趣味・興味プラス挑戦

郷土史、登山、スキーなどを写真と共に書き綴っております

Kennyの気まぐれ旅:高鷲スキー場と郡上八幡城

2016-03-06 20:06:08 | 城址

             この旅 快晴、翌日は雨
             雨でもええやん、ちっとも悔しくはない
                  ならば、スキー場とお城
               (この日記の掲載期間:3月10日~3月17日)


                  東海北陸道、郡上八幡を過ぎると見えてきます、雪山  気分よう~

ちょっと遠出のスキーに、高鷲、ダイナランドスキー場
東海北陸道の高鷲ICを降りると兎に角大きなスキー場があります。二つのスキ
ー場が一つになった高鷲、そしてダイナランドスキー場です。 


           ところが、高鷲IC に近づくと、うおっ、渋滞!  事故やー、もう##
  ロスタイム 40分

 
                        スキー場は十分な雪です          

その日は快晴

 

 
     長いゲレンデ、この場所まで約4km                ゲレンデの途中


翌日は雨、こりゃー、スキーはあかん


                    ということで、スキーは車の屋根に   いざ、お城へ



     気になっていたお城  後日(3月12日)、東海北陸道より撮影   街並は郡上八幡

この地にくる途中、高速道路から山頂にお城が見えます。 長く気になっていま
した。 スキーの旅二日目、朝から雨。 ならばと行き先は決まっています。 民宿
から30分の郡上八幡城です。 本来の呼び名は八幡城のようです。 HPなど
では  郡上 八幡城と郡上はななめ小文字になっています。

郡上 八幡城 (岐阜県郡上市八幡町)



戦国時代末期の永禄2年(1559年)、遠藤盛数(えんどうもりかず)が八幡山山頂に砦を
築いたのが始まり。明治維新の際に天守閣は取り壊しを受けるが、昭和8年に再建。
木造の再建城としては日本最古。 




                                    石垣は当時のもの、草生して壮観です

 


              山内一豊の妻  千代は初代藩主 遠藤盛数の娘 と  (NHKドラマでは近江説が)

天空の城
その日はこんな幸運も。 天空の城でした。 そして念願のこの城を見てきました。
これも雪が少ない今シーズンだからでして、まともだとこの時期は車では登れない
のでは? そうなると友は麓から歩いてまで付き合ってくれるか・・・?



日本三大 天空の城
福井県大野市の「越前大野城」、兵庫県朝来市の「竹田城跡」、岡山県高梁市
の「備中松山城」が三大天空の城だとか。 民宿の若旦那が、ひょっとしたら今
日は素晴らしい天空の郡上八幡城がと。その通りでした!


                                          城内のポスターから

           

遠藤氏、実は野洲市(滋賀県)と繋がりが (ウィキペディアより引用)
遠藤氏は、日本の氏族、武士の家系。江戸時代には譜代大名家となった。千葉
氏の庶流東氏が下総国東荘より移ったときにこれに従い、美濃国に入った。

室町時代、東常慶(とうつねよし)の娘婿であった遠藤盛数は東氏から家督を奪い、
以後は遠藤氏が東氏の家督も継承した。遠藤氏は郡上八幡城を本拠とし郡上
一円を支配した。一方で家督を奪われた常慶の子の東常尭は飛騨の内ヶ島氏
理の庇護を受けたものの、天正大地震で内ヶ島氏と運命を共にした。

近江三上藩(滋賀県野洲市)との繫がり
盛数の子で常慶の外孫である遠藤慶隆は戦国時代、安土桃山時代を乗り切り、
江戸
時代には美濃八幡藩主となり、その後子孫近江三上藩(滋賀県野洲市)
へ移封されて存続した。最後の藩主である遠藤胤城は明治維新後に縁のある
東氏に改姓し、子爵を授けられている。

                私の過去のブログ:近江三上藩と遠藤氏
          ここをクリックしてください 

       今日もご覧くださいましてありがとうございました

 


 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Kennyの城址歩き:物生山城址

2016-01-30 16:02:45 | 城址

                物生山城址(むしやまじょう)
              滋賀県彦根市 

              元亀争乱(1570-1573)のお話です
                        Kennyの滋賀から情報発信
                               (この日記の掲載期間:2月5日~2月11日)

この3年間の 「信長と長政」 の戦いを 「元亀争乱」 と


          今日訪ねた物生山城址と佐和山城址の位置関係  両者間の尾根を歩けば2時間程か
                           
今回の見学とこのブログの内容は、
信長の近江侵攻にあたり、傘下にあった江北(近江の北半分)浅井氏が造反した
ことから浅井攻めを開始。その一環、浅井氏の居城、小谷城の南に位置する佐和
山城を叩くために用意周到な信長は包囲網の付城(
砦)4箇所を築きました。その
内の一つが物生山
で、今回はその城址の見学日記です。

 
      松下 浩 氏 (滋賀県教育委員会 文化財保護課)のご講演を先ず拝聴しました

信長は四つの城(砦)を築く (下の絵図をご覧ください)
元亀元年(1570)に佐和山城に籠る浅井氏家臣磯野員昌(かずまさ)を包囲する
ため東西南北に4つの砦と鹿垣(ししがき)を築いたと
「信長公記」に書かれてい
ます。

これには佐和山城の磯野員昌もたまらず降参、開城!
この包囲に員昌は震え上がってしまい(でしょうな)、信長に寝返る ことになり
ます
。しかしこの時代、内通、寝返りは特別なことではなく、なんでもかんでも
切り合いの合戦をしたのではなく、出来る事なら命がけの戦いはしたくない、だ
ったようです。

この攻防は 姉川の合戦 直後のことです。

  
                            佐和山城を包囲する4つの城
                                 (前回の別の講座で頂いた資料に私が追記)

戦わずして城を落とす
上の絵図を見れば、素人が見ても(なんでしょうか)、磯野員昌さんは手も足も
出ませんよね。 佐和山城と物生山城は尾根を歩いて2時間位でしょう、目の
前に迫る4箇所の砦から狙われている。それも信長は攻撃を仕掛けず持久戦。
これでは員昌の精気も消失、信長の作戦です。

元亀争乱はどんな戦い? 
元亀元年(1570)6月、織田信長の近江侵攻が開始された。 以後元亀四年
(1573、天正元年)8月の小谷城落城までの3ヶ年の戦いを元亀争乱と呼んで
います。 その間、姉川の合戦の他幾つかの戦いが続きますが、今日見学し
た佐和山城を落とす作戦は名前が付く合戦にはならず信長の手に落ちます。


                                堀切  いよいよ城の中核部に入ってきました


                                   主郭  に到着です


                    今は樹木に覆われていますが当時は砦が佐和山城を睨んでいました


                               木立の向こうに佐和山城址が見えています

このへんがまたすごい!
この主郭の場所は佐和山城から伸びる直線上の尾根にではなく、鉤形に曲がっ
別の尾根上に築かれています。 直線上だと佐和山城から見えません。よく
見えるところに造った、これがすごい!(上の絵図の黒いの所をご覧下さい)

では、出発から途中の様子です



                                  最寄の鳥居本駅(近江鉄道)

                  
                                   講演会場から出発   もう城の中なんです


                      佐和山城の北端、山越えの道を登って行きます


                               その山越えの道、かもう坂通り往還です

                    
この主郭の周りには曲輪、横堀、土橋などが今もしっかりと残っていました。
   
     
                                                     用語解説

 
                      堀切                             横堀


                                                             土橋
 


                              探索を終えて帰路につく参加者
 
この歴史講座は毎回すぐに定員を超える大人気です。 この日も100名を優に
超す参加者でした。
 私はもう7年以上参加させてもらっていますが、年々参加
者がUPしています。

            信長の佐和山城包囲網に関する私の過去のブログ
                               ↑ ここをクリックしてください

                           この包囲網の別の場所のお話です: 前回の見学日記です

              今日もご覧下さいましてありがとうございました


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Kennyの城跡歩き:水口岡山城、現地見学会

2015-04-28 21:44:58 | 城址

  崩し落された石垣、門の礎石、
石階段、今回 発掘確認の遺跡です
    
水口岡山城 滋賀県水口町    
  秀吉の城、本当にあったんやとさらに実感 
    今回(第三次)はお城の本丸南斜面と三の丸虎口を発掘
                 Kennyの滋賀から情報発信
               このブログの掲載期間:5月1日~5月7日)
 

まずはそのお城ってどこに、誰の?
下の写真は三筋の街、滋賀県甲賀市水口町の航空写真です。
そして
緑の山が今回発掘調査のお城のある大岡山(現在の古城山)です。


                 
   山頂の白く細長い地が水口岡山城の主郭部分です
                        (水口町紹介パンフレットの写真に私が加筆)

水口岡山城
天正13年(1585)、秀吉は中村一氏(かずうじ)にこの城を築かせま
した。このころは既に東海の徳川家康や関東の北条氏は秀吉にとって
敵対する勢力であり東海道を眼下に見据え、鈴鹿峠を望む立地のこの
水口は東国への足掛かりとして重要な城でした。

  
     
水口町の、その昔の大手道から見た大岡山           お城の詳しい解説  
                                                                          (クリックで拡大します)
                     

         当日はお城のお祭り バルーンのお城が! 下から見た目、本物です


今回の発掘現場です

本丸南斜面:
岩盤の上に築かれた石垣が壊されて下に落とされていました



           石が下に転げ落ちています。石の後部は岩盤です。 斜面の下段

この南斜面のは大手道を境に二段構造になっており、それぞれに石垣が
組まれている。 しかしこの一段目は真下からではなくて岩盤から上が石
垣です
。この下段斜面だけで7m以上もあり、当時はまだそれだけの高さ
の石垣は築けなかったこともあり、うまく岩盤を利用しています。



            転げ落ちた石 その奥、上部には岩盤が見えます

それにしても落ちている石が少なすぎない? ですね。それは石の再利用
が考えられるそうです。その後別の築城に転用。またずーっと
後年に何か
の工事に転用されることもこういったケースではしばしばだったとか。



                            上の段も同様に崩されている

見学者が立っているところが大手道。そしてこの部分が上の段に組まれた
石垣の部分です。

                       

                       上の段から、下の石垣の段を見下ろした写真

三の丸虎口から門礎石、石階段が見つかりました






       上の二人は門の礎石に立っています。下の二人は石段を踏んでいます。
                             (当日配布のパンフレットから)



                            発掘現場を上から


 
                         三の丸から見た虎口

この虎口は平入(枡型にはなっていない)なので城内の儀礼的な虎口だ
ったのではないか、つまり三の丸は居住空間であった可能
性も出てきた
とのお話です。


当日会場で展示された発掘品

寺院の瓦が転用されていた


 

李朝系陶磁器




大勢の見学者




今回の調査で分かったこと

本丸は前周を石垣にめぐらされて下界から見ても壮大な、頑強さを誇る城
あったことが確実になりました。 それ以前の調査で検出した上段の石垣や
さらに北面に今も見ることが出来る(残っている)石垣からその様相が伺える
との事です。また岩盤が利用出来る所は岩盤を削って利用したと推測。

二つ目は、三の丸の構造と城門の存在。 どうやら瓦葺ではなったようだ。

三つ目は、築城時に資材不足で寺院から多くの瓦を転用したことが判明。


                         本丸北側に今も残る石垣                       

これだけ当時の遺跡・遺物を見せて貰ったら!
東海道を見下ろす山。 東国との通過点でもあるこの水口。 お城・砦(跡)
の多い滋賀県に住
んで、ちょこっと城跡歩きをしている私のような者にとっ
このような城跡、現地見学会は、本当にありがたい催し、勉強の場です。
関係者の皆様に感謝します。

           
                             当日参加者が頂いた資料

       本当にあったんだここに! 威容を誇る拠点城郭が

破城
関ヶ原の合戦で西軍が破れ、東軍(徳川)によって東海道を睨む
秀吉にと
って超重要拠点だったこの城も叩き潰されたのですが、
崩し落とされた石
垣を見て、
なるほど、物語風に聞いていたこのお城、今日の見学でしっか
りと実像を見た気が
しました。 

虎口(こぐち)
お城の入口、入城門のことです。敵侵入時の応戦のために色々と工夫が
されていますが、もっとも一般的な工夫は入り口を鉤型に直角にまげた
枡形虎口です。それに対して現在のお寺のように真っ直ぐに入れる虎口
平入り虎口といいます。

お断り
本丸跡や三の丸跡の主催者の説明(文)では「伝」という文字が頭につい
ています。これはそのことが伝承、そのようだ、との域を出ていない場合
伝本丸跡、と表現されます。 ここではその伝は省略させて頂きました。


    
参考資料: 当日頂いたパンフレット(上の写真)、ウィキペディア

                  

        今日もご覧くださいましてありがとうございました

 

 

 

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Kennyの歴史探訪:小堤城山城と東山道

2015-03-15 19:15:34 | 城址

         小堤城山城と東山道
   滋賀県と野洲市の研究員さんの案内で
                Kennyの滋賀から情報発信

         この日記のTOP掲載期間:4月17日~4月24日


小堤城山城とは?
滋賀県野洲市の通称、城山、一帯にあります。近江守護六角氏の家
永原氏が築いた城です。標高286mの山頂部を中心に北側に
数の郭が配置されています。郭の間や先端部など堀切が随所に見ら
れ、中でも石垣が多用されているところが大きな特徴です。また、
山麓の北側を東山道が通り、さらに北へ進むと、永原氏の居館跡と
される上永原城跡があります。その北側を朝鮮人街道が通り街道を
西へ進むと東山道と合流します。

      地図の上を  クリックで拡大します

                  小堤城山城探索コースと所在地

今回の講座では、小堤城山城跡と東山道・朝鮮人街道沿いの史跡を、
文化財専門職員さんの案内で見学してきました。

  朝鮮人街道


                                   集合場所のJR野洲駅前

この何年かの改修工事で駅前はずいぶんすっきりしました。ほぼ40年
前にここに越してきて以来野洲市にお世話になっていますが、アウトド
ア活動、農産物、多くの工場(工業製品)、郷土史などなど、本当にな
んでもござれのいい町です。



                左 松下 浩先生(滋賀県)  右 福永清治先生(野洲市)


               「六角氏と永原氏」と題して講演される仲川 靖先生(滋賀県)


                        東山道(中山道)を進む歴史愛好家


                 大手道  崩れた石垣がこのようにして残っています


       大手道の両側には多くの曲輪跡が(上の案内図で並んだ四角の部分)

これらの曲輪は山岳寺院の坊院群の配置とよく似た構造です。総じて
当城の築城には総石垣構造の観音寺城を造った六角氏の意向を強く
感じます。



                                           主郭跡

 
           矢穴(やあな)の残る石            参考:彦根城の石垣にも

矢穴(大きな石から石垣サイズに割る切込みの楔・くさびの跡)の入った
石(石垣)をこの城跡には多く見かけます。


                    山頂部にある曲輪跡  見張り櫓でもあったのかな?

標高286mの山頂とは云えども360度を十分見渡せます。眼下に東山道
は勿論、東海道が。更に観音寺城、夕日ヶ丘城、水茎岡山城、三雲城(何
れも跡)などが一望できます。


                             水茎岡山城のあった山が見えます


                             比良山系と琵琶湖


城跡内を歩いてみると


                                        深い堀切

城の南側は急斜面
大手道の反対側は自然の切岸のような急斜面になっています。 敵兵の
侵攻をを妨げるに十な地形です。 なお今回は城跡のこの南側部分は歩
いてません。 (写真は過去に撮ったものです。 以下同じ) 


              急斜面にあるこれらの石垣は櫓台だったのだろうか?

上永原城跡
小堤城山城からかなり離れて祇王小学校のグランドに永原城址と刻
まれた石碑が見えます。この辺が上永原城跡です。小堤城山城は有
の砦で平時の居館はこの上永原城との説。もう一つの説は小堤城
山城
に居館も移したとも考えられるそうです。それはあまりにも両城は
離れていることです。




遠いところからも滋賀県に、歴女さんも
今回の連続講座にも多くの参加者(90名以上)が集まりました。 歩きな
がらお話しした3名の歴女さんは、岐阜県、大阪府そして岡山県からお
越しでした。 ところで歴女に対して男性はどう言うのかな?


              たぶん城内で一番規模の大きな石垣です

ちょとっこ恩返しも
今回のお城は私の住む野洲市です。  過去に何度も講座、現地案内に
参加しており門前の小僧よろしく、口伝ならばと一緒に歩いていた他府
県からお越し方を
城内の見どころにご案内しました。その一つが一番
規模の大きなこの石垣(上の写真)です。 この城跡に行かれた時は是非
見て頂きたいですね。 でもその場所はちょっと分かりにくいかも・・・。


       今日もご覧くださいましてありがとうございました

コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Kennyの城跡歩き:松原内湖に信長が大工事を

2014-11-25 09:36:12 | 城址

松原内湖 丘陵に築いた竪堀、堀切
     現地見学会で見てきました
                滋賀県彦根市
           Kennyの滋賀から情報発信
             (この日記の掲載期間:2月6日~2月12日)


これじゃ佐和山城もかなわんですな、信長さん!
元亀元年(1507)に佐和山城に籠る浅井氏家臣磯野員昌(かずまさ)を包囲
するため東西南北に4つの砦と鹿垣(ししがき)を築いたと
「信長公記」に書
かれているそうです。今回発見された堀切、竪堀は敵兵の侵入を防ぐ鹿垣
の一部ではないかと。信長の包囲による攻城戦で、兵力を温存、相手の降
伏待つ戦術です。これは姉川の合戦直後のお話です。員昌は翌元亀二年
降伏、開城しています。 信長さんにはとってもかなわんでしょうな~



   産経新聞 1月23日朝刊(当新聞が情報の量で私には一番勉強になりました)

          
                       上の写真をクリックし拡大してご覧ください

        
                                     同、産経新聞から


  今回の発掘調査地点 佐和山城と4つの砦の位置関係 (当時配布資料から)
      東西南北4つの砦:物生山城(むしやま)、丸山城、里根山城、現彦根城 





この遺跡、どうやって見つけたの?


                                 ここは尾根部分です

上の写真の部分は尾根でU字の窪みは堀切です。この尾根の部分が
んで(凹んでいる)事を別の調査をしておられた滋賀県の研究員さんは見
逃さなかったんです。おかしいぞ、尾根の一部が!!と。 早速発掘してみ
ると、今回発表の歴史的遺跡が出てきたんです。



                               当日入手の資料から 
                     
(赤い文字は私の追記です:上に掲載の資料も)




                       滋賀県文化財保護課の研究員さんが解説を


   私もこの大勢の中の一人、こんなん知って何になる、ですが見逃せないんです




同じ場所、松原内湖から発掘:巻数板(かんじょういた)
今回の発表、見学会の前、昨年12月に、この巻数板が当 旧松原内湖
ら発掘、公開されました。 なお、この内湖は今は埋め立てられて施設
が建ち、またこのような更地になっています。



                                   発掘された旧内湖

この巻数板は、鎌倉時代末期、元徳三年(1331)の年号を記した近畿地方
では初のものです。これって今でも正月行事で勧請吊りに
用いられている
のを見かけますよね。過日TVニュースで子供が石を投
げて板を割ってい
るシーンがありました。 いたずらではないですよ。



                      当日、発掘調査事務棟での並列展示から


                                      巻数板の赤外線写真

この松原内湖は他にも

         
                          現地の事務所仮説展示室で

 
   竪堀埋土上層から出土の天目茶碗   古墳時代の石列から出土の須恵器高杯

今回公開の場所から、古墳時代の石列、発掘の竪堀が埋まった後の
表土近くから17世紀前半と考えられる天目茶碗が出土していることか
ら、6世紀以降16世紀以前に築かれた遺構とのお話しでした。 そして
少し離れた場所から発掘の巻数板、またこの内湖からは縄文時代の
遺構、奈良時代から室町時代頃の集落跡も見つかっています。 しかし
有力者の館跡は認めらないことから、掘立柱建物群からなる集落がこ
こに存在したようです。人が住むに適した内湖の立地ならではないでし
ょうか。

用語: 
鹿垣(ししがき): 竹や枝つきの木で粗く編んだ垣。獣が田畑に侵入するの
             を防ぐためのもの。また、戦場で敵を防ぐのにも用いた。

         竪堀(たてぼり): 山城で,自然地形の斜面に上下方向に設けた堀。多くは
                     攻城軍が斜面を横に移動しにくくするために設ける。

        堀切(ほりきり): 山城で、尾根を伝って侵入する敵に対して、尾根を分断し
                     て足止めさせる堀(深くて広い溝)

        信長公記: ウィキペディアの解説 ここを

お断り: 今回の見学会のブログでの記載、当日配布資料の引用他、すべて当局の
           許可を得ております。


          今日もご覧くださいましてありがとうございます

          

コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする