孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

己の心意識に納得確信の自信があればどんなことでも堂々と生きていけるのです。

2015年01月15日 | Weblog
ピラミッドは一日にして成らずの言葉があるように、現在の常識や伝統風習や道徳もまた神仏霊魂や先祖や親孝行などの精神世界も、誰かが言い出し先駆けて始めたことがきっかけからして、それが徐々に広がり浸透していって、いつの間にやら常識化され伝統風習道徳化され形式化されてきたのです。

ところがそれらの矛盾間違いに気付きそれを元に戻すにも一日一夜では無理ですから、その気付いた者がお手本的に先駆け率先しなければなりません。

然るに私は自己拡大にして多くを先駆けてきましたが、今は自己縮小を先駆けている格好になっています。

ちなみに冠婚葬祭に参加しなくなったことで(当初は)ご縁のあった人や身近な人たちからは変わり者に思われていましたが、それでも私は納得確信の自信でもって堂々としていましたから、その私自身にはなんら引け目を感じる事無く当たり前が如くにやり過ごすことが続きますから、然るにそれがいつの間にやら回りの人たちがそんな私を認める形になりました。

然るに年末年始の挨拶やお見舞いお悔やみに行く形式も儀礼の挨拶も無いのが当たり前になっていますから、先方もそれを気にしなくなっています。

そんな世間では変わり者と思われる私がさえない格好のままにして堂々と世渡りしている見本&事実を(私と似通った思いの人が)実際に見聞することでそれが間違いではなかったとして(今まで世間に引け目を感じていたのだが)自信を取り戻した人たちの事例もあります。

また私は献体登録しているから葬儀法要も不要とし、また仏壇やお墓も不要とし、また死に目を看取らないてもいいとして自信たっぷりに言っていますから、それに影響されたのか、妻や姉も娘夫婦も病気見舞いも不要とし、その死後も簡単な密葬で済ますと言う具合になりました。

然るに常識離れ世間離れしていようが、また貧しくて見劣りする格好であろうが、そんな形ではなくして、己の心意識に納得確信の自信があればどんなことでも堂々として生きて過ごしていけるのです。

然るに悩みや不安心配(自力自信の無さ)は隠していても表情にそれとなく出ますし、まず表情に元気がありません。

ところが納得確信の自信があれば、いつ何時人様と出会っても元気で明るい表情で接することにもなるし、また格式張った丁重なる挨拶が交わせなくても(言葉足らずでも)自信に満ちた常日頃の行動や軽やかな言葉表情で接することで先方も安心納得してくれるのです。

そしてそんな接し方が当たり前になってくると多くの言葉を交わさなくても(気心が知れた)大丈夫な関係になるのです。

然るに格式張ったことでなければ納得しない人と接することがあっても(その人の性格個性に私があわす事無く)(また否定反発することも無く)私自身はいつも通りですからなんら気疲れしません。

然るにそれが不満な人であればそのご縁も消えるかもしれませんが、そのご縁が切れても(私に元々から欲が無いから)(見栄世間体プライドも無いから)痛くも痒くもありませんで、そのままにしています。

とにかく自信確信でもって(自然体になることを)始めていれば、それがやがて世間にも広まっていくことにもなるのです。

然るにそうなることをタダ待つのではなくして自らが始めなければ(一日一夜は無理だから)そのご縁も必然も無いままに時が過ぎていくだけです。