孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

私は正しい&プライドなんか持っていないという人に…必見

2018年11月13日 | Weblog
人は皆「良い悪い」(善悪・優劣・損得)で判断していますから、自分に都合が悪ければ不平不満を持ち、その不平不満が悩み苦しみ悲しみや不安心配や怒りにもなり、
それに執着すれば妬みやきもち嫉妬に変わり、更に腹いせ仕返し報復復讐心にも拡大していき、やがてやけくそになって自己破壊・他者破壊に至ります。
それが自殺や他殺でありテロや戦争でもあります。

そして「私は正しい」を持っていますから、常に悪いものを見極め敵対して排除否定拒否したがります。

そして騙されて馬鹿を見ないように用心しているから、必ず「不信感」と「守り意識」を持っています。

だから自分に都合が悪いことから「守る」のは正しいと思い込んでいますから、すべての悪い奴は排他的に隔離抹殺しても良いというご都合主義がまかり通っており、
悪いことをいっさい近寄せない潔癖主義や自分を守るのは正しいという正義感にもなっており、
それが拡大したのが正義の戦争や聖戦であり、その名誉を掛けた戦いや報復のテロが実際に起きています。

すなわち「良い悪い」で判断して問題を作り、その問題を良い悪いで判断して解決しようとしているから、その良いと悪いの両者・裏表の矛盾があるかぎり根本的な解決は無くていい加減なところで妥協するしか方法がないのです。

だから例えどんな主義主張や思想哲学を持ってきても良いと悪いで判断している限り中途半端な妥協しか生まれてきません。

だから共産主義や社会主義や民主主義であっても、また過去の古臭い宗教や新興宗教であっても、それらの形が違うだけで中身は良いと悪いの判断で出来ているからです。

だから思想主義主張や宗教の違いが原因で言い争い、それが拡大したのが侵略侵攻や戦争やテロにもなっているのです。

「良い悪い」の判断が「私は正しい」になり、それを主張顕示しあうことが争いの原因であり、また「不信感」や「守り意識」が問題化しているだけではありません。

わりと気付かないのが誰もが「プライド・自尊心」「優越感・劣等感」「勝ち負け」に執着しています。

プライドなんか持っていないと思っている人も多いかと思いますが…
負けるが勝ちや損をして得をとるとか、プラス思考もプライドから出たことであり、自分が損をしたり負けたと思いたくなくて言い訳正当化することで自分が納得したがっているのかもしれません。

また人前で控えめに謙そんを示すことも、裏側・裏腹ではプライドを示していることなのです。

すなわち劣等感を裏返したのが優越感や自尊心・プライドなのです。

「私が正しい」を示すためにも人の目が気になる、世間体を気にする、すなわちプライドなのです。

だから世間的な儀礼を尽くすのもプライドから出ているのです。

すなわち人の目を気にした窮屈な生活を自らが選んでいるのです。

だから何も偉そうにしている人だけがプライドを持っているのではありません、
皆が持っていることです。

人それぞれの劣等感の基準の違いによってプライドも違ってきますが、裏表のある生き方をしているだけに、劣等感が強い人ほど優越感を持ちたがる傾向にありますから、自己慢心で偉そうにしている人ほど劣等感が強いという裏返しにもなります。

またその劣等感が強いから誰にも負けないように競争社会で生き残りをかけて一生懸命頑張れるのです。

だから反対に劣等感が少ないほど競争社会の負け組みになりやすく、その結果社会の底辺で生きることになりますが、
その劣等感(すなわちプライド)が少ないから貧困・ホームレスにも何とか耐えて適応できているということにもなります。

だから自らが生きることをやめて自己破壊・自殺をする人の中に劣等感・プライドが強すぎた傾向がみられるのです。

だから何度も書いているように、良い悪いで判断して、その良い悪いで解決しようとしている限り、その矛盾で問題が解決できないばかりか、それら問題が複雑に絡み合いながら枝分かれをして更にどんどん拡大進行しているのです。

だからすべての問題が良いと悪いの判断が原因になっていることを知らない限り絶対に何の解決も得られません。

しかしこの世の中から良い悪いを無くすることは不可能です。

でも自分の中の意識から良い悪いを無くすることは不可能ではありません。

その良い悪いを無くしていく自己縮小の実践をしていれば確かに不平不満が少なくなり悩み苦しみも減り、
穏やかな心で今までになかった喜びやありがたい感謝を味わえることになり、
それが確かな自信・自力にもなり、自己縮小が進んでいくことにもなるのです。

それをただ頭の中で思い考え試行錯誤しても無駄な時間が経過するだけですから、確かな答えは実践の中にしかありません。

…実践するために私たちは生きているのです…

…良い悪いを持たない完全真理は「実践真理」なのです…

しかも山にこもったり滝に打たれたり艱難辛苦の修行をしなくても、いつも通りの日々の生活の中で自由に、皆が平等に実践できる真理なのです。 

だから何かの形にいっさい束縛制限支配されることはありません。

これまでの言うだけ、聞くだけ、知るだけ、鵜呑み暗記・記憶するだけの真理とはまったく違うのです。

だから、学び知ったことを実践してみない限り「完全・本物」が完全・本物であることを自覚・悟ることは出来ないようです。

(2009・05・17)投稿・リメイク版