趣味・興味プラス挑戦

郷土史、登山、スキーなどを写真と共に書き綴っております

5爺の自転車を漕いで:甲賀市 和田城館群

2018-04-06 08:10:18 | 甲賀郡中惣

        5爺の自転車を漕いで

        今日は野洲市を離れ、電車に乗って
                  和田城館群

              
      滋賀県甲賀市   

5爺が甲賀のこのお城跡になぜ?
佐々木六角氏ゆかりの野洲市内のお城跡を訪ね終わった5爺、ならば
今度はその六角氏におおいに関係のある甲賀市のお城を訪ねてみたい
と、5爺は益々好奇心旺盛です。

和田城館群とは?
滋賀県には1300箇所の城(跡)があります。その内、甲賀市には200箇
所(300個所?)が確認されており、特に今日訪ねた和田地区にはなんと
100m間隔に7(9?)つもの城館が築かれて今もしっかりと整備され見学
することが出来ます。その城館群を和田城館群といいます。

 
                                        JR油日駅前の看板から引用  Kennyが書き込み

             
今回訪ねた城(館)跡
和田城跡、和田支Ⅱ城跡
、公方屋敷跡、公方屋敷支城跡、殿山城跡


以下、それぞれの解説は現地の案内板に委ねますね


           和田城跡の案内板で何をか語る  MARさん TAMさん  Kenny(手前)


和田城跡


            和田城跡虎口から入り曲輪で  お疲れのKAKさん、TAMさん




                      和田惟政の菩提を弔う五輪搭  極楽寺




和田支城Ⅱ


                          掘切が深く残る

      


公方屋敷跡




           今は民家の敷地? または隣の空地が屋敷跡?  おばーちゃんと語る


公方屋敷支城跡





   
                     この池は当時のもの?

殿山城跡


                        堀切も深く残って


                          土塁もしっかり残っています

                               
                           公方屋敷支城跡から眺めた和田城館群
                                              写真左の山:殿山城  正面:公方屋敷

ランチタイム
この城跡を探索の後、弁当を広げます。いい空気を吸って、桜を眺め、
ウグイスの声に季節を感じながら。KAKさんが缶ビールを振る舞って
くれました。嬉しいですね・・。講座とかではなく私的な歴史探訪の旅、
これもまた仲間との和気藹々のひと時です。




                                           JR油日駅 
                                    ここから和田城館群まで歩いて30分

 
                                      
 その道中  MARさん、TAMさん、KAKさん(手前

 
                                                      
4月2日、2018 桜満開でした

甲賀郡中惣について
甲賀武士団は自治組織で互いに協力しあって領地を守りました。 甲賀郡中惣
という自治組織です。甲賀全体を支配するような権力が生まれることなく、各土
豪が独自の城館を築いて自分の地区を収めました。和田城館群がその代表的
な地区ということなんでしょうね。

この甲賀郡中惣について
  ・甲賀になぜ城が多い  ・織田信長との関係  ・佐々木六角との関わり

         等などはKennyの過去ブログをご覧ください

                                   甲賀郡中惣

                                            滋賀県の城跡、甲賀市の城

           今日もご覧下さいましてありがとうございました

                           (4月6日、2018 UP)


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和田城館址:Kennyの城址歩き

2011-07-30 21:58:12 | 甲賀郡中惣

     甲賀市の専門員さんの
 ご案内で城址を歩いてきました 
  =和田城館群(滋賀県甲賀市)です=
         
                  (この日記の掲載期間:8月12日ー8月18日)

和田(わた)集落を訪ねました
滋賀県には1300ケ所の城館址があると云われております(既に何度かこのブログ
でも取り上げました)。 そのうち甲賀市(こうかし)には200か所が確認されており、
県内では最も多くのお城址が密集しています。その中でもこの和田地区には特に
集中しており、しかもたったの100mほど離れて7つも城館が築かれています。 

     
      甲賀市教育委員会事務局歴史文化財保護課編集(航空写真)

 甲賀市和田には和田川を挟む谷の丘陵上に7つの城館が築かれています。
 上の写真は当日配布の和田城館群案内パンフレットの表紙からの引用です。

なぜ甲賀市にお城が多い?
それは甲賀郡中惣(こうかぐんちゅうそう)という中世の自治組織の誕生にあります。
その地を支配する土豪が甲賀にも存在しましが、甲賀全体を支配するような権力が
生まれることなく各土豪が独自の城館を築いて自分の地区を治めました。そして
お互いが対立するのではなく各土豪が連合することにより外敵を防御するという
組織、甲賀郡中惣という独特の自治組織を作ったのです。

   
  和田川を挟む谷の丘陵、そこに城が              和田城址のある山

 7つ個々のお城
共に小さなお城(館)です。おおよそ同じ形(方形)のお城で、一番大きな主郭でも
せいぜい一辺が50m程度です。また土塁、帯曲輪(おびくるわ)、切岸(急で高さの
ある斜面)などを築いています。しかしその城館群は発掘調査が全く行われておらず、
分からないことも沢山あると、当日同行、解説下さった市の専門の方々のお話でした。

   
   和田城の縄張り図 (現地の看板)               和田城の虎口(こぐち)

   
       土塁(防御用堤)                       堀切

信長には反抗しなかった
六角氏を支えると云う関係にあった甲賀衆も元亀元年(1570年)の野洲川の戦いで
六角氏とともに破れて信長の軍門に入ることになりますが、一族の中でもよく知られた
人物、和田惟政の助言で信長には反抗せず、同盟関係にあった伊賀衆のような襲
撃、取りつぶしには遭っていないようです。しかし、信長はこの地を歩くことはなかった
そうです。つまりあの信長でさえ甲賀衆には一目置いていたと云いうことです。
甲賀衆はその後の秀吉の兵農分離政策によって
中世的武士の性格は失われて
行きます。

 
和田惟政の菩提を弔う五輪塔のある
極楽寺      主郭で専門員の解説を聞く見学者

和田城館の城主は?
和田氏が城主の一人であることは有力ではあろうが、有掛かりな文献、資料がなく
はっきりした事実はわからないのが実状との事です。 

見学前の講義
この甲賀の地に一乗院覚慶(後の足利義昭)を匿まったとのことです。応仁・文明の
乱による足利将軍家の分裂に伴う出来事でもありますが、この史実に関連して
午前中の講義では、滋賀県の学芸員さん、松下浩氏(滋賀県文化財保護課副主幹)
による「足利将軍と戦国の動乱」と題して興味深いお話を拝聴することも出来ました。

 
       松下浩副主幹の講義                   見学に向かう参加者

歴史のロマンをじっくりと楽しめる充実の一日となりました。当地へのアクセス
JR油日駅、現地までは当駅から徒歩30分です。駅前には広い駐車場(たぶん無料
もあります。

次回の「連続講座2011」は8月27日の賎ケ岳です(滋賀県教育委員会事務局
文化財保護課主催)。

  お断り:この見学会の日記(感想文)の掲載については主催者のご了解を頂いております。

    ご参考:「甲賀郡中惣」、甲賀の城については このブログで2月11日公開の

                            Kennyの城郭址歩き:甲賀忍者の町  

             甲賀地域には300余りの城が有った
               =近江の国(滋賀県)には1300もの城が

       に詳しく記録してあります。 よろしければご一覧ください
           (すみません、相当バックしていただく事になりますが・・)

 

       今日もご覧下さいましてありがとうございました

コメント (4)
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Kennyの城郭址歩き:甲賀忍者の町

2011-02-07 11:39:48 | 甲賀郡中惣

甲賀地域には300余りの城が有った
   =近江の国(滋賀県)には1300もの城が=

            今日(24日)が当日記の掲載最終日です
        閲覧くださいましてありがとうございます。

「淡海の城」友の会で城址を歩く:
なんでKennyが横着にも城について云々? を先に話しておかないとあいつ
ちょっとおかしくなったんでは、と私を知る友人が心配してくれそうでして。
実は4年前に暇になると困るので郷土史でもと思い安土城址を歩いていて
目に止まったの
がこの会です。主に安土城を知る会でしたので入会しました。 
以来いつの間にか大抵は一人でですが県内の城址歩きをやっております。

今日は、最近300以上の城が有ったという滋賀県の甲賀地域を歩いてきまし
たのでその日記です。


          水口岡山城址(山頂)から見た甲賀地域
   
この写真で見るように樹木が生い茂る小高い丘の間に集落が点在します。
    私の想像ですが、これは当時のそれぞれの甲賀武士団の名残ではないかと思
    います。甲賀五三(53)家とも呼ばれる武士団が同名中惣として連合をなして
    いました。 これでは信長勢も匿った六角を探し出すのは難儀ですね。

甲賀といえば忍者、そしてこれらの城の今は:
甲賀地域を歩いていると小高い丘や道路から少し入った藪の中。 または民家
が城址にあったりと、あらかじめ調べておけば見つけるのにさほど苦労はあり
ません。甲賀は日本有数の城郭密集地とされています。ちなみによく似た背景
でお隣の三重県伊賀市も同様です。

  
                       大原邸
     
予め調べておいた城址で、点在する民家の一角に頑丈堅固な土塁に囲まれ、
      周囲には堀の
一部も残っている大原邸を訪ねました。現存する唯一の土豪屋敷
      だと、
JR甲賀駅で頂いた観光案内書にあります。

どうしてこれだけのお城が:
この地(以後甲賀郡とも表現)に戦国時代土豪と言われる衆が多く存在した
との事です。ならば各土豪間で日々争いが絶えないか? と言えばそうでは
ないのがびっくりでしてこの甲賀の土豪の最大の特徴、面白さです。(後述)

                    
                       三雲城のある山 山頂付近に八丈岩が見えます
 
城と言っても、彦根城のような城ではありません:
土塁(土を盛って城郭を築く)の主郭を虎口(こぐち:城の門)や堀切(水のない
空堀)で防御した中世の城です。 (織豊系城郭は近世の立派な城:後述)

 
                枡型虎口      三雲城址        土塁
   三雲城址:
六角の重臣で甲賀五三家の三雲氏の居城です。甲賀武士団の居城
           にしては珍しく、大規模な山城です。

   

甲賀郡中惣(ちゅうそう)とは?:
一族縁者を単位として地域的に連合(中惣)して紐帯(ちゅうたい:社会
紐帯)を築いて突出した権力を持てない仕組みの郡を作ったことが背景です。

 忍者活動や大名を支える役目を果たす:
忍者と言う言葉は後の作家が言い始めたことで、本来は情報収集活動で
雇われた大名に戦況を提供するのが仕事です。そこで敵地に偲び込む等で
忍者のような危険が伴う活動を要したわけです。更に実戦にも加わりました。

 
                古井戸      三雲城址     八丈岩
          
古井戸は1.9m径、深さは6.2mあり、内張りは穴太ののづら積です

甲賀郡中惣の解体:信長と六角に係わり
この中惣もやがては消えていくことになります。信長の近江侵攻とともに六角
に味方した甲賀武士は戦力の大半を失い、六角の逃げ場としていた甲賀郡
(伊賀も六角の逃げ場だった)は信長に叩かれるか信長に与した甲賀武士も
あり甲賀武士団の分裂が始まったことが伺える、と手元の文献にあります。

                        
    財団法人滋賀県文化財保護協会の編集で今回参考に使わせていただいた
   文献です。これは安土町にある安土考古博物の売店で販売されており、
   その他にも主に滋賀県の歴史、文化など関して編集された書物が数多く用意
   されております。

 
水口町の国道から見た水口岡山城址のある山         竪堀跡(同城址)
     甲賀破儀(秀吉によって甲賀中惣は解体)の後秀吉の重臣、中村一氏が築城。
     甲賀郡を支配しました。 岡山はこの山の名が大岡山であることからだと思います。

水口岡山城:甲賀支配の拠点として築城
信長亡き後豊臣政権の下、甲賀武士団はこの勢力に吸収され秀吉の紀州攻
めに端を発した甲賀破儀により解体されます。秀吉は中村一氏に水口岡山城
を築城させて甲賀を支配します。この城は織豊系城郭(田信長、臣秀吉が
築城する石垣、瓦を用いた安土城、大坂城のような城)であった
とのことです。
なお、水口市内にもうひとつよく似た名前で水口城(修復されている)があり
ますが、これは後の徳川将軍家宿館として築かれた別の城です。

 
     水口岡山城址の天守跡          大手道(?)には寒椿が雪を配して
      当時もここに寒椿があったとすると、姿が変わらないのはこの花だけで、当時の武士

      も暫し心を癒したことかと、ついカメラが向いていました。

郷土史の面白さ:
元々は司馬遼太郎の世界に興味があり、氏の歴史小説に没頭した時期もあり
ました。滋賀県の歴史を知っておきたい、まあその内にと思っていましたが、
この友の会で学んでいる城を知ることが郷土史に入って行くいいきっかけを
得る事になりました。
例えば「近江の歴史を学ぼう」という書物が仮にあったとして
も楽しく近江を学んで行くことにはなっていなかったように思います。甲賀忍者、
なぜ甲賀に忍者が? が幸いにも楽しみながら理解出来た今を嬉しく思います。
                    

     参考文献:「甲賀郡中惣の世界」財団法人滋賀県文化財保護協会編
                淡海の
城友の会でのセミナーでも手元において
                参考にしながら講演を拝聴させて頂いております。

            「近江の山城」 中井 均先生編集 サンライズ出版
                いつもこの本を手に城址を歩いています。アクセスや城址
                を案内して頂いているのと変わらぬありがたい一冊です。
                
             両著書に感謝します。

                (この日記の掲載期間:2月18日ー2月24日)

        今日もご覧下さいましてありがとうございました

コメント (3)
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忍者の里、霊山を歩きました、そしたら!!

2010-09-19 10:41:18 | 甲賀郡中惣

   期せずして霊山登山と信長・伊賀衆
     のかかわりあいに巡り合えました

  =あそこの寺はなー、信長が焼いてしまいよったんや=

          
                   霊山山頂から伊賀市内を望む

訪ねたところが伊賀忍者の里:
所属の山の会で三重県伊賀市にある霊山(れいざん:765m)登山に
参加しました。登山口までの途中、農作業中のおじさんに、前に見える
山のどの峰が霊山の山頂かを聞きたくて声をかけました。ご親切にも
仕事の手を休めてこちらに来られました。
あの山並みのどこそこ、としか
お答えを予想していなかったのですが、おじさんのお陰で表題の新しい
発見(ああ、ここがそうやったんや!)に恵まれた次第です。 

      
          
霊山の麓に再建された霊山寺 

JR関西本線、仲間の後に付いて柘植駅を降りたらそこは戦国時代に
活躍、そして日本中に忍者の町として知られる伊賀市でした。
その日の登山、霊山が何処にあるのかも知らずに兎に角草津線に乗車。
柘植で降りるまで伊賀市の伊賀忍者の町に行くとは気が付いておらず、
登山はできるし道中では興味津津、周辺をきょろきょろと。しかし町おこし
の幟以外に忍者の里を偲ぶ物は目に入ってはきません。 ところが、

あの山の上にあるお寺を信長が焼いてしまいよった!
そこで当のおじさんが、ビッグプレゼントを下さいました。 さっそく聞き
かじった薄識を現場で振り返ることができました。   

       
           麓のお寺にはこのような石仏が
焼き討ちと言う先入観からかなにかもの悲しい感じがします。 山道にも何箇所か
石仏(六地堂とか)がありました。
 
 
信長が伊賀衆を集落とも壊滅:        
最近のセミナーで教わった史実で確かに信長は伊賀衆を集落共々壊滅
させています。それは佐々木六角を観音寺城で滅ぼした直後です。
理由は常に合戦に敗れると伊賀に逃げこんだ六角、つまり伊賀が六角
を匿ったことが焼き討ちに繋がるのだそうです。

今も、伊賀の皆様の心の中から消え去ること、忘れることのない史実だっ
たのです。それからもう400年以上が過ぎています。伊賀、甲賀忍者の
背景については近い時期に改めてブログに記録したいと思っております。

                    
               山頂の案内板です
           ここには焼き打ちの記述はない

小説「梟の城」は伊賀衆の物語:    
今、40年以上前に読んだ司馬遼太郎の「梟の城」を改めて読んでいます。
物語では信長への復讐、さらに没後は秀吉に向かって行きます。刀の鍔を
足場に塀を乗り越える術、忍者の役目などの背景をしっかり頭に入れて
読めるとことで、この歴史小説の新鮮さを感じております。

期せずして歴史の一端を垣間見ることも出来、霊山は素晴らしい登山となり
ました。この山に連れて行ってくれた山の会リーダ、GTOさんに感謝です。

       (この日記は9月24日ー30日まで掲載します)

      今日もご覧下さいましてありがとうございました

 

 

 

コメント (2)
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