私が精神世界を学び知る事になった霊能者が人知れず(ご近所の人にさえ知られていない)水面下で、しかも自費でもって全国各地の必然とされた人や箇所に出向いてそのお役を果たしていだけに、
それとは違った目立ちたがりやの宗教教祖や超能力者に違和感があったわけですし、それらが精神世界を生業にしていることにも違和感があったわけです。
その宗教家教祖や超能力者は自らが学び知り気付きながらも、その学び知った精神世界の道先案内のお役があります。
しかもこの世で一般の人と同じく世間でもって修行中の未熟者ですから、尚更に謙虚でなければその生き様や身なり格好や教え示す形によって変に錯覚勘違いや誤解を与えて(世間的ではないことを教え示すだけに)一般世間の人に違和感や不信感を植え付けることにもなります。
だから精神世界を話し出すとあからさまに抵抗感を示したり毛嫌いする人が増えているのもそれが原因だと思います。
なのに何で宗教や超能力者に人が集まるのでしょう?
それが「良いとこ取り」意識の欲があって集まるのです。
しかも客寄せパンダの如くに特別な奇跡を成して見せることからして尚の事に魅せられて集まる人が増えるのです。
何たって良く効く薬や甘い夢が叶いそうな飴が如何にも有るようだからして、それ欲しさに時間やお金を費やしてまで、また人様の反対を押し切ってまで、また仕事や家事を休んでまでも、何としてでも無理にでも行く気になれるのです。
だから人が集まる所に欲が渦巻いていると言うわけです。
またそうした欲に駆られている人が来るほどに指導者は特別特異な摩訶不思議を真実事実のように語り聞かせたり、またスプーン曲げのように物を変化させることや魔術師のような摩訶不思議現象を見せれば、それでありがたいクスリやアメをもらったが如くに皆が喜んでくれて、しかも宣伝までしてくれるのですから指導者にすればありがたいことになるわけです。
また参加する側も指導者に従っていればその良いとこ取りの願ったり叶ったりの期待感を高めてくれることからして更に足しげく通うことにもなるわけです。
そして一堂に集まれば仲間が大勢いるように思えて安心感が出るし、その雰囲気だけでも十分に思えるような満足感が出たりして、以前よりも空元気が出て充実感まで味わえるから更に都合がいいことになるし、また同じ内容の会話を交わせる人も増えたりと、まさに願ったり叶ったりに思えるわけです。
ところが依存心や期待感からして実践がおろそかになっていますから中身の大元の意識は以前と殆ど変わっていません。
良いとこ取りできた満足感が主です。
しかも人が集まれば比較競争差別したが意識はそのままですから、仲間内であってもその優劣損得勝ち負けの競争意識からして内心は乱れているから親密にはなれません。
それでも賑やかで華やかな中で共に過ごすだけに魅力はあります。
また終わった後に仲間内と一緒に遊んだり飲み食いや会話を楽しめます。
ところが疲れて帰宅するとすぐさま現実に戻りますから、その現実が何とも味気ないはずです。
しかも居残った家族やの愚痴や小言の不満まで聞かされのですからいっぺんに興ざめ気落ちするかもしれません。
と言うことは此れまでのことが白昼夢の如くになりますが、またその白昼夢見たさに性懲りもなく出かけていくことでしょう。
何たって精神世界の真実さえも正確に学んでいないし、ましてその実践が出来そうもなければ、此れまで通りの良いとこ取りの繰り返しが続くだけでしょう。
しかしそれでも「私は正しいこと」をしていると思えるその自惚れ自己満足からして、その過ちを気付くにいたりません。
私が思うに確かな道先案内のできる真の指導者はいないようです。
またこの先に現われるはずもないようです。
(もし居れば私に教えてください)
だからそこで此れまで様々な人が説き語りしたことを信じて実践するのではなくして、ましてそのクスリやアメを期待することではなくて、
自らが学んだことを独自独歩で実践しながら完全な真実を見極め気付き悟るしかありません。
それとは違った目立ちたがりやの宗教教祖や超能力者に違和感があったわけですし、それらが精神世界を生業にしていることにも違和感があったわけです。
その宗教家教祖や超能力者は自らが学び知り気付きながらも、その学び知った精神世界の道先案内のお役があります。
しかもこの世で一般の人と同じく世間でもって修行中の未熟者ですから、尚更に謙虚でなければその生き様や身なり格好や教え示す形によって変に錯覚勘違いや誤解を与えて(世間的ではないことを教え示すだけに)一般世間の人に違和感や不信感を植え付けることにもなります。
だから精神世界を話し出すとあからさまに抵抗感を示したり毛嫌いする人が増えているのもそれが原因だと思います。
なのに何で宗教や超能力者に人が集まるのでしょう?
それが「良いとこ取り」意識の欲があって集まるのです。
しかも客寄せパンダの如くに特別な奇跡を成して見せることからして尚の事に魅せられて集まる人が増えるのです。
何たって良く効く薬や甘い夢が叶いそうな飴が如何にも有るようだからして、それ欲しさに時間やお金を費やしてまで、また人様の反対を押し切ってまで、また仕事や家事を休んでまでも、何としてでも無理にでも行く気になれるのです。
だから人が集まる所に欲が渦巻いていると言うわけです。
またそうした欲に駆られている人が来るほどに指導者は特別特異な摩訶不思議を真実事実のように語り聞かせたり、またスプーン曲げのように物を変化させることや魔術師のような摩訶不思議現象を見せれば、それでありがたいクスリやアメをもらったが如くに皆が喜んでくれて、しかも宣伝までしてくれるのですから指導者にすればありがたいことになるわけです。
また参加する側も指導者に従っていればその良いとこ取りの願ったり叶ったりの期待感を高めてくれることからして更に足しげく通うことにもなるわけです。
そして一堂に集まれば仲間が大勢いるように思えて安心感が出るし、その雰囲気だけでも十分に思えるような満足感が出たりして、以前よりも空元気が出て充実感まで味わえるから更に都合がいいことになるし、また同じ内容の会話を交わせる人も増えたりと、まさに願ったり叶ったりに思えるわけです。
ところが依存心や期待感からして実践がおろそかになっていますから中身の大元の意識は以前と殆ど変わっていません。
良いとこ取りできた満足感が主です。
しかも人が集まれば比較競争差別したが意識はそのままですから、仲間内であってもその優劣損得勝ち負けの競争意識からして内心は乱れているから親密にはなれません。
それでも賑やかで華やかな中で共に過ごすだけに魅力はあります。
また終わった後に仲間内と一緒に遊んだり飲み食いや会話を楽しめます。
ところが疲れて帰宅するとすぐさま現実に戻りますから、その現実が何とも味気ないはずです。
しかも居残った家族やの愚痴や小言の不満まで聞かされのですからいっぺんに興ざめ気落ちするかもしれません。
と言うことは此れまでのことが白昼夢の如くになりますが、またその白昼夢見たさに性懲りもなく出かけていくことでしょう。
何たって精神世界の真実さえも正確に学んでいないし、ましてその実践が出来そうもなければ、此れまで通りの良いとこ取りの繰り返しが続くだけでしょう。
しかしそれでも「私は正しいこと」をしていると思えるその自惚れ自己満足からして、その過ちを気付くにいたりません。
私が思うに確かな道先案内のできる真の指導者はいないようです。
またこの先に現われるはずもないようです。
(もし居れば私に教えてください)
だからそこで此れまで様々な人が説き語りしたことを信じて実践するのではなくして、ましてそのクスリやアメを期待することではなくて、
自らが学んだことを独自独歩で実践しながら完全な真実を見極め気付き悟るしかありません。