つつじの書・・

霧島つつじが好きです。
のんびりと過ごしています。
日々の暮らしを、少しずつ書いています。

エッセイ ヒデ伯母さん

2015-09-19 09:48:41 | エッセイ

エッセイ ヒデ伯母さん

プランターで育てたと、ピーマンと小さなトマトをお隣から頂いた。
トマトは皮が固く、味の方はもう少しだった。

小さなトマトと言えば、昔、よく母が言っていた、ヒデ伯母さんの「ちっちゃなトマトを持って」の話を思い出した。

私が覚えている伯母さんは、背が高く、痩せて顔が白かった。
喘息で、時々むせるような咳をしていた。
農家には嫁がず、勤め人と結婚して町に住んでいた。

男の子二人と、末っ子が女の子いたが、十歳過ぎたころ病気で亡くなった。

伯母さんの家は、八幡様の横の突き当りだった。
その頃、伯父さんはいなかった。
前の戦争で戦死したとのだと思う。
母に連れられてその家に行くと小さな家で、八幡様の大木が茂って日当たりの悪い庭があった。
従弟のお兄ちゃん二人は、どこかの工場に勤めていたようで、昼間は伯母さんが一人だった。
小さな玄関の上がり框はピカピカ光っていた。
手前の座敷は壁から天井まで白い紙が貼ってあり、そこに、手作りの飛行機が沢山ぶら下がっていた。
「カンがいくつも作って、ほら」と、下のお兄ちゃんのことを嬉しそうに話し指をさした。

時々伯母さんは、随分離れた私の家に歩いて来た。
私が水遊びをして濡れたパンツを履いたままでいると、「病気になったらどうするの」と母は叱られとか。
女の子を亡くしていたから気になったのだろう。
又、母の掃除がずぼらだと、いつも怒られたと言っていた。

伯母さんは、「〇〇に」と、まだ赤くならない小さなトマトを、お土産に持ってきた。
帰る時、母は米や味噌を風呂敷に包んで渡したと言う。

早死にした伯母さんのことを、「戦後、食べるものが無くて大変だった、いつも怒っていたが、生活が楽じゃなかったからだ、いい時もあったから、せつなかっただろう」と。

 

課題 【七十年・記憶する】
         
  
先生の講評  
     
 人と時代が浮かび上がる。
      心に沁み込んでくる文。
      ヒデ伯母さんの哀惜が背後にあるからだろう。
                       
   

   じのつぶやき ・・・ 教室では、戦争の悲惨さなど、またそれについての
                  考え方などの作品が多かった。

 

    

 

 

コメント (2)
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