孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

精神世界でなくても知識・理屈・道理で判っているのに、何で不満・愚痴が出るの

2012年11月10日 | Weblog
私が人様とご縁あって接するときには必ず顔色を見計らってそのご機嫌度を推し量ることになります。
そして相手の人のご機嫌が良いときは、接する私も当然ながら明るい笑顔になって会話が弾みますが、暗い表情をしているときは足早に事を済ませて早くその場から離れたくなります。

また妻と娘夫婦が住まいする(独立型二世帯住居)ところへ出向いたときも同じく、孫三人と娘夫婦や妻の顔色を見ています。
そして皆が明るく振舞っているのを見るだけで安心していられます。

そして妻が明るい表情で皆と一緒に居るのを見るとその妻(老妻)が魅力ある美人に見えます。
ところが妻と二人きりになったらその娘や息子の心配事の愚痴が出てきますから、先程の美人がやつれた老婆にも見えてきます。

娘も同じく何の思案も無く明るく立ち振る舞っているときは側で見ているだけの私でも心が和らいで居心地がいいことになりますが、長男の不登校があったときやその進路のことで悩んでいるときは美人が台無しの表情になっています。

何で子供のことで悩むのか、悩んで何が解決するのか、悩んで得するどころか損までしているのに、何でそうなの?となりますが、しかも完全真理の私の先輩でもある娘なのですから、更に何で、一体何のために学んでいるのともなるわけです。

と言うことからしていえば、やはり学んだ知識・理屈では役立たないのです。

また己の愚痴小言で人様を修正することを考えるよりも、まず自己修正するしかありません。
その自己修正が無い限り常に同じことが(不足不安が)繰り返されるだけです。


ところが自己修正できても、それでも困ったことが有るのです。
それは自己修正は己の自力で成すことはできますが人様の修正は不可能ですから、先程の事例のように私の力だけではどうすることも出来ない、その役不足の何ともし難い問題が出てくるのです。
そこで何とか納得できる一時しのぎの策を講じても次から次と出てくるのです。

だから私独りだけの問題ではなくなって(巻き込まれて)(私が直接の原因でもないのに)(何でそうなるのよと)私の気分が落ち込むのです。
それがこの世の形でありその人間関係なのです。

私自身は成り行き任せですから不満不足に思うこともそれに執着することもほとんどなくて、自分の中では殆ど問題らしい問題も無く生きていたのですが、
ところが人様の思惑に巻き込まれて私がイヤな思いをすることだけは避けられませんでした。

だから私自身の精神安定のためにも、その仕事関係を含めた人間関係から一度離れて暮らしてみるその決心が付いたともいえるわけです。
そしてやり始めてから娘が縁で完全真理を知る事になり、その中に自己縮小の必要性が説かれていたことからして心強くもなった経緯があります。


皆さんもこのブログでなくても多くの知識・理屈・道理を知っているはずです。
だからその知識理屈通りにすれば何とかなっているはずです。
しかしそう容易くないのが自分独りではないからです。

そこで完全真理や精神世界や前世や来世や神懸り奇跡や超能力や博学知識を知らなくても、
またどんなに貧乏であっても、
その家族が明るい表情で暮らしていれば、
仏門に下ることも、過疎地で暮らさなくても、自己縮小が未熟でも、不完全意識丸出しであっても、
それらに関係なく明るい笑顔のある穏やかなこじんまりとしたシンプルで素朴な生活が出来るのです。

私ならそれで十分すぎるくらいですから、それ以上のことを自らが求め欲しがることはありません。
何たって不足・不機嫌な家族の顔が消えた家族団らんの生活になるのですから。

ところがです、
それさえも一般的に無理なのは何故でしょうか、
それは先程のように自分独りのことではなくて、意識がそれぞれに食い違う者が一堂に集まった家族だからです。
だから仏門に下ることよりももっと難しい修行をしているようなものです。

だから今の私が望むことにあるのが、
まず自由を尊重していること、だから否定反発することが無くて素直、何でも知りたがる、何でも自らがやりたがる、熱中するが執着しない、それを喜びとして、過不足を思わない、そんな人やその実践意識の人と(遠近に関係なく)一時でも巡り会いたいものです。