あた子の柿畑日記

田舎での日々の生活と趣味のレザークラフトについて

ぎんなん飯

2007-11-16 23:56:04 | くらし

 昨日に続いてY子先生に思い出のお料理を紹介。 ぎんなん飯です。 



 母がぎんなんを拾ったと言ってたくさんくれました。 かねがね染色の教室できいていたぎんなん飯を炊くことにしました。 ぎんなん飯はY子先生の好物で、毎年3キロものぎんなんを購入し、冷凍保存して1年中ぎんなん飯を炊くのだそうです。 Y子先生が亡くなった今年も、下の娘さんのT子さんがぎんなんをむいだそうです。 お稽古の合間に炊き方を教わりました。


 ぎんなんの量は、米3合に対して200~300グラム。 皮をむき、甘皮をむいで、昆布とともに酒少々と、塩を入れて炊き込みます。 


 教わってしばらくたって、お店にお客さんが来ました。 その声が聞こえてくるのですが・・・・


 「ぎんなん飯、苦くて食べられな~い。」
 「えー、ぎんなんをどれだけ入れた?」
 「米3合に500グラム。」
 「バカモノー。ちゃんと量を教えてあげたじゃない。」
 「たくさん入れた方がおいしいかと思って~」


 お客さん兼お友だちの、さるお方のようでした。


 では、作ってみましょう。


 まずぎんなんの皮をむぎます。 わたくし、このためにぎんなんむき器を買って参りました。 こちらのホームセンターになかったので、わざわざ松山市に行って。


 これで約200グラムです。 捨てる前に皮も一緒に写しました。 すでにここまでの段階で1時間経過。 テレビを見ながらのんびりではありますが。 これを3キロもむぐって!!?



 お湯にいれて箸でかきまぜると甘皮がむけてきます。 十分火が通らなくても大丈夫。 すでにむげているのもありますが、あとは冷やして手でむぎました。



 きれいなグリーンの実です。 2時間番組が終わってしまいました!



 米と水を入れ、昆布、塩、お酒を少々振り入れて普通に炊きます。 わたしは堅めが好みですよ。
 


 炊きあがりました。 きれいなグリーンは消えています。残念。 200グラムのぎんなんを混ぜるとこんな感じですね。 500グラムも入れたら・・・・米粒の方が少ないんじゃないかしら。 



 ぎんなんの独特のにおいと、もちもちの食感がとてもおいしいごはんでした。 思ったよりも匂いも苦みもきつくなかったです 

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エンサイに種はできるのか?

2007-11-16 01:15:01 | 植物

 夏に挿し芽したエンサイ(空芯菜)に花が咲きました。 10月8日のことです。 エンサイはここらでは種ができないと聞いていたので、花が咲いたことにびっくり。

 野生の白いあさがおによく似ています。 つぼみも。

 開きかけのもありました。

 それから1ヶ月。 次々と咲いて、今もまだ咲いています。 プランターのだけでなく、畑のも。
果たして種はできるのでしょうか。 1ヶ月もたつのに種らしき物が見あたらないのが気がかりです。 花の咲いた後も、形がつぼみによく似ているので、種のように見えないのです。

 思い切ってひとつだけ取ってみました。
 皮をむぐと・・・・

  中に実らしき物が。 右側の三角のところ。

  さらにそれを割ってみると・・・・

  種のように見えなくもありませんが、よくわかりません。 エンサイの種ができないというのは、台湾の野菜だからで、愛媛では気温が低すぎるからなのか、それならばハウスに入れたらなんとか実が熟すだろうか、あるいは、種がF1(雑種1代)なのかもしれず、だとすると種は絶対できないだろう、といろいろ考えています。 とりあえず寒くなったから、ビニールハウスのきゅうりと同居させてみようかと思っています。

 このエンサイの種、わたしが30年前はじめてレザークラフトを教えていただいたY子先生から頂いたものです。 
 Y子先生は、日本のレザークラフトの草分け的な存在で、地方にいながら、日本手工芸指導者協会の評議員をされていました。 母より少し年上で、手仕事が大好きで、おいしいものが大好きで、お弁当の時間には自宅で作ったおつけものや、煮物や、佃煮などを持ってきては作り方解説をしながら分けてくださったものです。 エンサイの種はY子先生からの最後の贈り物となってしまいました。  種を蒔いて、なんとなくこれだけは枯らしてはいけない気がして、一生懸命世話をしていましたら、秘密のうちに入院、そして2週間後には逝ってしまわれたのです。

 今わたしが師事しているのはY子先生のお嬢さんのM子先生。 そして妹さんのT子さんも手芸講師の資格を持っていて、辛口の批評家でありよきアドバイザーでもありますが、主に革材料店を切り盛りされています。 

 お二人から話を聞いたところでは、Y子先生は、「病院の汚い天井を見ながら暮らすのはいや。」 とおっしゃって自宅での療養を選ばれたとか。 よっぽど体調の悪いときや通院のとき以外はいつも教室に来られて、娘さんのM子先生の指導のもとでお弟子さんが作品を作るのを楽しそうに見ておられました。  時にはきめ細かなアドバイスなどもされながらー。
 通院も苦しくなって往診に来てもらうようになってからも、医師の来る時間になるときちんと着替え、ベッドに座って待っているのだそうです。 ほとんど物が食べられなくなっても、自分の身の回りのことは自分でされていたそうです。どのように手をついたら起きあがれるか、どこに物を置いたら自分でとれるか、どのように壁を伝っていけばトイレに行けるか、すべて自分で考え工夫して行動していたということです。
 最後の入院は緩和ケアの病院でした。最後まで自分でトイレに行き、病院のスタッフには痛いとも苦しいとも一言も言わず、眠るように亡くなられたそうです。 

 「わが母ながら、潔い、あっぱれな死に方だったのよ。」
 「母は自分の生き方死に方を計画していて、その通り死んだように思えるの。」

 「どんなときも笑って前向きに考えればうまくいくものよ。 これからは二人で助け合ってね。」それがY子先生の言葉だったとか。

 わたしはY子先生の元で講師の資格をとった61番目の人間です。 たくさんの弟子を育て、その技術を娘さんに伝え、その娘さんの指導で次々とコンクールの入賞者を出している今、Y子先生の蒔いた種が大きく花開いているように思います。 エンサイの花のように。

   

 

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