孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

誰もが人間の赤ちゃんとして生まれてきた当初は「食って寝て糞をする」だけで十分でした。

2011年07月03日 | Weblog
私が不平不満になるのは「私」(個人意識)の思いが出るからです。
人様の行為・表現に文句を言うのも腹立て怒るのも「私」です。
人様の好意を喜ぶのも粗末に思うのも不都合にも思えるのも「私」です。

すなわち人様の意識・思いに関係なく、自分の意識・思いが先立って自分勝手に思いを巡らし判断したことが原因であり、それが都合の良い結果なら自己満足し、都合が悪ければ相手を責めて不平不満に思うのです。
だから人様が私の為を思っていたことであっても、それが私に不都合だと、それを相手の責任にしたがるのです。
すなわち人様の思いとは関係なく自分の中にある私という個人意識が出てきているのが原因であって、人様が原因では無いのです。

また人様の嫌いな事を私がするから人様に嫌われる結果が出るのですが、それは「私」が原因の結果です。
また人様の気に入られるように私が行うから人様に好かれるのですが、それも「私」が出ています。
ところが私のその意に反して人様が不満に思われることになっても、それも「私」を出したのが原因の結果となります。

そんな「私」を出したことが原因の結果を「私」の思いで如何様にも変化させることが出来るのも、また「私」です。
だからいつも尺度・距離の中心の点に「私」がいるのです。
だから中心の<点>「私」を無くすることから「完全意識」になることが出来るのです。

しかしそれも私は「無理」だと思っています。
だったら何で「完全真理」がこの世に出てきたのでしょうか・・・そこで何度も書いているように完全と不完全を学び知り味わい感じることにあると書いてきました。

そこで(私が思うに)人間の赤ちゃんとして生まれてきた当初は「食って寝て糞をする」だけで十分でした。
ところがいつしか欲が出て、それだけでは不足・駄目に思うようになりました。
そして比較競争し合い幾多の苦・楽を味わい尽くす結果にもなっています。
ところが(個の思い・自分を出して)その苦楽を味わうことが気疲れ・しんどい事・虚しいことだと(私が)自覚できたのが今の田舎暮らしの結果であり、その「食って寝て糞をする」だけのような呑気な暮らしを実際に味わい感じてきたお蔭でもあります。

すなわち苦・楽を実際に多く味わってきたからこそ(それに気付いたからこそ)今の質素・素朴な暮らしに親しみ馴染めたのです。
・・・この世の不完全を多く味わっただけに、その不完全が出てこない暮らしぶりが調和で満たされていることを知るのです。
すなわち完全しか知らない神・人が多くの不完全を味わったことで、その完全さの調和・有り難さに気付いたことと同じようなものです。
・・・その完全の「ありがたさ」を知ることが宇宙・地球・人類の進化に必要なことだと完全真理で言われているのです。

だから個人意識を無くして「われ神なり」の境地・完全意識になる実践が無理ならば、先ずは完全真理を知ってこの世の不完全さを身をもって気付き悟るその実践の方が無理がありませんし、その気付きの実践をし続けることで十分とさえ思えるようになりました。

自我・欲を出してその良いところも悪いところも知ればそれが苦楽を味わったことになりますが、その欲を出さなければ気楽に暮らせることを実践で実際に気付かなければ(言葉で知っただけでは本物を実際に味わっていませんから)その自我・欲からなかなか抜け出すことはできません。
またその自我・欲を出すことから苦労をすることになっていることに「気付」かなければ、その気楽に暮らす実践には至りません。
だから誰もが欲を出して生きることから脱却できないで苦と楽の裏表・矛盾・不完全を味わい続けているのです。

そこで完全真理によって完全を学び知り、その完全を知ったことでこの世・人間の不完全意識・矛盾・苦楽に気付き知り、そこで実際に苦のない楽に生きる事を実践でもって味わい学び知り、そこで(結果的に)「苦」のある不完全に生きることよりも、「楽」に生きて<至福>を味わえる完全意識のありがたさを学び知る事になるのです。

すなわち「赤ちゃん」から始まり終わり、また「赤ちゃん」から始まり終わるその繰り返しが終わって、この世の不完全を味わい知った人間「命・意識」がもともとの宇宙意識・神意識・愛意識に蘇ることになるのです。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。