこの湖北
の観音様について受け売りをしていました。それも
ほんの聞きかじりです。兄は「そう云えば村のお宮
さんの中に白山神社という小さな祠がある」と。過日
帰省時にその祠を見てきました。

お断り:当日の講座で使用された映像資料、講座
      内容の私のブログで掲載は講師 北村先生
             のご了解を戴いております。

         *記載内容に私の聞き違い、誤解による間
      違いがあると思いますが どうか素人の日
      記とご容赦ください。


   今日もご覧くださいましてありがとうございました

コメント (6)
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