yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

「鈴鹿関と武関~軍事施設としての関の構造に関する一考察」の条

2009-01-19 23:23:57 | 歴史・考古情報《東アジア》-1 中国
伊勢湾・熊野地域研究会での発表1月22日19時から私の研究室横・センター室にて


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昨年末に再訪した陝西省商洛市の東端に位置する武関遺跡を中心にその構造と日本の三関とを比較した報告をこの木曜日にすることになった。


今準備でバタバタしている。

少し年末にも報告したとおり、武関は関中から南(東)へ抜ける古道(少なくとも秦代には確実に存在した)を抑える関所である。古都長安から秦嶺山脈を南に抜けて、商州・丹鳳を経て武関から南東・武漢方面へ抜ける交通路である。

かつて秦の始皇帝最後の行幸に際し通過した関でもある。

既によく知られているように秦漢時代には長安を中心に東西南北に五関が設けられていた。

東が函谷関であることはとてもよく知られている。現在の新安県には文化大革命によって破壊された函谷関の跡が復原されている。この駅の前は何回か通ったことがあるのだが、残念ながら未だに降りたことがない。函谷関から西を関中と呼ぶというのが通説である。

この関を通らなければ東都洛陽にも行く事ができない。

北の関が簫関。現在の慶陽市の西方銅川市の北西方向に推定されている。簫河が経河と合流する付近に所在したらしい。これを越えるとモンゴルへ抜けられる。

西の関は大散関と隴関である。大散関は現在の宝鶏市北の城関鎮付近にあったらしい。現在は渭水の支流千河を堰き止めて大きなダム湖ができているが、まさにその首根っこ付近にあったと推定されている。宝鶏には二度ほど行ったことがあるのだが、いずれの関も訪れたことがない。是非今度は行ってみたいものである。もちろんこれを越えるとシルクロードである。

そして南(東)が武関である。


(かすかに残る武関城の東の城壁)





(武関川の流れは東へ向かいやがて揚子江流域の武漢に至る)



(武関城の南の城壁があったはずの場所を南の川岸から見たところ。鈴鹿川の流れととてもよく似ているのは偶然だろうか)



(武関城の現在はどんどん旧家が壊され、新しくなっていっている。明清時代の関内の様々な施設が消えていっているのである。いいのだろうか)

これらの関の近くを最新の高速道路網が走っているのにも歴史を感じる。

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