黎明の廃人日記

最近はやや更新が途切れがち、斜めに流し読み。
貴方にも私にも人生の役には立ちません。

無性愛?

2015年04月17日 21時23分47秒 | Weblog
4月17日分。

 毎度。そういえばここのところ、あまり花粉症の症状が出なくなったなーとうっすら思いながら、さて花粉の飛散シーズンがそろそろ終わってくれたのかどうなのか、まだ半信半疑な今日この頃。幽霊です。たまたま寒い日が続いていたので飛散量が減っているだけなのか、そこいら辺りの判断が難しいところですね。
 ……あ、今日は本題のネタで結構な字数を使ってしまったし、進展がなかったのでゲーム関係の話は無しです。


 本日の拾い物ネタは、タイトルに微妙に見慣れない単語を持ってきましたが、ソレ絡み。ブロゴスより、「セックスのない愛:人口の1~3%程度存在すると言われる「無性愛者(アセクシュアル)」が直面する困難」ということで。引用タイトルが長い。なお、ウィキペディアでも無性愛という単語は日本語で項目が存在しており、今回の話はそっちからも話を引っ張りつつ、といったところ。

 概念としては、なかなか理解が難しそうですね、これ。そも、この記事中の「バフィー」という人物が、本当に「無性愛」に該当しているのかどうかが、ちょっと分かりにくいんです。ウィキでの定義を信用するならば、どうも類似する概念が幾つかあるようで、とりあえず自分でも整理するように引用しておきます。

(ウィキペディアより、「無性愛」の定義冒頭を引用)
 無性愛(むせいあい、英: asexuality)とは、他者に対して性的な欲求を抱かない性質のことである。このような性質を持つ人々を無性愛者という。Aセクシュアル、アセクシャル、エイセクシャルともいう。
 無性愛は、性欲自体がない無性欲や、性的行為に嫌悪感を抱く性嫌悪、性的欲求低下障害(HSDD)とは異なる。また、思春期以前の子どもが他者に対して性的な欲求を抱かなくとも、無性愛者であるとは言わない。(引用はここまで)

 個人的な思考の混乱として、「異性愛」・「同性愛」・「両性愛」が「無性愛」に対応する概念だと思うのですが、これらの「○性愛」で表現される「性愛」というのは、性欲のことのみを指し示すのか、愛情をも含むのかが分からないところ。あくまでも個人的な認識としては、性的な興奮を伴いつつ、但しセックスの有無に関わらず恋愛感情の対象が異性・同性・両性に向けられるもの、という概念としてそれぞれ考えていたのですけれども。
 その並びで行くと、無性愛は性的興奮を持たないというのは分かるとして、恋愛感情の部分はどうなんでしょう? バフィーは、記事での翻訳・解釈が正しいのであれば、「恋人が欲しい」と語っているそうです。この場合、「無性愛」という概念が本当に適用されるのか? 彼女を非難したいわけではなく、単純に言葉の定義として、「無性愛」というのは同性・異性に関わらず性的興奮も恋愛感情も、ロマンチックな経験も全く望まないもの……に思えるのですが、どうなんだろう?
 今回の彼女の場合、「無性愛」なのではなくて、「性嫌悪」もしくは「非性愛」に該当するような気がしているのですが、何とも判断の付かないところです。翻訳時に、無性愛と非性愛を間違ったんじゃあるまいな……。いや、さすがにそこまでザルなことはしていない、と思うんですけどね。

 まあ言葉の定義云々は脇に置くとして、性行為抜きにして愛情を持つ、という形自体は実際に存在するだろうな、とは思っています。人間、既に60億だかまで数が増え続けていますから、そういった状況でならば、生物的には多数派に属さないような思考パターンを持った個体も一定数生じている筈。ただ、大多数から理解を得られるかどうか、はまた別でしょうが。
 私自身、異性愛者ですが性欲の面では若干薄めで、セックスに対しては「この世で最も素晴らしい」とは全く思っていない部類ではありますけれども。ただ、皆無ではないので、異性との愛情については、セックス込みでの考え方にはなってしまいます。歳を食って「枯れて」くれば、また別でしょうが……。なかなか難しいでしょうね、特に男女間で、男性側パートナーの性的嗜好がノーマルだと、当然性欲は存在するわけで、と。風俗での発散を認めるなら、まだ良いのか?
 とは言え、そも性と愛が一致する形に認識が制限されるのは、割と最近の話なのかもしれませんね。生物学的に考えれば、別に愛情が無くとも、性的機能があって、かつ身体能力的なり生存能力が優秀でありさえすれば良いのですから。そこに愛だの恋だの面倒くさい概念を持ち込んでいるのは、人間だけでしょうし。そこもかなり宗教的な思考、もしくは西洋文化的な思考が相当根強く入り込んでいるでしょうから、それこそ日本においては相当新しい概念かも。私自身も、その「新しい」形の認識が「常識」になってしまっているわけですが。
 古来から、「聖なる職業」であるかどうかはさておいて、売春は最古の職業とまで言われるほど古くから存在しています。つまり、「性」はずっとあったということ。生殖にはどうしても性が絡みますから、人間、生物である以上そこは避けられないものですし。では、愛や恋といった概念はいつから? そしてそも、商売として金で買える性がある以上、性と愛は必ずしも一致する必要性は無いということであり、そもそも一致していない時代は間違いなくあったのではないか?
 愛という概念(カップル・結婚・家族も含む)は、正味、庇護もしくは互助の意味合いから教義化されたもので、この辺は宗教的な思想の中に、実務実益を織り込んだ上で神聖視されるべきもの、として作られたものと考えられます。そのこと自体を批判したいわけではなく、考え方としては、性と愛は必ずしも一致すべき、絶対に一致しなければならないものではないよね、ということを言いたいだけ。むしろ、先々にはまた分離するのではないかと、個人的には思っています。


 さてまあ、ここから先は、いつも通りに「こっち側分野」の妄想枠にまで拡張しての話で。もう自分でもいつ書いた話だったか忘れましたが、CLAMPの『ちょびっツ』に登場する、人型の機械である「パソコン」の存在が、この手の話題を出したときにはやっぱり思い出されてくるところで。あちらは機械と人間との関係、更につっこんで言えば機械と人間の愛情に関する話にまで行きますが、今回の件だとその手前の段階で着地する話にはなりますかね。
 技術的に色々まだ先でしょうが、安全にセックスが出来る女性型(男性型も出てくるでしょう、当然)の機械が完成した場合、「性欲の解消」は機械とのセックスで割と済んでしまうのではないかな、と思います。妊娠のリスク無し、不倫やら何やらのこじれの問題なし、そして見た目や肉体年齢については機械の方が生身の人間より優れているのですし、性格や反応の仕方はプログラムで調整が可能ですから、性的なパートナーとしてなら人間より勝る面ばかりになります。愛情が無いって? ええ、だから「性欲の解消」はそれで良い、という表現をしています。
 どれだけ先の話になるやら分かったものではありませんが、そこまで人間という生物種が長く続くのならば、夫婦という形自体は存続しないかもしれません。ただ、異性間なり同性なりのカップルという概念は残るでしょうし、但しそのカップルの形においては、生身の人間2名のカップルがいて、そのそれぞれに機械のパートナーがもう1名ずつ、トータルして4名になっているかもしれません。表現的には、2名+2体とでも言った方が、今回のニュアンスには近いのかな?
 その辺まで持っていけば、「性の不一致」による愛情の破綻は解消しやすくなります。ついでに、人工子宮の完成まで行ってくれれば、それこそパートナーを異性に限定する必要も無くなるわけですね。……とはいえ、世知辛い話として、そこまでの状況へ持っていっても、コレらが全部実現できるカップルというのは相当にお金を持った人達に限られてしまうのでしょうが。また、機械に対しての性愛は果たして正常なのか、的な議論はまた出てくるのでしょうしねぇ。

 さてそれとも、地球規模で考えた際の人口の「増えすぎ」を問題視して、性欲そのものを減退させる薬剤か、そういったチップを脳に埋め込むなどの「外科的な処置」が行われることも考えられますね。安全にセックスの出来る人型の機械を完成させるよりも、そっちの方が恐らく、技術面での完成は早いし、コストも安いのではないかとは思われます。これはこれで究極のプラトニックラブの形ではありますが、さて性欲を失った人間が、愛情を持てるのかどうか?
 ……いや、その言葉の使い方はちょっとズレがありますか。恐らく、性欲を失った場合、愛情の概念は今と変わってくるのかもしれませんね。現状の形はあくまで、「常識」とされているのは「愛する人」と「結婚」する形で「子どもを育てる家庭を持つ」というのがベースでの価値観ですから、性欲が皆無となったような場合は、この前提が崩れます。結婚というのは、法制度上において「性欲の解消相手として」という面を含みますから、その部分が完全に不要になる。
 また、性欲というのは結局の所、子孫を残すこととセットですから、性欲がゼロになった場合、子孫繁栄の概念も失われることになるのかな、と思っていたり。そうなると、「我が子を残す」とか「血筋を残す」という概念自体が消失しますね。ただ、国家や生物種としては子孫を残す必要がありますから、これまた人工子宮を使うことになるでしょうが、一定数の出産は必要になります。但し、育児の費用負担等は各家庭の話ではなくなり、国家的な税金などの義務の分類になっていくかも。兵役ではなくて、育児役的なものになることも考えられますね。
 ……ま、仮定の話が多すぎて、妄想にしてもさすがにふにゃふにゃすぎますが。特に海外のSF作品は、その辺をもっとがっちり詰めた上で諸々今の既成概念を引っ繰り返すというところに面白みがあるのでしょう。ソレが楽しくて、一時期のめり込むように読みましたね。又その内、自分の中で周期が回ってくることもありましょう。

 ではでは。ひゅう、どろん。