孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

明日にも死ぬかもしれないから「時は命なり」として真剣に生きることにもなるのです。

2017年02月11日 | Weblog
生まれたからには必ず死にます…だから誰でもが公平です。
ところが幼くして死ぬ場合もあります…となると不公平な気もします…

そこで誰でもが100年生きられるとなると公平になりますが、しかし生きていることの価値が薄れて面白みのない惰性的な生き方になるやもしれません。

然るに…明日にも死ぬかもしれないから…時は命なり…として真剣に生きることにもなるのです。

だから生きていくための仕事役割も真剣になれます。

そして衣食住に恵まれた生活になったことで満足し、そこで止まっていたなら、その満足したままの生活が続きます。

ところがどっこい楽しさを求めることになったことで此れまでの満足が不満に変わるのです。

ちなみに結婚して二人一緒に暮らすことで満足していたのに、それ以上の満足を欲しがれば、二人が一緒に暮らせるだけではそれが不満に変わるのです。

その真理・真実・事実を根掘り葉掘り書いているが…それを真面目真剣に受け止め自覚認識し実践できている人はごく少ないはずです。

何たって巷に溢れ満ちている人為人工的な諸々が目の前にあるからです。

しかも次から次と進化発展したものが目白押しに並んでいるのですから…猫に鰹節を見せているようなものです。

しかもカッコつけたがっている見栄も十分持っていますから尚更です。

そんな誘惑に負けまいと座禅瞑想や修行しても…持っている欲や見栄が消えることは絶対にありません。

またそのことに己自身の正直な心精神からして気付いているはずです。

しかし自惚れ慢心の自己陶酔・自己洗脳からして私は正しいと思い込んでいるところもあるようです。

然るに欲も見栄もあるが…それが表に出ないように我慢し抑え込んで平常心を装って隠しているだけですし、その隠すのも見栄からです。

だから巷でいわれている聖者・聖女・聖人君子は偽善者になります。

ちなみに過去の釈迦が誘惑に負けないように座禅瞑想するも、しかし誘惑に負けそうなことからして「立ち去れ」と念じたくらいです。

その釈迦曰く…座禅瞑想や修行しても無駄だと…弟子たちに説くも、その弟子たちは理解できないから…何で無駄なのかを会得するために釈迦が如くに修行したことからして…未だにその修行が繰り返されているのです。

とにかく人間は皆同じなのです。

ただ性格個性や役割が異なるだけです。

だから人それぞれに能力や技能が異なっていて当たり前なのです。

然るに特別な人はいないのです。

ただ羨み憧れ特別に思っている人がいるだけです。

またそんな特別になりたいと思う輩がいるだけのことです。

そして「時は金なり」で動く人と「時は命なり」として精神世界で生きようとしている人の違いがあるだけです。