孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

結果の形よりも心意識精神の原因を改め修正できない限り、誰が種をまけども実にはなりません。

2015年01月28日 | Weblog
善良なる者がこの世の形あることを成してもそれは一時しのぎであって、まさに焼け石に水が如くの結果になりますし、しかもその地域の限られた所だけの結果であって、まだまだ多くの人が取り残されていますから公平さに欠けます。

だから震災災害や貧困飢餓で飢えている者に食料を与えてもそれを食べれば減り続けるからその繰り返しをすることになりますし、その食料の心配が無くなれば今度は夜露や雨風をしのげる住む場所の心配&欲求もありますし、更にその立地条件や快適便利さを欲しがることにもなり、次に収入を得る働き場を欲しがるし、何とか落ち着けば今度は苦労の少ない楽を望むし、更に、更にとキリも無くのが欲です。

だからと言ってどこかで打ち切れば中途半端で終わり完全とはいえませんから(結果的には途中でほっとくことになりますから)此れまでの経緯が有っても無かったことになり、あれ程まで感謝していたのが「雨やんで傘を忘れる」が如くの無常なことにもなるかもしれません。

然るに善良なる者&偽善者が一生尽くし切っても(種をまき続けても)キリも無く続く欲がある限り、その途中結果が出ても(花が咲いても)実はなりません。

だから結果の形よりも心意識精神の原因を改め修正できない限り、種をまけども実にはなりません。
然るに助けたと思っていても心意識精神までも助けてはいないのです。

結局は無駄骨だったのです。
然るに結果を見ずにして原因の心意識精神を見るのが精神世界の根本なのです。

なのに「何もしないよりもマシだろう」「有る方が無いよりもマシだろう」と正当化して自己満足したがることにもなるわけです。

そしてまたその自己満足&偽善からして何事かを成したがるわけです。

然るに(私ごとですが)偽善の私が同じ偽善者を作る結果になるよりも、最初から「ほっとく」ほうが(相手任せにしておくほうが)私が無理もせずに余計なこともせずに無駄なこともせずに、然るにいらぬ苦労&気苦労もせずにすむし、何たって他力依存の者&死んだも同然の意識の者を増長させる結果にはならないわけです。

そしてほっとけば反対に自力でもって自立して自由に振舞うことになるかもしれません。

ちなみに他力依存型だった妻が(私に頼れなくなって)自力で自立して(私に何の遠慮も無く)妻の意のままに暮らしています。

また過去の贅沢が無理になったことで(不本意ながら?無駄使いが出来なくなって)倹約することが身に付いたようです。

然るに皆さんに何か思うところがあれば&違和感があればコメントを書いてください。