さぶりんブログ

音楽が大好きなさぶりんが、自作イラストや怪しい楽器、本や映画の感想、花と電車の追っかけ記録などをランダムに載せています。

水戸城

2017-07-25 23:19:08 | 日本100名城巡り
鹿島神宮駅から鹿島臨海鉄道大洗鹿島線に揺られて水戸へ。まさか香取神宮のある佐原から鹿島神宮、そして鹿島神宮から水戸へ、それぞれ鉄道1本ずつで行けるなんて知らなかった。ただしいずれも直通の本数が少ないので、水戸行きに乗り遅れないようダッシュで乗り込んだ。


さて、トントン拍子で水戸にたどり着いてみれば、黄門様ご一行のお出迎え。ご一行様たち、こんなにイケメンぞろいでしたっけ?


駅前に三の丸ホテルというのがある。まさにお城の跡地にふさわしい名前だね。三の丸ホテルの脇を通って、水戸城址に向かってのんびり歩く。


まず最初の目的地。この大手橋周辺では佐幕派と討幕派が幕末に激闘を繰り広げたのだ。


大手門は復元工事中で、いずれこういう門が建つんだそうだ。


木で作られた仮設の歩道橋を渡ったところにも、このようは旗がひるがえっている。


ん、お城の遺構かな?と思うと中学校だったり、小学校・幼稚園だったり、高校だったりする。


古き街並み、お城の景観を残しつつ、敷地を学校のために使っているのだろう。まさに水戸藩のアカデミックな伝統が今に引き継がれていると考えることもできるかな。

ただ、水戸城って石垣を用いず、土塁と堀だけで守りを固めていた城だと聞いていたので、石垣らしきものがあるのはどうなのか?という気もするが、街づくりに土塁というわけにもいかないでしょうから、やむを得ない話なのかな?


この大きな椎の木は見ごたえがある。


水戸城はもともとは平安末期に平国香の子孫である馬場資幹により築かれ、その後佐竹氏の時代を経て、水戸徳川家の城となった。

水戸徳川家は江戸に常駐していたため、この城は藩主の居城としての役割を担っていなかったため、防衛上の重要性が低く、城郭と言うよりはむしろ政庁としての性格が強かったのだという。天守は築かずに3重5階建ての三階櫓を、天守的な位置づけで使用していたが、残念ながら太平洋戦争の空襲で焼けてしまった。


そういう意味では、現存する唯一の遺構、橋詰門(藥医門)は貴重な存在。佐竹氏の時代(1591~1602)に建てられたものだから、かなり古い。

何と高校の敷地の中にある。


門の下に立つと、古く、温かい、木の香りがする。その香り一つで、やはり来てよかったと、満足度が高まる。


本丸と二の丸の境目は空堀となっているが、現在はそこに何と水郡線が走っている。水郡線のカラフルな車両については、また稿をあらためて書くことにする。


水戸駅へ戻る途中も、復元された門を見たが、やはり安土桃山時代に作られた藥医門が持つ、包み込むような魅力にはかなわない。でも年数を重ねればきっとそれなりに風格は出て来るだろう。空襲で焼けてしまったお城を何とかして復元しようとしている、自治体全体の努力が伝わってくる。


弘道館入口で押させてもらった記念スタンプ。
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