yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

第17回壬申の乱ウオークin石占頓宮を歩く報告2柚井遺跡の条

2010-05-10 09:00:00 | 久留倍遺跡を考える会
 後半は山道を歩いて多度神社をめざしました。途中神宮寺跡付近からの三川の眺めは絶景でした。

 柚井遺跡は平安時代前半代における陸路と水路(揖斐川の水運)の交差する交通の最重要地だったと確信しました!!人々の集まる地で、度々「まつり」が執り行われたのでしょう。その祭りの対象が多度山であったのかも知れません。




 柚井城は立ち入り禁止だった。残念。



 神宮寺へと歩く途中、こんな絶景に出くわした。多度神社が三川を大いに関係する「神」だったと判る。この地からだと多度の地の港としての機能がよく判る。



 多度神宮神宮寺跡に建つ愛宕神社。石神さんの話によると、元はもう少し上の山腹にあったものを、明治の廃仏毀釈によって神宮寺が廃絶すると、この地に遷されたのだという。



 その鐘楼の跡。



 興ざめの観音堂。多度神社の商売根性丸出しのこの左隣の鉄筋の建物、この奥の本殿に向かってコンクリートの山が続く。悲しい!!



 神輿庫が公開されていた。



 神馬



 そして本殿



 かつての神宮寺は多度神社の参道横に再建され、今は付近の山中から出る石塔などが集められている。



 そして柚井遺跡へ。これが当時写された柚井遺跡調査時の写真と同じアングルで山側に近づいた写真。



 この辺り一帯にまだ沢山の木簡が眠っていると思うとワクワクする。
 それにしても柚井遺跡というのは山裾にぴったり付いた立地なのだということを改めて知る。この南に榎撫駅があるとすると、揖斐川沿いにまるでリアス式海岸のように山の出入りがあり、その地を利用して港が形成されていたことになる。とても興味深い地形だった。



 この後養老の滝へ向かったのだが、その養老鉄道での車窓から柚井遺跡を撮影してみた。当時はおそらくこの地は川と海の合流部(揖斐川河口)だったはずだ。



 そして養老の滝へ。ここは3月に訪れたばかりだったが、前日の雨で水量が増し、より迫力があった。



 激流は続く!



 そして美泉へ



 近くのボタン鍋やさんでは処理されたばかりの猪が。



 そして鹿も。

疲れましたが、とても充実した一日でした。久留倍遺跡を考える会のみなさん、そして参加された市民のみなさん、そしてそして何よりも御案内下さった桑名市教育委員会の石神さん、有り難うございました!!大感謝です。

 是非柚井井遺跡を訪ねてみたいなと思ったら、養老鉄道を利用して大垣から多度、または桑名から多度へ!!こいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ


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