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郷土史、登山、スキーなどを写真と共に書き綴っております

Kennyの郷土史:天保義民

2012-10-15 21:24:56 | 天保義民:農民一揆:滋賀県

  幕府役人に詰め寄った農民
 =近江の
天保百姓一揆 三上・甲賀騒動=
  その一揆は現在の野洲市が主の舞台
     (この日記の掲載期間:10月19日~10月25日)

今回も少しは知っておきたいと思ったお話です
この地(野洲市)で江戸時代に近江の天保一揆というお百姓さん
の一揆
があったんです。
私が頻繁に登る三上山の登山口に天保
義民碑
騒動の絵図
があります。また同山登山道脇の巨岩にぽ
っかりと空いた大きな穴
あり江戸幕府の役人市野茂三郎らが
逃げ込んだと記載の看板もあります。下の写真はその絵図です。
   (一体物の看板ですが掲載の都合で絵と文に分離加工しました)

      
       指導した土川平兵衛辞世の句      一揆の絵図  
         
(このブログの小サイズの写真はクリックで拡大します)       

天保一揆
江戸時代、天保13年(1842年)10月15日その一揆は勃発しました。
甲賀郡の農民が結集、野洲郡、栗太郡(旧地名が理解し易いので)の農民
を加え数千人が翌16日に幕府の役人、市野茂三郎の陣屋を囲みます。
これに恐れ慄いた幕府側に10万日日延べを約束させます。幕府の面
子上中止とせずこのように日延べとしたのかな・・・。

       
12歳からの「滋賀の歴史」滋賀県中学校教育研究会社会部会編より拝借                

なぜ一揆が、天保の改革
税(年貢)の増収(増徴)策が理不尽でこれに抗議したのがこの一
揆です。今、世は正に財政難と云われていますが、江戸幕府も初期
から幕末まで常に財政難に陥っていたとの事です。そしていよいよ窮
地に陥った幕府は老中水野忠邦による天保の改革に取り組みます。

近江国の検地
土地の広さに応じた納税(年貢を納める)をしているか、新開地(農民
が自主的に開拓した田畑)に対しても納税しているか、新開地に向い
た土地はないかと調べる(検地)役目として今日のお話の主役の一人
市野茂三郎が検地奉行として派遣されてきました。ここまではまあ
当然の姿なんですがその時代が悪かったのです。当時は天保の大飢
饉の時代で冷害や不作が続き全国各地で一揆や打ち壊しなどが頻発
しています。さらには米の高騰、肥料の値段上がりなどと悪循環が生
まれていました。


  土川平兵衛書状 肥料が高騰したため取り調べを願う打ち合わせを召集
  写真: 「近江天保一揆とその時代」野洲市歴史民俗博物館編から拝借

理不尽な検地:間竿(けんざお)
の寸法
なんとしてでも増収を図ろうとする幕府、検地の度に負担が重くなり新規
開拓の地も持っていかれる実情に不満が募っていたところ間竿の1間の
尺度の誤魔化し、しっかり測量せず推測で村高を決める、揚句には賄賂
を取る。また彦根藩には手が出せず素通りをするなどに遂に我慢ならず
農民は立ち上がったわけです。

この一揆の様子:
一揆は10月14日から16日のかけての3日間であり当の市野茂三郎に
新開地などの見分の中止を約束させて解散し、見分に協力する村役人
数軒の打ち壊し以外には強力な武力衝突なく終わったそうです。


     写真: 「近江天保一揆とその時代」野洲市歴史民俗博物館編から拝借


天保義民:悲話
ただでは済まない身分制度の厳しい時代、大津代官所に赴任した役
人から拷問を受けて何人もの人々が絶命する取り調べを受けます。
さらには一揆の指導者を中心に11名が江戸送りとなり市野の不正を
訴えたと言う。しかし彼らは帰ることはなかった。その中に頭取として
三上村(野洲郡)の庄屋、土川平兵衛がいます。なお他の10名の多
くは甲賀郡内の村役人と農民でした。

  
   土川平兵衛の像:三上小学校で      平兵衛の墓と解説板 
                               背後に三上山

近江天保一揆の顕彰
今も関係各地で義民顕彰が行われており、当地野洲では毎年10月
15日に三上山の麓にある保民祠、天保義民碑の前で天保義民際が
行われています。

  
      天保義民碑          同碑の上部     義民碑の解説 


今回の日記
一度は調べてみたいと思っていたところ、最近市内で「天保一揆と近江」
と題しての講座に恵まれました。その講座でお聞きしたお話と
当日販売
されていた書物「近江天保一揆とその時代」、さらに以前
に買っておい
た「12歳から学ぶ滋賀県の歴史」を参考にこの一揆を
覗いてみました。

情報の補足

間竿の不正:
      5尺8寸の間竿に6尺1寸の目盛を書き込んで検地。しかしこの
      事を事実ととるか幕府の不正を責める比喩と見るかも検討に値
      することだと勉強会でのお話でした。市野茂三郎を調べる限り人
      物像が異なるとの説には興味を抱きました。つまり一揆の勃発
      は
日頃の鬱憤が背景ではと云うことです。

参考(教材)にした二冊の書籍: 下に書籍の表紙写真があります
      12歳からの「滋賀の歴史」 滋賀県中学校教育研究会社会部会編
          決して12歳からに惑わされる書物ではなく取りあえずの知識を得る最高
          の書物だと認識しております (サンライズ出版)

        
「近江天保一揆とその時代」 銅鐸博物館野洲市歴史民俗博物館編
          詳しく近江に限らず当時の一揆にも言及。古文書、現地写真が満載です

巨岩にある穴(洞窟) 
         市野茂三郎が逃げ込んだとも云えるが市野が三上山の山頂
        部のその存在を知る筈もなく、はやり騒動で死に至れば大変
        面倒に
なるのを避けて匿ったとの説にも納得です。                    

          
           参考書籍            洞窟         洞窟の解説板

お断り:この日記は過日、銅鐸博物館(野洲市)で開催の歴史講座そして上に紹介の
     書籍を参考に書きました。講師のお話しの聞き違いや文献の誤読、端折り過
     ぎなどで間違いが多々あるかもしれませんがどうか素人の個人的な日記とし
     てお許しください。

       今日もご覧くださいましてありがとうございました

                    ************

                     お礼
    
野洲図書館ギャラリーで開催しておりましたわいわいクラブ写真展
期間中多くのお客様をお迎えして、本日(10月21日)終了致しました。

会場にお越しくださいました皆様には有りがたく厚くお礼申しあげます。

              10月21日、2012  当会員 Kenny    

コメント (6)
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