趣味・興味プラス挑戦

郷土史、登山、スキーなどを写真と共に書き綴っております

Kennyの歴史探訪:雨森芳洲と対馬

2015-11-04 15:13:51 | 朝鮮通信使

                      雨森芳洲
             対馬を旅してきました
   なんで、芳洲さんが対馬と関係あるの?
    一度対馬に渡り芳洲さんの偉業の跡を見てみたいと
                  Kennyの滋賀から情報発信

           (この日記の掲載期間:11月13日~11月19日)


         長浜城歴史歴史博物館(滋賀県)での企画展 (終了しました)
                                 
                       
                                当企画展の案内板 
                    (クリックで拡大してご覧ください)

雨森芳洲?  私はたまたま知っていただけです
いいんです、それで。知っている方もおられるでしょうが、そうでない方の
方が多いです。私は色々と機会がありまして知っていただけです。

先ずは私の故郷の隣町 滋賀県長浜市高月町雨森で芳洲さんは生まれ
ました。 地元の方たちは親しく ”さん”  と。

地元の雨森では、私と同門、平井茂彦氏が ”芳洲庵” の館長として、ま
たその傍らで研究、講演と活躍しておられます。

私自身も退職して以降、朝鮮通信使やなんやかやと郷土史に接しており、
知る機会がありました。

そんなことで、9月に、
対馬にある芳洲さんのお墓を訪ねました: 崎県対馬市


                           雨森芳洲のお墓:
対馬


                        長寿院裏の小高い山の上にあります

 
           雨森芳洲とはどんな人              右上の解説坂はクリックで拡大します
       (滋賀県高月町の芳洲庵にある案内板)

寛文8年1668年)滋賀県長浜市高月町雨森で生まれます。18歳で木下
順庵の塾に入門。 新井白石、室鳩巣も同時期です。


22歳の時、順庵の推挙で対馬藩に仕えます。 29歳で対馬藩の名家、
小川新平の妹と結婚、当地で88歳の長寿を全うします。

幕府から朝鮮外交を任された対馬藩は外交に欠かせない漢文・詩文に
優れた儒学者で中央にもの言える人物を順庵に求め推挙を受けました。


芳洲は「朝鮮方佐役」として江戸・朝鮮の今で言う外交官の草分けでしょう、
を対馬に身を置き、例えば朝鮮通信使の江戸への護行も勤めています。

(この項は末尾に紹介の平井茂彦氏の著書、「雨森芳洲」、および長浜み~な協会発行、
 「みーな」から引用、私の言葉で記載しました)


その他、芳洲の偉業の詳細は上に掲げた案内板をご覧下さい。 また末尾
にウィキペディアとリンクしてあります。

 
                   朝鮮通信使    (み~なより引用)
 
                                朝鮮通信使(ウィキペディア)



                                      お墓のある山頂への道


               お墓は対馬の巌原の日吉にあります。 対馬空港から車で10分位です
                     この観光案内地図に雨森芳洲のお墓の記載がないんです~


                   対馬の詳細(ウィキペディア)

                      
                                               対馬 
                             南北に82キロメートル、東西に18キロメートル


芳洲庵を訪ねました、久しぶりに: 滋賀県長浜市高月町雨森


                                     芳洲庵

                  
    東アジア交流ハウス雨森芳洲庵
                 アクセス、内容、連絡先などはこのHPにあります



                  芳洲庵館内:館長に遠景のみとして許可を得て撮影


                                中庭です
大事な補足です
平成2年に
盧 泰愚(ノ・テウ)大統領が芳洲の ”誠意と信義の交わり” と
讃え、
また平成14年に訪韓した小泉総理盧 泰愚大統領同様、”

鮮の言葉を習得して” の姿勢に学ぶべきだと語っているそうです。


参考文献
 
           サンライズ出版                  長浜み~な協会発行
        平井茂彦氏の著書


                  
   雨森芳洲について(ウィキペディア)


                  ***********
           
                            番外編で~す
                ひとり言・・・


               対馬観光物産協会発行のパンフレット
                    ” 対馬、歴史もうで” か・・・・


対馬観光ガイドブック芳洲に関する記載がないんです
残念。でもそんなことってあるの? 現地に着いて入手した幾つかの
対馬観光のパンフレ
ット
芳洲に関する記述、アクセス、少なくともお
墓のことくらいは載っていると思っていましたが、全くなし。これでは事
前の下調べでも資料は出てこないはずだよね。

ならばお墓への道路標識は整備されていると思って
いましたが それ
もなし
なんです 。お墓に辿り着くことさえとっても難儀しました。 

せめてもの救いは、お墓の近くでお聞きした、それも
二人目のご婦人
がやっとこさ、
道順を教えてくれたことです。情報提供がなければ
市民
も知るすべなしですわなー。

一方、お墓には立派な芳洲に関する案内板が立っていました。



  
対馬市の当局に物申すではない
ですが対馬藩に請われて88年の
人生の60年以上を
対馬藩で過ごし対馬に骨を埋めた正に対馬の人、
また
 泰愚大統領、小泉総理も取り上げた歴史上の人物です。 今日、
島の発展に特産のシイタケも理解出来ますが、こんな文化、歴史も大
事にして欲しいと思うのは私一人でしょうか? 

歴史探訪を目的に対馬を訪れる方
なら少なくとも、芳洲、ああ、そうだ
ったのかー、と新しい発見をされて予期せぬ満足をされるのではと思う
次第です。

雨森芳洲を訪ねてのこの旅は結局、お墓のみの訪問でした。芳洲さん
の屋敷跡(とされる場所)なども見たかったですね。 対馬と言えば宗氏
そのお墓
がある万松院、他、観光地図にある多くの歴史関連の地は訪
ねてきましたが
・・。

   
              写真  「雨森芳洲」 平井茂彦氏著から拝借


以上ボヤキでした


       今日もご覧くださいましてありがとうございました


 


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Kennyの歴史探訪:朝鮮通信使

2014-06-05 14:21:36 | 朝鮮通信使

  朝鮮通信使、近江編 
   
近江を豪華絢爛、列をなして
    朝鮮人街道 & 雨森芳洲
  Kennyのそうやったんや(◎_◎)/

 郷司 泰仁先生(香雪美術館)、ありがとうございます

      Kennyの滋賀から情報発信
     
(この日記の掲載期間:6月27日~7月3日)


                        郷司 泰仁先生(神戸市 香雪美術館)
        
ちゃんと知りたかった朝鮮通信使
野洲市歴史民俗博物館、
通称 銅鐸博物館で有難い講演があり
ました。 講師は神戸市の香雪美術館、郷司 泰仁先生です。
今までも機会はありましたが、今回ほど表題に絞った初心者にも
分り易いお話は初めてです。 目からウロコの講演でした。

 
              朝鮮通信使図                          上の写真拡大します
                                                          (写真の上をクリックしてください)

             
朝鮮人街道って滋賀にはありますよね
野洲市
で中山道から分れて彦根市の鳥居本で再度合流する道
で、約41.2km
あります。近世の脇街道である彦根道(ひこねみ
ち)、京道(きょうみち)および八幡道(はちまんみち)の異名です。

             
        標石  左八幡道 右中山道(蓮照寺境内に保存) 私の撮影

中山道が安土城下を経由しないため、織田信長が岐阜城から安
土城を経由して京都に向かう道として整備しました。


        左 八幡道(朝鮮人街道) 右 中山道   私の撮影

上の標石は元々前方の家の付近にあったそうですが洪水で流さ
れて、発見後今の所(近くの蓮照寺境内)に移されました。


徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利した後、佐和山より永原に至り
上洛凱旋する際この道を通り秀忠もこの道を用いて永原に逗
留し軍が整うのを待ち上洛した。このため縁起が良い道と認識
されます(以上、一部はウィキペディアからも抜粋引用)

                 
                  中山道・朝鮮人街道 の分岐の標識  私の撮影


      彦根市鳥居本で中山道と合流 鳥居本の標石 
  (過去の野洲市歴史民俗博物館友の会、講演会の私が保存記録より)


         情報 更に詳しく、の:
   朝鮮人街道に関しては ここをクリック   してください
   朝鮮通信使に関しては ここをクリック してください          

将軍以外では唯一朝鮮通信使の通行が認められていたため
、この道は『朝鮮人街道』と通称されるようになりました。(後述)

この道を通った朝鮮通信使とは?
江戸時代、慶長12年(1607)から文政8年(1811)までに12
回、李氏朝鮮国から日本に送られてきた使節団です。

 
             朝鮮通信使の行程                      拡大します
  (許可のもと、スクリーンを撮影し、私が赤で文字を入れました)

以下超硬い出張レポートですな、忘備録なもんで、ごめんね

使節団の目的:
日本側(徳川幕府):
朝鮮通信使を招くことにより
①徳川将軍家の諸大名への権威誇示
②中国(清)の情報を得る
③朝鮮貿易の振興
④同使節の接待により各大名の財政の負担を増やす
 (武力増強などへの資金を押さえることが可)

 
          京都への川舟の様子か  幕府の役人も見えます    拡大します
             (天和度朝鮮通信使上判事第一船図)

      この絵図の関する情報は ここをクリック してください


朝鮮側の目的

①日本を探索(土地、町の記録、絵図)
②朝鮮の背後にいる中国に対する外交姿勢
③貿易の振興
④日本の文化を導入
⑤家康に敵意がないかの探りも:過去の秀吉の影響


     日本の風景を絵師に記録をさせた 下は富士山

通信使のメンバー:
少ない時(文化度)で328名、多い時(慶長度)で504名。そこ
に日本の対馬藩(受け入れ担当)の人数がプラス。正使から通訳、
記録など文才のある者や画員、医員、馬術の達人、馬の世話人、
奏楽師、料理人、操船人、進物、などなど・・、随行人が他にも
(スペースの関係で端折りました)。もっとも全員が江戸まで行くこと
はないそうです。

 
 近江でのルート 野洲からは朝鮮人街道へ(赤い文字・線) 拡大します
    (許可のもとスクリーンを撮影し、私が赤で文字を入れました)

近江のルート:
京都を出発後、大津ー草津(から中山道)-野洲ー近江八幡ー
安土ー彦根ー鳥居本(再度中山道)-摺鉢峠ー番場ー醒井ー
柏原ー岐阜

どうして中山道ではなく朝鮮人街道を通った?
先生は詳しいことは答えられないとしながらも、なにせ国賓です。
信長や家康だけが通る事を許された街道を最大級のもてなし
一つとして選んだのだろうと。 そういう事だったんだ!


              この望湖堂のある摺針峠も通っています


おもてなしの膳(過去の当歴史民俗博物館友の会での私が保存の講演記録から)

雨森芳洲が大貢献:
滋賀県長浜市高月町雨森
の出身です。現地には芳洲庵があり資
料が揃っています。木下塾で新井白石らと同じ時期に学び、幕府か
ら対馬藩に派遣、江戸藩邸に任官。来訪時には受け入れに従事、
二度、通信使の真文役(通訳兼書記のような役)を務めてい
ます。新井白石は使節団の費用に手を掛けますが、失脚後、元に
戻して朝鮮外交など善隣友好外交の重要性を説きます。

いますなー、滋賀県には多くの歴史を作った人物が・・・・。


                          1幅 高月・芳洲会

 情報、更に詳しくの:
 雨森芳洲庵については ここをクリック して下さい

誠信の交わり:
郷司先生は中世だったか、近世だったか美術の専門家で、このよ
うな角度から通信使の様子も紹介されました。


            通過する通信使と交流する道端の住民?文人?

通信使の宿泊所や休憩所には、日本人の文人たちが面接を求め、
筆談唱和などによって交歓が行われた。通信使側は三使(正使、
副使、従事官)、堂上官(通訳官)、製述官、書記、写字官などが
対応した。

もっと詳しく
手元に当日配布のレジュメがあります。まだまだ情報満載です。
これほど親切なレジュメはあまり見かけません。講演でもこれでも
か、これでもか!と パワーポイントも使い情報を提供されました。

今日の日記には私が先ずは知りたかった内容につき、取り上げ
ました

感謝します
郷司 泰仁先生、そして年間を通してこのような催物を企画して下
さる、野洲市歴史民俗博物館友の会(私、Kennyも会員です)に
感謝します。なお、この日記の掲載に付いては両者のご了解を頂
いております。 

使わせていただいた絵図は郷司先生のお許をいただき、スクリー
ンに映された資料を撮影させていただきました。 出典はそれぞれ
の絵図にあります。


     講演会場の野洲市歴史民俗博物館(銅鐸博物館)  2013年秋の撮影

お断り
聞き違い、勘違いで間違いが多々あると思いますがどうか
ど素人
の講演メモとご容赦ください。

  今日もご覧くださいましてありがとうございました


  

 

 

 

コメント (2)
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