孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

霊能者等の超能力者も精神世界の学びの途中であることは間違いないようです。

2012年11月02日 | Weblog
霊能者等の超能力者も精神世界の学びの途中であることは間違いないようです。

だから謙虚さがなければ感性や霊性からして気付いたことを予知的に示してそれが事実として結果が出たときに自惚れ慢心になって自らが精神世界の道を間違えるだけではなくして係わる人までも同じ道に巻き込むことにもなっています。

もしその超能力者が精神世界の確かな道を歩んでいたならば(しっかりお役目を果たしていたならば)その現われた結果の立役者がその超能力者ではなくして少し後押しをしただけで真の立役者は(己の意識が原因から出たことだから)相手の人のその意識力・精神力を称えて、これからも自信をもって精神世界の道を歩むことを教え諭す筈です。
(このことを実践していたのが過去にご縁があった霊能者でした)

そしてまたその教えられ悟った者も自惚れることなく、また一押ししてくれた超能力者を特別視することなく素直にありがたく受け止めることでしょう。


そんな謙虚な霊能者と5年近くご縁があって精神世界の基本的なことを知識として学んでいたのですが、その霊能者の周りに有能な自力実力のある人が大勢集まるようになって、それが結果的に摩訶不思議な浄水器の販売会社の社長に祀り上げられたことからして何かしら間違った方向性に向き始めたように感じました。

そこで私がその思いを文書にしてファックスしたらことからして電話でのやり取りになり、そこでしばらく会話をしていたら「あなたに何がわかるのよ」と言われたことからして次第に距離を置くようになり、今では過去の人になっていますから、現在どうしているのか見当がつきませんが、私にすれば元の謙虚さが戻っていることを願うだけです。

そして今は山田耕栄さんの完全真理を学びその実践意識でいるわけですが、その完全真理に問題は無くてもそれを語る耕栄さんの個人的な思いが語られるたびに違和感が出て「何で」になり、それが積もり重なることで結果的には耕栄さんも不完全意識の持ち主に違いないと思うに至りました。

だから霊能者や耕栄さんの個人的な思いを除いたほかは確かな真実事実として私の中では受け止めていますから、それら教えに照らし合わせた自らの経験見聞をブログに書いているわけです。


そこで過去の釈迦やイエスが謙虚であったかどうかは正確に図り知ることは出来ませんが、私の知る限りの全体イメージからしての違和感は釈迦に少なくてイエスのほうに違和感が多くあります。

その謙虚さを見せながらも己の受け止めた霊視を私が正しいとばかりに主張しているのは伊勢白山道に見られます。
またサイババに関しては殆ど知りませんが、広場に集まった人に何やら摩訶不思議を成して皆にも見せているようですが、前頭に書いたように「誰にでも」摩訶不思議は出来ませんから、集まった人の中を廻りながら摩訶不思議に見合った意識を持つ人を霊視霊力で選んでいるのは確かでしょう。と私は思っています。


私の此れまでの経験見聞からして思うに精神世界に限らずとも、どうやら能力に長けた人は自らが謙虚にしていると思いながらも大勢の人が集まりだすとおかしげな方向性に向いていくような、そんな気がしています。

その超能力者の謙虚さが続く限りは何かと仕組まれて素直に気付き学び知ることも多くなることからして持ち前の能力・意識力・精神力に磨きが掛かり尚も進化していくようだが、もし邪な意識が続くと磨き(汚れ落とし)がストップするだけではなくして、自らを自らが気付くその感性も落ちていき、いつの間にやらミイラ取りがそのミイラに成り下がる仕組みにはまり込むようです。

もしそうならずにして邪な意識のままに超能力・力量がどんどん増していけば逆に汚れが分厚くなり取り返しのつかいない、後戻りできない、修正が効かなくなる危険性があるからです。

その汚れた意識が出ているのにそれでも私が正しいと固守執着し続けていると
俗に言う「表の白が反転して裏の黒になる」となり
それを霊魂の世界の事例でいえば金龍の役割を目指していた白龍が邪な意識になって黒龍や大蛇(オロチ)に変わるのです。

またこの世の人間界を先導する役割の霊体を持つ者が邪な意識になりそれに気付けず修正されずに地球に居残ればそれが動物霊(九尾狐・天狗・カラス他)に成り下がり神社に奉られているとも言われています。

そんなパワースポットと言われる箇所もその類と言われていますが、その良いとこ取りの欲に駆られた人がひっきりなしに大勢来るだけにその集合意識が渦巻いているとも言われます。

どうやら横道にそれましたが、このように一理あるようでも信じるか否かになる事例を書くのは初心者に害をなすこともあるのでここで終わらせていただきます。