趣味・興味プラス挑戦

郷土史、登山、スキーなどを写真と共に書き綴っております

5爺の自転車を漕いで:近郊の城址歩き:最終回

2017-12-26 18:58:23 | 5爺:野洲市内のお城址巡り

 5人の爺さん、自転車を漕いで  
この1年、市内の 城址巡りをしてきました
              今回がお城の最終回です

              
       滋賀県野洲市
 
                             
(10回目:全10回)      
      
         Kennyの滋賀から情報発信

野洲市内の城址巡りとは?
市内には沢山のお城(館)がありました。その幾つかは今も城址が伺えます。

今まで歩いて来た殆どの城址は今から450年以上も前の六角氏の家臣
城でした。

最終回の今日歩く城址は今から300年以上前の江戸時代にこの地に有っ
た三上藩の城(館)址です

             
今回訪ねた城(館)
 三上館上屋敷址、三上館中屋敷址、三上館下屋敷、そして小清水城址

先ずは訂正です:
前回のブログで三上館 上屋敷と案内しましが、そこは中屋敷でした。
そして今回、教えて頂いた、上屋敷も訪ねてきました。


                         三上藩  三上館  野洲市妙光寺地区
               私が作成した過去のブログに掲載の位置関係写真を修正しました

改めて三上館 中屋敷 を掲載します
実は過去の私のブログでこの屋敷を上屋敷と紹介しましたが、今日再度ここ
を訪ね、案内下さったこの屋敷のご主人Mさんのお話で中屋敷と知りました。


                     三上館址 中屋敷 今は民家です
                                 

                     
  その日、当家のご主人Mさんがお見えで、案内くださいました





              
              屋敷内の祠の修理時、発見されたとの事で

 
                   土塁もしっかりと保存されておられます

        *
この中屋敷の文字が斜字になっていますが、意図はありません。
             編集画面で修正を試みますが戻りません。なぜ?(ブログ管理者 K爺)
    

三上館 下屋敷


         虎口だろうか、石垣も見えます  にわか郷土史家、何をか語る


               YASさん、 TAMさん  様になっていますな~


              掘址を眺め、往時を偲ぶ? MARさん


            土塁の傍に立ち・・・、KAKさん 気になることあり、かな?

 小清水城址


          土塁と思われる堤を登っていく迷郷土史家の面々


                    ここは野洲川の支流だった? 
     その堤であり、土塁なんかではない、と地元の方から直接お聞きした以上・・・、資料に見入る

 

              三上館(中屋敷、下屋敷)、小清水城址に関する詳細は
                     Kennyの過去のブログ
                    ここをクリックして下さい

                                ↑
                 
三上館 上屋敷
妙光寺集落の一番奥に位置しています。今は外からみる限り、植林
された山裾にありました。


             植林の部分が三上館 上屋敷です


                                        平坦で曲輪状

                 上下、この石は?


             敷地の一番端に土塁らしき堤が


          見学を全て終えて・・、この後打ち上げ会食に

三上藩: (ウィキペディアより)
元禄11年(1698年)、譜代大名の遠藤胤親が近江国内で1万石を与えられ、野洲郡
三上に陣屋を構えた。遠藤氏は美濃国郡上八幡城主であったが、元禄5年(1692年)
に常久没後に改易とされたが、親族の旗本白洲氏の子息を一旦大垣藩戸田氏の養子と
した上で、改めて遠藤氏相続としてお家再興が実現した。その後、遠藤氏は大番頭と
して、二条城、大坂城の城定番を勤めている。元禄13年(1700年)近江三上に封さ
れ、陣屋を構えた。

明治3年(1870年)に和泉国吉見に陣屋を移して吉見藩となった。
翌明治4年には廃藩置県となり吉見藩は消滅した


この1年で見学した計10回のブログは ここをクリックしてください
                                       ↑

        今日もご覧下さいましてありがとうございました

                                                              (12月27日、17 UP)

 

 


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5爺の自転車を漕いで:近郊の城址歩き:第9回

2017-12-12 19:44:35 | 5爺:野洲市内のお城址巡り

              野洲市内の 城址巡りをしています
                         
 滋賀県野洲市 
                                     
 (第9回:全10回)      
                  
  Kennyの滋賀から情報発信

野洲市内の城址
今日見てきた市内のお城址は今から450年以上も前の六角氏の家臣
の城址です

                      岩倉城址



馬渕氏の居城との説
近江の守護、戦国大名六角氏の有力家臣で、守護六角氏の守護代として
活躍した人物です。

毎回ここに集まり、目的地確認です



          今にも雨が・・、でも決行です。 三上山山頂もガスの中


             5爺、希望が丘文化公園、中央道を漕いで


       せいぜい標高200mちょい。 でも普段登山なんか、の爺にはね~


                 岩倉城址(古城山) 到着です


         主郭と思われる広場(曲輪)で語り合う 5爺にわか歴史学者


                       曲輪を探索です    
                 周囲は土塁に囲まれています             


                       桜本の池
           
底なし池で、干ばつでも枯れないと言われています


                      掘切でしょうか


                  虎口(城の入り口)の石垣とのことです


                  何を語る5爺にわか考古学者


           5爺が見つけました!! 矢穴(やあな:石を割るときの楔穴)
                                           皆さん、見る目が変わってきましたな~~、凄い!
             

 
Kennyの確かそうやったはずやが・・・
この岩倉城やその両隣の小堤城山城、星ケ崎城、さらには三雲城等は
六角氏が信長の攻撃など危機を迎えた時に居城の観音寺城から甲賀
郡中惣へ逃げ込む時のルート上に築いた城だと専門の先生の講演で
お聞きしたように記憶しております。さらには信長は恐れをなしてこの地
には近づかなかったとか。

なにせ、ど素人の私、聞き違いなどであればお許しを・・・

甲賀群中惣とは、滋賀県甲賀郡甲南町にある土豪、地侍といった小領
主による連合で形成された自治組織でお城の数は400とも言われて
います。甲賀忍術武士団とも呼ばれ、全国の各藩で活躍し、戦乱の世
を生き抜いたと語り継がれています。伝説の猿飛佐助は甲賀忍者です。
           
              詳細は  甲賀郡中惣 

                     ↑ ここをクリックしてください

                    
        今日もご覧下さいましてありがとうございます

                                (12月12日UP)


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5爺の自転車を漕いで:近郊の城址歩き:第8回

2017-10-10 14:40:03 | 5爺:野洲市内のお城址巡り

 5人の爺さん、自転車を漕いで  
     野洲市内の 城址巡りをしています
              
 滋賀県野洲市
 
                         
 (第8回:全10回)      
      
  Kennyの滋賀から情報発信

野洲市内の城址
今まで見てきた市内のお城(館)址は今から450年以上も前
六角氏の家臣の城でした。

今日歩く城址は300年ほど前の江戸時代の城(館)址です
             三上藩の城(館)

今回訪ねた城(館)
 三上館中屋敷址、三上館下屋敷址、小清水城址


                           三枚の合成写真です   野洲市妙光寺地区


                    5爺の食欲は旺盛です  城址探索を終えて   

さてお城巡りです
三上館中屋敷と次に掲げる三上館下屋敷、そして今回は訪ね当
てることは出来なっかったが、三上館上屋敷が藩主の、また三上
藩の家老だった鷲見(すみ)の屋敷だったのでしょうか 。 規模も
大きく主となるお城(館)のようです。 詳細は私の今後の課題です。

この、中と下屋敷は現在民家としてお住まいで、下屋敷のYさんと
は当日ご在宅で、暫し歓談させて頂きました。

   
           畑仕事中のもっと先輩のおじいちゃん

訪問時当日、畑仕事のお爺さんが、上屋敷に殿さまが、下屋敷に
は御姫さま
が住んでいやはったんやで、と。

三上館中屋敷
実は、取材(見学)当時はここが上屋敷と理解していましたが、ここ
中屋敷の間違いでした。後日(12月18日の再訪問で当主三上様
からここな中館だとお聞きしました。(12月23日17年 訂正)



       土塁が立派に残っています   今お住まいのMさんが手入れされているんですね


                   敷地は今も土塁で囲まれています


                       お屋敷の正面左側から

お詫びとお礼: 
当日お留守でしたが、勝手ながらお屋敷の周囲を歩き写真撮影を
           させて頂きました。 ありがとうございます。


三上館下屋敷


                        堀の名残



                  この下屋敷も土塁で囲まれています
           ところが、お住まいのYさんのお話では、湿気がひどく
                      一部は取り払ったと
              
   



     虎口(こぐち)だったのだろうか、土塁の一部が切れており石垣が積まれています




                道路から見た三上館下屋敷(中央部)のある森

お礼: Y様、過日は突然の訪問にも関わらずありがとうございました。
          
小清水城址

最初にお断りです。 この小清水城址は間違いかも知れません。

事前にネットで検索しますと、幾つかの情報はこの場所が小清水
城址とあります。 しかも、地図、そして私が撮った写真も合致。

ところが! 近くで畑の手入れをしていたおじ様は、ここが城址とは
聞いたこともなくあの堤(土塁)は元ここを流れていた野洲川の堤
で、もっと長かったが、国道8号線付け替え工事で崩してその土を
もって行った、と。 下の写真で土塁と思っていたのは野洲川の堤
だった、との事です。

さて困ったですが、歴史はロマンとして私もここが小清水城址として
取り上げることにしました。


                        しっかりと残る土塁

                                 


                          堀跡は今は水路に 


                 城内   段差や大きな穴などが見られます


                                                  城内


               所在地は御池、妙光寺山への途中、この橋の正面です


筆者の備忘録
三上藩: (ウィキペディアより)
元禄11年(1698年)、譜代大名の遠藤胤親が近江国内で1万石を与えられ、野洲郡
三上に陣屋を構えた。遠藤氏は美濃国郡上八幡城主であったが、元禄5年(1692年)
に常久没後に改易とされたが、親族の旗本白洲氏の子息を一旦大垣藩戸田氏の養
子とした上で、改めて遠藤氏相続としてお家再興が実現した。その後、遠藤氏は大番
頭として、二条城、大坂城の城定番を勤めている。元禄13年(1700年)近江三上に
封され、陣屋を構えた。

第5代藩主で若年寄の遠藤胤統は功績を認められて2千石の加増をうけた。 第6代
藩主の胤城(たねき)の時明治維新を迎えている。明治3年(1870年)に和泉国吉見
に陣屋を移して吉見藩となった。翌明治4年には廃藩置県となり吉見藩は消滅した。

鷲見(すみ)家: 三上藩遠藤氏の家老 
遠藤家の家臣として三上(滋賀県野洲市)に移りすみ、家老として江戸時代末期まで
この地に家を構えていた。

見家ももとは美濃の郡上八幡に住していた武士の一族である。現在も岐阜県には
高鷲鷲見(たかわしわしみ)という地名があり、このあたりはいまなお鷲見氏の本拠地
である。附言しておくと、いまの地名はワシミであるが、かつて鷲見郷と呼ばれていた
時代にはスミと呼んでいたそうである。

今回のお城址は今、住宅や田畑で


          訪ねる城跡は遺構が残っていないこと(民家、田畑に)が多く、地図が頼り
                 また、ここに城(館)があったんやね~、で偲ぶお城址も


 
    探しつかれて、灌漑ダムに出ました  暫し歓談です   画面に初めて筆者登場・・
                                                                                   いつもは写真の背後に(笑)



               灌漑ダム ずいぶん水が減っています 


           今日もご覧くださいましてありがとうございました
                                            
                                                                    
   (10月11日UP)


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5爺の自転車を漕いで:近郊の城址歩き:第7回

2017-09-20 10:13:19 | 5爺:野洲市内のお城址巡り

 5人の爺さん、自転車を漕いで  
     野洲市内の 城址巡りをしています
              
 滋賀県野洲市
 
                          
  (第7回:全10回)      
      
  Kennyの滋賀から情報発信

野洲市とその近郊の城址:
六角氏家臣の城がほとんどです(Kennyの解釈ですが・・)

実際今まで見てきた市内のお城(址)はほとんどが六角氏の家臣
の城(館)
です。 滋賀県、特に江南(近江の南半分)がそうなん
すね。

ところが、今日歩く城址は必ずしも六角氏の、ではひと括りに出来
ないお城址のようです。

              今回訪ねたお城址
         落窪城址、比留田城址(葭地城址)、井口城址
    
では、出発です


            野洲市から日本一大きな銅鐸が出土しています。 弥生時代、祭礼に用いたと。



                          毎回この東屋で予備知識の確認  所在地の確認など

落窪城址 (野洲市乙窪)
1570年に柴田勝家(信長)と六角承禎(じょうてい)親子「落窪合戦」
ありその関連の城との解説がありました。
井口氏の支城ではとの事です。

井口氏は古くから中里村井口を領した土豪。

集落の中心部、佛性寺の東にある竹藪周辺が城域と考えられる。
六角承禎が戦った野洲河原の戦い(とこのブロガーさんは表現)は落窪集落
を中心としており、六角方が使用した可能性がある、と。


              こんもりとした森(杜:使い分け?)、中は竹やぶです


                                          土塁の部分を眺める、今や歴男


                                            現状は竹やぶです

(よし)地城址・比留田城址  (野洲市比留田) 

比留田集落にある城之神社の一帯が城址だそうです。神社の周囲
には今まで県や市の学芸員さんに教わった知識から私でもそうかな
と思える土塁や一段高く盛られた曲輪(くるわ)、堀跡と思われる地形
が伺えます。

築城時期、城主などはネット検索しましたが、ヒットせず、?です。


                                    探し求めて苦労の末辿りついた城址

いつもの苦労は目的地探しです。 過日地元の方に聞いた情報
を元に、なんとか辿れました。



                                                   城之神社

 

               



井口城址 (野洲市井口)
井口氏の代々の居城。 築城時期は不明。 城主に井口城常之丞の
名前が確認できているとのことです。 

井口氏は当地の土豪で、室町時代より兵主大社の宮司を代々務め
る家系。

 
                 このように、今は田んぼ、宅地になっており遺構は見つかりませんでした


お礼: 上記、お城の解説は、ブロガーさん、「ぶんの備忘録」を参考、また
     一部を引用させて頂きました。 情報感謝します。

               今日の城跡でのビデオ映像です
                    ( 画面の ▷  のところをクリックしてご覧下さい:約3分)

 

 

            今日もご覧下さいましてありがとうございました

                                       (2017年9月21日UP)
         


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5爺の自転車を漕いで:近郊の城址歩き:第6回

2017-08-06 13:06:29 | 5爺:野洲市内のお城址巡り

 5人の爺さん、自転車を漕いで  
       
     北村館(城)
                              
滋賀県野洲市北
    
                                        
  (第6回:全8回)      
         
今は 城址巡り をしています
       
       Kennyの滋賀から情報発信

野洲市とその近郊の城址:
六角氏家臣の城がほとんど、と言ってもいいな(Kennyの解釈)

市内のお城(址)はほとんどが六角氏の家臣の城(館)です。 という
か、滋賀県、特に江南(近江の南半分)がそうなんです。

安土城考古博物館で企画展 「近江の城を掘る」 が9月18日まで開
催中です。 紹介されている城址も多くは、
(佐々木)六角氏に纏わる
お城です。

今日(10日)ブログの最終章に追加記載しました。 


                   今残る木村館(城)は県道から見えるこの住宅地にある森です
                           県道2号線 北 の信号を JR野洲駅方向からだと左折


今日訪ねる城址、北村館  実はこの森の前でおお探しでした・・・
おお探し? と言うのはまさか集落のこんな森は神社か何かとの先入観
が邪魔をしましてね。 お城跡とは思ってもいませんでした。 民家の庭に
土塁らしき物が残っているくらいに。


                              神社ではなくてこれが木村館(城)の森でした

昔、侍が住んでいたらしいよ、と・・・
近くの家のおじさんにお尋ねすると、その森ですよ、 昔侍が・・と
5爺、改めてネットで入手の解説書を見ると集落の中に大きな森が
見えて来るとありました。 なんや~、そうかいな、と大笑いの5爺


                             長屋門 400年前の当時の門
だそうです 
                そこで森をぐるりと回るとこの門の前に辿りました



                    5爺 長屋門の前で資料を元に、おお、これがその門か~、と
                               もう一人の爺は記録係りでこの背後におります (^^)/~


                                             今も残る水堀でしょうね

           
                                                                   これも水


カメラ仲間に言い訳け:上の写真
持参カメラの広角が28で被写体との距離がなくて、
仕方なく携帯電話の
カメラで。それも調整せずに(やり方が?で)、こんな見事な一枚が撮れ
ました・・。


                                              屋敷の裏側にも水堀(でしょうね)が


                                         土塁、水堀でしょうか 
 
資料では北村館(城)は昔は北村集落全域に外堀も廻らされてい
たとの事です


ここは民家です (見学にはご配慮をお願いします)
 
当日はお留守で外からの見学でした。 屋敷には明智光秀が座った
と伝わる大石も残っているそうです。 (ネット検索の資料)


北村氏
六角氏の重臣です。 信長の観音寺城(六角氏の城)攻撃で六角氏
が滅亡後、
この地に定住したと資料にあります。

Kennyの疑問
信長に滅ぼされ、それが六角氏の家臣、被官、重臣であっても戦い
の後、北村氏のようにその地に住める、居を構えるなんてことがどう
して出来たのかと? 同じく六角氏の被官だったと記憶していますが、
馬渕氏は、信長に攻められて一族は離散したと聞き及んでいます。 
馬渕という地名として近江八幡市に残っていると友人からメールを
貰いました。馬淵さんというお名前の方はどうかな?
 

嬉しい情報を頂きました: 有難うございます  (8月10日追記)

馬淵さんは今でもこの地域に存在していますよ。
 (野洲市内の写真仲間Sさんから)

六角氏の家臣だったけれど、その後侵攻してきた信長に従い、お家
を安堵されたのですね
(守山市内の歴女でブログ仲間Tさんから)

 

 



                 今日もご覧下さいましてありがとうございました

                                  2017年8月7日UP

 

 

 


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