趣味・興味プラス挑戦

郷土史、登山、スキーなどを写真と共に書き綴っております

Kennyの郷土史:膳所城ゆかりの地を歩く

2012-07-24 21:22:11 | ブロガー:滋賀県の企画

  Kennyの滋賀から情報発信

          滋賀県教育委員会主催の歴史探訪に参加し、私達県から認定
          された
ブロガーが見聞してきたことを各人がそれぞれに開設して
          いるブログでお伝えしています。この地をお尋ねになる時のご参
     考になれば嬉しいです。

  
                    このシリーズのこれまでのお話、現地案内
            は下段にあります各日記をご参照ください

 
               平家ゆかりの地を訪ねて そのー1
                          平家ゆかりの地を訪ねて そのー2

                          平家ゆかりの地を訪ねて そのー3
                         

                   
   木曽殿最後の地・膳所を訪ねて  

                
探訪日記最終章

  膳所城は実は大規模な城、
膳所町内の曲がった道
          神社・寺に城の門が・・
   
    
            
(この日記の掲載期間:8月10日~8月16日)

    膳所の道はなんであんな曲がり方してんの?
大津市にある膳所町内の昔からの道は細くてところどころ鍵型に
曲がっています。こりゃ多分民家が先に有って道路を敷く時の土
地買収がうまくいかなかったのかと思っておりました。ところが・・・。


          枡形(かぎ型)に折れる膳所町内の道(旧東海道)

大津城が廃止されて城を築くに当たり東海道随一の要地、膳所が選
ばれました。平城(山城の対義語)でもあり
簡単に城下に入れない工夫
が不可欠です。その工夫が大きく迂回させ
た上に枡型(鍵型に曲げる)
になった現在に残る道です。

つまり道路の付け替えに当たります。これは中山道(例:妻龍)にも見られ
る江戸時代の防御体制のひとつです。そこには番所を設けて城下に入
る者をチェックしました。

 
         城下北端の番所総門跡                  城下南端の番所総門跡
                        
(この両方の門沿いの道は現在も枡形です)

           こんな寺、こんな神社
膳所の町にお城みたいなお寺が?
そのお寺は響忍寺(こにんじ)です元々は家老の村松八郎右衛門の
屋敷であり引っ越しで空いた屋敷を拝領して響忍寺となったそうです。
写真で見る通り両袖に門番が常駐出来る長者門です。ここも前の道
枡形です。


         長者門の前はやはり枡形です(響忍寺)

東海道に沿ったこの場所に枡形(陣地・防塁)を設けて家老、松村八
郎右衛門を常駐させました。彼のことを枡形奉行とも呼んだとか。


膳所町内の神社、寺にお城の門があるのは?
そんな門があることは今回の探索で初めて知りましたが、それらの門
は元々は膳所城に有った、例えば北大手門であり明治3年(1870)
4月の廃城で取り壊す時にそれらの門を頂戴して移築したものです。


        篠津神社表門:元は膳所城にあった北大手門

 
膳所神社:二丸・
本丸間にあった門    和田神社:膳所藩の元遵義堂表門   

                    
     若宮八幡神宮表門    道路に旧東海道の案内    膳所城二の丸復元
  (膳所城の元犬走門)
                               
(上の3点はクリックで拡大できます)
            
    膳所城ってあの公園にある小さな城でしょう?
現役時代は何度か夜桜を観に行ったものです。城なんて云うが

まあ城紛いの、砦位の城が有ったんだとばかり思っていました。
これもところが・・、なんです。つまり、曲がった道や神社仏閣に
お城の門があるのは全てこの天下普請の膳所城に関係があり
まして、私Kennyにとっては目からウロコの探索講座でした。


               膳所城、天守閣跡 (膳所城跡公園内)

膳所城、ものすごく重要な城でした
関ヶ原の合戦後、家康の名で藤堂高虎(滋賀県生まれですよ)が築城。
東海道が整備され京へは山越えが主要道ではなくなり、防衛上
それま
での大津城を閉鎖してこの地に諸大名を助役させて築城されました。
大坂からの防衛と云う超重要な位置づけであり初代戸田左門一西以
降も本田家、菅沼家、石川家と代々譜代大名が城主を務めたことでも
わかる通り第一号の天下普請(徳川将軍の命で普請を諸大名が分担)
の城でした。


 
 天守の高さ同じとされる公共建物     膳所藩本田家、家紋 「立葵」     

 
   今も残る城下町風情の土塀          石田三成が京へ護送中縛られた
                                                                       とされる大銀杏:和田神社

それぞれの場所へのアクセス
JR膳所駅の周辺におおよそ位置しておりますので私達もそうしましたが
当駅からゆっくりと時間をかけて散策されるのがお勧めです。 途中丁寧
で分かりやすい標識や看板がありますので駅などに置いてある無料の
観光地図などと照らし合わせて訪ね歩くのも面白いのではと思います。

まだまだこのブログでは訪問した史跡、文化遺産を紹介致しますが一度
訪ね歩いて頂けければ幸いです。

次週は近江国府との関連、また周辺の遺跡、文化遺産を紹介します。

      今日もご覧くださいましてありがとうございました。

 

コメント (4)
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Kennyの郷土史:木曽殿ゆかりの地を歩く

2012-07-22 15:41:00 | ブロガー:滋賀県の企画

  Kennyの滋賀から情報発信

      
 滋賀県教育委員会主催の歴史探訪に参加し、私達当委員会から
      認定を受けた
ブロガーが見聞してきたことを各人がそれぞれに
            設しているブログでお伝えしています。 この地をお尋ねになる時
            のご参考になれば嬉しいです。

                   このシリーズのこれまでのお話、現地案内は下段
                    にあります各日記を(クリックして))ご一覧ください

                  平家ゆかりの地を訪ねて そのー1
                              平家ゆかりの地を訪ねて そのー2

                              平家ゆかりの地を訪ねて そのー3


        
木曽殿最後の地・膳所を訪ねて  

        
=探訪日記その1(木曽義仲編)=
           木曽義仲、今井兼平、芭蕉ゆかりの地のお話です

      
(この日記の掲載期間:8月3日~8月9日)

神奈川県のいちブロガーのこの一節!:本論の前に・・・

  「滋賀県=戦国時代」と思うことなかれ!神社や古刹、
  古墳から城跡までフルコースで取り揃えてございます。

滋賀県のこの歴史探訪企画にこの為に神奈川から参加されている
方(女性)がご自身のブログの書き出しで近江国、滋賀県をこのよう
に紹介されています。 嬉しいじゃないですか!


         義仲寺:木曽(源)義仲を葬った塚があります (国指定史跡)

滋賀県は幕末までは・・・、

私、Kennyも日頃からそうは思っていますが滋賀県人の私がなんぼ
そんなセリフをはいてもそれ程訪問者の目を引きつけることは出来ま
せんが他府県の方からのこのような語りかけを目にしますと理解して
くださっている方がおられるんだと嬉しくもなります。

日本を動かした人物やその舞台(近江大津宮・壬申の乱紫香楽宮、
比叡山延暦寺、
安土城、井伊直弼の日本の開国等など)として有史
以来幕末までは滋賀は今に数多く残す文化遺産の背景となる史実が
そろっています。

国指定の国宝、重文の数が4番目!
とかだそうです。すでにこのブログで取り上た平家物語ゆかりの地
でも国宝や多くの重文を紹介しました。県内を大移動をせずに
簡単
に貴重な文化遺産に触れることが出来るのもこの史実が背景です。


             今回の探索はこのJR膳所駅が出発点でした

          義仲寺と今井兼平の墓を訪ねて

木曽(源)義仲が最後を迎えた膳所:義仲寺
先ずは木曽殿、木曽(源)義仲
のお話です。信濃国、木曽谷で兵を上
げたとされる人物がなんで滋賀県なの? その上に生まれは武蔵の国、
現埼玉県とも群馬県とも云われています。


              木曽(源)義仲の墓


と云いますのは義仲は実は滋賀県大津市の粟津ケ原、現在の粟津
(あわづ)というJR膳所駅と同石山駅の中間の地で源範頼(のりより)、
義経の鎌倉軍と戦いこの地で31歳で討ち死ににされたのです。今日
訪ねた義仲寺はその義仲の御墓所です。

平氏討伐過程で功を上げた義仲ですが、都に入ってから治安の失敗な
ど実績が思わしくなく、また後白河法皇との折り合いも悪化して法皇から
の依頼を受けた源頼朝の命で打ち取られてあえなくその生涯を終えます。
その地が滋賀県なのです。


 
    巴 地蔵堂 (巴御前を追福
)         朝日堂 (義仲寺本堂)

                       
  道路のこちらは元琵琶湖       芭蕉翁の椿の杖        見やすい道路標識
  でした (義仲寺前)             (芭蕉が使用とされれる)
                                 
(上の三点はクリックで拡大します)
 
今井兼平の墓
義仲の最後を調べますと、腹心の武将今井兼平が必ず登場します。
兼平は義仲に戦前は「武士らしく強気になれ」と助言をし、戦中は死を共
にしようとする義仲に「疲れているのだから潔く自害しなさい」と冷静にアド
バイスをしたそうです。


この粟津ケ原では兼平は義仲が自害する時間稼ぎをしますが義仲が
場所を求めて当地に踏み込んだところ湿田地帯が故に馬の脚も深く埋も
れてしまい動きを阻まれてしまいます。鎌倉
軍に義仲は討ち取られたと知
った直後、兼平は「東国の方々これが日本一の強者の自害する手本だ」と
言ってなんと口に刀を銜えて馬上から飛び降り、太刀に貫かれ自害したと
ことですその時義仲の腹心の武将は今井兼平ただ一人でした。

   
                       今井兼平の墓

        
                兼平の墓全景

義仲寺、今井兼平の墓へのアクセス
義仲寺へはJR膳所駅から歩いて10分で拝観料は200円です。
今井兼平のお墓はJR石山駅から歩いて5分の所にあります。
どちらも専用の駐車場はありません。電車(JRか京阪)の利用
がとっても便利ですし近いです。

松尾芭蕉と義仲寺
大坂(現大阪)で生涯を終えた芭蕉翁は遺言で遺骸が義仲寺に葬
られました。義仲寺で頂いた資料によれば木曽公の心情に同情し、
慕って無名庵(むみょうあん)に来て滞在されることが多く木曽公の墳
に並んでお墓が建っています。


    
               無名庵(文部省指定史跡)内部

寺内には翁の句碑、碑文が多く、また粟津文庫には俳諧の古書籍書画が
収録されています。この無名庵は一般に開放されており一回一人500円
で句会や文化サークルなどで利用できます(少なくとも5名以上でお借りに
なった方がいいでしょうね)。詳しくは義仲寺にお問い合わせください。

       行く春を近江の人と惜しみける  (芭蕉)

          木曽殿と背中合わせの寒さかな (又玄)

               記載内容の情報源: 探索地、主催者から配布の資料及びウキペディア
                                           から抜粋引用させて頂きました。

         次週は膳所城ゆかりの地、膳所の町をリポートします。膳所の町
          全部が膳所城内だったんですね、あの枡型
に折れた旧東海道や
          周辺の神社仏閣に見る城門(とは?)、などなど。


   
  
       今日もご覧くださいましてありがとうございました

                                 

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Kennyの興味と挑戦:自転車

2012-07-16 17:17:30 | ちょっとした話題

        物置で眠っていたマウンテンバイク
       興味+挑戦=趣味 ?
              
(この日記の掲載期間:7月27日~8月2日)


          ランニング、サイクリングと嬉しい緑の中の賑わい

孫ならば負けへんやろうと
梅雨も明けた日の午前、眠っていた自転車の埃を拭ってタイヤに
空気を入れていざ希望ヶ丘文化公園のサイクリングロードへ。
次男
親子の話を耳にして ”わしも” と。

その自転車は元々は長男用に買ったのですがお古として私に戻って
きた代物です。現役時代に
休みに少しは運動、でも歩くのは面倒だ
として捨てずに保管、しかし一度も使った記憶はありません。


        車は通らない、伸び伸びとランニングの子供たち

孫(小5)に完敗、でもね・・・
昨年の走りを見ていたのでまだまだ、なんのー、と思ったのが甘か
ったのはあるにしても子供の成長は早い、我々(熟年です)は成長
はするが時間、日にちを要すと改めて実感です。なんの、まだまだ!

でもね
嬉しいことがありました。脚力が付いていました。希望ヶ丘のサイク
リングロード(散策道兼)はUP・DOWNが、特に西ゲート方向からは
登りが結構急な道です。それをなんと東ゲートまで難なく漕ぎ上がれ
たんです。


   まあ、しゃーない、景色を見る余裕で離されて(笑って次男が撮影っと)

三上山の、そして誘って貰い登る山の、友人のお陰です。そういえば何
年か前に何かの用事で通った8号線から希望ヶ丘、西ゲートへの登りで
さえ途中何度も自転車(ただしママちゃり)を降りて歩いたものです。熟年で
も鍛えればなんとかなるんやと思いましたなー。

美しい緑、空気、こんにちはー
サイクリングは森の中、公園の傍を、そして中央道の広い通りをと日陰
も多くて快適なところです。サッカーの子供達がランニングをしています。
散策の方々も多くてこんにちはー、と雰囲気はもう最高です。

そこにはこんな広場と木もあります。 我々写真仲間はこの木を 「YRK
木」と呼んでいます。 彼女はこの広場と木の四季を撮っておられます。

       
   YR
Kの木(実際は彼女のお名前ですがYRKとします) Kenny撮影


                               YRKさんの作品: 雪化粧 

              
                                 YRKさん撮影の 若葉の頃

その日たまたま次男(今日のリーダ)のサイクリング仲間親子とばったり、
と云う具合です。そのご友人もそうですが次男ももう長く競技に出てお
りその影響を受けての自転車ですがどうやらこれもまた趣味の一端
になりそうな・・・・。


   両方のお父さんは自転車競技が趣味、バシット決まってますわい


    今日もご覧くださいましてありがとうございました。

   
次週は再度郷土史物で木曽義仲ゆかりの地を訪ねた日記
       
を書かせて頂きます。 どうかよろしくお願い申しあげます。

 

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Kennyの郷土史:平家物語ゆかりの地:その3

2012-07-12 15:40:12 | ブロガー:滋賀県の企画

 Kennyの滋賀から情報発信
   =探訪情報その3(最終章)= 

         平家物語
 祇王祇女と源義経のゆかりの地を訪ねて         
     滋賀県教育委員会文化財保護課の企画、
 「ブロガーによる歴史探訪情報発信」に参加しました
   

        
 (この日記の掲載期間:7月20日~7月26日)

         野洲市、竜王町周辺の貴重な文化遺産
今回
探訪の地でもまだまだ貴重な遺産が他に沢山ありました。
中には知っていた名所もありましたが、案内して頂いた上に解説
までして頂き嬉しい探索でした。そのうちの幾つかを掲載します。

なおこれらの名所は今回のテーマ、平家物語とは直接の関係は
なくこの機会を利用して訪問した所、および野洲市内の私から
の補足の情報提供
です。

竜王町内:
苗村神社(なむらじんじゃ)
滋賀県蒲生郡竜王町にある神社です。なんと国宝一件にプラスして
重要文化財(以下重文)の多いことか!


             広い境内の苗村神社正面

  
                        西本殿(真ん中のお堂) 国宝   
棟札から鎌倉時代の終りの建立と確認されています。以下構造等は
下の説明版にあります。
   
              





                 楼門 重文

鎌倉時代の建立、三間一戸で和様を基本とした禅宗様を混在する雄
大な建物で、屋根は入母屋造の茅葺です。(竜王町教育委員会編のレーフ
レットより)

            
   
   木造不動明王立像 重文           神輿庫 重文 室町時代
     鎌倉時代前期

鏡神社本堂、石灯篭・宝匡印塔

        
                            鏡神社本殿 重文
         建築様式は三間社造 屋根は柿(こけら)葺 
                  
                
                        屋根勾配をゆるく見せる外観
     





西光寺址

 
 宝匡印塔 (ほうきょういんとう) 重文         石灯篭 重文

野洲市内:
兵主大社(ひょうずたいしゃ)

    
                       兵主大社楼門

      


永原御殿から移築とされる門


 
 
   
               移築された御殿の門 (野洲市 浄専寺)

  
      永原御殿跡: 今は竹藪である 堀、石垣なども残る

永原御殿は、江戸時代前期に将軍が上洛する際の専用宿泊所の
ことで、お茶屋御殿とも呼ばれた。近江には4箇所お茶屋御殿があ
る。京都から東海道を経て、朝鮮人街道を北上し、彦根から中山道
に入る道筋に永原御殿、伊庭御殿、柏原御殿と東海道を通るとき
のために水口御殿が設けられていた。 永原御殿は成り立ちは明
確ではないが、慶長6年(1601年)に徳川家康が江戸へ向かう途中
に宿泊しているのが最初である。以降第3代将軍家光が永原御殿の
最後の宿泊となり、貞享2年(1685年)に廃止される。
           (野洲市HPより抜粋引用)

御上神社
旧官幣中社の御上神社は国道8号線沿いにあり仰ぎみれば近江富
士(三上山)が手の届くところに位置します。この神社も国宝のほか
重文が
多い神社です。私の初もうでのお宮さんで三上山頂には奥院
があります。


             国宝
本殿   建築様式 和様
                 桁行三間、梁間三間 一重 入母屋造 向拝一間 檜皮葺



      
           三上山山頂(432m)の奥院


            
                            楼門 鎌倉時代 重文 
        

 
      摂社若宮本殿 鎌倉 重文              
拝殿 鎌倉時代後期 重文

ほかに木造の狛犬一対が重文として存在するが京都国立博物館
に保管されているそうです。なお上記建造年号は御上神社に今回
の掲載を機会に問い合わせた情報です。


当日のお昼は鏡の里で(道の駅)
気が付きませんでした、よく買い物に来ているのに! 近江牛を添え
たそばが絶品でした。それと近くの守山市からお越しのポン菓子屋さ
ん、砂糖菓子では黒糖を使用が売り(黒砂糖とはちがうでーと。私に
は両者の違いは?ですが)でした。

        
         あわびの食感がする茸が、イケます!

ブロガーによる歴史探訪情報発信
テーマ、「家物語、
祇王祇女と源義経のゆかりの地を訪ねて」
の発信はこれが最終です。この次は「木曽殿最後の地・膳所を訪
ねて」
をテーマに探訪し、後日このブログで取リ上げたいと思います。
どうかまたご訪問くださいますようお願い申しあげます。

合わせてこのような機会を与えて頂いた滋賀県教育委員会文化財
保護課の皆様に厚くお礼申し上げます。

   今日もご覧くださいましてありがとうございました


 

コメント (8)
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Kennyの郷土史:平家物語ゆかりの地:その2

2012-07-04 09:32:47 | ブロガー:滋賀県の企画

 Kennyの滋賀から情報発信
         平家物語
 祇王祇女と源義経のゆかりの地を訪ねて         
   滋賀県教育委員会文化財保護課の企画、
 「ブロガーによる歴史探訪情報発信」に参加しました
  
=探訪情報その2、野洲市内編=         
            (この日記の掲載期間:7月13日~19日)      

祇王祇女(妓王寺)と祇王井川について
情報その2ではこの二つを主に書こうと思います。800年も前に私が
住んでいる滋賀県野洲市でこんなことがあったんだと感慨無量なのが
その理由で、多くの皆様にも是非一度この史跡に触れて頂きたいと
思います。


                   妓王寺のお堂
      
上部に祭られている姉妹他仏像4体の写真

妓王寺
野洲市中北という集落にこのお寺はあります。檀家寺ではありません。
祇王姉妹、母刀自(とじ)、仏御前の四人の菩提を弔っています。

祇王が平清盛の寵愛を受けたことは知られていますが、さらには清盛
に祇王の後世の為に1175年(承安四年)祇王の故郷野洲にお寺、宝
聚寺を建てて貰いました(現地案内板では里人の建立とあります)。1190年に
祇王は36歳で世を去りますが後白河法皇より宝聚寺に「宝池山・妓
王寺」の勅額が下賜されて今の名前となり、今日も里人達が祇王の”恩
恵”に感謝してこのお寺を守っています。(以上、妓王寺広報より抜粋
引用)。

訪れる多くの観光客を持成すために毎日お寺を開いており、専門の
観光ガイドさんが常駐しておられます。祇王、清盛の装束に身を包み
丁寧に案内くださいます。今年11月30日まで毎日予約なしで見学で
きます。 見学には一人200円の志納をします。

  
               常駐のガイドさん


祇王井川の誕生
先に里人が恩恵に感謝とありました。それは祇王井川誕生の経緯です。
清盛から祇王に願い事はないかと言葉を掛けられて、「故郷は水利が
悪く困っている。用水路を引いて欲しい」と願いでました。大規模な水利
事業の末地元の田畑を潤すこととなり里人が恩恵を受けたわけです。
川の名前は祇王井川と名づけられました。
  
         早朝、朝日に映える祇王井川 後方は三上山

祇王井川を歩く:人工の川だと判断できるのはなぜ?
祇王井川は今も市民の重要な灌漑用水として生きています。その川
は元々は12kmもあり野洲川から水を引き琵琶湖に注いでいました。
今は源流も変わり、流れ出るところも変わっていますがその殆どは
出来た当時のままです。実はこの川は自然に生まれたいくつもの川と
交わるように市内を横切っています。このことから人工的に作られた
川と納得することが出来る訳ですがそれを実感するのには源流から
琵琶湖に注ぐ家棟川に(現在は)合流するまでを歩くのもの一興です。

祇王井川の面白さ
おおよそこの一帯の川は鈴鹿山脈から琵琶湖に(低い方に)向かって
東西に流れていますが、祇王井川はいくつもの東西に流れる川を掻い
潜って概ね市街地では南北に流れています。このために、また高低差
も大きくない場所での川故に大変珍しい工夫、技術が採用されていま
す。その一つが 「埋樋」 と呼ばれる方法です。埋樋(うずみひ、うめひ)
とは?


  
            野洲小学校前を横切る祇王井川

これらのことを調べ上げ詳しく解説されたのが地元野洲市在住の写真
家で私達も
写真を教えていただいている八田正文先生です。私の聞き
かじりの説明よりも詳細は先生のHPをご覧頂ければ幸いです。
 

   http://omfuji.jp/yasugawa/giouigawa/mokuji.html

 私達も先生にご一緒させて頂き何度かこの川を歩いてきました。

祇王・祇女、仏御前
祇王・祇女は野洲市出身の父橘次郎時長と母刀自の姉妹です。父が
保元の乱で戦死して故郷の江辺の庄(現野洲市の北、永原、中北)に
戻りその後都(京都)に住まいを移し白拍子になり芸の評判が清盛に
聞こえて冒頭の話に繋がります。仏御前は祇王が清盛の元を離れる
理由となった若い白拍子ですがその後祇王と同じ運命を辿り、出家し
て一緒に生活をします。NHK大河ドラマの影響もあり今この地が注目
されています。

    
                           安神社

土安神社(てやすじんじゃ)
妓王寺の近くには祇王井川の事業に関係する神社の一つとして
土安神社があります。
この神社の言われを聞いていますとこの事業
がいかに困難なものであった
かが伺えます(下の案内板)


         工事の難航を物語る  土安神社の云われ

 

次回の探訪その3(最終章)では
滋賀県は日本で4番目に国宝の指定が多い県と理解しています。そこで今回の探訪
コースの中から国宝、重文を主に簡単に取りあげ7月20日にUPする予定です。
よろしくお願い致します。

     今日もご覧くださいましてありがとうございました





 

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