個人意識を持っている我々人間は「孤独」です。
…それは「私・個」があるからです…
良い悪いで判断して悪いのを排除して良いとこだけを取る「良いとこ取り」をしている限り…
自分中心の「自分さえ良かったら」他の人はどうでもよいという個人意識がある限り…
その自己満足、自己主張、自己顕示、自己慢心自惚れに思ったりして他と差を付けたがったり、比較競争して他と差を付けたがる差別意識を持つことから…どうしても孤独になります。
だから町中の人ごみの中にいても孤独です。
例え友達や恋人夫婦や子供連れで寄り添って歩いていてもお互いの意識が離れていれば孤独ですから、人と接することの至福は味わえていません。
皆で楽しんでいるように見える趣味嗜好娯楽でも同じです。
しかも互いに比較評価したり競い合ったりしていますから、他者との戦い、自分との戦いとなります。
自分さえ良かったらの意識で生活していますから、自分に都合がよい時は仲間意識であっても、都合が悪くなれば離れていきますから、絶対的に心から安心してはいられません。
だから違和感や不信感の不調和意識を必ず持っています。
その違和感不信感が内心で不安や怖れ憤り怒りになって潜んでいますから、言い知れぬ・得体の知れない孤独感と闘うことになります。
ちなみに心休まるはずの家庭が崩壊しているのも個人意識の集まりだからです。
地域社会・国家の仕組みや経済が崩壊するのも同じ原因です。
自然環境が崩壊しているのも同じ原因です。
すべての原因、事の始まりの原因に、自分さえ良ければの個人意識があるからです。
だから皆が孤独なのですが、その孤独には自由があります。
ところが見栄や世間体を意識して自らを束縛制限していますから自由はありません。
また国家社会や地域や家庭という形には自由がありません。
自由が無くて孤独だと、それが孤独感にもなります。
その孤独感を癒すために人が寄り集まりたがりますが、それは単に孤独感を一時的に忘れているにしかすぎませんから、すぐに孤独感が戻ります。
なに気兼ねなく一心不乱に取り組むことで孤独を楽しめます。
ちなみに冒険家や探検家や研究家や専門家が没頭できるのも孤独だからです。
自由孤独を味わうには世間や人の目を気にしていては絶対に味わえません。
しかし生きていくためにはお金が必要ですから、そのお金を集める必要があります。
それには自らが稼ぐことであり、スポンサー探し、寄付援助協力を求める行為です。
そこで孤独や孤独感を補うのが「心のよりどころ」になります。
それが趣味嗜好娯楽・刺激・探検冒険研究の中にありますが…
それらは原因の心ではなくて結果の「形」を追い求めているものですから…
いろんな気苦労も当然あるし、目指す成果を挙げるために時間的・肉体的な苦労もありますから心身が疲れて当然です。
その心のよりどころでもって心身が疲れるという矛盾になりますが…事を成したときの自己満足・自惚れ慢心でもって過去の苦労が苦労ではなくなるという矛盾があります。
だから生きていくための生活で疲れているはずなのに心から気付けないのです。
、
また成果を見せ付けて評価されたいという欲望・野心や見栄や自惚れの自己満足や自慢したがる主張顕示のためにやっていますから…決して心からの満足とはなりません。
そこで「結果」ではない「原因」である人間の心・意識を知る方向性に完全真理を見極めることであれば…この世は情報社会ですから学ぶにも大してお金も必要ないし、孤軍奮闘も可能ですし、孤独だから時間もたっぷりあるし、しかも束縛制限支配されずに自由に動けるし、知ることに限界は無く、その知らなかったことを知る喜び楽しさや、共に判り合える友と接し合う喜びや楽しさもありますから、それらから暖かい心にさせてくれます。
また知る喜び楽しさに加えてその実践からも喜び楽しさが味わえますから…自ずと続けることが出来るのです。
また完全真理だけに…他の世間的な無駄な方向性に意識を向けなくて済むから効率が良くて無駄がありませんし、しかも完全真理ですから矛盾も妥協もありませんので迷い混乱葛藤することもなく、また他の変な方向に洗脳されたり泥沼に引きずり込まれることもありませんので安心安全です。
学び知る喜び楽しさ、その実践で知った喜び楽しさの中に、普通の当たり前が喜び感謝にもなり、思いもよらない至福が時々ありますから、それが心の支え・自信・自力・精神力になり、この先にくじけたり、あきらめたりすることにはなりません。
ちなみに私は完全真理を学び知り併せて自己縮小の実践と孤独の自由でもって納得人生となっています。
然るに現在の老後人生に納得していますから…この先で何の問題もなく・思い残すこともなく・死に至ることができます。
(2009・04・04 投稿リメイク版)
…それは「私・個」があるからです…
良い悪いで判断して悪いのを排除して良いとこだけを取る「良いとこ取り」をしている限り…
自分中心の「自分さえ良かったら」他の人はどうでもよいという個人意識がある限り…
その自己満足、自己主張、自己顕示、自己慢心自惚れに思ったりして他と差を付けたがったり、比較競争して他と差を付けたがる差別意識を持つことから…どうしても孤独になります。
だから町中の人ごみの中にいても孤独です。
例え友達や恋人夫婦や子供連れで寄り添って歩いていてもお互いの意識が離れていれば孤独ですから、人と接することの至福は味わえていません。
皆で楽しんでいるように見える趣味嗜好娯楽でも同じです。
しかも互いに比較評価したり競い合ったりしていますから、他者との戦い、自分との戦いとなります。
自分さえ良かったらの意識で生活していますから、自分に都合がよい時は仲間意識であっても、都合が悪くなれば離れていきますから、絶対的に心から安心してはいられません。
だから違和感や不信感の不調和意識を必ず持っています。
その違和感不信感が内心で不安や怖れ憤り怒りになって潜んでいますから、言い知れぬ・得体の知れない孤独感と闘うことになります。
ちなみに心休まるはずの家庭が崩壊しているのも個人意識の集まりだからです。
地域社会・国家の仕組みや経済が崩壊するのも同じ原因です。
自然環境が崩壊しているのも同じ原因です。
すべての原因、事の始まりの原因に、自分さえ良ければの個人意識があるからです。
だから皆が孤独なのですが、その孤独には自由があります。
ところが見栄や世間体を意識して自らを束縛制限していますから自由はありません。
また国家社会や地域や家庭という形には自由がありません。
自由が無くて孤独だと、それが孤独感にもなります。
その孤独感を癒すために人が寄り集まりたがりますが、それは単に孤独感を一時的に忘れているにしかすぎませんから、すぐに孤独感が戻ります。
なに気兼ねなく一心不乱に取り組むことで孤独を楽しめます。
ちなみに冒険家や探検家や研究家や専門家が没頭できるのも孤独だからです。
自由孤独を味わうには世間や人の目を気にしていては絶対に味わえません。
しかし生きていくためにはお金が必要ですから、そのお金を集める必要があります。
それには自らが稼ぐことであり、スポンサー探し、寄付援助協力を求める行為です。
そこで孤独や孤独感を補うのが「心のよりどころ」になります。
それが趣味嗜好娯楽・刺激・探検冒険研究の中にありますが…
それらは原因の心ではなくて結果の「形」を追い求めているものですから…
いろんな気苦労も当然あるし、目指す成果を挙げるために時間的・肉体的な苦労もありますから心身が疲れて当然です。
その心のよりどころでもって心身が疲れるという矛盾になりますが…事を成したときの自己満足・自惚れ慢心でもって過去の苦労が苦労ではなくなるという矛盾があります。
だから生きていくための生活で疲れているはずなのに心から気付けないのです。
、
また成果を見せ付けて評価されたいという欲望・野心や見栄や自惚れの自己満足や自慢したがる主張顕示のためにやっていますから…決して心からの満足とはなりません。
そこで「結果」ではない「原因」である人間の心・意識を知る方向性に完全真理を見極めることであれば…この世は情報社会ですから学ぶにも大してお金も必要ないし、孤軍奮闘も可能ですし、孤独だから時間もたっぷりあるし、しかも束縛制限支配されずに自由に動けるし、知ることに限界は無く、その知らなかったことを知る喜び楽しさや、共に判り合える友と接し合う喜びや楽しさもありますから、それらから暖かい心にさせてくれます。
また知る喜び楽しさに加えてその実践からも喜び楽しさが味わえますから…自ずと続けることが出来るのです。
また完全真理だけに…他の世間的な無駄な方向性に意識を向けなくて済むから効率が良くて無駄がありませんし、しかも完全真理ですから矛盾も妥協もありませんので迷い混乱葛藤することもなく、また他の変な方向に洗脳されたり泥沼に引きずり込まれることもありませんので安心安全です。
学び知る喜び楽しさ、その実践で知った喜び楽しさの中に、普通の当たり前が喜び感謝にもなり、思いもよらない至福が時々ありますから、それが心の支え・自信・自力・精神力になり、この先にくじけたり、あきらめたりすることにはなりません。
ちなみに私は完全真理を学び知り併せて自己縮小の実践と孤独の自由でもって納得人生となっています。
然るに現在の老後人生に納得していますから…この先で何の問題もなく・思い残すこともなく・死に至ることができます。
(2009・04・04 投稿リメイク版)