孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

他力依存のその思惑期待感が原因からして空虚・虚しい孤独感にもなっています。

2012年11月21日 | Weblog
孤独になることを恐れている人は概ねにして自分の自力やその自信・精神力が欠如していると思われます。
と言うことからしてやはり他力依存が強くなっていると思われます。

だから身近な人に寄り添っていたい心持があり、人様を信じて頼って安心していたいのですが、しかしその裏に裏切りが潜んでいますから、その人間関係の絆を強くしたいがために相手の顔色伺いご機嫌伺いがあります。
そしてプレゼントのやり取りや記念を祝う催しで互いの絆を確かめ合うことにもなります。

それが自力自信の無さが原因だと気付いていません。
それがまた人様に頼る他力依存になっていることに気付いていません。
そして義理や人情や愛情を持ち出して相手を束縛制限支配したがるのです。

それが自他共に自由の無い生き方になり、それが相手の心に負担を強いることになり、それが時には見えない心の傷・ストレスを負わせることになっていることに気付いている人はごく少ないでしょう。

それだから(原因からして)どんなに強い絆であってもそれを簡単に断ち切る裏切りがいたる所にあるのです。

その人的他力依存のほかに物質金銭に依存しすぎているのも己の自力自信・精神力の不足を補うためなのです。


ところでその他力に頼るのは、その頼る人を信じているからです。
何故なら信じてもいない人に頼る人はまずいないでしょう。
その信じて頼るなかに期待感が必ず含まれています。
何故なら何も期待することが無ければ何で他力に頼ることになるでしょうか。
それが道理です。

と言うことからして、
他力に頼るその他力依存や他力祈願や願望には必ず思惑期待が込められています。
と言うことは己に自信が無いからそれを人様に頼ることになるのです。
それが道理です。

ところが自信が無いと不安心配を持つことも多くなります。
その不安心配を解決するにも自力が無ければ他力に依存する事になります。
だから自力自信が無いほどに他力依存が多くなりそれが強くもなります。
またそれだけに期待感も強まります。

だから神社仏閣や宗教や教祖や超能力や神懸り奇跡に頼ることになったり、また最先端医科学に頼る事になれば尚且つ少しでも優秀で有効な形や術を探し求めまた望みそれに期待を込めます。

ところが良く考えれば、人間関係の中に他力依存やその思惑期待があるからして人が集まっていると言えます。
だから束縛制限支配されていて自由も平等もあるはずはありません。

すなわち自らの自力の無さ、その自信の無さからして自由を放棄し、そして比較競争するための集りの中に自らが選んで入り込み、その中で何とかしながら生きることを望んだことにもなります。

そしてそれを支えているのが他力依存の関係であり、またその先行きの思惑期待感でもって何とかその形を維持し持ちこたえていますが、一寸先は闇のこの世ですから、当然ながら使い捨て寝返り裏切りや有事からしてその関係がもろくも崩れ去る事になるのは現実事実に数多くあります。

と言うことは他力依存のその思い思惑のその「期待感」でもって生きていると言っても過言ではありません。
しかもその期待感が(使い捨て寝返り裏切りや有事で)泡の如くに消えると、それが空虚・虚しい孤独感にもなるわけです。
そして自力自信が無いだけに立ち直れないことにもなるわけです。

それだから尚の事に他力依存の宗教や超能力者や神懸り奇跡を成す人に憧れその期待感でもってその人を信じて頼るその信頼・信者の意識でもってただ従うだけになり、その中の精神世界の真実事実の真理や道理の学びやその実践がおろそかになり、それゆえに尚のこと自力・自信の精神力を磨くことにはならないままに年月が過ぎていくのです。
だから「どうしようもない」意識体のままに人間を終えるのです。