趣味・興味プラス挑戦

郷土史、登山、スキーなどを写真と共に書き綴っております

三上山の近くに住んで本当に良かったです!!

2010-07-27 17:32:33 | 三上山

 

  三上山(近江富士)、もう35年毎日見ています
 
 =今、三上山なしの毎日は考えられません=

ほんで、どうやーと言うねん、ですよねー。 またブログの話題に事欠いとる?
ハイ、それもあるんですがーぁ、Kennyの「趣味・興味プラス挑戦」と関係ある
んです。

一つは、なんと言っても写真のご指導を戴いている八田正文先生が30数年
撮り続けておられる山です。 

私、Kennyはその山の近くに住み現役時代には中身は兎も角ピンチの時に
三上山に勇気付けられ、そして今はすっかりお世話になっている山でもあります。
今日も歩いて来ました。それは今年もこれから登る日本アルプスのトレーニング。
三上山仲間に合う楽しみ、そして健康維持のためカメラを提げて散歩と。

今年既に通うこと40回は超え間もなく通算150回を数えます。そうすると
この山の色んな姿を知ることが出来ます。山を特に内側から見た風景を書い
てみました。 ご一覧くだされば幸いです。

           (この日記の掲示期間:7月30日ー8月5日)

    多くの団塊世代やご年配のおじさん、おばさん達と山談義

     
     野洲川下流から:この位置からの撮影だと建物など構造物が入りません


             三上山とはこんな山です
標高432mの独立峰。火山のような形をした残丘です。その
山容から近江富士と呼ばれています。
地球誕生の火山活動
からクレーター(のような絶壁)の部分が多分ですが、一部侵
食から逃れた残丘
だと勝手にロマンを感じて解釈しております。
それは山全体が多くの大きな岩で出来ていることからも
想像
できます。山頂部はその岩を直登して行きます。里山ではある
けれど結構3000m級の雰囲気も
あります。

    
              当日の三上山仲間:このように散歩姿です
ただしそこはれっきとした山、気象の情報をちゃんと頭に入れ
て登られます。 真ん中のおじ様、70代
半ばでこの山に登っ
て40年。2200回を超えています。そして週末にはこの仲間
達と白山を歩くそう
です。他に1000回、800回はざらです。
しかしどなたも回数を追っているのではなくてこの山に魅せ

れたことによる数字です。

                   山頂からの風景

         
                      山頂から琵琶湖、比叡山方向
比叡山の左に小さく愛宕山の山頂部が見えます。 木立の関係
で360度の展望はありませんが、
比良山系のほか鈴鹿山系も
すばらしい眺めです。

    
           山頂付近から大改修のあった野洲川下流を望む
この野洲川は「近江太郎」と呼ばれ過去に何度も堤防の決壊
で大惨事を繰り返してきました。琵琶湖に
繋がる河口が写真
の下部付近から南流と北流の二つの川に別れて水の流れが
スムーズにいかず、
台風や大雨の季節には大暴れしました。
そこで1971年に着工、1979年に暫定放水を経て1986年
に完成を見ました。 写真に写っている川の部分は、二つに分
かれた川の真ん中に新しく作った野洲川
下流の部分で言わば
放水路です。ちなみに元の2本の川は今は跡が残るだけです。


   「姥の懐」と言われる場所にも登山道があります

         
       姥の懐(うばのふところ)へは裏登山道の途中から左に登ります

三上山には登山道が3本あります(表登山道、裏登山道、花緑
公園側登山道)。その裏登山道の
中ほどから左に登ります。か
なり急な上りですが、山頂には近道になります。 入り口には手
製の
標識が掲げられています。

    
             巨大な岩に畳5,6枚の広さの岩窟があります

山頂への途中に20m程左に登るとちょっと不気味な感はあり
ますが、逃げ隠れするには持って来いの
洞窟があります。 下
の解説はその洞窟前にある看板です。


            

「天保一揆」、それは江戸時代に起きた地元農民の反幕府
抗議行動で、不当検地に対して住民
(そのころは殆どの住
民は農民)が立ち上がり勝利を収めました。しかし土川平兵
衛他、主要な
人物は江戸に送られて獄死します。彼らは義
民として今も崇められています。

                   三上山、もうひとつの風景

     
              毎年1月1日の午前8時頃の影三上山です

     
                 山頂の少し手前にある鳥居と祠

ここは麓にある御上神社の奥宮です。手前に見える大きな岩
には注連縄があります。この山の山頂は
ここから20m程登っ
たところにありますが、三角点はありません。

     
               山頂付近から見た麓の田んぼです

田植えが終わった頃の毎年の風景です。曲がりくねった道路
をいつも車で走ってはいましたが、こんな
水に浮いた道路を
通っていたとは、この春まで気が付きませんでした。  
 

     
                         早朝の登山道

私は特に早朝の三上山が好きです。それは木漏れ日です。
三上山の登山道は全部のルート、深い
樹林の中を歩きます。
早朝斜めから力強い綺麗な光が差し込みます。山道の日陰
の中を突っ切る
ように差す光、素晴らしい光景です。

     
             春先にはツツジが山のいたるところに咲きます

このつつじは三上山だけではなくてその時期には周辺の山、
丘でも一面に咲き誇っています。そこは
希望が丘文化公園の
南稜、北稜。そして三上山から伸びる北尾根縦走路などです。

   今日もご覧くださいましてありがとうございました

コメント (2)
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この景観の背景が知りたい:丸山千枚田

2010-07-20 12:48:45 | 

  丸山千枚田の感動を私達が今も体験できる驚き
 
 =先人の知恵・苦労を後世に伝えようと地元住民が=

6月の半ばにこの千枚田を写真仲間と共に訪れました。小・中学生時代に
半ば強制労働(おふくろさん、ごめんね)を強いられたKennyにとって、当時では
稲作の一番初めの作業だった株取りも手作業なので田の大小、段差は関係ない

これじゃー、刈った(苗ならまだええが)稲運び、ハサ掛け(稲の天日干し)がよけい

農作業を嫌いにするではないか!! 高台から眺める風景としては珍しいがえらい
トラウマ物だ、が第一印象です。

しかしそんな感想だけではその地まで滋賀から片道5時間弱も掛けて出かけた値打
はない。ちょっと背景を知りたくなり当日田んぼにおられた地元のおじさんのお話と
更にインターネットでほんの短時間ですがこの棚田の事を探って忘備録の積もりで書い
てみました。

                   (日記掲載期間:7月23日ー7月29日)


    江戸時代には2240枚もあったとの記録が残っている
                           

   
     展望台から:山道をくねくね曲がって峠にでれば目の前に全景が

       =地元住民と町上げての復旧作業のご苦労=

関が原の戦いの翌年、慶長6年(1601年)の検地で2240枚棚田があった
との記録が残されているそうです。更にその後広さで約1.6倍まで増え続けて
明治から戦後までそのままの規模が維持されてきたが、やはり時の流れには
逆らえず過疎化の関係で平成の初めには500枚に衰退した。そこで貴重な
文化的景観をなくしてしまうのは偲びがたいと地元住民と紀和町が立ち上がり
復旧作業の地道な手作業で現在の1340枚にまで回復したとの事でした。

   
     本当は上の写真のこの二株の田が丸山では一番小さな田かな?

当日その場に居られたおじさんのお話しでは、実はこの段差も重要な
意味があり、田が崩れることから守るため水が徐々に落ちるようにとの
工夫がある。でも上に畦がないので一枚の田んぼとは言えないんでねー、
と。

   
             丸山千枚田で一番小さな3株の水田

この小さな田は観光客用の見世物ではないことは以前このブログで取上げ
ましたが、これも水が上部の田から下へ流れる落差を少なくして田の崩れを
防ぐ先人の知恵だと棚田の後継者と思われる先述の農作業中のおじさん
の弁です。

        日本の棚田百選で最大級の丸山千枚田

   
                 山の斜面の有効利用として石垣や土手で田んぼを

石垣や強固な土手で山の斜面に平たい地面を造成しそこに田んぼを作って
行きます。それが結果として下の田から最上部の田まで高低差100mもある
棚田の形成に繋がる訳です。    
  

   
               注意深く田んぼに目をやると

畦から水が流れ落ちています。それも畦の低い位置から注ぐようにです。
これも先人の知恵で小・中学時代Kennyは春先と刈り取りの秋には一人前
の百姓でしたからよくよく理解できます。

                    ちょっと一服

   
           植え込みから田んぼの向こうに綺麗なお花が

道端にはアジサイの花などが植えられています。その隙間を覗いて見ると
田んぼを挟んで畦にまた別の綺麗な花が咲いていました。
 
    

私達観光客に暫し休息の時間を与えてくれる工夫がなされています。この赤い
花の後には東屋があり弁当を広げることも出来ます

      この景観の維持もだんだんと困難になるのでは?
       =でもちゃんと工夫されたシステムがありました=

   
               綺麗に手入れされて整った棚田

それはオーナー制度です。地元の方だけで先人の知恵と苦労、景観を守って
行くことは困難なことから、毎年2月(正確には当局で)にオーナーを募集して
田んぼを借りて貰います。オーナーは田植えと収穫の時期には農作業をし
日常の管理は地元の公社がされるので遠方の方でも参加出来るとHPには
書かれています。

   
        歴史を刻むとの意味であろうか、手洗いの前には時計が

今回の旅で久しぶりに刺激を戴きました。正に目の覚める思いの風景に
接する事が出来ました。滋賀県から新名神で亀山JCTに、伊勢自動車道
に入り勢和多気JCTへ。更に紀勢自動車道へと進み紀勢大内山ICで国道
42号線におります。42号線を進み風伝峠を過ぎて311号線に入ればあと
少しで棚田着です。ICから約2時間半、滋賀からは5時間弱の旅でした。
遠いと言えばそうだが一見の価値はあります。

補足情報として:
以前にこのブログで既に取り上げた事ですが、この水田が今も受け継がれ
る理由の一つとして、当のおじさんのお話をもう一度紹介させて頂きます。

それは:
  1.この丸山千枚田は土、水、太陽の稲作には絶好の良い環境にある
  2.:このように山の中でしかも傾斜に田がある。腐葉土が流れ込む
    いい条件にある。つまり山の腐葉が土に養分を与えてくれる。
  3.:これも山の中を流れてくる間に稲作に大事な養分を含んでいる
  4.太陽:一日中日が差す南斜面で、また傾斜で満遍なく均等に日が当る


        今日もご覧下さいましてありがとうございました

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丸子船、大賀ハス:塩津港と弥生の森

2010-07-13 15:22:14 | 塩津港、神社遺跡

故郷と現居住地には興味深い歴史が!
    その1:塩津(しおつ)港

塩津港(滋賀県 西浅井町)、丸子船のふるさと

ここに登場する丸子船は琵琶湖特有の和船であり江戸
初期から
戦前まで、特に
北陸から都への湖上交通の要
衝であったこの琵琶湖で旅客や物資輸送の主役として
活躍した。その琵琶湖の北端塩津港は大津港と2大主
要港として君臨し、敦賀で陸揚げされた物資は塩津海道
を深坂峠を越えて塩津港へ、そして塩津港から再び丸子
船で湖上を運んだ。 丸子船の隻数は多い時で塩津港が
125隻、大津港が102隻だったと地元の道の駅でいただ
いた丸子船に関するリーフレットの中で述べられています。

塩津港、丸子船溜り場(大坪川)の様子(以下写真で)

     
      琵琶湖の北端、塩津港の岸壁からの眺め

岸壁といってももう今では岸壁の跡としか表現のしよう
がない。しかし往時は丸子船(帆船)、そしてその後を
継ぐ蒸気船の琵琶湖北端の港として栄たことは紛れも
ない事実で、この塩津港は他の琵琶湖北端の2港、大
浦港、海津港とともに重要な湖上輸送の役目を果した。


      
           梅雨空の大坪川船溜まり場跡

丸子船は蒸気船の登場でやがてはその歴史を閉じるが、
塩津港
はその後も北国の諸藩に端を発して以降、明治
17年に敦賀ー長
浜間にある柳ケ瀬にトンネルの開通を
見るまで重要な物流拠
点として機能し、その後流れは鉄
道の利用に移り主要な港として
の役目を終えて行きます。 

 
                      船だまりに停泊中の丸子船(大坪川)

その日訪れたこの大坪川、蒸気船の登場までは船の溜ま
り場としてこの写真のように丸子船がずらりと並んで荷役
(にやく:荷物の積み下ろし)を待っていたのでしょう。

以下、塩津港の周辺
すみません、ちょっとカメラを持っての歴史探索でした
ので・・・。

 
          丸子船の溜まり場、大坪川のほとりの園児

 
かわいい!、梅雨の風景を撮りに川傍の道を歩いてると現れました、
 かわいい、そうです私の ”後輩ちびちゃん” なんです、思わず連写
 です。 もう説明不要、どうかしばし眺めてくださいませ!


              大坪川岸に茂る雑草

 私にも名前がある!とこの草木怒ってるかな? でもKennyには
 その知識はない。朝から梅雨の細かい雨が降り続いています。 
 葉っぱには水滴が・・・。


            水面に水の輪が出来ます

 
当日大坪川は突然大雨にもなります。するとその大粒が水面に
 いくつもの輪を作ります。

 
       木から落ちるしずくが作る水面の芸術

 この川の上には大きな木があります。その枝からしずくが落ち
  て水面に円形模様をひっきりなしに作っていました。

         
     丸子船の館に現存する「神興丸」が展示されている

補足情報: 丸子船の語源
              丸太を2つに割って側面に取り付けているため、外から
       見ると丸太が張り出して見える。この外観的な特徴から
       丸子船は「丸太船」とか「丸船」とも呼ばれていました。 
       丸子船の語源はこの船の構造、概観から来ています。
       (道の駅で戴いた丸子船に関するリーフレットより引用)

         
   
 お断り: 丸子船の情報と上のモノクロの2枚の写真
       現地の道の駅に置かれていたリーフレットにある写真の
             使用と記載事項を元に書かさせて戴きました(西浅井町
             総務企画課のご了解をいただいております)

 アクセス
 
塩津港: 国道8号線を北上。 福井県と琵琶湖西岸(303号線)に
             分岐する地点の約1KM手前、おおきくカーブして琵琶湖
             から離れるところが塩津港です (地名:塩津浜)。 JR近江
             塩津駅から 約3Km。

     =そのー2:弥生の森歴史公園=

弥生の森歴史公園(滋賀県野洲市)の大賀ハス

その大賀ハスの種は2000年以上も前の物で、昭和26
年(1951)
まで
千葉県検見川遺跡の地下7mに眠って
いました。ハスの権威故大賀一郎博士によって3粒採
取され後に鳥取県林業試験場にも譲渡。更に当公園が
同試験場に依頼し入手の上栽培するという経緯を辿り
昭和63年(1988年)から毎年淡紅の優美な大賀ハス
として私達の目を楽しませてくれています。まさに世界
最古の生命の発露だと言われています、とはこの公園
にある大賀ハス生い立ちの案内版にある記述を私、
Kennyの言葉で簡略して書かせて戴きました。

 
                  大賀ハスー01

 
               大賀ハス-02

 
                  大賀ハスー03

アクセス

弥生の森歴史公園:
国道8号線から(野洲市内)希望が丘文化公園 西ゲートに向
かう方向。8号線(道路標識あり)を降りてすぐ(右)に銅鐸博
物館があります。 当公園は同じ敷地内にあります



今日もご覧くださいましてありがとうございました

    

   

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愉快な写真仲間、悠人会会員の力作展:棚田編

2010-07-06 16:26:12 | 写真

       三重県熊野市の丸山千枚田を訪ねて

  
めかちゃんの作品を一点追加掲載しました(7月13日)

このたび会の名称も決まり生き生きと活動する悠人会のメンバーで撮影の旅
出かけてきました。そこは熊野市丸山にある棚田、丸山千枚田です。

悠人会は私達に写真を指導下さっています八田正文先生の下に集まる
愉快な写真仲間の会です。年に何回かこのようにみんなで撮影に出かけて、
撮った写真を先生に観ていただいております。

私、Kennyは初めて棚田というものを見ましたが、高台から前に広がる田園(?)
の風景を見たときには、これは異様、なんなの?と。 農家生まれ
で小学生時代
から田んぼの手伝いを強制されてきたKennyにとっては、これでは稲作の作業が
大変! これが第一印象です。

滋賀県からバスに揺られて片道5時間弱、撮影時間は1時間強と忙しい一日
でしたが、バスの中では往路は地元三重県から参加のメンバーおじさん(爺?)、
つーさん(Tダさん)のガイドで盛り上がります。復路は撮りたての写真をTV
モニターに写してみんなで評しあい、和気藹々の内に往復です。

メンバーの中のTeaさんはバス(今回は小型バスをレンタル)の運転もお手
の物、その上自分でモニターをバスに取り付けて(電気工事も必要です)、私が
パソコン他用具を協力して正に手作り、費用節減の理想的な企画です。 
念のため申し添えます。長時間でもあり安全のためTeaさんの友人に運転交代の支援をいただきました) 

幹事のTeaさん(TNさん)、サンキュー!!
 

       (このブログは悠人会の公式ブログではなくKennyの個人的な趣味です)


            =仲間の作品です=
              
展示期間:7月9日ー7月15日

               Maecanさんの作品

   
                     眼下のパズル
 山間に広がり、まるでパズルを組合せた棚田が一望出来て感激しましたが、毎手入れの人々が
  少なくなり、廃墟となりそうな不安を感じる

                  すずらんさんの作品

   
                     山間いの棚田
 
曲線を描きながら階段を上るような小さな田んぼ、先祖から受け継がれて今も守られている
 棚田
後継者が少なくなってひっそりと淋しい山間い小さな田んぼ 

                つーさんの作品

   
                     丸山千枚田
 「以前の写真で指摘されました構図を思い出し切り取りなしでの写真です」と先生のHP上でこの写真
 を説明されています。つまりこの作品は取り直し、レベンジ作です。 さすがは努力家!


                マッシーさんの作品

   
                    紫陽花の向こうに 
 
棚田の作品は全体に今ひとつで構図も皆さんと似たような物ばかりでどうかと思いましたが、取り敢えず
 参加することに意義を感じて1枚出しますの
で宜しく」とはご本人のコメントです。ところがどうしてどうして、
  仲間の間では ”超新進写真家” として頼もしいおじ様、余裕のお一言ですなー

                   徹子さんの作品

   
                                                 千枚の青田
                       
千枚の青田を刻む時計台(徹子)
 遠い先祖から守り継がれてきた棚田、今でも1340枚もあると言う。そこで生活してきた人だけでなく、自然
 を愛する多くの人々によって支えられ、未来へ引き継がれて行く。千枚の棚田は、青田となって時を刻む

                                       Teaさんの作品

      
                                        展望台から
 当日は幹事さん兼ドライバーかつ復路、バスでのエンタテイメントの準備、映像
 装置の調整に手間を取られて撮影の時間がなく、高台からいつもの一眼レフではなく
 コンパクトカメラで撮った写真が送られてきました。画像はカメラではなく腕だよと
 言わんばかりのしっかり合ったピントがいいですね

                        Daimamaさんの作品

    
                    後世に引き継ぐパノラマ
 
雨の予報の中、長時間掛けての移動、短時間の撮影・・・不安の胸中でしたが、バスを降りて、眼下に
   広がる
棚田の風景に圧倒されました。
この広大な風景を、どんな風に撮れば良いのか、しばらくの間、
   ぼう然としました

                                        めかちゃんの作品  追加掲載(7月13日)

   
                      
丸山千枚田
 
 めかちゃんは仲間の中でも独特の感性をお持ちの一人で、棚田を一面に捉えるのではなく、ぐーんと  
    
アップして背景の山との空間をさりげなく持ってきて山間にある小さな田んぼの雰囲気を出されました
 
                             
                               Kennyの作品

   
                             
 
棚田にも田園の風景
 
一面に広がる小さな田んぼの棚、広場はない。棚田も珍しいけれど田園の風景。ふとはずれに目を
  やるとしゃれた三角の空気塔らしき屋根の建物が見える。 その広場にほっと安堵の一息を・・

 
余談に変えて
: 今も受け継がれる
日本に誇る、そして大規模な棚田の背景は?

  
         
この丸山千枚田で最も小さい3株の田んぼ

 
棚田の存在は: 1300枚を優に上回る
  (当日その棚田におられた後継者のお一人であるおじさんとお話を・・)
  1.勿論この斜面で田を耕さざるを得なかった、
しかしそれだけではないと。
  2.それは、この棚田は土、水、太陽の稲作には絶好のいい条件にある
  3.:このように山の中でしかも傾斜に田がある。腐葉土が流れ込むいい
      条件にある。つまり山の腐葉が土に養分を与えてくれる。
    :これも山の中を流れてくる間に稲作に大事な養分を含んでいる
    太陽:一日中日が差す南斜面で、また傾斜で満遍なく均等に日が当る
  
 
3株の田んぼ:
  
上の写真にある3株の田:これは決して観光用ではない。流れ落ちる水から
  田んぼを守る(段差を少なくして)ために重要な役目を果たしていると。
 

      
              熱心に撮影する仲間
      

    今日もご覧下さいましてありがとうございました。(Kenny)


     

     

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Kennyの城跡めぐり: 多喜山城跡(滋賀県栗東市)

2010-07-01 20:32:33 | 城址

  日向山(にっこうやま)にある多喜山城跡を尋ねて
  =旧東海道をにらむお城がありました=

なんでそんなところに行ったからと言うていちいちブログに載せんならんの?
ブログ更新の記事に困っとんのと違う? ええ、それもあるんですが・・・。

滋賀県の湖南地区(と言っていいのかな?)ではこの多喜山城(栗東市)は
旧東海道を監視する重要な城やったそうです。 そして過日このブログで取
上げました小堤城山城(野洲市)は旧東山道(中山道)をにらむお城と現地
の案内版に記載され
ておりました。共に居城ではありません。 でも有事の城と
しては規模の大きい砦としての城だったようですがそこは彦根城や小谷城と
は別の物で戦略上重要な拠点という事です。小堤城山城にも立って来ました
し、この多喜山城にも立って侍になり往時を偲んできました。
しかしその時代に生まれなくてよかったとも・・・。ただ今真っ最中の選挙な
ら命までかけなくてもいいのですが。

この多喜山城は全く知りませんでした。 私が写真をご指導いただいています、
八田正文先生が「小堤城山城を見てきたのならもう一つ、旧東海道をにらむ
城が栗東市六地蔵の日向山にある」とEメールでアドバイスを戴きました。
ひゅうがやま? いえ違いました、それはにっこうやま(日向山:220m)と
読むのでした。Kennyとしては恥ずかしい限りです。

         以下、多喜山城跡の様子です
     この城は戦国時代に織田信長方によって築城されたと言われています。

        
                   日向山(多喜山城跡):栗東市六地蔵
国道1号線高野から金勝山に向かう県道にあります。高野から5分くらいのJR草津線を渡り直ぐです

        
              山頂から望む、三上山と背後に城山(小堤城山城跡)
三上山麓まで日向山から車で20分ほどです。城山麓は更に10分ほど。旧東海道と旧中山道
は草津からそれそれの方向に分かれていますが、この辺ではまだ両道間は近い距離にあります。

  ここからはKennyの聞きかじり、今までに教わった乏しい知識で勝手ながら
  書かせていただきます。あくまでも往時を偲びでして、思い違いがありました
  らどうか許しください

  
                 山頂の祠           山頂から琵琶湖・東海道方向
主郭のあった山頂。子供の草野球が出来る程度の広さです。下にある看板以外に城跡を説明する標識は全く
ありません。 主郭部からは360度展望が当時は利いたでしょう。今は樹木が茂り琵琶湖、旧東海道方向のみ
展望が利きます

      
                  山頂にある案内板
 なんとか読めますね。Kennyの下手な説明よりもこれをご参考になさってください。なお、以下の記述は
 この案内板に基づき、乏しい知識で探し回り、これがそうではないかな? とKenny調査報告です

 
   当時のものと説明がある石垣              同、土塁
石垣を求めて歩き回りましたが、山頂部にほんの少しだけ見つけました。ただ彦根城のような石垣は信長の
安土城以降と聞いています。従い本格的な石垣は無くてもいいのかなとも。それとこの城の機能は砦ですよね。

                      
            これが虎口(こぐち)跡かな??
 案内板に虎口も当時のままとありますね。ということはどかかにあるとうことです。これには一番時間が掛かり
ました。 安土城の場合では虎口を山の麓で見ました。当然ですね、敵の侵入を食い止める複雑な形状の入り
口です。カギ型、枡形など。この城跡では下に掲載の現地の看板地図を頼りに主郭に近いところでそれらしき
形状の上り口を見つけましたので、自己満足でパチリと。 全く自身はありませんが。

                   
                   お城の縄張り図
 この解説を見る限り今までに現地見学会などで教わりまた聞きかじった知識ではかなり立派な、大がかりな
 お城だったようですね。 最も過日見学の小堤城山城は更に規模の大きいお城だったとのことです。

                    
                                       堀切跡かな??
堀切については案内板には記載がありません。ただ今までに体験した現地見学会では殆んどの場合、
堀切が話題に上っています。登山(上り)の途中であたりを見回してこれ堀切と違うのかな?と思える場所
がありました。 溝が深く、そしてその溝が山の斜面に添って横に走っており今までに見た様子とよく似て
おりました。そこで念のためパチリと撮っておきました。 しかしこれについても自信はありません。

                   
             麓から山頂まで延々と続く石の階段
麓の看板にふるさと創生事業で階段を設置したとのことで、それもほぼ直登です。ただ登山愛好家にとって
は大抵の方は硬い階段は苦手で、私も標高220mくらいなら直登攀でもそれほど応えないのですがこの日
ばかりは膝に、そして息が切れました。 登山道はやはり土と落ち葉の絨毯がいいなーと思いつつ・・・。

       今日もご覧くださいましてありがとうございました

 

 

 

コメント (2)
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